大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀政朝(1552?-1590?)

 大須賀家19代当主。父は大須賀尾張守政常(『寶應寺大須賀系図』)または大須賀左馬助宗朝(『大須賀家蔵系図』)。幼名は薩摩丸? 通称は孫次郎? 官途は尾張守。妻は月窓院殿玉林芳桂大姉。

 次代の「尾張守常安」が天正18(1590)年の小田原戦役に出陣して戦死したと伝えられるが、そのわずか16年前には尾張守政朝が活躍しており、さらに『大須賀本』系譜を見ると「尾張守政朝」の法名は「常安大居士」となっている。また、系譜上で「常安」の子である弥六政氏には、天正16(1588)年正月に亡くなった奥方がおり(『宝応寺過去帳』『本土寺過去帳』)、時代・世代的に見ても政朝は常安と同一人物と考えてよいのではないだろうか。

大慈恩寺
大須賀氏ゆかりの大慈恩寺

 大須賀薩摩丸=政朝だとすれば、永禄3(1560)年、千葉介胤富の命によって小見川富田台へと出陣していることになる。しかし、薩摩丸がどのような活躍をしたのかはわからず、正木氏が小見川の「大須賀一跡」を占領して「下総悉本意候者(下総国はことごとく思いのままになった)」と言っているところを見ると、薩摩丸は敗れてしまったのだろう。こののち、北条氏政の偏諱を受けて「政朝」を称し、松子大須賀家の家督を相続して「尾張守」を称したのだろう。

 元亀4(1573)年3月4日、「尾張守政朝」は祖・大須賀左衛門尉朝信が150年ほど前に発給した応永33(1426)年4月10日の『紛失状』とほぼ同文の『大慈恩寺当知行領坪付』を発給して、大慈恩寺の知行を安堵した。

 この文章は前半は大慈恩寺が知行する郷村が列記され、後半は子孫に対する置文という形をとっていて、大須賀朝信が記した紛失状と同じ形態を踏襲している。この置文の中に「依被定置、一百五十餘年、今全相違無者也」=「定め置かるるにより、一百五十餘年において、今まったく相違なきものなり」と読むところまでまったく同一であるというのは、朝信が胤氏入道信蓮以来、およそ150年後に発給した『紛失状』に倣って、朝信が発給してから147年後の政朝が、同一の文章を改めて発給したと考えられる。

大須賀胤氏(入道信蓮)
・建治2(1276)年没とされる
   |
《150年》
  ↓
大須賀朝信
・応永33(1426)年紛失状発給
   |
《147年》
  ↓
大須賀政朝
・元亀4(1573)年書状発給

 天正15(1587)年12月28日、北条氏政は豊臣秀吉からの「京勢陣用意」の通達を受け、おそらく麾下の諸大名・諸将に兵を小田原に集める書状を送ったと思われる。「大須賀尾張守」のもとにもこの氏政通達が届けられており(天正15(1587)年12月28日『北条氏政判物』)、「尾州(尾張守政朝)」は「其地ニ然与御在城尤候」ことを指示した上で、「先段申合人衆、一騎一人無不足」いように、「御息孫二郎殿」へ附けた上で、来年1月15日までに小田原へ到着させることを命じた。「孫次郎」については伝がないが、弥六政氏のことか。

 政朝は天正8(1580)年11月29日に没したとされるが(『宝応寺過去帳』)、『宝応寺大須賀系図』の「千葉重胤」の項目のなかに、小田原の役の際に小田原城へこもった千葉一族が列記されているが、「原式部大夫胤栄・相馬次郎胤高・酒井左衛門佐胤治・酒井伯耆守康治・国分与市胤相・国分三河守胤朝」に続いて、「大須賀尾張守政朝・大須賀弥六常安」が記されている。政朝=常安であるとすれば、天正18(1590)年12月2日に没したことになる(『宝応寺過去帳』)。

 また、「大須賀尾張守政胤」が天正18(1590)年の小田原合戦に参戦したが、「大須賀伊豆守」の表切によって千葉勢は壊滅。政胤も小田原城で討死したという。享年三十九(『大須賀家蔵系図』)。この「政胤」と「政朝」はおそらく同一人物を指す。同系図には、「大須賀左馬助宗朝(法名は大応:大須賀左馬助常康と同じ)」の長男に「大須賀伊豆守胤朝」、次男に「大須賀尾張守政朝(常安大居士)」が記載されており、小田原合戦で表切したのは兄の伊豆守胤朝で、討死したのは弟の尾張守政朝(尾張守政胤)ということになろう。

 そして、他の伝によれば、「尾張守常安」は一族を率いて小田原に参陣するが、松子に帰陣するよう命じられた帰途に佐倉で亡くなったともされる(『大須賀家記』)。

 政朝の弟・大須賀丹波守常久は父・大須賀尾張守政常が隠居するとともに伊能城へと移り、天正18(1590)年5月、伊能城の落城とともに千田庄出沼へ移り住んだと伝えられている(『宝応寺文書』)。そして、常久の嫡子・大須賀伊織員胤は家宝の甲冑刀剣などをすべて宝応寺と東光寺に寄進して帰農した。

 その子孫・親胤は浅山一伝流の剣術家で、「本城一観斎」と称した。その子・大須賀恒右衛門知胤も父の跡をついで剣術家となり、弟・中里半兵衛胤直、嫡子・大須賀常五郎胤久、門人・伊能平左衛門令貴ら36名とともに文政13(1830)年8月21日、宝応寺に御厨子を寄進している。

 室町時代後期から小田原の陣に至るおよそ百五十年の間の大須賀氏はまったく伝承の中にあり、史実としての歴史は捉え難い。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝─宗朝──+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正───政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────宗朝──+─胤朝───兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +─政朝
                                              (尾張守)

●元亀4(1573)年3月4日『大慈恩寺等知行領坪付』(『大慈恩寺文書』)

  雲富山大慈恩寺当知行領事
合 伊能郷内 本願寄進
并新寄進
奈土郷内 本願寄進
并新寄進
  津富良郷内 本願寄進
并新寄進
西雲富村内 本願寄進
并新寄進
  臼栗村内 本願寄進
并新寄進
物木村内 本願寄進
并新寄進
  久士崎村内 本願寄進
并新寄進
古山村内 本願寄進
大椎代并新寄進
  横山村内 本願寄進
大椎代
青木村内 小松郷内
  滑河村内   水懸村内 一坪田村内 本願寄進
并新寄進
  猿山村内 前林村内 本願寄進 柴村内 本願寄進
并新寄進
  大室村内   矢田山 中野 本願寄進
  雨尾 助崎 遠山方 南城
  上畠 柴田 上総国大椎郷内

右本願胤氏法名信蓮御寄進并代々寄附等文書依紛失、子細為後證到判形者也、然而本願置文者、京都鎌倉大番役并役夫工米以下公方私之諸公事等、一切被停止畢、縦雖劫石尽斯願不可違失、若背此旨致違乱於子々孫々者為不孝、彼所領為未所分地、当寺信仰無為之一族等、可分知行之由、依被定置、既於一百五十餘年、今全相違無者也、是以限未来際為守本願置文旨、 加判形者也、仍為後證状如件

   元亀ニニ年癸酉三月四日  尾張守政朝(花押)

●某年5月17日『原胤栄書状』

其以来者、依無指題目不申過候之處、預御書中候、如蒙仰候、先日上総口ニ手切之郷御座候ニ付而、不時ニ人数被相遺、於彼村敵衆廿四人討取候、定而為可御満足候、殊更於当口珍物両種送給候、誠ニ賞翫申達候、何様自是御礼之儀可申述候、恐々謹言、

     五月十七日    原式
               胤栄(花押)
 
     大孫
         御報

某年某月18日『海上胤保書状』(『大須賀文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

尚々、尓御家所海上山城守其許如何様ニも御談合あつて、上意すみやかなる御取成、畢竟孫次郎を任入斗候、急候之間、拾之弐恐入候、以上、

態申進候、仍今度屋形様孫次郎を御立腹之由、御餘儀なく奉存候、因茲、若狭守、丹波守へも申断候、其節御談合被成、上意無相違様ひとへに奉憑候事候、令期後音候、

   ■四日牛刻申候     胤保(花押)

      大右馬助殿(大須賀右馬助)

天正15(1587)年12月28日『北条氏政判物』(『大道寺文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

一、京勢陣用意之由告来儀、顕先書候、猶条々模様申届
  間、好々可有御分別事、

一、其表之儀敵前雖隔大海候、覚候間、尾州者其地ニ然与
  御在城尤候、万端手前之儀者、不及申立、其口之儀能
  様ニ、無油断御取成之事
、

一、先段申合人衆、一騎一人無不足、御息孫二郎殿へ被指
  添、来正月十五日小田原迄御着肝要
候事、

一、以前申合候武具之品々、日数無程候間、定出来申間敷
  歟、於此度手前之御越度ニ有間敷候、可成様ニ御計可
  然候、畢竟人衆之處をハ、上下共ニ可然者を被撰、用
  ニ立様ニ相極事、

  右、能々御勘弁専一候仍如件、
 追而普請道具、被為持尤候、

 丁亥
   十二廿八日     氏政(花押)
    大須賀尾張守殿

天正16(1588)年?8月22日『岡見治広書状』(『大須賀文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

御来書披見、誠々御面上心地一段本望存候間、■之敵■■違候、然者、井因昼夜御窮屈、御辛労不及是非候、自身御在番ニいり候、手前心静令安心候、如蒙仰因州少も不存隔意、万端申合候、可被御心安候、御大途方弥説も候者、則可令御為知候、北筋事者、追而遅々之躰、御当方御吉左右迄ニ無別当国御出張猶念願候、委曲先書ニ申達候之條、及疎報候、恐々謹言、

                岡治
     八月廿二日       治広(花押)
   大須賀殿
        御報  

●「常安」についての過去帳

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   天正8(1580)年 尾張守 大陽院殿 綱叟胤公大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     尾張守・信濃守  
『大須賀家蔵系図』     尾張守 常安大居士

●「常安」についての過去帳

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   天正18(1590)年 尾張守 文明院殿 泰盛常安大居士
『寶應寺大須賀系図』     尾張守  
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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