【大須賀氏について】
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●大須賀惣領家想像系図
千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介) (四郎) (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
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+─時朝──────宗朝──+
(次郎左衛門尉)(下総守)|
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+───────────────────────────────────────────────+
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+─宗時 +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎) |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
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+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
(越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)
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(????-1440?)
大須賀家12代当主。父は大須賀越後守宗幸とされる(『寶應寺大須賀系図』『大須賀家蔵系図』)。官途は左衛門尉(『宝応寺過去帳』)、下総守(『寶應寺大須賀系図』『大須賀家蔵系図』)。
■大須賀家想像略系図■
大須賀朝氏─+─宗胤
(左衛門尉) |(太郎)
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+─時朝──────宗朝──+─宗時 +─宗正───憲康────常康
(次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎) |(左馬助)(左馬助) (左馬助)
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+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝
(越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)
応永33(1426)年4月10日、「左衛門尉朝信」は大慈恩寺に対して、寺領に関する紛失状を発給した。応永28(1421)年1月7日、大慈恩寺は火災に見舞われ、大須賀信蓮(胤氏入道)以来の寄進状や寺領安堵状など一切が焼失してしまった。朝信はこれらを保証するために、この紛失状を発給したと考えられる。同時に「左衛門尉平朝信」は『大慈恩寺当知行領坪付』を発給している。
応永33(1426)年8月22日、鎌倉府から遣わされた「前備中守満康(町野満康?)」は「国分三河守」「海上筑後守」の両名に、大慈恩寺が火災で紛失した書状のとおりに寺領が実際に支配されているか、年貢高などを調べて事実を起請文にしたためて注進すべきことを命じた。
これ以降、文書の中に朝信の名は見えない。朝信以降、大須賀氏の系譜はますます錯綜しており、松子大須賀氏、助崎大須賀氏の分離や関東の混乱にともなう結果と思われる。
| 書名 | 生年 | 没年 | 通称 | 法名 |
| 『宝応寺過去帳』 | 延徳2(1490)年 | 左衛門尉 | 見性院殿 月慶道鑑大居士 | |
| 『寶應寺大須賀系図』 | 下総 | |||
| 『大須賀家蔵系図』 | 応永17(1410)年 | 亨徳元(1452)年 43歳 | 下総守 | 姓俊居士 |