大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀政常(????-????)

 大須賀家18代当主。父は大須賀尾張守常正(『寶應寺大須賀系図』)。官途は尾張守。

松子城
大須賀氏の居城・松子城遠景

 「政常」の「政」は北条氏政からの偏諱か。北条氏政は永禄2(1559)年12月に氏康より家督を譲られており、その後に氏政から偏諱を受けたのかもしれない。

 永禄5(1562)年6月29日、里見方の小田喜城主・正木源三郎信茂は叔父にあたる勝浦城主・正木大膳亮時忠に、小見川で占領した「大須賀一跡」について、「房王丸(正木憲時)」の進退についての意見交換をしている。大須賀氏は香取海の港(津)の関銭を取っていたことが知られており、小見川にもそのような所領を持っていて、その権益をめぐって両正木氏が話し合っていて、千葉介胤富も正木信茂との間で「卯に至る(丁卯:永禄十年)」まで、何らかの「仰合(相談)」がなされたことが、書状から読み取れる。

 永禄3(1560)年、千葉介胤富は小見川富田台に攻め寄せた「房州勢」への対抗のため、b派遣したものの敗れ、正木氏が「下総悉本意候者(下総国はことごとく思いのままになった)」と言わしめるようになった。この「大須賀薩摩丸」は次代の尾張守政朝か?

 両正木氏はこののち仲違いを起こし、永禄7(1564)年、正木左近大夫時忠(勝浦正木氏)は北条氏へ子・頼忠を人質に出して帰服。里見家へ忠誠を尽していた小田喜正木氏との対立は決定的となった。正木時忠は北条氏の後援を受けて上総一宮の正木信茂の居城を攻め、信茂の義弟・憲時(房王丸)を追い落としている。同年6月27日、上杉謙信は里見義弘に宛てて「先ニ正木左近大夫以逆心、正木大炊助没落絶言語候、御力落於此方同前候」という書状を送っている。

 永禄9(1566)年、上杉謙信勢の房総侵攻を小田原で見守っていた北条氏政は、山多弾正忠を千葉介胤富へ遣わしたと思われ、3月24日、胤富は大須賀尾張守へ人衆を集めて出陣をすることを指示した。同日、佐倉城のすぐ東にある原上総介胤貞の居城・臼井城へ上杉謙信を総大将とする結城晴朝・水谷勝俊・佐竹義重らの軍勢が襲いかかったが、これに対して、原上総介胤貞は臼井城を死守。3月25日、上杉勢は退却せざるを得なかった。胤富もみずから兵を率いて上杉勢を追撃している。

 政常は二男・常久をともなって伊能城へ移って隠居し、元亀元(1570)年7月6日に没したと伝わる(『宝応寺過去帳』)。法名は陽盛院殿春宗浄光大居士(『宝応寺過去帳』)。『宝応寺過去帳』には「前齋殿御父也」とあるが、「前司殿」の誤りか。

●正木家略系図

              〔小田喜城主〕
 正木時綱─+─正木時茂──+─正木信茂
(大膳亮) |(大膳亮)  |(源三郎)
      |       |
      |       +=正木憲時
      |        (大膳亮)
      |
      |〔勝浦城主〕  〔三原城主〕   〔紀伊藩家老〕
      +─正木時忠──+─正木時通   +─正木為春────正木為時
      |(左近大夫) |(左近将監)  |(勝兵衛)   (長門守)
      |       |        |
      |       +─正木頼忠───+─養寿院───+─徳川頼宣
      |        (左近大夫)   (徳川家康室)|(紀伊藩主) 
      |                        |
      |〔金山城主〕  〔一宮城主〕          +─徳川頼房
      +─正木弘孝────正木憲時            (水戸藩主)
       (弾正左衛門尉)(大炊助) 

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝─宗朝──+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正───政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────宗朝──+─胤朝───兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +─政朝
                                              (尾張守)

●永禄5(1562)年6月29日『正木信茂書状』

 房王丸進退、殊ニ小見川可被引明付而大須賀一跡之事承候、下総悉本意候者、猶其上納得可申候、其方子向成共身之見当候人ニ出可申候、其内ニも大須賀方忠信被申候者、 不然者所、去々年千葉介殿至卯于被仰合可為相違候、為後年一筆進之候、恐々謹言、

  永禄五年壬戌六月廿九日     信茂(花押)
    左近大夫殿 

●永禄9(1566)年6月24日『千葉介胤富書状』

 氏政麦秋之調儀被催候、付而様躰、彼者今度於小田原、能々致見聞、今日山多彈正忠差越申候、此度者必可遂用件候之條、有例之様者、曾以不可然候、人衆之事一途被及其催、臨于時不移■日、即可有出陣候、将亦別而口上之一事者、能々御尋尤候、恐々謹言、

  三月廿四日  胤富(花押)
   大須賀尾張守殿  

 

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   元亀元(1570)年 尾張守 陽盛院殿 春宗浄光大居士
『寶應寺大須賀系図』     左馬助・信濃守  
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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