大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀宗幸(????-????)

 大須賀家11代当主。父は大須賀左馬助憲宗。幼名は薩摩丸(『宝応寺大須賀系図』)。官途は越後守。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信──通信──────朝氏───+─宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +─時朝──────宗朝──+─宗時       +─宗正
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)
                                   |          |
                                   +─宗信───憲宗──+─宗幸
                                    (越後守)(左馬助) (越後守)

 応永27(1420)年4月27日、「越後守宗幸」が領内の大寺院・雲富山大慈恩寺に対して、「津富良郷内寺領公事銭之事」として、新たに大慈恩寺に寺領を寄進するにあたり、「大須賀信蓮(胤氏入道)」が寄進した地と同様に、公方公事銭以外の私公事銭課賦の停止を定めた(応永廿七年四月廿七日「大須賀宗幸寄進状」『大慈恩寺文書』室:1879)。

 「大須賀越後守」は永享年中(1429-1441)、円覚寺と大須賀保内毛成・草毛村をめぐって争い、関東管領・上杉憲実は持氏の上意を得たとして、

「円覚寺領下総国毛成、草毛両村事、得 上意候之処……任寺家證文等明鏡之旨、被止大須賀越後守競望候」

と、円覚寺に大須賀越後守の領有は認めないという『上杉憲実書状』を発給した。これは応永26(1419)年12月17日に足利持氏(鎌倉公方)が下総・上総・武蔵・上野・常陸国内等の円覚寺領を安堵した際、「下総国大須賀保内毛成、草毛両村」が含まれている事に基づいていると考えられる。もともと、この「大須賀保内毛成・草毛両村」は大須賀氏の所領だが、弘長3(1263)年に「大須賀胤氏(信蓮入道)」が「神四郎法師了義(諏訪氏か)」へ沽却し、これが了義によって円覚寺へ寄進されたものであった。

 しかし、胤氏は了儀へ沽却する前、「本間四郎左衛門尉」に20年を限って質入していた。これを知った法師了義が異議を申し立てたため、胤氏は文永元(1264)年、「陸奥国好嶋荘紙谷郷」を両村の替地として法師了儀に与えた。そして、約束の20年が過ぎたため、本間四郎左衛門尉は毛成村を了義へ返却し、了義は正応2(1289)年に毛成・草毛両村を円覚寺に寄進してしまった(『円覚寺文書』)。両村の替地として好嶋荘内紙谷郷を与えたにも関わらず、了義は両村をみずからの所領として円覚寺に寄進しているとして、延慶元(1308)年、大須賀時朝と円覚寺雑掌が相論をし、これが代々の大須賀家当主に引き継がれていったと思われる。

 応永33(1426)年1月10日、「左衛門尉朝信」が大慈恩寺に対して、寺領に関する紛失状(五年前の応永28年正月7日、大慈恩寺が燃亡のため)を発給しており、「越後守宗幸」はこの頃にはすでに「左衛門尉朝信」へ家督を譲っていたのだろう。

 永享12(1440)年、関東において新たな鎌倉公方の座をめぐり、親幕府派と鎌倉公方派の対立が表面化。故足利持氏の遺児、足利春王・安王を奉じた結城氏朝が結城城に籠もって挙兵した。これに対し、幕府は出家隠棲していた上杉憲実入道長棟にその追捕を命じた。やむなく憲実は弟の上杉清方らを大将に結城城を攻めて陥落させた(結城合戦)。この戦いに、結城方の武士として「大須賀越後守」が参戦し、幕府方の「中條判官」によって討ち取られた(『鎌倉大草紙』)。この「大須賀越後守」が宗幸と同一人物とは断定できないが、活躍の時期から可能性は高いと思われる。

 過去帳では康正2(1456)年12月24日に亡くなったと伝わる(『宝応寺過去帳』)。法名は瑞雲院殿鷹岳全祥大禅定門。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   康正2(1456)年 左馬助 瑞雲院殿鷹岳全祥大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     越後  
『大須賀家蔵系図』 応永13(1406)年 永享2(1430)年 25歳 越後守 姓存居士

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