矢作国分家

国分氏

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国分常義(????-????)

 矢作国分氏初代惣領。父は国分家初代惣領・国分五郎胤通。通称は六郎千葉介常胤の孫にあたる。

⇒国分胤通―+―常通―――常朝―――――重常――――――胤重――――――胤連――…
(五郎)  |(二郎) (小次郎)  (小次郎太郎) (余五郎)   (彦五郎)
      |
      +―常義―+―胤実―――――胤長――――――泰胤――――――胤氏
       (六郎)|(六郎太郎) (又太郎)   (彦次郎)   (彦六郎)
           |
           +―山辺常氏…建長3(1251)年、将軍・頼経に荷担して所領を没収される
           |(六郎次郎左衛門尉)
           |
           +―胤義―――――定胤――――――長胤
           |(平太)   (平太六郎)  (又六郎)
           |
           +―行常―――――行泰――――――■■――――――亀王丸―――竹王丸
            (六郎)   (五郎七郎)  (七郎五郎)  (彦五郎)
                       ⇒常泰カ?

 

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国分胤実(????-????)

 矢作国分氏二代惣領。父は国分六郎常義。通称は六郎太郎

 

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国分胤長(????-????)

 矢作国分氏三代惣領。父は国分六郎太郎胤実。通称は又太郎

 仁治2(1241)年、千葉介頼胤(亀若丸)が三歳の幼さで家督を継いだため一族とともに後見人を務めたとされる(『千葉大系図』)

 子には胤村・泰胤・通胤があったとされ、長男の胤村「外戚春秋」氏を継承したとあり、常陸大掾一族・春秋氏と国分氏が縁戚関係にあったと推測される。

 

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国分泰胤(????-????)

 矢作国分氏四代惣領。父は国分又六郎胤長。通称は彦次郎。北条泰時から「泰」字の偏諱を受けたか?

 

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国分胤氏(????-????)

 矢作国分氏五代惣領。父は国分彦次郎泰胤。養母は西阿尼(国分五郎七郎常泰後家尼)。通称は彦六郎。官途は遠江守。法名は契道

矢作城
矢作城址と本命寺

 永仁6(1298)年12月23日、国分五郎七郎常泰の後家尼・西阿『関東下知状』を給わったようで、胤氏を幼少より養子とし、證文などを相そえて、大戸庄岩崎村内(佐原市岩ケ崎)の知行地を譲渡した。この地を岩崎の積善庵へ五十貫文で売り渡した證文が、貞治3(1364)年4月8日に、「参河守胤詮」「沙弥契道」の連署で発給されている貞治3(1364)年4月8日『国分胤詮・沙弥契道連署田地売券』

 この文書の「国分五郎七郎常泰」は系譜には見られないが、「国分五郎七郎」については、矢作六郎行常の子として「五郎七郎行泰」が記されており、「五郎七郎常泰」と同一人物かもしれない。その後家尼は永仁6(1298)年に大戸庄内の知行を受けており、常泰はそれ以前に亡くなっている。

 元応2(1320)年3月28日、幕府の役人・伊豫守某が香取神主「大中臣実秋」からの訴えに基づいた文書を「千葉新左衛門尉(千葉新左衛門尉胤高)」へ伝えた『伊豫守某奉書』があるが、この中で某年の祭神物を納入しなかった人物として、「国分彦五郎」らが記されている。この「彦五郎」は国分氏の嫡流・常通流の国分彦五郎胤連、もしくは国分六郎行常の曾孫・亀王丸(彦五郎)か。

 貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』によれば、「下総国東庄上代郷内土持、河嶋、原井渡野辺源内兵衛入道等跡」について、金沢称名寺雑掌・円爾の訴えが鎌倉府にもたらされた。その内容は、下総国東庄上代郷内の土地が「東弥六(東胤義)」「海上八郎入道(海上公胤)」によって押領されていることにつき、「大須賀越後守(大須賀宗信)」「国分遠江守(国分胤氏)」「使節」として、観応元(1350)年5月19日の御下知・奉書・渡状の書面内容の通り、厳密に沙汰すべきことを命じている。「大須賀宗信」「国分胤氏」は鎌倉府に命じられた「使節」であったわけで、下総国の守護代的存在であった可能性がある。

 
  金沢称名寺領――――――雑掌円爾――<訴訟>――→鎌倉府
 [東庄上代郷内四箇所]                |
    ↑                      |
   <押領>                    <使節>
    |                      ↓
 東胤義・海上公胤←―――――<厳密沙汰>―――国分胤氏・大須賀宗信
 

 ただし、貞治3(1364)年4月8日『国分胤詮・沙弥契道連署田地売券』によれば、貞治3(1364)年の時点で胤氏はすでに「沙弥契道」を称していたにも関わらず、その翌年の貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』では「国分遠江守」とあるのは、鎌倉府の情報が古かったためか。

●千葉新左衛門略系譜

⇒千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介胤綱――千葉介時胤――千葉介頼胤―+―千葉新介宗胤
(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)  (千葉介)  (千葉介)  |(亀若丸?)
       |                            |
       +―三谷胤広―――千葉胤義                +―千葉介胤宗
       |(四郎)   (四郎太郎)                (亀弥丸?)
       |
       +―神崎師胤―+―小松為胤―――千葉佐胤
       |(七郎)  |(四郎)   (四郎太郎)
       |      |
       |      +―和田胤長―――千葉長頼―――千葉胤高
       |       (六郎)   (六郎太郎) (新左衛門)
       |
       +―白井胤時―――千葉胤定
        (八郎)   (九郎)

●国分彦五郎略系譜

         【大戸国分惣領家】
⇒国分胤通―――+―常通――――――常朝―――――重常――――――胤重――――――胤連――…
(五郎左衛門尉)|(二郎左衛門尉)(小次郎)  (小次郎太郎) (余五郎)   (彦五郎
        |
        |【矢作国分家】
        +―常義――――+―胤実―――――胤長――――――泰胤――――――胤氏
         (六郎)   |(六郎太郎) (又太郎)   (彦次郎)   (彦六郎)
                |
                +―山辺常氏…建長3(1251)年、将軍・頼経に荷担して所領を没収される
                |(六郎次郎左衛門尉)
                |
                +―胤義―――――定胤――――――長胤
                |(平太)   (平太六郎)  (又六郎)
                |
                +―行常―――――行泰――――――■■――――――亀王丸―――竹王丸
                 (六郎)   (五郎七郎)  (七郎五郎)  (彦五郎
                         ⇒常泰カ

●元応2(1320)年3月28日『伊予守某奉書』

 香取神主實秋申■■元年祭神物事、重申状如此、千葉弥次郎、国分彦五郎、多田又四郎、
 同弥九郎女子、不応召符之間、先度雖仰下、無音云々、不日加催促、可被申左右之状、
 依仰執達如件、
 
   元応二年三月廿八日     伊豫守(花押)
 
     千葉新左衛門尉殿
 

●貞治3(1364)年4月8日『国分胤詮・沙弥契道連署田地売券』

 依有要用永代売渡壱■■■■■■■■■■坪付在別紙之事
 
 右田在家者、下総国大戸庄岩崎村内也、件田地者、国分五郎七郎常泰後家尼西阿
 永仁六年十二月廿三日給御下知状後、無知行相違、彼西阿胤氏法名契道幼少為養子
 證文等相副、件田在家所譲得也、而岩崎接持積善庵限永代、直銭五拾貫文所売渡実也、
 但永仁六年御下知以下證文置失候、出来候者、追可進候、雖彼状失候、為此状證文、
 御知行不可有相違候、将又西阿跡文書、雖為契道子孫親類他人等中、令持参致違乱仁出来候者、
 可為盗人、上様守護御方御披露候而、罪科可被申行、雖成銭貨不足候、為所且接待間、
 奉売上者、契道菩提可訪給、背此状、彼田地致違乱煩於子孫等者、為不孝仁、契道跡不知行、
 次西阿跡田在家令若相違事候者、契道本知行青根村内菱崎在家、同田壱町相副、限永代、
 接待所可被知行候、為後日證文売渡状如件、
 
    貞治三年甲辰卯月八日       参河守胤詮(花押)
                     沙弥契道 (花押)
 

●貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』

  金沢称名寺雑掌円爾申、下総国東庄上代郷内土持、河嶋、原井渡野辺源内兵衛入道等跡事、
  訴状如此、東弥六、海上八郎入道押領云々太無謂、所詮、大須賀越後守相共莅彼所、
  任観応元年五月十九日御下知奉書、渡状等之旨、厳密沙汰付下知於寺家雑掌、
  可執進謂取之状。若不承引者載起請之詞可被注申、使節緩怠者可有其咎之状、
  依仰執達如件、

    貞治四年十二月廿六日   沙弥(花押)
      国分遠江守殿

 

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国分胤詮(????-????)

 矢作国分氏六代惣領。父は国分遠江胤氏入道契道。母は不明。官途は三河守。法名は寿観

大龍寺
宝雲山大龍禅寺

 寿観千葉介満胤の直臣である中村氏が香取大社御神領における濫妨などに対抗するため、大須賀氏東氏木内氏など有力庶子家とともに「一族一揆」を結成した。それまで、千葉介が幼少のころには有力一族が後見を勤めるならわしがあったが、満胤は長ずるに及んで、彼ら一族ではなく直臣である中村胤幹などを重用し、中村氏などは満胤の威勢を背景に香取神領代官として香取大社の神領を横領したり、神官を追い出したりといった濫妨を行うようになった。

香取神社本殿
香取神社本殿

 貞治7(1368)年3月、一族一揆の沙弥壽歓観(国分胤詮)はじめ沙弥聖応大須賀宗信)、沙弥聖阿(木内胤康か)、沙弥宏覚東胤秀)、沙弥禅広東胤光)は一族一揆の目的成就を香取社に祈願しており、応安7(1375)年8月9日には、千葉介満胤の押領を停止するべく、鎌倉府は大隅次郎(千田氏か)、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道(壽観)、同六郎兵衛入道、同越前五郎、同余一、東次郎左衛門入道(宏覚)、木内七郎兵衛入道殿(聖阿?)、神崎左衛門五郎、那智左近蔵人入道に命令した。

 ここに見える「国分三河入道」は胤詮入道寿観と思われ、「六郎兵衛入道」は胤詮の叔父・小六郎胤任、「越前五郎」は国分越前五郎時常、「与一」は胤詮叔父・国分与一氏胤と思われる。

 胤詮は鎌倉の壽福寺住持・大航慈船禅師を大戸庄に招き、臨済宗黄龍派の宝雲山大龍寺を開山した(『千葉日報』平成11年1月20日「千葉氏探訪」)。この大龍寺は矢作国分氏代々が寄進状を出して寺領を安堵していた寺院で、矢作国分氏の菩提寺となっている。 

貞治3(1364)年4月8日『国分胤詮・沙弥契道連署田地売券』

 依有要用永代売渡壱■■■■■■■■■■坪付在別紙之事
 
 右田在家者、下総国大戸庄岩崎村内也、件田地者、国分五郎七郎常泰後家尼西阿
 永仁六年十二月廿三日給御下知状後、無知行相違、彼西阿胤氏法名契道幼少為養子
 證文等相副、件田在家所譲得也、而岩崎接持積善庵限永代、直銭五拾貫文所売渡実也
 但永仁六年御下知以下證文置失候、出来候者、追可進候、雖彼状失候、為此状證文、
 御知行不可有相違候、将又西阿跡文書、雖為契道子孫親類他人等中、令持参致違乱仁出来候者、
 可為盗人、上様守護御方御披露候而、罪科可被申行、雖成銭貨不足候、為所且接待間、
 奉売上者、契道菩提可訪給、背此状、彼田地致違乱煩於子孫等者、為不孝仁、契道跡不知行、
 次西阿跡田在家令若相違事候者、契道本知行青根村内菱崎在家、同田壱町相副、限永代、
 接待所可被知行候、為後日證文売渡状如件、
 
    貞治三年甲辰卯月八日       参河守胤詮(花押)
                     沙弥契道 (花押)
 

貞治4(1365)年閏9月4日『三河守胤詮宛行状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)

   大戸庄まきのヽ村地蔵堂田地事、
 
 右、彼於地蔵堂田地者、所宛行三位坊也、於公役御きたうに者、任先例、可有其沙汰之状、如件、
 
  貞治四年閏九月四日
 
             参河守(花押)
  

貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 任建永承元御下知、御神領之事、無子細可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、

    貞治七年三月二日        沙弥誓阿(花押)
                    沙弥宏覚(花押)
                    沙弥禅広(花押)
                    沙弥寿観(花押)
                    沙弥聖応(花押)

貞治7(1368)年3月『聖応等連署安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 任代々御下知之旨、長房所領小野、織幡、葛原次十二ヶ村散在、犬丸、金丸以下村々
 或云下知、或云所務屋敷田畠等事、依為御神領、悉可被還付長房由、総州方江可口入申候、
 仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、
      貞治七年三月 日        沙弥誓阿(花押)
                      沙弥宏覚(花押)
                      沙弥禅広(花押)
                      沙弥寿観(花押)
                      沙弥聖応(花押)
  

応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取神輿御帰座事、可致警固之状、依仰執達如件、

    応安七年四月二十五日     沙弥(在判)
     大須賀左馬助殿

    国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿 四通同前、

応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社警固事、先立 神輿御帰座時被仰了、所詮神領静謐之程、可被致警固之状、
 依仰執達如件、

   応安七年六月五日     沙弥(在判)
    大須賀左馬助殿

   国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿 四通同前、
 

応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、所被仰両使也、
 早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件、

   応安七年八月九日     沙弥(在判)
    木内七郎兵衛入道殿

 大隅次郎相馬上野次郎大須賀左馬助国分三河入道同六郎兵衛入道同越前五郎
 同与一東次郎左衛門尉木内七郎左衛門入道神崎左衛門五郎那智左衛門蔵人入道同文書

 

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平長胤(????-????)

 国分一族または木内氏、千田千葉氏か。父は平浄心貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』などに見える「総州」だろう。

 父・浄心の謂れは不明だが、貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』によれば、浄心は「世以無其隠者」という評価をされる人物で、「去々年貞治五之秋、竹壽丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之畢」と、貞治5(1366)年秋に鎌倉府から竹壽丸(千葉介満胤)の補佐を命じられている。さらに、「一族一揆」の中心的人物であったろうことが同書後半貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』からうかがえる。

 浄心と長胤は、「一族(誓阿・宏覚・禅広・寿観・聖応らと思われる)とともに、竹寿丸の直臣である中村氏「氏政円城寺図書允らと「取弓箭動干戈」ほどの激しい対立をしていた構図が見て取れる。

香取神社本殿
香取神社本殿

 貞治7(1368)年3月11日『平長胤安堵状』に記されている香取社の知行地名「小野・織幡・葛原十二ヶ村散在、犬丸・金丸以下村々」は、貞治7(1368)年3月某日『聖応等連署安堵状』と同じであり、長胤は国分三河守胤詮とほぼ同時期の人物と思われる。さらに、『平長胤安堵状』には「任代々御下知及老父浄心所為之旨、或云下地、或云所務、所沙汰付」とあるように「代々御下知状」に加えて「老父浄心」の意向に任せて香取神主・大中臣長房に沙汰すべきことが記されている。

 一方、『聖応等連署安堵状』には「代々御下知之旨」に任せて、村々・田畠を長房に還付すべきこと(中村胤幹・円城寺氏らの香取社領押領に対して)が記されている。

 この中に「総州方江可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件」とあることから、『聖応等連署安堵状』誓阿・宏覚・禅広・寿観・聖応ら千葉一族一揆は、「総州」なる人物に口入をし、「総州以下一揆」の所願成就を願ったものと考えられる。

 長胤は一族一揆の「一揆御契状」を見、「尤可然存候」という返事貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』を香取神社に発給しており、浄心・長胤の父子は、香取社・千葉一族らからも一目置かれるような大きな存在の人物であったことがうかがえる。

貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 長房所領等事、一揆御契状見候了、尤可然存候之間、御沙汰之時、
 
 可心得申候、就中当国安全祈祷事、殊以可令致精誠給之状如件、
 
   貞治七年三月六日   平長胤(花押)
 

貞治7(1368)年3月8日『平長胤施行状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 香取大禰宜長房申、中村入道生阿等押領之地事、御神領之条、文明明白也、
 
 然早任老父浄心所為之旨、上載落居之間、無所残所沙汰付下知於社家也、
 
 仍奉帰座神輿、付公私可令致祈祷精誠給之状如件、
 
   貞治七年三月八日       平長胤(花押)
 

貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

  下総国千田庄多古郷内田地壱町事、
 
 右当社者、本朝無双之地、別者当国有縁之神、霊験異于他、誰不奉欽仰哉、
 
 爰生阿故中村入道為別駕之旧臣、為当所之政所、勤誇其権威、恣令押地神領、是故社人等、
 
 為達鬱訴於上聞、奉出神輿於仮殿、其間之星霜良積四ヶ年也、不測去々年貞治五之秋、
 
 竹壽丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之畢、世以無其隠者也氏政円城寺図書允以下之輩、
 
 非蔑如上裁而已、対于一族浄心、取弓箭動干戈、是又三ヶ年也、次幹胤中村式部丞押寄宮中、
 
 依致合戦射立箭於神輿、令放火於あさめ殿、加之在々所々之神社仏事等、或逢破損之難、
 
 或稟回録之事、因茲田地者荒廃、黎民者失堵歟、世縦及澆季、神鑑争不至哉、冥慮不空、
 
 賞罰分明者、罰逆心、守当家、古語曰、神安者人即安、国安者民即安、文、測知神輿帰本座者、
 
 人又如元安穏歟、御帰座之費、其料分抜群也、為退散幹胤、令進発之間、依陣中忩劇、
 
 銭貨不足之餘、為償彼大営、所寄附小所也、微者著之始、小者大之赴也、志之所之、
 
 唯仰明鑑耳、就中神之為神者、依人之敬也、人之為人者、依神之助也、
 
 彼志趣全非限長胤父子息災竹壽一揆之仁、兼又国土安全、万民快楽、
 
 寄進之状如件、
 
   貞治七年三月 日   平長胤(花押)
 

貞治7(1368)年3月11日『平長胤安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 香取社人長房申、小野、織幡、葛原十二ヶ村散在犬丸金丸以下村々屋敷田畠等事、
 
 任代々御下知及老父浄心所為之旨、或云下地、或云所務、所沙汰付長房之状如件、
 
   貞治七年三月六日   平長胤(花押)
 

某年3月11日『平長胤施行状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 長房実公知行分香取内相根村神物以下所務事、如先々致其沙汰、
 
 御神事無退転可令勤仕之旨、自鎌倉所被申下候也、存其旨可有沙汰候、
 
 恐々謹言、
 
      卯月十五日    長胤(花押)
 

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