大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


トップページ > 大須賀氏 > 大須賀惣領家1 > 大須賀時朝


大須賀時朝(????-????)

 大須賀家五代惣領。父は大須賀左衛門尉朝氏。母は不明。通称は次郎。官途は左衛門尉。

 兄・宗胤が早世してしまったため、二男の次郎が家督を継ぐこととなり、北条時宗より「時」字を偏諱されて「時朝」を称したと思われる。

 弘長3(1263)年、時朝の祖父・大須賀胤氏入道信蓮が「神四郎法師了義(諏訪氏?)」へ沽却したが、これ以前に両村を「本間四郎左衛門尉」に20年を限って質入していた。これを知った法師了義が異議を申し立てたため、胤氏入道は文永元(1264)年、「陸奥国好嶋荘紙谷郷」を両村の替地として法師了儀に与えた。しかし約束の20年が過ぎたため、本間四郎左衛門尉は毛成村を、胤氏入道が沽却した相手・了義へ返却し、了義は正応2(1289)年に毛成・草毛両村を円覚寺に寄進してしまった(『円覚寺文書』)。

 両村の替地として法師了儀には好嶋荘内紙谷郷が与えられたにも関わらず、了義は「大須賀保内毛成・草毛両村」を所領として円覚寺に寄進しているとして、延慶元(1308)年、「大須賀保内毛成・草毛両村」をめぐって、時朝と円覚寺雑掌が相論をしている。この両村の訴訟沙汰は、永享年中(1429-1441)まで百年以上も続いた。

●大須賀氏略系図『神代本千葉系図』

⇒大須賀胤信──通信──────胤氏─────朝氏──────宗胤
(四郎)   (左衛門尉)  (左衛門次郎)(左衛門尉)  (太郎)

●大須賀氏略系図『香取田所家蔵千葉系図断簡』

⇒大須賀胤信──通信──────胤氏─────朝氏──────時朝───────宗朝
(四郎)   (太郎左衛門尉)(二郎左衛門)(新左衛門入道)(二郎左衛門入道)(太郎左衛門尉)

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信──通信──────朝氏───+─宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +─時朝──────宗朝──+─宗時
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
                                   |
                                   +─宗信───憲宗
                                    (越後守)(左馬助)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   嘉暦3(1328)年 二郎左衛門尉 義雲院殿 忠覺禪信大居士
『寶應寺大須賀系図』     次郎左衛門尉 禅信
『大須賀家蔵系図』 文永8(1271)年 正和元(1312)年 42歳 下総守 信宗居士

|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|大須賀氏について|

Copyright©1997-2009 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。