大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀宗信(????-????)

 大須賀家8代当主。父は大須賀下総守宗朝か? 母は不明。通称は不明。官途は越後守。号は聖応。

 元弘元(1331)年8月24日夜、関東と対立していた大覚寺統の後醍醐天皇は、三種の神器をもって内裏を脱出し、花山院師賢が身代わりに比叡山へ上りって関東勢が気を取られている間に、天皇は大和国境まで歩き、27日には笠置山笠置寺に籠って全国の武士に挙兵の号令をかけた。この報を受けた河内国出身の兵衛尉の官歴を持つ楠木兵衛尉正成が挙兵した。

 29日、関東に天皇挙兵の報がもたらされると、鎌倉では直ちに御家人が招集され、9月上旬も京都へ向けて出向した。この中に千葉介貞胤・千葉太郎胤貞の両千葉家も上洛勢に加わっている。千葉介貞胤は「千葉介 一族并伊賀国」とあることから、大須賀氏も貞胤に従っていたのだろう。年月欠の『洛中宿人在所注文断簡』(『南北朝遺文』)は、関東滅亡後の建武2(1335)年から建武3(1336)年までの文書であると考えられているが、四条坊門の石女一宇に「千葉介一族大須賀」が陣宿しており、時代から見て宗信であろう。鎌倉末の動乱の際にも千葉介の軍勢の一翼を担っていたと思われる。

 天皇が籠もっていた笠置山は、幕府軍の攻撃にあって9月28日に陥落。山林に逃れていた後醍醐天皇はじめ、万里小路藤房・花山院師賢・千種忠顕ら公卿も捕らえられた。このころ千葉介貞胤は幕府軍大将・大仏貞直の軍勢に加わって楠木正成一党の籠る河内国赤坂城を攻めており、幕府の大軍の前にさしもの天嶮も10月21日に陥落、正成らは逐電した(『増鏡』)。

 捕らえられた後醍醐天皇は10月3日、六波羅探題に幽閉されたのち、三種の神器を持明院統の光厳天皇へ引き渡し、翌年の元弘2(1332)年3月7日、隠岐国へ配流となった。このとき、後醍醐天皇の護衛についた人物が、佐々木導譽を主将とする千葉介貞胤・小山左衛門尉秀朝の三名、率いる武士は五百騎だった(『増鏡』)。隠岐国は佐々木一族が守護職にある国で、六角佐々木氏とならぶ京極佐々木導譽が主将に選ばれたのだろう。4月2日、天皇は隠岐国分寺へ到着したことが『続史愚抄』に記されている。

 『増鏡』によれば、貞胤は帰京直後、今度は下総国へ配流が決まった花山院師賢の護衛を命じられ、元弘2(1332)年5月10日、京都を発って下総へ下った。この旅の途路で、花山院師賢は様々な歌を詠んでいる。

今日までは ありとききても頼むなよ 猶行末もしらぬ命に          尾張国から都の家族へ宛てた和歌
海山を みる空もなしわが心 さながら君にこそへてこしかば             〃
契ありて 今日は三嶋のみたらしに 憂き影うつす墨染の袖         伊豆国三嶋大社へ詣でた際に詠んだ歌
こととひて いざさば茲に隅田川 鳥の名きくも都なりけり          隅田川の渡しで詠った歌

 花山院師賢は香取郡下総村に幽閉の身となるが、この地は大須賀氏の所領であり、「千葉介一族大須賀」として千葉介貞胤とともに上洛していたと思われる千葉一族の重鎮・大須賀宗信がこれを預かることとなったのだろう。師賢の館が建てられたのは、現在の成田市小帝であり、「館内」という字名も残る。

小御門神社

 師賢はこの地に移ったのもつかの間、心労からか病に罹り、わずか四か月後の10月29日に亡くなった。享年三十二。師賢の遺体は館の隣に築かれた塚に埋葬され、「公家塚」と呼ばれた。この公家塚の前に明治15(1882)年、師賢を祭神とする「小御門神社」が建てられた。

 建武2(1335)年7月、信濃国諏訪で鎌倉奪還を目指して挙兵した得宗高時入道の次男、相模次郎時行(亀寿丸)は、7月14日、信濃守護・小笠原信濃守貞宗の軍勢を潰滅すると、そのまま武蔵国になだれ込み、7月22日の井出沢の戦い(町田市)で足利直義(足利尊氏の弟)の軍勢を破り、7月25日には鎌倉を攻め落とした。ここからはじまる一連の戦いを「中先代の乱」という。鎌倉陥落の報を京都で受けた足利尊氏は、8月2日、後醍醐天皇の勅許を得ないまま、鎌倉奪還・足利直義ならびに足利一族救出のために京都を出陣して鎌倉へ向かった。

 尊氏の軍勢は三河国矢作で、武蔵国で敗れた足利直義の軍勢と合流。8月9日の遠江国橋本の戦いでは、「千田太郎」こと千葉太郎胤貞が軍功を挙げた。勢いに乗った足利勢は19日には箱根を越え、鎌倉を攻め落とした。このときの辻堂・片瀬原の戦いでは「千葉二郎左衛門尉」「大須賀四郎左衛門尉」「海上筑後前司」が降伏していることが『足利尊氏合戦注文』(『国立国会図書館所蔵文書』)に記されている。

千葉二郎左衛門尉 千葉二郎左衛門尉胤朝 元徳2(1330)年に「殺害の咎に依」って所領を没収された 神崎流千葉氏
大須賀四郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉宗常?
大須賀四郎左衛門尉胤連?
元亨元(1321)年12月7日の陸奥国好嶋庄に関する書状
────────────────────────
大須賀氏
海上筑後前司 海上筑後守師胤   海上氏

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信─+─通信─────+─胤氏───────朝氏─────+─宗胤
(四郎)   |(太郎左衛門尉)|(左衛門尉)   (左衛門尉)  |(太郎)
       |        |                 |
       |        |                 +─時朝──────宗朝──+─宗時
       |        |                  (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
       |        |                               |
       |        +─信康───────宗常                   +─宗信───憲宗
       |         (五郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)               (越後守)(左馬助)
       |
       +─多部田胤秀────時綱───────胤連
       |(次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
       |
       +─成毛範胤─────則泰───────胤時〔尊氏が籠る鎌倉を攻める新田義貞に三河で従う〕
        (八郎)     (左衛門尉)   (十郎)

 貞治4(1365)年12月26日の『鎌倉府下知状』には、「東弥六(盛義)・海上八郎入道(公胤)」が下総国東庄上代郷内土持を横領していることにつき、「国分遠江守(胤氏)・大須賀越後守(宗信)」を使者として金沢称名寺雑掌に引き渡すよう命じている。

香取神社
香取神社

 貞治7(1368)年3月2日、千葉一族の宿老五人(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)が、「建永承元の御下知に任せて」、香取神領のことを保証することによって一揆(千葉一族一揆)の所願成就を達成することを願った『聖応等連署願文』・『聖応誓阿連署書状』を香取神社に納めた。ここに見える「沙弥聖応」は宗信(生応・姓応)のことと思われ、貞治4(1365)年12月26日から翌年3月2日までの約二か月の間に出家をしたのだろう。

 『聖応誓阿連署書状』では「仰可有常州合戦候、此事鹿島東條大事候間」と、常陸国で戦乱が起こっていて、一族一揆のほかのメンバーはすでに出陣しており、我々も明日出陣すること、さらに中村入道性阿(千葉介満胤家人)が押領したところも香取社に帰属することを保証した書状を誓阿・聖応の両名をもって発給した。

名前 貞治7(1368)年4月25日 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康(孝山誓阿)
⇒これまで粟飯原清胤とされてきたが誤り。
 
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀(宏覚) 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 不明  
沙弥寿歓 国分三河守胤詮(千葉国分三河守入道寿歓) 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信(生応・性応) すでに没したと思われ、「大須賀左馬助(憲宗)」が就任

 応安4(1371)年に4月15日、大須賀聖応・大須賀左馬助は、金沢称名寺の末寺である大宝院(真言律宗)に対して、「大須賀保柴村内田壱町在家一宇屋敷荒野并奈土郷内下別当職」を寄進した(『金沢文庫文書』)。

 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』、同年6月5日『鎌倉府執事奉書写』では「大須賀左馬助」が記されており、宗信の子・左馬助憲宗であろうと思われることから、左馬助憲宗と連署で大宝寺(金沢称名寺末寺)へ書状を発給した応安4(1371)年に4月15日から、応安7(1375)年までの4年の間に亡くなったと思われる。法名は大榮院殿感契生應大居士。

「沙弥誓阿」について

 一族一揆の中心的な人物「沙弥誓阿」については、これまで『千葉大系図』をもとにして粟飯原下総守清胤(室町幕府政所執事)とされてきたが、この時点で清胤はすでに討死をしており、花押の形もまったく違うことから異なる人物と考えられる(『千葉氏と足利政権』「千葉史学」十二号 山田邦明氏)。粟飯原清胤が「下総守」であるところから誤解され続けていたのだろう。

 一方、千葉介宿老の木内氏には「下総介胤康」という人物が見え、法名は「孝山誓阿」である(『木内系図』)ことから、応安7(1375)年の『鎌倉府執事奉書写』と照らし合わせてみると、木内胤康が「誓阿」であろうか。『聖応等連署願文』・『聖応誓阿連署書状』の中に見える「仍総州以下一揆為所願成就」とは「木内下総入道誓阿」以下の一族一揆の所願成就のために奉納した願書ということになろう。

●貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』

    金沢称名寺雑掌円爾申、下総国東庄上代郷内土持、
    河嶋、原井并渡野辺源内兵衛入道等跡事、

  訴状如此、東弥六、海上八郎入道押領云々太無謂、所詮、大須賀越後守相共莅彼所、
  任観応元年五月十九日御下知并奉書、渡状等之旨、厳密沙汰付下知於寺家雑掌、
  可執進謂取之状。若不承引者載起請之詞可被注申、使節緩怠者可有其咎之状、
  依仰執達如件、

   貞治四年十二月廿六日   沙弥(花押)
     国分遠江守殿

●貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』

 任建永承元御下知、御神領之事、無子細可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、
 立願状如件、

    貞治七年三月二日        沙弥誓阿(花押)
                    沙弥宏覚(花押)
                    沙弥禅広(花押)
                    沙弥寿歓(花押)
                    沙弥聖応(花押)
  

●貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 長房所領等事、一揆御契状見候了、尤可然存候之間、御沙汰之時、
 可心得申候、就中当国安全祈祷事、殊以可令致精誠給之状如件、
 
   貞治七年三月六日   平長胤(花押)

●貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

  下総国千田庄多古郷内田地壱町事、
 
 右当社者、本朝無双之地、別者当国有縁之神、霊験異于他、誰不奉欽仰哉、
 爰生阿故中村入道為別駕之旧臣、為当所之政所、勤誇其権威、恣令押地神領、
 是故社人等、為達鬱訴於上聞、奉出神輿於仮殿、其間之星霜良積四ヶ年也、
 不測去々年貞治五之秋、竹壽丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之畢、
 世以無其隠者也而氏政円城寺図書允以下之輩、非蔑如上裁而已、対于一族并浄心、
 取弓箭動干戈、是又三ヶ年也、次幹胤中村式部丞押寄宮中、依致合戦射立箭於神輿、
 令放火於殿、加之在々所々之神社仏事等、或逢破損之難、或稟回録之事、
 因茲田地者荒廃、黎民者失堵歟、世縦及澆季、神鑑争不至哉、冥慮不空、賞罰分明者、
 罰逆心、守当家、古語曰、神安者人即安、国安者民即安、文、測知神輿帰本座者、
 人又如元安穏歟、御帰座之費、其料分抜群也、為退散幹胤、令進発之間、依陣中忩劇、
 銭貨不足之餘、為償彼大営、所寄附小所也、微者著之始、小者大之赴也、志之所之、
 唯仰明鑑耳、就中神之為神者、依人之敬也、人之為人者、依神之助也、
 彼志趣全非限長胤父子息災、為竹壽及一揆之仁、兼又国土安全、万民快楽、
 寄進之状如件、
 
   貞治七年三月 日   平長胤(花押)

●貞治7(1368)年3月 日『聖応等連署安堵状』

 任代々御下知之旨、長房所領、小野、織幡、葛原、次十二ヶ村散在、犬丸、金丸以下村々、
 或云下知、或云所務、并屋敷田畠等事、依為御神領、悉可被還付長房由、総州方江可口入申候、
 仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、
      貞治七年三月 日        沙弥誓阿(花押)
                      沙弥宏覚(花押)
                      沙弥禅広(花押)
                      沙弥寿歓(花押)
                      沙弥聖応(花押)

●某年5月26日『聖応誓阿連署書状』

   其後何條御事候哉、仰可有常州合戦候、此事鹿島東條大事候間、一揆一族等、
   少々先罷越候、愚身も今明日之間罷越候、

 一、香取就神領事、御 輿を出申候て、於公方訴訟仕候時分御越候て、御輿奉成帰座候へ、
   中村入道性阿押領地可被帰之由、雖彼御状出候、其後一事以上無左様御沙汰候間、
   又御 輿を出申候て、可訴訟仕候由、社人等申候、然者以前御沙汰も無正体様覚候、
   且公方聞も不可然候、悉候ハすとも、一道御計も候て、社人等の心おもなく
   さめられ候へかしと存候、委細旨難尽書状候、恐々謹言、

        五月廿六日         沙弥誓阿(花押)
                      沙弥聖応(花押)
    謹上 上総次郎殿

 

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   明徳4(1393)年 越後守 大榮院殿 感契生應大居士
『寶應寺大須賀系図』     越後守 生應
『大須賀家蔵系図』 貞治3(1364)年 応永元(1394)年 31歳 越後守 姓應居士

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