【国分氏について】【松沢国分惣領家】【村田国分氏】【矢作国分惣領家一】【矢作国分惣領家二】
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国分忠胤(????-????)
矢作国分氏惣領七代。父は国分三河守胤詮。通称は三河守。
応永23(1416)年の上杉禅秀の乱に、千葉介胤直に属して出陣した(『千葉大系図』)。
弟・民部少輔胤重は、永享10(1438)年8月に起こった永享の乱(鎌倉公方・足利持氏が謀反したと、関東管領・上杉憲実が幕府へ訴えた)では、千葉介胤直に従って参戦した(『千葉大系図』)。
応永2(1395)年3月22日に観福寺地蔵堂免寄進について発給した文書は、差出人が「三河」となっており、国分氏の当主であろう事が推測される。しかし「三河守胤詮」とは明らかに花押の形が異なっており、時代的に見て忠胤であろうと推測される。
●応永2(1395)年3月22日『三河守某寄進状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
国分憲胤(????-????)
矢作国分氏惣領八代。父は国分三河守忠胤。通称は三河守。
憲胤の「憲」は上杉家の「憲」かもしれない。国分氏は大須賀氏と並んで鎌倉府から「守護代」的な役割を担っており、憲胤も上杉氏との接触があったとも考えられる。
享徳3(1454)年12月、将軍・足利義政は古河公方・足利持氏の追討を関東の諸将に命じたが、憲胤は関東管領・上杉憲実(幕府方)に味方した千葉介胤将に従い、鎌倉で奮戦した(『千葉大系図』)。
国分之胤(????-????)
矢作国分氏惣領九代。父は国分三河守憲胤。通称は宮内少輔。法名は奇岩。
応仁2(1468)年閏10月2日、証書を以って大戸庄山野辺村権現社の社領を寄進した。また、文明年中には妙性寺(佐原市大崎)の開基となったという(『千葉日報』平成11年1月20日「千葉氏探訪」)。
文明4(1472)年正月吉日『国分之胤安堵状』によれば、香取神社の別当職について、大禰宜大中臣胤房の職掌であることを証しており、之胤は守護代的な立場にあったことがうかがえる。
臼井城の太田図書資忠墓 |
上杉氏(幕府に荷担する関東管領)と古河公方(旧関東公方)の対立は、周辺諸将も巻き込んでの大戦乱となり、文明11(1479)年正月、上杉方の太田道灌・千葉介自胤(武蔵千葉氏)は下総国へ侵入し、これを迎え撃った千葉介孝胤(古河公方方)の軍勢と下総国境根原(柏市酒井根)で激戦を繰り広げたが、この境根合戦は上杉氏方の大勝利で終わり、千葉介孝胤は木内氏などの重臣を多く失って臼井城へと退いた。
臼井城は千葉介家の本拠地・佐倉城(本佐倉城)の最前線の基地であり、ここを落とされると佐倉城は丸裸となってしまうため、千葉介孝胤は臼井城の防備を固くし、一族たちも臼井城の防備に参戦し、国分之胤もこれに加わったようである。臼井城主・臼井備前守俊胤は歴戦の知将であり、彼の策略にかかった太田図書資忠(太田道灌弟)は誘い込まれて討死し、上杉勢は武蔵国へ逃れた。このとき討ち取られた太田資忠は孝胤の手によって丁重に葬られ、墓は臼井城内に現在も残っている。
応仁3(1469)年11月吉日『国分之胤神田職補任状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
文明3(1471)年7月吉日『国分之胤安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
文明4(1472)年正月吉日『国分之胤安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
国分胤盛(????-????)
矢作国分氏惣領十代。父は国分宮内少輔之胤。通称は宮内少輔、近江守。法名は月宗。
文明4(1472)年12月15日『国分胤盛安堵状』によれば、「牧野辻坊」については、「先規任御判」せて「諸御公事停止」を証明している。公事について言及しており、父・国分之胤同様に守護代という立場にあったものか。また、明応9(1500)年4月19日『国分胤盛安堵状』においても、香取神社の神領内における神官領主の死亡・逃亡のあとにおける処理は、「代々御下知御教書並満胤之御判形之旨」の通りに、「香取社大禰宜」が行うべきことの証文を発給している。
永正元(1504)年11月15日、大戸庄山野辺村篠山御坊田畠など、先規の寄進状に任せて「大弐阿闍梨」へ発給している。
永正14(1517)年ごろに起こった小弓城争奪戦(足利義明・真理谷武田氏×原胤隆一族)では、千葉介勝胤(入道輪覚)に従って足利義明勢と戦ったようである。
文明4(1472)年12月15日『国分胤盛安堵状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
文明17(1485)年8月6日『国分胤盛坊職補任状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
文明19(1487)年閏11月23日『国分胤盛安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
明応9(1500)年4月19日『国分胤盛安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
永正4(1507)年9月11日『国分胤盛安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
文明11(1514)年3月21日『国分胤盛寄進状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
永正17(1520)年閏6月日『国分胤盛屋敷寄進状写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
国分胤景(????-????)
矢作国分氏惣領十一代。父は国分近江守胤盛か。通称は左衛門尉、宮内太輔。のち三河守胤相と改めた。
宝雲山大龍禅寺 |
胤景には目だった活躍はないが、残された文書から、香取社との深いかかわりを見ることができる。また、永正2(1505)年8月11日『国分胤景証状』には、「蔑如同名民部大輔僻事而」とあり、民部大輔と胤盛・胤景親子の間で何らかの対立があったことがわかる。この書状は、胤景が香取社神主が成人したことにあわせて、押領されていた相根村(佐原市大根)を香取社に返還し、一族の繁栄などを願ったものであり、国分民部大輔はこの押領に加担していたとも考えられる。また、「同名民部大輔」とは、明応9(1500)年2月18日『国分直胤寄進状』の「国分民部大輔直胤」の事であると考えられる。国分胤景と直胤の系譜関係はわからないが、直胤は国分惣領家に所縁の深い大龍寺領である田一反を三貫文にて買い取り、「妙久禅尼」の菩提のために大龍寺に寄進している。
七代惣領・三河守忠胤の弟に、民部少輔胤重という人物があったと『千葉大系図』は伝えている。同書によれば、胤重は永享10(1438)年8月に起こった永享の乱(鎌倉公方・足利持氏が謀反したと、関東管領・上杉憲実が幕府へ訴えた)では、千葉介胤直に従って参戦したとされている。民部大輔直胤・民部丞胤信はいずれも胤重の子孫なのかもしれない。
胤景の代、直胤のほかにも惣領家とは別の流れ(比較的近い一族と思われる)の国分氏が発給した文書が多く残されている。
(1)国分大衛(大崎?)六郎胤久 |
⇒永正14(1517)年7月5日「雲山悦公庵主」の菩提のために、大龍寺に田一段を寄進する。 |
(2)国分民部丞胤信 |
⇒大永3(1523)年2月16日「しゆんかう」の菩提のために、大龍寺に田一段を寄進する。 |
明応9(1500)年2月18日『国分直胤寄進状』(『房総古文書雑纂』所収)
永正2(1505)年8月11日『国分胤景証状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
永正2(1505)年11月21日『国分胤景住持職補任状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
永正15(1518)年9月21日『国分胤景・朝胤連署證文』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 香取文書』所収)
大永8(1528)年7月27日『国分胤相寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
国分朝胤(????-1550)
矢作国分氏惣領十二代。父は国分左衛門尉胤景。通称は五郎、左衛門五郎、宮内大輔。法名は江岩艇公居士。
国分氏の菩提寺である大龍寺の住持・大蟲禅師が天正2(1574)年4月(甲戌年)、「江岩(朝胤の法名)」の二十五回忌の法要に漢詩を贈っている。
永正15(1518)年9月21日『国分胤景・朝胤連署證文』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 香取文書』所収)
天文4(1535)年11月吉日『国分朝胤証状』(『浄光院文書』:『中山法華経寺文書』所収)
天文14(1545)年8月26日『国分朝胤等寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
天文18(1549)年12月27日『国分朝胤寄進状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
某年11月17日『国分朝胤住持補任状』(『観福寺文書』:『千葉県史料 諸家文書』所収)
国分勝盛(????-????)
矢作国分氏惣領十三代。父は国分宮内大輔朝胤。通称は五郎、左衛門五郎。千葉介勝胤(入道輪覚)よりの偏諱にて「勝盛」を称したのだろう。
天文14(1545)年8月26日『国分朝胤等寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
天文18(1549)年10月吉日『国勝盛安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
天文18(1549)年10月吉日『国分勝盛安堵状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
国分胤憲(????-1562)
矢作国分氏惣領十四代。父は国分宮内大輔朝胤。通称は大膳大夫。
宝雲山大龍禅寺 |
胤憲は弘治3(1557)年、宝雲山大龍寺(佐原市与倉)の中興開山として伊勢国の江南殊栄を招き、その弟子・大蟲宗岑を住職とした。この大蟲禅師は江南殊栄に師事する前は快川紹喜国師(武田信玄師)の弟子となっており、同門には虎哉宗乙禅師(伊達政宗師)がいた。快川紹喜の前に師事していたのは太原崇孚国師(今川義元・徳川家康師)であり、いずれも妙心寺住持を勤めた名僧たちだった。
大蟲禅師は會津葦名氏の帰依を受けて奥州へ下っていたが、胤憲はふたたび彼を招いて大龍寺の住持に迎え、禅文化を下総に伝えた。安房里見家の重臣・正木時茂が大須賀氏・国分氏・木内氏を打ち破って東総を抑えた際、時茂は大蟲禅師と交流を持ったと伝えられている。
大蟲禅師は快川ら師匠と同じく京都妙心寺の住持となり、下野国那須の霊巌寺再興につとめて八十八歳で亡くなった(『千葉日報』平成11年1月20日「千葉氏探訪」)。
永禄4(1561)年10月、安房里見家の重臣である上総勝浦城主・正木時忠は下総国に乱入すると、千葉氏の城を次々に落として香取郡小見川富田台に陣取って周辺地域を脅かした。千葉介胤富はこれを防ぐために、「大須賀薩摩丸」に出陣を命じているが、その後、時忠が発給している書状の中に小見川の「大須賀一跡」を占領して「下総悉本意候者(下総国はことごとく思いのままになった)」と言っているところを見ると薩摩丸は敗れ、佐倉とは目と鼻の先の大須賀保まで正木勢が侵入していたと思われる。
12月、正木時忠は小見川相根塚に陣を敷き、翌年1月、原上総介胤貞の居城・臼井城(佐倉市臼井台)と、その子・原式部大夫胤栄が籠る生実城(千葉市緑区)をそれぞれ攻め落とし、3月、里見氏と呼応する長尾景虎の越後勢が千葉氏と同盟を結んでいる北条氏を小田原城に囲んでいた。
3月、国分胤憲は「香取大明神御所領一村」を香取神宮に寄進して戦勝を祈願し、矢作城に籠城して正木氏に頑強に抵抗した。しかし、胤憲は『大蟲禅師語録』によれば、「下総州大崎県矢作城居住大功徳主平氏朝臣胤憲公」が「永禄五年五月二十有日伏植」とあることから、この正木氏との戦いの最中である永禄5(1562)年5月に亡くなったようだ。
正木時忠は、永禄9(1566)年7月、千葉氏との和睦が成立して北総から撤退するが、この前年、下総地域は冷夏であったため翌年の収穫は減少し、飢饉のために千葉氏・正木氏ともに戦争どころではなくなってしまったようだ。
天正4(1576)年10月17日、胤憲老母菊千代女は大龍寺住持の大蟲禅師に一貫二百文の田を寄進している。
・臨済禅妙心寺 ・東海派
⇒雪江宗深―+―悟渓宗頓―+―独秀乾才――快川紹喜―+→武田晴信
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| | +―大蟲宗岑
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| | +―虎哉宗乙
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| | +―南化玄興
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| +―天縦宗受――大宗玄弘―+―岐秀元伯――虎哉宗乙―→伊達政宗
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| +―江南殊栄――大蟲宗岑―→国分胤憲・葦名盛氏
| ・霊雲派
+―特芳禅傑―――登林宗棟――太原崇孚―+→今川義元
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+→松平竹千代
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+―大蟲宗岑
●天文22(1553)年3月10日『国分胤憲起請文』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
●永禄4(1561)年3月吉日『国分胤憲起請文』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)
国分胤政(????-????)
矢作国分氏惣領十五代。父は国分大膳大夫胤憲と思われる。通称は五郎か。官途は大膳大夫。妻は鹿島常陸介治時娘。法名は一翰(『猿田神社史料集』)。
永禄5(1562)年5月、正木時忠との戦いの最中に国分胤憲が亡くなり、胤政が国分家を継承したものと考えられる。
ただし、胤政と同時代の永禄12(1569)年正月17日、北条氏政から「国分兵部大輔」へ宛てて、「武田信玄と今川氏真の合戦はぜひなきものであるが、我等の備えは万全であるのでお心安く、その口(上総との境か?)の防備に専念されるよう」という内容の書状を送られている。この「国分兵部大輔」がいかなる人物かは不明ながら、胤政と近い親族(叔父?)と思われるが、系譜や伝承等に残されておらず断定できない。
また、天正3(1575)年3月13日には、「兵部大輔家中十余人」が香取神領に居座っていたことに対して、東総の支配を実質的に任されていた森山城主・原若狭守親幹は、国分家臣十人の放逐と香取社への出入り禁止などを命じている(天正3(1575)年カ?3月13日『条目』)。この国分兵部大輔は、天正8(1580)年2月10日、古河公方・足利義氏へ年頭の挨拶を行い、白鳥を進上している(『天正八年御年頭申上衆書立写』)。
国分兵部大輔は、天正3(1575)年の香取社からの家人追放処分に対して千葉介邦胤に逆意を持ったようで、天正8(1580)年2月以降、翌天正9(1581)年の間に謀反を起こし、香取郡木内庄に侵入した。これに森山城の原若狭守親幹が兵を向けて鎮圧。千葉介邦胤は天正10(1582)年5月、親幹の戦功を賞して、木内庄小見郷に所領を与えている(天正10(1582)年5月14日『千葉介邦胤判物』)。国分兵部大輔がその後どうなったかはわからないが、国分氏自体に影響は及んでおらず、兵部大輔の単独行動だったのだろう。
胤政と比較的近い血縁にある(弟か)「国分左衛門太郎(胤通)」も胤政と同時代にその活動が見られる。天正5(1577)年2月23日に「国分左衛門太郎」は古河公方・足利義氏に年頭の挨拶で白鳥を進上(『天正五年御年頭申上衆書立写』)。、翌天正6(1578)年正月25日にも白鳥を進上している(『天正六年御年頭申上衆書立写』)。また、左衛門太郎は牛久在番を務め、日ごろから「土岐殿」がいろいろと面倒を見ていたようで、左衛門太郎が在番の任を終えて矢作に帰国するにあたり、「大膳ニも為申聞候、如何様御礼以使可申入候」と、「大膳(胤政)」にも日ごろの懇切な関係を伝え、御礼の使者を遣わしますと感謝の気持ちを伝えている。この「土岐殿」は、牛久の東隣に所領を持っていた江戸崎城の土岐治綱か。
胤政の居城については、『伊能家文書(香取郡矢作領佐原村古来ヨリ覚書)』によれば、
とあり、胤政ははじめ大崎城を居城としていたが、手狭になったうえ守りにも適していないとして、天正12(1584)年頃に岩ヶ崎へ移ったとされている。そして国分氏の没落後は、
と、岩ヶ崎城は「鳥井彦右衛門様(鳥居彦右衛門元忠)」の居城になり、鳥居家の転封後は廃城になったと記されている。
天正17(1589)年、北条氏と豊臣秀吉の合戦直前に記載された関東御仕置が行われた際には、矢作の領主として「小窪五郎」の名が見えるが(『北条家人数付』)、胤政のことだろう。
小田原合戦で北条氏が敗れたのち、国分胤政をはじめとする一族郎党は城を退き、胤政は常陸国鹿島惣大行事のもとへ落ち延びていった。胤政の妻が鹿島領主・鹿島常陸介治時娘だったためだろう。鹿島治時の跡を継いで鹿島惣大行事職を継承した鹿島左衛門夫胤光は胤政の次男である。
胤光の子・五左衛門胤秀は常陸大掾家の流れを汲む「南方三十三館」の一家・中居家を相続した。天正19(1591)年春、佐竹義宣は常陸統一の障害となるこの常陸大掾勢力を一掃しようと、常陸太田城の梅見の宴に「南方三十三館」各当主とその子息を誘い出し、謀殺したが、このとき、中居城主・中居式部大夫秀幹も呼ばれていたために常陸太田城に向かったが、途中で謀殺の報を聞き、佐都という所に逃れたものの討たれた。
この中居式部大夫秀幹の次女が国分氏の流れを汲む関戸氏に嫁いでいる。江戸時代、土井家に150石で仕えた関戸国分氏は中居五左衛門胤秀と親密で、その子・猪右衛門貞幹が土井家中・関戸家の三代当主となっている。
胤政の子である藤兵衛胤次・庄太夫胤久は水戸徳川頼房に仕えるが、子孫は水戸藩附家老・中山備前守(常陸松岡藩主)の家老となった。幕末の慶応2(1866)年、中山備前守信催の家老に国分庄太夫が見える(水戸国分氏)。
胤政の長男・右衛門胤治は鹿嶋に残り、一生仕官する事なく承応元(1652)年に亡くなったが、長男・権右衛門胤光が寛永元(1624)年水戸家へ召し出されている。胤政には権右衛門胤光、理兵衛胤久、おまき(石毛六左衛門茂就妻)、甚五兵衛、新五兵衛三胤の五人の子女がおり、胤光は二百石で藩主・徳川頼房の小姓を務めたのち、書院番などを歴任した。しかし、正保2(1645)年に病に倒れた。鹿嶋でこの知らせを受けた弟の理兵衛胤久はさっそく水戸の国分屋敷へ上がり、胤光の看病に努めたが、本復叶わず三十六歳の若さで亡くなった。
胤久は胤光卒去のため鹿嶋に戻ったが、水戸家から召出しを受けて本知二百石で水戸へ上がった。久下八左衛門直忠の娘を娶り、小十人組士、小十人組頭、新番組などを歴任。寛文9(1669)年に亡くなった。享年五十七。
胤久の跡は嫡男・藤兵衛胤良が継ぎ、理助胤長、理兵衛胤勝、右膳胤武、理兵衛胤将(武石治兵衛胤秀次男)と続き、胤将の子・膳介胤禄の代に明治維新にいたる。胤禄は藩大老・白井伊豆守久胤配下の大番組士となり、藩内の派閥抗争の中で白井久胤が入牢を命じられたのと同時に胤禄も赤沼獄に押し込めとなるが、明治に入って罪を許され、小姓頭取に就任した。子には五郎胤直、尚之進胤弘、邦三郎、女子が二名いた。
=鹿島国分家略系図=
国分胤憲?――国分胤政――+―胤次
(大膳大夫) |(藤兵衛) +―娘
∥ | |(中居五左衛門妻)
∥ +―胤久 |
∥ (庄大夫) +―娘
∥ |(鹿島胤宗妻)
∥―――――胤光 |
鹿島義幹―+―幹信――――治時――――+―娘 +―胤盛――――――胤連 +―娘 +―娘
(惣追捕使)|(惣追捕使)(左衛門大夫)| |(右近) (兵部) |(香取監物) |(伴幸之進妻)
| | | | |
+―行幹 +―幹光 +―胤知――――+―城弥 +―幹胤――――+―胤良
|(又三郎) | |(甚五左衛門)|(連歌師) |(左衛門) (森松)
| | | | |
+―治友 +―幹連====胤光――――+ +―胤悦―――+―胤続――――+―胤正
|(三郎) (伊勢寿丸)(左衛門大夫)| |(惣大行事)|(甚五左衛門)|(主殿)
| ∥ | | | |
+―塚原安幹===高幹 仁賀保兵庫―娘 | +―胤成 +―胤重 +―娘
(土佐守) (塚原卜伝) | (源九郎) |(小十郎) |(羽生求馬妻)
| | |
| +―胤綱 +―幹明―――――娘
| (要人) (主馬)
| 【古河藩士】
+―中居胤秀――+―関戸貞幹
|(五左衛門) |(猪右衛門)
| |
| +―関戸味幹
| (政右衛門)
|
|
+―国分胤長――+―光胤―――+―娘
(庄大夫) |(庄大夫) |(鹿島甚五左衛門妻)
| |
| +―娘
| |
| |
| +―胤宗
| |(庄大夫)
| |
| +―胤将
| (一馬)
|
+―娘
|(鹿島出羽守妻)
|
+―娘
(広木与一左衛門妻)
某年7月1日『国分胤通礼状』(『古文書三』:『戦国遺文』所収)
天正3(1575)年カ?3月13日『条目』
天正10(1582)年5月14日『千葉介邦胤判物』
天正15(1587)年(?)9月18日『国分胤政寄進状写』
●国分氏略系図(『千葉大系図』)
国分胤氏―+―胤詮――+―忠胤――――憲胤――――之胤――――胤盛―――――胤相――――朝胤
(遠江守) |(三河守)|(三河守) (三河守) (宮内少輔)(宮内少輔) (三河守) (宮内少輔)
| |
| +―胤重
| (民部少輔)
|
+―盛胤―――――盛経
(右馬助) (右馬頭)
⇒奥州へ ⇒応永23(1416)年9月、亘理胤茂(兵部大輔)に仇討ちされ滅亡。
発給年 | 差出人 | 宛先 | 備考 |
貞治3(1364)年4月8日 | 三河守胤詮 沙弥契道 |
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貞治4(1365)年閏9月4日 | 三河守 | ||
貞治4(1365)年12月26日 | 国分遠江守 | ||
貞治7(1368)年3月2日 | 沙弥寿観 | ||
貞治7(1368)年3月6日 | 平長胤 | 父は浄心 | |
応安7(1375)年8月9日 | 国分三河入道 国分六郎兵衛入道 国分越前五郎 国分与一 |
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応仁2(1395)年3月22日 | 三河 | ||
… | |||
応仁3(1469)年11月吉日 | 平之之胤 | ||
文明3(1471)年7月吉日 | 之胤 | ||
文明4(1472)年正月吉日 | 国分宮内少輔之胤 | ||
文明4(1472)年12月15日 | 平胤盛 | ||
文明19(1487)年閏11月23日 | 平胤盛 | ||
明応9(1500)年4月19日 | 宮内少輔胤盛 | ||
明応9(1500)年 | 国分民部大輔直胤 | ||
永正2(1505)年8月11日 | 平胤景 | 我等父子、共励神力、蔑如同名民部大輔… | |
永正14(1517)年7月5日 | 国分大崎六郎胤久 | ||
永正15(1518)年9月21日 | 左衛門尉平胤景 同左衛門五郎朝胤 |
当家尚以可為武運長久、胤景子孫繁栄之故… | |
永正17(1520)年閏6月日 | 国分近江守胤盛 | ||
大永3(1523)年2月16日 | 国分民部丞胤信 | ||
大永8(1528)年7月27日 | 国分三河守胤相 | 花押が左衛門尉胤景と同一 | |
天文4(1535)年11月吉日 | 朝胤 | ||
天文14(1545)年8月26日 | 国分宮内大輔朝胤 平勝盛 |
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天文18(1549)年10月吉日 | 国分左衛門五郎勝盛 | ||
天文18(1549)年12月27日 | 国分宮内大輔朝胤 | ||
天文22(1553)年3月10日 | 国分胤憲 | ||
永禄4(1561)年 | 胤憲 | ||
天正4(1576)年10月17日 | 国分胤憲老母菊千代女 | ||
天正10(1582)年 | 国分兵部大輔 | ||
天正13(1585)年閏8月14日 | 国分胤政 |