○喜連川相馬家○
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下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。
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■古河公方・喜連川家中相馬家■
【藤ヶ谷城主】
…―相馬胤吉
(紀伊守)
【泉城主?】
…―相馬因幡守―相馬弾正忠
+―相馬内膳亮
|
【関係不明】
|
+―相馬靱負――相馬胤晴―+―相馬胤道―+―相馬胤将――相馬胤知 +―娘 +―相馬音胤
(玄蕃) |(玄蕃) |(靱負) (権右衛門) | |(隼人)
| | ∥ | |
| +―浅沼吉見 ∥――――相馬盈胤――+?―相馬與胤―+=相馬正胤
| |(竹五郎) ∥ (玄蕃) (玄蕃允) |(小次郎)
| | ∥ |
| +―娘 ∥ +―妹
| ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ ∥
| 【大田原藩士】 ∥ ∥
| 鈴木弥市左衛門 ∥ ∥
| ∥ ∥
|【久慈郡大子村】 ∥ 【喜連川皆吉家】
+―皆吉胤明―+―娘 +―妹 +―皆吉胤誠
(幽軒) | ∥ | |
| ∥ | |
+=皆吉勝富―+―皆吉胤長――皆吉胤忠――――皆吉胤謙―+―皆吉胤俊
(立碩) (立膽) (立碩) (立膽) (友軒)
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相馬内膳亮(????-????)
下総相馬氏一族。永禄9(1566)年3月23日、上杉謙信の軍勢が下総国臼井城を取り囲んで攻め立てた。これは、上杉氏と北条氏との争いの中で、北条氏に加担する千葉介胤富の攻略を意図したものであった。二年前の永禄7(1564)年にも上杉勢は臼井城を攻めたが失敗。今回は結城晴朝の手勢を引き連れての出兵であった。
しかし今回も落城寸前まで追い詰めたものの、千葉介胤富は北条氏や古河公方からの援軍も得て、上杉勢を再度撃退した。このとき、足利義氏のもとから派遣された援軍の中に相馬某がおり、9月26日、義氏は彼が「今度臼井之地令籠城、抽粉骨走廻之条、神妙之至候」として、「内膳亮」の官途を授けた(『猿島町史 資料編』)。
彼と同時代のことを記載した文書の中に、足利義氏から原木掃部丞へ宛てた感状があり、その感状中に「相馬晴朝」の記述のあるものがあるが、この文書の体裁には疑問が残る(『北区史研究』第二号:「後撰芸葉五」)。また、天正5(1577)年正月27日、義氏の側近として名字不詳の次郎左衛門へ文書を発給している「式部入道 晴胤」という人物が見える(『相馬家文書』)。
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相馬靱負(????-????)
下総相馬一族。父は相馬近江守か? 足利義氏に仕えた奉公衆で、某年9月25日、義氏より「靱負」の官途を賜る(『喜連川文書』)。おそらく彼と同一人物と思われる「相馬ゆきへ」が天正10(1582)年正月28日、「石川隠岐守跡」を受け継いでいる(『足利義氏書状写』:「古河市史」)。
古河公方家は天正11(1583)年の足利義氏の死によって断絶。そのため、奉公衆たちは足利義氏の娘・足利氏女を奉じて足利家の存続を図った。その後、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉のはからいによって、古河公方にとってはかつての宿敵である小弓公方の血を引く足利国朝(下野国喜連川に所領を賜った)と結婚し、喜連川足利家が創設された。国朝が喜連川に所領を与えられたのは、国朝の姉・足利嶋子(月桂院)が秀吉の側室になっていたためという。
●『與五将軍系図』(「古河市史」)
…簗田良助―+―簗田満助―+―簗田持助―+―簗田成助―+―娘 +―簗田晴助――――簗田持助
(河内守) |(河内守) |(河内守) |(中務大輔)|(相馬室) |(中務大輔) (八郎)
| | | | |
| | | +―娘 +―娘
| | | |(ヲ子々ノ局)|(千葉介親胤妻)
| | | | |
| | | +―簗田高助――+―娘
| | | (河内守) |(相馬妻)
| | | |
| +―娘 +――――――――娘 +―――――――――娘
| (興禅院殿) (安養院殿) ∥―――――足利藤氏
| ∥ ∥ ∥ (左馬頭)
| ∥―――――足利成氏 ∥ 【古河公方】 ∥
| 足利持氏 (左兵衛督) ∥―――――――足利高基――――足利晴氏
| (左兵衛督) ∥ ∥ (左兵衛督) (左兵衛督)
| ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ ∥―――――足利義氏
| ∥ ∥ ∥ (右兵衛佐)
| ∥ ∥ 北条氏綱――+―娘 ∥
| ∥ ∥ (左京大夫) |(芳春院) ∥――――足利氏女
| ∥ ∥ | ∥ ∥
| ∥ ∥ +―北条氏康――娘 ∥
| ∥ ∥ (左京大夫)(浄光院) ∥
| ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ 【小弓公方】 ∥
| ∥―――――――足利政氏――――足利義明――――足利頼淳―――――+―足利国朝
| ∥ (左馬頭) (右兵衛佐) |(右兵衛督)
| ∥ |
+―簗田直助―――――――――娘 +―足利嶋子
(長門守) (伝心院) (月桂院)
∥
∥
豊臣秀吉
一方、古河公方家の足利氏女は足利国朝との結婚後も古河の別邸・鴻巣館に移り住み続けており、夫・国朝との同居はなかったようである。なお、喜連川相馬家の祖として、「相馬近江守」が「於古河表氏女様御守立申上」げ、喜連川家の繁栄に力を尽くしたことが記されており(『相馬家文書』)、靫負の父世代となるか。
喜連川の入口・荒川に架かる連城橋より |
氏女と国朝は夫婦となりながら別居していたことは、古河・小弓両公方家の確執は続いていたのだろう。なお、足利国朝の家老として高修理頭、二階堂主計、三浦左京亮などとならんで「相馬靱負」が見え(『大武鑑』)、おそらく義氏に仕えた相馬靱負と同一人物と思われる。
国朝が文禄2(1593)年に亡くなると、氏女は国朝の弟・足利頼氏に再嫁することになった。それでも喜連川への移住を拒み続けたが、頼氏との間には二人の子が生まれており、長男の喜連川義親が嫡子とされた。ただ、義親も喜連川へ入部せずに古河に住み続け、寛永4(1627)年に藩主になることなく病死した。
寛永7(1630)年、喜連川頼氏が亡くなったことで、亡き義親の子・喜連川尊信が家督を相続。藩主として喜連川へはじめて移住した。靫負はこれに従って喜連川へ移っている(『相馬家文書』)。
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相馬胤晴(1587-1663)
相馬靱負の嫡男。通称は権右衛門、玄蕃。妻は大草四郎右衛門久供娘(古河衆)。
寛永7(1630)年、二代藩主・喜連川頼氏が亡くなったため、嫡孫の喜連川尊信(喜連川義親の嫡男)が三代藩主に就いて喜連川へ移った。相馬家は「相馬靱負」が「寛永始め古河より来」たとあって(『相馬家系譜』)、尊信に随ってきたことがわかる(『相馬家文書』)。
龍光寺の喜連川家廟所 |
喜連川家中は、旧小弓公方家の家臣衆(上総衆)と旧古河公方家の家臣衆(古河衆)の二つの流れが合わさることになったが、男系の小弓公方系の旧臣層が優遇されていたようで、相馬家は古河衆筆頭の家格(三十石)ながら中老に留まっている。また、胤晴は御所・喜連川昭氏の弓の指南役となっている(『相馬家文書』)。
喜連川藩相馬家は、ある一説に拠れば、千葉介胤正の十八代の末裔・千葉新介重胤が下総国守谷に移り住んで「相馬」を称し、その子・義胤が古河公方足利義氏に仕えたという(『栃木の苗字と家紋 上』)が、時代的に見て重胤と義胤の代が逆で混乱が見られる。
寛文3(1663)年3月7日に亡くなった。享年七十七。
妻の大草四郎右衛門娘は宝永5(1708)年9月5日に亡くなった。
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相馬胤道(????-1730)
横町の御用堀 |
相馬権右衛門胤晴の嫡男。通称は玄蕃。母は大草四郎右衛門久供娘(古河衆)。妻は永井喜右衛門娘。
屋敷は喜連川宿の横町南側東から二軒目に間口十四間一尺で建っていた。
右兵衛督氏春に仕え、享保15(1730)年6月7日に亡くなった。
妻の永井氏は宝暦9(1759)年7月23日に亡くなった。
弟・胤明は母方の皆吉家を相続して、皆吉幽軒を称し、久慈郡大子村に住んだ。
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相馬胤将(????-????)
相馬玄蕃胤道の嫡男。通称は靱負。母は永井喜右衛門娘。妻は三浦采女康清娘(上総衆)。
弟は浅沼力右衛門の名跡を継いで浅沼竹五郎(のち吉見)と称した。妹は大田原藩士・鈴木弥市左衛門に嫁いだ。
妻の三浦氏ははじめ高瀧氏を称しており、上総国市東郡高滝郷(市原市高滝)を本貫とする三浦一族と思われる。
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相馬胤知(????-1767)
相馬靱負胤将の嫡男。通称は権右衛門、玄蕃(?)。母は三浦采女康清娘(上総衆)。妻は皆吉立碩(皆吉勝富)娘。
鼈甲垣(六代藩主茂氏の考案) |
宝暦6(1756)年10月、勘定所から「相馬玄蕃殿」へ知行改が渡されており(『相馬家給地取米永書き抜き帳』)、時代的には胤知の代となるか。
明和4(1767)年正月2日に亡くなった。
岳父の皆吉立碩は、相馬玄蕃胤道の弟・皆吉幽軒胤明の婿養子で久慈郡大子村の郷医。娘の胤知妻は寛政9(1797)年7月23日に亡くなっている。胤知妻の兄・皆吉立膽胤長は享保18(1733)年生まれで、大子村の郷医として活躍。天明8(1788)年4月15日に亡くなった。享年五十六。
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相馬盈胤(????-????)
相馬権右衛門胤知の嫡男。通称は定之進、玄蕃。母は皆吉立碩(皆吉勝富)娘。
天明6(1786)年11月25日、藩主喜連川恵氏の嫡男・亀若丸の御前にて黒駒蔵人より、亀若丸の指南役を仰せ渡された(『相馬家文書』)。
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相馬與胤(????-????)
相馬玄蕃盈胤の子か。通称は玄蕃允、藤内。近習、御側御用人、中老。
天保期、藩主・喜連川煕氏のもと藩政改革が行なわれ、その際に家中の格式も厳しく定められた。喜連川家は足利家の末裔という家柄のため、その家格・規律に対して過度なほど気を配っていた。これに対し、その格式について書き留めた覚書が記された。天保13(1842)年4月、相馬家においても覚書が書かれた(『天保十三年寅年中老給人格式覚』)。
逸見丹波の碑 |
弘化5(1848)年正月の役高帳によれば「相馬玄蕃允」は「五拾壱石」を領していた(『弘化五年正月家中役高改め直書』)。これは家中筆頭の上総衆・二階堂出羽(四百石)、次席の逸見丹波(二百二十五石)に次ぐ家中第三位の石高であり、古河衆筆頭でもある。
嘉永2(1849)年3月19日、藩主・喜連川煕氏より與胤へ、日ごろから演武場会日に不参加の藩士が多いことに落胆し、「家臣は皆是勲功之子孫ニて、某職分行届キ不申候得は、相互ニ 先祖之令名を穢、家法取乱可申戦慄之至ニ候」と嗜め、さらに「武芸は武士之職分故、演武城え罷出武術一芸は急度相嗜可候」とする直書を重役を通さず、側用人である與胤へ下し、 與胤はこれを写して重臣諸家へまわし、25日までに承服の者は姓名を記して藩庁へ差出し、異見の者は與胤まで意見書を提出するよう指示。二階堂下総、逸見丹波、大草仲、黒駒能登、渋川帯刀以下二十五名の人々が承服の返答を提出。與胤が写し取って各家へ配布した。そのうちの一人に「相馬隼人」の名が見えるが、子の相馬隼人音胤である(『相馬家文書』)。
安政2(1855)年5月27日、與胤は眼病のため、養嗣子の正胤に連れられて隣領主・福原家の家臣・柳田幸左衛門方に寄宿している。
また、「相馬玄蕃允殿」は、藩の重臣で学者でもある大草仲の筆子塾の塾生でもあり、安政5(1858)年8月の『出入筆子姓名帳』に名が見える。住所は「横町」とある。また、一族の「皆吉立碩殿」も塾生で馬場町に住んでいた。この皆吉立碩は大子村の郷医・皆吉家の末裔であるが、実名は不明。皆吉家の系譜には、皆吉立碩胤忠の孫にあたる皆吉胤誠が「喜連川皆吉家」を継いだことが記されており、胤誠が「立碩」を称したと考えられる。
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相馬音胤(1822-1850)
喜連川宿跡 |
相馬玄蕃允與胤の子。通称は友太郎、隼人。妹は一族の皆吉胤誠の妻となる。
天保11(1840)年11月、藩公・翰林館に入校した。このとき「相馬友太郎」とあり、初名は友太郎を称していたと思われる。彼の前年に入校した二階堂主殿貞明は、のちに家老となり藩政を牛耳る。
嘉永3(1850)年11月、二十九歳の若さで亡くなる。
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相馬正胤(????-????)
相馬玄蕃允與胤の養子。通称は辰八、定之進、茂三郎、小次郎。初名は正栄。喜連川藩用人。幕末、明治期喜連川の名士である。
喜連川御殿跡 |
嘉永7(1854)年2月晦日、相馬玄蕃允與胤の養子となり、通称の「辰八」を「相馬定之進」と改めた。
3月9日、與胤とともに親類縁者はもとより知人などに挨拶回りをし、4月17日、「源正栄」を「平正胤」と改めた。4月20日、出勤願いを提出、23日に登城して給人席に任じられ、「御見廻り」見習を仰せ付けられる。その後、「両君(喜連川煕氏、喜連川紀氏)」に初御目見えを果たした(「相馬家文書」:『喜連川町史』第六)。
閏7月21日には、浅沼友右衛門の一旨流槍術に入門し、その後は、使者や奉行、目付等を勤めている。
安政2(1855)年8月8日、嫡男・相馬熊太郎が誕生した(『相馬家文書』)。
安政3(1856)年6月21日、正胤の「養方之姪皆吉立碩次女」が亡くなったため、同席の浅沼友右衛門を以て忌引の口上書を提出している(『相馬家文書』)。この「皆吉立碩」は正胤の義弟(妻は相馬玄蕃與胤娘)にあたる「皆吉立碩胤誠(誠胤)」と思われ、皆吉家は相馬家と代々縁組を行って親密な関係にあった。
11月22日、水戸藩主徳川慶篤の御簾中・線姫(有栖川宮幟仁親王王女・徳川家慶養女)が7日に亡くなったことが喜連川に伝えられると、正胤は「茂三郎」または「孫六」のいずれかへの改名願いを提出し、茂三郎と改めた。さらに安政5(1858)年末以降、小次郎と改名する。
文久2(1862)年5月、藩侯・左兵衛督喜連川宜氏が病死したため、その死を隠しつつ急遽養嗣子のあてを探した。こうした中、喜連川義親以来親交のあった水戸藩に白羽の矢が立ち、水戸藩老公徳川斉昭の子・松平昭縄が養嗣子に決定し、喜連川へと迎えられた。「相馬小次郎」は御目付として御迎えに列している(『相馬家文書』)。しかし、この新藩侯・喜連川縄氏(松平昭縄改め)は、まだ十九歳と年若く政治に未熟であった上、生来病弱であったことから、逸見丹波、二階堂主殿助、渋川大隅ら家中重臣の専横を招くこととなった。重臣たちの専横は宜氏の代からすでに始まっていたと思われ、縄氏が喜連川へ国入りした直後、縄氏へ祝いを言上すると同時に重臣衆を痛烈に批判した上申書を提出した医師「皆吉立碩」が「不忠」として、永牢および妻子離散の処分を受けた(『相馬家文書』)。皆吉家の本家は水戸藩領太子村の郷医であり、水戸藩とも深く関わる医師であった。
こうした逸見、二階堂らの上級重臣層の専横に対して、同年10月、渋江与市右衛門、浅沼友右衛門、大草仲、相馬小次郎ら計六名の重臣は二階堂安芸貞明、二階堂主殿貞則らを糾弾して「永御暇」を仰せ付けられた(『相馬家文書』)。彼らはいずれも古河系の重臣であることから、上総系重臣層である二階堂氏、逸見氏とは代々溶け合わない感情的なしこりもあったと思われる。この逸見丹波や二階堂父子の専横は家中からも非難が強く、正胤ら六名は翌文久3(1863)年には帰参が認められた。
文久4(1864)年2月、正胤は天保13年に認められた格式覚書を書写している。同年7月には御馬廻組頭だった(『相馬家文書』)。
慶応3(1867)年、二階堂父子は隠居に追い込まれ、古河衆・大草仲が代わって家老職に就任。7月、二階堂父子が藩主・喜連川縄氏が会津藩と内通しているとして、密かに横山将監を官軍陣所へ遣わして訴え出たが、官軍の因幡鳥取藩隊長・高塩又四郎はもとは喜連川藩の出であり、学問を志して上方へ赴いた際に故あって因幡鳥取藩池田公の人数に加わって下向していた。
喜連川藩政庁跡 |
7月11日、高塩又四郎は疑問を抱いて喜連川藩を調査するべく、同じく官軍の佐賀藩士・中島彦九郎を同道して7月15日、喜連川御所を訪れて殿中に重役一同を集め、二階堂父子の訴状を示して問いただしたところ、二階堂父子の讒訴が発覚。二階堂父子ほか企てに加わった者は8月13日、処刑された。このうち、計画を主導した二階堂主殿助貞明は梟首されている。
慶応4(1868)年4月17日、塩谷郡大槻村(矢板市大槻)と鷲宿村(さくら市鷲宿)の人々が山林に集まって暴動を謀っているとの報が喜連川に寄せられた。これを受けた藩主・喜連川縄氏は「相馬小次郎平正胤」を大槻村に、「金崎内蔵源義比」を鷲宿村にそれぞれ出兵を命じた。両名は大砲一門と銃卒十人を率いて近隣まで進軍し、空砲を放って示威した。これにより、集まっていた群集は逃散したため、金崎義比は翌18日に喜連川に帰還した。一方、正胤は夜、乙畑村(矢板市乙畑)に宿陣し、翌18日に鷲宿村に入る予定だったが、義比の帰還を知った暴徒がふたたび挙兵を企んだ。しかし、正胤は彼らの背後に出たため、暴徒はふたたび逃げ散った。これを受けて正胤も喜連川へ向った。
明治に至り、「養父亡藤内 相馬正胤 旧名小次郎」永世家禄米十三石を給わる(『喜連川居住士族明細書』:「喜連川町史 資料編4」)。
明治22(1889)年8月1日より喜連川区長(第三区)となる。
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茨城県在住の方
あさくらゆう様
●おもな参考資料●
『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
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