大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀通信(????-????)

 大須賀家二代惣領。父は初代・大須賀四郎胤信。通称は太郎。官途は左衛門尉。

 鎌倉幕府に仕え、源頼朝・頼家・実朝の将軍家三代に奉仕した。建暦3(1213)年5月の「和田義盛の乱」はじめ、承久3(1221)年5月にはじまった「承久の乱」で活躍がみられる。承久の乱の功績によって恩賞を与えられた。

 通信の代から下総国香取郡大須賀保に松子城を築いて本拠としたとされるが、松子城が築かれたのは時代の下った室町時代以降と考えられ、鎌倉から室町期まで、大須賀氏が本拠としたのは助崎付近(下総町)と考えられる。大須賀一族の古い分流が領した「幡谷」「水掛」「荒海」「成毛」「小泉」「名古屋」「七澤」「小浮」「滑川」などがいずれも助崎周辺に集中してある事に加え、助崎の北隣に「大菅」「西大須賀」といった地名がある事からも、鎌倉期の大須賀氏は助崎を本拠としたことは間違いないだろう。

 父・胤信が祖父・千葉介常胤より譲られた陸奥国好島庄(福島県いわき市)の預所職は、承元元(1208)年、胤信の手によって東庄・西庄と二分され、そのうち「好島東庄」が通信へ継承され、「好島西庄」は二男・胤村が継承することとなった。

建保2(1214)年7月27日、大雨の中で大倉大慈寺(新御堂)供養が執り行われた。将軍・実朝の随兵として、従兄弟の東平太所重胤とともに名が見える。

 建保7(1219)年正月27日、実朝の右大臣拝賀の鶴岡八幡宮参詣の日は日中は曇り、夜に入って大雪となるあいにくの天気だった。実朝は酉の刻(午後六時)になって邸を出立し、一千余騎の随兵を率いて鶴岡八幡宮へ参詣した。

●鶴岡八幡宮参詣に供奉した人物(『吾妻鏡』に記された人物)

  居飼四人(退紅縫越の手下)、舎人四人(柳裃平礼)
  菅野景盛(将曹)、狛 盛光(府生)、中原成能(将曹)
殿上人
(二列)
一条侍従能氏 伊予少将藤原実雅 兵衛佐藤原頼経 右馬権頭頼茂 中宮権亮信能
一条大夫頼氏 一条少将能継 前因幡守源師憲 伊賀少将隆経 文章博士源仲章
  前駈笠持        
前駈
(二列)
藤原匂当頼隆 平匂当時盛 前駿河守中原季時 左近大夫朝親 相模権守経定
蔵人大夫以邦 右馬助藤原行光 蔵人大夫邦忠 右衛門大夫時広 前伯耆守親時
前武蔵守義氏 北条相模守時房 蔵人大夫重綱 左馬権助範俊 右馬権助宗保
蔵人大夫有俊 前筑後守頼時 武蔵守親広 修理権大夫源惟義 北条右京権大夫義時
官人 秦兼峰、下毛野敦秀(各々、白狩袴、青脛幅、狩胡箙を負う)
御車 右大臣源実朝        
車副 四人(平礼、白袴)、牛童一人        
随兵
(二列)
小笠原次郎長清
(小桜)
武田五郎信光
(黒糸)
伊豆左衛門尉頼定
(萌黄)
隠岐左衛門尉基行
(紅糸)
大須賀太郎道信
(藤)
式部大夫泰時
(小桜)
秋田城介景盛
(黒糸)
三浦小太郎時村
(萌黄)
河越次郎重時
(紅糸)
萩野次郎景員
(藤)
⇒各々甲持一人、張替持一人、傍路に前行。しかし景盛は張替持たず。
雑色 雑色二十人(皆平礼)        
検非違使 加藤大夫判官景廉(束帯、平鹿蒔太刀、舎人一人、郎従四人、調度懸、小舎人童各々一人、
看督番二人、火長二人、雑色六人、放免五人)
御調度懸 佐々木五郎左衛門尉義清        
下臈
御随身
秦公氏 秦兼村 播磨貞文 中臣近任 下毛野敦光
下毛野敦氏        
公卿
⇒各々乗車
坊門新大納言忠信
(前駈五人)
西園寺左衛門督実氏
(随身四人)
宰相中将国通
(随身四人)
八条三位光盛 刑部卿三位宗長
後陣随兵 加藤左衛門大夫光員 二階堂隠岐守行村 浅沼民部大夫広綱 葛西壱岐守清重 関左衛門尉政綱
布施左衛門尉康定 小野寺左衛門尉秀道 伊賀左衛門尉光季 天野左衛門尉政景 武藤左衛門尉頼茂
伊東左衛門尉祐時 足立左衛門尉元春 市川左衛門尉祐光 宇佐美左衛門尉祐長 後藤左衛門尉基綱
宗左衛門尉孝親 中条左衛門尉家長 佐貫左衛門尉広綱 伊達右衛門尉為家 大江右衛門尉範親
紀右衛門尉実平 宮内兵衛尉公氏 若狭兵衛尉忠季 網島兵衛尉俊久 東兵衛尉重胤
土屋兵衛尉宗長 境兵衛尉常秀 狩野七郎光広

 しかし、夜になって拝賀式が終った直後、拝殿の前で実朝と随っていた源仲章めがけて、鶴岡八幡若宮別当・阿闍梨公暁らが抜刀して斬りかかった。公暁は実朝の実兄・頼家の遺児で、実朝からみると甥にあたる人物である。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

 公暁は若いうちに鶴岡八幡宮若宮に預けられ、将軍職とは関わりのない存在ではあった。しかし、頼家が北条時政の手先と思われる刺客に伊豆国田方郡の修善寺で討たれたことを、公暁は実朝が仇であると思うようになったようで、実朝に斬りつけた際には「父の敵を討つ」と叫んだと『吾妻鏡』に記されている。こsののち、公暁はふっつりと姿を消しまたが、三浦義村の配下であった長尾定景・景茂・胤景がねじ伏せて討ち取っている。

 安貞2(1228)年7月23日、四代将軍・藤原頼経が三浦駿河前司義村の田村山荘(平塚市田村)を遊覧のために訪れた際、随兵として多数の御家人が参列したが、この中に「大須賀左衛門尉」の名が見える。この「大須賀左衛門尉」は通信の弟・多部田胤秀とされているが、実は通信か。

 天福2(1234)年7月29日、二代将軍・頼家の娘で四代・藤原頼経の正妻となっていた竹之御所が、産後に亡くなる悲劇があり、このことに伴なって御家人二十名ほかあまたの出家者を出すことになった。その御家人中に「をゝすか左衛門」の名が見えることから(『明月記』)、通信はこの時に出家遁世したのだろう。

 出家の二年後、嘉禎2(1236)年6月13日に没したと伝えられている(『宝応寺過去帳』)。法名は通信院殿如覺浄意大居士。

 伝えられる通信の死から二か月後の嘉禎2(1236)年8月4日、将軍・藤原頼経が若宮大路新御所へ移った際、その供奉人の中に、通信の弟・胤秀と思われる「大須賀次郎左衛門尉」が参加している。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   嘉禎2(1236)年 太郎左衛門尉 通信院殿如覺浄意大居士
『寶應寺大須賀系図』     太郎左衛門尉  
『大須賀家蔵系図』 長寛2(1164)年? 建保3(1215)年 52歳 刑部大輔 道眞大居士

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