東氏 東常和

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東常和(????-1525)

 郡上東氏十代。東下野守常縁の次男。母は不明。官位は従五位下。官途は左近将監・下野守。号は素安。・・・【当主の時系列】

■東氏想像系図■

 東益之―+―東氏数――――――東元胤
(下野守)|(下総守)    (下総三郎)
     |          ∥――――――――東尚胤――――東素山
     |          ∥       (下総守)  (寿昌院)
     |          慈永大姉
     |
     |        +―東頼数――――――東氏胤
     |        |(左近将監)   (宮内少輔)
     |        |
     +―東常縁――――+―東常和――――+―東常慶――――東常堯
     |(下野守)   |(下野守)   |(下野守)  (七郎)
     |        |        | 
     +―正宗龍統   +―東胤氏    +―東素経
      (建仁寺住持) |(最勝院素純)  (最勝院)
              |
              +―常庵龍崇
               (建仁寺住持)

 文明16(1484)年3月、父・常縁が亡くなり、東左近将監縁数(常和兄)が家督を継いだ。常和も常縁から古今伝受しており『二条家冷泉家両家相伝次第』、のち三条西実隆と交流していることから、当時は京都にいたのだろう。一説には下総国香取郡東庄森山城に入ったとされるが、実際に常和が下総にいた形跡はない。

 文明19(1487)年2月当時、常和相模国芦名(横須賀市芦名)にいた(『北国紀行』)。同地は父・常縁の門人と伝わる三浦陸奥守義同入道道寸の支配領域である(『東家二条家古今伝授之系図』)。父・常縁は堀越公方・足利政知に付いて三嶋に在陣していたことと同様に、常和も関東に下向していたと思われる。

 常和は文明19(1487)年2月から5月末までの約三か月間、堯恵(常縁同門)から古今伝受した(『北国紀行』)。堯恵は文明17(1485)年秋から、常縁の子たちに古今伝授するための旅に出ており、この旅を記した紀行文が『北国紀行』である。京都を発った堯恵は、まず美濃国郡上にいた東氏惣領・東左近将監頼数を訪れて古今伝授し、翌文明18(1486)年5月に美濃を発って東国の常和のもとへ向かった。

五條天神
五條天神(上野不忍池前)

 文明19(1487)年正月末、堯恵は武蔵野台地の東端・忍岡台東区上野)に到着し、五條天神を訪れた。現在、五條天神は不忍池のほとりに建っており、上野公園からは花園稲荷を通って境内に入ることができる。もともと五條天神は現在のアメ横入口付近にあったが、関東大震災ののちに現在地に遷座された。その後、湯島を通り、2月初めに武蔵鳥越を訪れ、2月20日、相模鎌倉に到着。そして三浦の芦名(横須賀市芦名)の磯辺で堯恵を待っていた常和と対面した。   

 3月半ば、常和は堯恵を誘って三浦のあたりを舟で遊覧しながら鎌倉を訪れ、建長寺円覚寺を参詣したのち、桜の花びらで埋まった雪ノ下の苔路を散策し、日暮れには皆瀬川のほとりの宿で雨をしのいだ。翌日には江ノ島へ詣で、島の西に渚の方まで下り、岩屋の中の垂迹功徳天に詣でて舟で三浦へともどることとなった。 

光明寺より遠景
光明寺から伊豆と富士を望む

 しかし、夕暮れ時になって嵐となり、舟も舷を大波に叩かれ、荒波にもまれてしまったため、光明寺の渚に避難して、その夜も鎌倉で過ごすことになった。結局、一晩中の嵐となった。

 翌日、常和と堯恵は鎌倉五山の名刹として知られていた浄妙寺を参詣したが、昔日の面影はなく、境内は荒れて春草におおわれ、堂宇も苔むして朽ち果てていた。この堂宇の中のから白い眉の老人が現れて、常和、堯恵に寺の社祠や伝承について語った。そののち極楽寺を参詣して三浦へと舟を出した。はるか彼方に大島をのぞむ船路だった。

■『北国紀行』 

 文あきらけき年の十七の秋、みのの国平頼数しる所の山亭に下り蘇息せしに、秋風の催す比都を思ひ出侍て、
 
  雲路こす都は西のをとは山せきのこなたも秋かせそ吹 
 
 かくて明るとしの十八のさ月の末に、飛騨の山路をしのぎ、あづまの方へをもむき侍りぬ、・・・
                       ・・・
 二月の初、鳥越のおきな艤して角田川にうかびぬ、東岸は下総、西岸はむさしのにつヾけり、
                       ・・・
 廿日過る比、鎌倉山をたどり行に、山径の柴の戸に一宵の春のあらしを枕とせり、・・・
                       ・・・
 比浦のあしなといふ所の磯の上に平常和東下野守常縁二男侍り、こヽにかさなれる岩を枕としておほくの浪のこゑをきヽあかす、
 
  難波なるあしなはきけともみす三浦かさきの浪の下草
 
 やよひ半になりぬ、常和にいざなはれて、扁舟に浦づたひし、又かまくらにいたり、建長円覚両寺巡見して、・・・
                       ・・・
 是より三浦が崎にかへりて又姑洗の過るほどなるに、常和と同じく孤舟に棹さして江嶋へ詣で侍り、・・・ 
                       ・・・
 五月の末、伊豆の海よりかさなれる山湧々として、ふじの空までもひとつうみのやうにみえ侍、・・・

 文明17(1485)年当時、常和が相模国葦名(横須賀市芦名)にいた際の郡上東氏の家督は、兄の東左近将監頼数であった。

 長享3(1489)年10月26日、建仁寺住持の正宗龍統(常和叔父)と相国寺鹿苑院蔭涼軒の亀泉集證の清水寺での茶話で、正宗龍統は、「濃州知行」「我俗姪東中務」「国方(守護・土岐勢か)」から攻められて「生害」に及んだか、と話している(『蔭涼軒日録』延徳元年10月26日条)。この「東中務」は系譜に該当する人物はないが、おそらく惣領家の東三郎元胤「中務丞」に任官していたのであろう。「東中務」は土岐氏の攻撃を受けて自害した風聞があったものの、実際は生き延びており、二年後の延徳3(1491)年8月6月、「東中務」の命を受けた者が、京都四条道場(金蓮寺)前(京都市下京区奈良物町)で、「東中務被官遠藤但馬守、同名二人、厩者一人、以上四員」を討っている(『蔭涼軒日録』)。郡上東氏は奉公衆として在京したり、奉公衆としての性格上、出張を余儀なくされる事態も多かった。そのため、郡上に留まっていた鎌倉期以来の根本被官である遠藤氏の勢力が拡大してしまったのであろう。

 常和は「左近将監」に任官、叙爵しているが、兄の左近将監頼数は長享3(1489)年正月15日、「東将監」として三条西実隆の邸を訪ねており(『実隆公記』)、常和がその跡を継いで左近将監に任官したとすると、これ以降のこととなる。また、文明18(1486)年から永正5(1508)年の約二十年間の常和の所在は不明であるが、当初は堀越御所の支援として父・常縁同様に関東に下向していたと思われる。しかし、延徳3(1491)年4月3日、堀越公方足利政知が堀越で死去すると、7月1日には政知の長子の茶々丸(一説には廃嫡)が対立していた義母と義弟・潤童子丸を殺して堀越公方の座につくという混乱があった。これに乗じた今川氏の外戚・興国寺城の伊勢新九郎入道宗瑞が、明応2(1493)年10月に堀越御所を攻めて足利茶々丸を追放する。この戦乱当時、常和の兄弟・東素純が伊豆国(堀越御所に近侍か)にあり、大永3(1523)年10月6日『古今和歌集抄奥書』の中の「豆州思の外なる乱出来て爰かしことさすらひ行侭に」と述べている。常和がこの堀越公方の内紛をどのように乗り越えたのかは不明だが、前後して京都へ戻ったと思われる。

 文亀元(1501)年7月11日には「東左近大夫常和」が兄・頼数の子・氏胤「切帋(切紙)」伝授していることが『京大本古今集』の奥書「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」よりうかがえ、奉公衆であった氏胤への伝授ということで、この頃常和は在京していたと思われる。さらにその後「下野守」に任官するが、これは常和が東家を継承した頃の事であろう。

 永正5(1508)年3月、常和は相模国から上洛し、11日、上冷泉為広(民部卿)を通じて三条西実隆を訪ねた。東家は祖・氏村以来冷泉流と対立する二條流の門人であるが、東家の「家説」は二條・冷泉分流以前の古体(中院為家の原解釈)を奉じており、二條・冷泉の両流を否定しない柔軟な考え方であるため、上冷泉為広とも対立することはなかったのだろう。とくに常和は冷泉流(下冷泉)の木戸大膳大夫範実(正吉)を門人とし、二條流の解釈を伝えている。

 十一日己酉晴 土用事、東下野守常和自相模国上洛、以民部卿挙達来携一桶、対面賜盃、談曩祖事等、

 4月30日、常和はふたたび三条西邸を訪問し、百首詠草の添削を依頼した。実隆はそれに合点して奥書を付けて返却している。このとき、常和は明後日に東国に下向することを告げている。

 卅日 東下野守平常和、百首歌みせ侍し、合点して返しつかはす奥に書付侍し、
 
    行末も猶色そへよ代々の風 吹きのこしける松のことの葉  
 卅日丁酉晴 東下野守平常和来、明後日可下向云々、短冊所望、予書遣之由報了、
       百首合點遣之 

 しかし、5月2日は雨だったため下向を延期した。雨のため出立を延引する例は他にもあり、山道の泥濘の危険なども考慮しているのだろう。この日、常和は実隆邸を訪れて出立を延期したことを告げた。実隆は酒席を設けて別れを惜しみ詠草を遣わしている。翌々日の午後に雨は止み、常和は東国へ再び下り、その後、常和が郡上に戻った記録はない。

 五月小
 
 二日己亥雨降 東下野守平常和来、勧一盞、遣愚詠、今日可下國之處、依雨延引云々、

 当時常和が相模国のどこに拠点を持っていたのかは定かではないが、このころは伊勢宗瑞が相模国に勢力を広げ始めた時期で、常和の父・東下野守常縁の門弟とされる三浦陸奥守義同入道道寸との間でも対立が激しくなっていた。推測だが、常和は三浦氏との関係で三浦半島の相模国蘆名の地にとどまっていたのかもしれない。

 永正7(1510)年7月には三浦道寸が伊勢宗瑞方の権現山城を攻め落とすなど、三浦半島から進出した。これに対して伊勢氏側は堅実に地盤を固めて三浦勢の疲弊を待つ作戦を取り、永正9(1512)年8月、相模国府中に近い岡崎城を攻め落とすと、三浦道寸と嫡子・三浦荒次郎義意が籠もる三浦半島先端の新井城を攻め立てて、永正13(1516)年7月11日、三浦道寸は自害、荒次郎義意は討死を遂げ、三浦氏は滅亡した。永正14(1517)年10月、「東下野守常和」は三条西実隆と歌の贈答をしている(『実隆公記』)ことから、三浦道寸の滅亡に殉じることはなかったが、もはや相模国に寄る辺は無く、かつて父・常縁が下総国で救った千葉介自胤(千葉介胤直の甥)の子・千葉介守胤を頼って武蔵国足立郡淵江郷へ移ったとみられ、永正17(1520)年9月2日、「千葉介守胤」「同妻」「東下野守常和」の百首歌合点の依頼と常和の書状が三条西実隆のもとへもたらされている(『再章草』)。武蔵千葉氏の当主・千葉介守胤とその妻もともに和歌の道に通じており、常和は実隆への橋渡しを行ったと思われる。 

○『再昌草』永正17(1520)年9月2日条 

 千葉介守胤、百首歌よみて、合点の事申とて、つヽみ紙に歌侍し、これより浦紙に、
 
  としふかきおもひもさそとあしたつの 心しらるヽわかのうら風 
 
 同妻、百首歌、おなしく歌侍し
 
  藻しほ草まきれぬ玉の数々は ひろひのこすもあかぬ光を
 
 東下野守常和、同前
 
  代々の跡に和歌のうら波かけて猶 神のまもらん末をしそ思

 武蔵千葉氏と東氏の関係は、守胤の父・千葉介自胤東常縁がともに下総千葉氏と戦ったころから始まっており、千葉介守胤の伯父・千葉七郎実胤は下総千葉介の継承が頓挫し、落胆したまま美濃へと落ち、その後の消息は不明である。美濃国可児郡(岐阜県可児郡御嵩町)の大寺山願興寺(可児大寺)がその隠棲先だともされている。

●下総千葉氏、武蔵千葉氏の関係

 千葉介氏胤―+―満胤―――+―兼胤―――+―胤直―――+―胤将
(千葉介)  |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉新介)
       |      |      |      |
       |      |      |      +―胤宣
       |      |      |       (千葉介)
       |      |      |
       |      |      +―胤賢―――+―実胤
       |      |       (中務大輔)|(七郎)
       |      |             |
       |      +―馬加康胤―+―胤持   +―千葉介自胤―――千葉介守胤
       |       (陸奥守) |       (千葉介)   (千葉介)
       |             |   
       |             +―女            +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
       |                            |(千葉介)  (千葉介)
       |                            |
       |                            +―成戸胤家
       |                            |(成戸殿)
       |                            |
       +―馬場重胤―――胤依―――+―金山殿  +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
        (八郎)         |      |(千葉介)          (物井殿)
                     |      |
                     +―公津殿  +―成身院源道―+―光言院源秀
                     |      |(菊間御坊) |
                     |      |       |
                     +―岩橋輔胤―+―椎崎胤次  +―天生院源長
                      (岩橋殿)  (入道道甫)

 永正17(1520)年8月4日、建仁寺知足院住持・常庵龍崇(常和弟)が関東からの書状を実隆の屋敷にもたらした。常和が千葉介守胤とその妻の歌の合点依頼をした歌草と書状であろう。9月2日に「千葉介守胤」「同妻」「東下野守常和」の百首歌合点について終了したと思われ(『再章草』)、翌9月3日、実隆は「関東返事東下野守」を認めて、百人一首の歌とともに常庵龍崇へ遣わした。手紙は常庵龍崇から常和のもとに送られたと思われる。

 大永3(1523)年9月、三条西実隆のもとへ武蔵国淵江からの「東下総守守胤」なる人物からの和歌が届けられた。同時代、東氏の系譜上で見える「下総守」「胤」のつく人物は東下総守尚胤であることから、おそらく実隆が和歌の遣り取りをしていた「千葉介守胤」と「東下総守尚胤」を混濁して記載したものであろう。おそらく東尚胤は常和とともに石浜の北部域・武蔵国淵江郷の千葉介守胤のもとにあったとみられる。三条西実隆は12月10日、歌を返したが、これに対して「求浄斎素安」なる人物から歌が届けられた。この「求浄斎素安」は常和であると思われ、この頃出家し(袖にやつし)たのだろう。

○『再昌草』大永3(1523)年12月10日条詞書

  武蔵国淵江より、東下総守守胤書状に 九月状
 
 あつまちや風のたよりのことの葉は 行ゑいかにといつかきかまし
 
  返し 十二月十遣也
 
 ことの葉はめにみぬ風の便ありと 聞わたりてそ月日へにける
 
  同 求浄斎素安
 
 思いつることの葉なくは月も花も 袖にやつして年はへてまし
 
  返事
 
 思やれいまは老木の苔の袖 花も紅葉もわすれはてにき

 大永5(1525)年9月6日、常庵龍崇が三条西実隆を訪れて、「東下野守」が逝去したことを伝えており、常和はこのころ亡くなったのだろう。このとき常和がどこにいたのかの記載はないが、これ以降、小田原北条氏の文書や関東に郡上東氏の伝がないことから、京都または郡上へ戻っていた可能性が高いだろう。

○『実隆公記』大永5(1525)年9月6日条

 東下野守逝去由被語、不便々々・・・

 ただし、常和は天文2(1533)年5月上旬、常縁の家集『常縁集』に付属する形で、東氏歴代が代々歌ってきた和歌を『東家代々首』として編纂し奥書を残した、とされるものが下総の東氏に伝わっているが、このときすでに常和は没しているので、署名を仮託したものであろう。

○『東家代々首』奥書

 右代々首、二条家之歌道髄脳、自為家卿平胤行受相伝代々歌道相続者也、
 
  天文二年五月上旬        平常和書之

 「二条家冷泉家両家相伝次第」によれば、常和は歌人として著名な木戸三河守孝範の子と思われる「範実」を弟子としている。この相伝次第の系譜から、常和と木戸孝範の娘が結婚して、木戸範実(正吉)が生まれて木戸家を継承したとする説があるが、この『相伝次第』は、あくまで二条為家以来のしきたりを重んじる「二条家」と自由な歌風で革新的な「冷泉家」という、鎌倉時代以来対立してきた二つの流派がひとつになった「歌道の系譜」であって、実際の親子関係を示しているわけではない。従って、正吉は常和の子ではない

 この歌道系譜からうかがえることは、まず正吉は「常和弟子」であり、二条流の歌道を継承したと考えられる。また、「正吉母」は、木戸三河守孝範の妻と思われるが、孝範から冷泉流の歌道を継承したのだろう。つまり木戸正吉は母から冷泉家の家伝を学び、二条流の東下野守常和の弟子となって二条流を修めたということになる。

●『二条家冷泉家両家相伝次第』(『中世歌壇史の研究』)

 小野宮大納言能実
 九代孫                法名素安
堯孝――――――――常縁―――――――常和―――+   俗名大膳大夫範実
           法名素伝         |   木戸
           東下野守         +――正吉――――――――――… 
                        |   常和弟子
 大納言       従五位上参河守      |   
 号下冷泉      木戸      正吉母  |
持為――――――――孝範―――――――女――――+
           持為弟子

●木戸家略系図

新田氏?―木戸貞範―□□―範懐――孝範―――範実―――+―広田直繁――為繁――――直範
            (小府)(三河守)(大膳大夫)|(式部)  (左衛門佐)
                           |
                           +―忠朝――+―重朝
                            (伊豆守)|(右衛門大夫)
                                 |
                                 +―範秀
                                  (和泉守)

 系譜の一つに、東常和の孫に、東六郎幸澄(東六郎兵衛行澄)を載せるものがある。幸澄は明智光秀に仕え、光秀が「本能寺の変」の直前に京都愛宕山で里村紹巴らと詠んだ連歌、所謂「愛宕百韻」に一首見える。幸澄は天正10(1582)年6月13日、羽柴秀吉との山崎の合戦で四十九歳にて戦死したとも、光秀の命によって戦場を離れ、剃髪して「素縁」と号し、光秀の後生を弔ったとも伝わる(『東家系図』東京大学史料編纂所所収)。ただし、この系譜は常和を「東太郎 修理亮 法名素円」とし、その子に「常澄 東下野守 法名素純」とあるため、信憑性は低い。

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◎東氏の時系列

元号 月日 名前 事柄 出典
応永32(1425)年 3月 氏数 冷泉為相『伊勢物語』を正徹に貸し出す。 『草根集』
永享2(1430)年 7月25日 東三郎左衛門尉氏数 足利義教の大将拝賀の参内に、「衛府」として参列。 『建内記』
永享5(1433)年 正月12日 左衛門尉氏数 正徹の歌会に、父の「下野入道素明」とともに参ず。 『草根集』
 永享~永正   藤下総入道
藤三郎
永享~永正にかけての将軍相伴供衆 『永享以来御番帳』
嘉吉元(1441)年 4月3日 長子氏数 父の「下野入道素明」が「西瀧不動堂」で亡くなると遺骨を受け取った。  
嘉吉2(1442)年 4月10日 左衛門尉氏数 藤原盛隆父追善品経歌に歌を二首献歌。  
●嘉吉2(1442)4月~嘉吉3(1443)年2月の間で、氏数は下総守となり、すぐ辞した。
嘉吉3(1443)年 2月10日 前下総守氏数 前摂関家歌会に参ず。  
文安3(1446)年 正月4日 下総入道素忻 常光院堯孝のもとを訪れて年賀を祝した。 『堯孝法印日記』
正月9日 下総入道素忻 正徹・堯孝らを自邸に招き、歌会を行った。 『堯孝法印日記』
4月21日 素忻 畠山仙室邸での歌会に参加  
  東下総入道 文安年中の番衆 『文安年中御番帳』
宝徳元(1449)年 2月4日 東下総入道素忻 東下総入道素忻家で歌会。  
2月26日 東下総入道素忻 東下総入道素忻家で歌会。  
8月28日 東下総三郎元胤 足利義成の初参内に随った帯刀。 『經覺私要鈔』
宝徳2(1450)年 6月 入道殿 腫物が悪化して床に伏し、招月庵正徹が見舞っている。  
宝徳3(1451)年 2月18日 元胤 ・・・二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世、元胤同道申て、罷て一座・・・
・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・ 
『東野州聞書』
  12月1日 東常縁 常光院(堯孝)の弟子に被成、則契約ノ状書進ず 『東野州消息』
宝徳4(1452)年 正月11日 東常縁 「若君=義尚」の命により献歌 『東野州聞書』
享徳3(1454)年 7月26日 東常縁 左近将監に任官  
  8月13日 東常縁 従五位下  
康正元(1455)年   東常縁 下総国での千葉家内紛を収めるため下総下向を命じられる  
  11月24日 東常縁 馬加合戦(原胤房と合戦)して勝利する  
康正2(1456)年 正月13日 東常縁 市河合戦で敗れて逃れる  
寛正6(1465)年 5月22日 東下総入道 幕府へ「真弓皮一箱」を送り、8月25日には「例年」通り「鮎鮨三桶」を幕府に進上した。 『親元日記』
応仁2(1468)年   平宗玄 美濃篠脇城が、美濃守護代・斎藤利藤入道怠念の攻撃を受けて落城。この戦いによって妙見社別当寺・尊星王院が焼失、代々の和歌文書なども失なわれた。 『尊星王院鐘銘』
11月~12月 平縁数 足利義視が義政と不和になって坂本へ落ちた際、剃髪して詠んだ歌の署名。 『東家大々集』
応仁3(1469)年 4月21日 東縁数 父・東常縁から下総を任される 『鎌倉大草子』
5月12日 東常縁 京都で齋藤妙椿と対面して篠脇城は東氏へ返された。 『尊星王院鐘銘』
応仁4(1470)年 4月21日 東縁数 「下総の国には子息縁数をとヾめ、四月廿一日東野州は上洛して・・・」 『鎌倉大草子』
文明3(1471)年 正月~4月 東左近大夫常縁 伊豆三島の陣中を訪れた宗祇に古今伝授を開始  
文明5(1473)年 正月7日 従五位下下野守平常縁 大坪基清へ古今伝授開始  
文明6(1474)年 3月下旬 東常縁 宗祇、郡上郡から上洛。常縁と贈答歌を交わす。  
文明7(1475)年   東常縁 常縁、江戸城を訪れて故実を語る。常縁は一時期、武蔵にいたことが伝わり、淵江にいたか?  
文明9(1477)年 5月20日 東常縁 常縁、美濃紙二束を伊勢貞宗へ贈る。  
文明10(1478)年 8月15日 東常縁 常縁、足利義政・足利義尚へ太刀を贈る。  
文明12(1480)年 5月 東常縁 後土御門上皇の勅諚を受けた将軍義尚の御教書に従って上洛。後土御門上皇、近衛政家、三条公敦、足利義尚らに古今伝授。  
文明15(1483)年 正月2日 東常縁 常縁、自邸で歌会。  
文明16(1484)年   東常縁 常縁、亡くなるか。  
文明17(1485)年 6月17日 右近将監平頼数 東家伝来の藤原俊成女筆『古今和歌集』を「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進。 『長瀧寺文書』
文明18(1486)年 秋~5月 平頼数 「みのの国平頼数しる所の山亭」に常縁同門の常光院堯恵が訪れ、堯恵に古今伝授を受ける。 『北国紀行』
2月19日 東左近将監頼数 年始御礼として「東山様」に太刀と馬一匹を送る。 『親郷日記』
9月12日 東三郎 足利義尚の近江出陣に供奉。 『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』
12月12日 東下総守妻藤原基覧女 彼女の歌を幕府用人・二階堂政行が中院通秀に求めた。 『十輪院内府記』
長享元(1487)年 2月~5月 平常和 堯恵、相模国芦名の平常和(東下野守常縁二男)と出逢い、古今伝授を始める。 『北国紀行』
12月14日 東之三郎 正宗龍統が蔭涼軒に語った言葉の中に、「美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣」 『蔭涼軒日録』
長享3(1489)年 正月15日 東将監 三条西実隆を訪問。 『実隆公記』
10月26日 東中務 正宗龍統が蔭涼軒と語った中に、「我俗姪東中務在濃州知行、自国方攻之、終可及生害乎」 『蔭涼軒日録』
延徳3(1491)年 8月6日 東中務 「東中務被官遠藤但馬守、同名者二人、厩者一人、以上四員、於四条道場前白日討之、蓋以中務命也」 『蔭涼軒日録』
~10年~  
文亀元(1501)年 7月11日 東左近大夫常和
氏胤
「東左近大夫常和」から「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」 『京大本古今集』
永正3(1506)年 2月 長空慈永大姉
東下総守尚胤
「長空慈永大姉卒於栗城北萱之堂、転盻問生七云臨、孝子総州刺史平公尚胤虔就墳院…」 『祭慈永大姉文』
永正5(1508)年 3月11日 東下野守常和 「東下野守常和自相模国上洛、以民部卿挙達来携一桶、対面賜盃、談曩祖事等…」 『実隆公記』
4月30日 東下野守常和 「東下野守平常和、百首歌みせ侍し、合点して返しつかはす奥に書付侍し」
「東下野守平常和来、明後日可下向云々、短冊所望、予書遣之由報了、百首合点遣之…」
『再昌草』
『実隆公記』
5月2日 東下野守常和 「東下野守常和来、勧一盞、遣愚詠、今日可下向之所より」 『実隆公記』
7月27日 東宮内少輔氏胤 三条西実隆の邸にて行われた宗祇七回忌の追善和歌披講の最終日に実隆邸を初訪問。 『実隆公記』
8月3日 東宮内少輔 実隆邸を訪れて「新古今真名序授之了」 『実隆公記』
永正6(1509)年 2月29日 東宮内少輔師胤 師胤から贈られた梅の花と歌一首が三条西家へ届けられる。 『再昌草』
3月8日 東宮内少輔師胤 三条西実隆から師胤に歌が届けられる。 『再昌草』
~8年~  
永正14(1517)年 10月 東下野守 実隆と和歌の贈答。 氏数は「千葉介」の妻の熱心な働きかけが見える。 『実隆公記』
永正16(1519)年 9月2日 千葉介守胤
同妻
東下野守常和
「千葉介守胤」「同妻」「常和」の百首歌合点の依頼が三条西実隆のもとへもたらされる。 『再章草』
永正17(1520)年 9月3日 東下野守 関東東氏内の一般代の隠居。ひゃくにんいっしゅお  
大永3(1523)年 9月 東下総守守胤 武蔵国淵江から「東下総守守胤」から三条西実隆のもとへ和歌を記した書状が届く。 『再章草』
大永4(1524)年?   求浄斎素安 9月状の返事を実隆は12月10日に関東に遣わし、それに対する返書。 『再章草』
大永5(1525)年 9月6日 東下野守 東下野守逝去由被語、不便々々・・・」  『実隆公記』
永禄元(1558)年? 6月17日 常慶   『宝幢坊文書』
永禄元(1558)年 8月7日 東下野守常慶
東七郎常堯
  『郡上藩家中記録』

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●東氏の家臣●

遠藤・野田、埴生・粟飯原・土松・日置・尾藤・滝日・和田・餌取・石神・井股・土屋・村上・河合・市村・増田

●諸書の東氏系図

『千葉大系図』

●東胤綱―――常縁―――頼数―――――元胤――――常知――――氏胤―――――尚胤――――常氏―――――常数――
  式部少輔  下野守  宮内少輔   下野守   大和守   宮内少輔   下総守   宮内少輔   宮内少輔
  素明    素伝   素光     三郎    兵庫頭   素純     素経    素山     素縁

『松羅館本千葉系図』

●東胤綱(益之)――――+―氏数――――+―元胤――――常慶
  式部少輔・下総守  |  下野守  |  三郎    下野守
  素明        |  宗玄   |  早世す
            |       |     
            |       +―氏胤
            |          中務・宮内少輔
            |          素珊
            |
            +―東常縁―――+―頼数
               下野守  |  宮内少輔
               素伝   |  素光     
                    |
                    +―常和―――――胤氏―――――尚胤――――常氏
                       左近大夫          下総守   宮内少輔
                              素純     素経     素山

『系図簒要』(官途は代表的なもの)

●東益之(胤綱)――――+―氏数――――+=常縁(養子)――――――+―元胤(元数)―+―常慶
  式部少輔      |  下野守  |  下野守        |  下野守   |
  素明・乗明     |  素玄   |  書錦居士       |        |
            |       |             |        +―尚胤――――胤氏
            +―野田常縁  +―頼数(常政)―胤氏   |           下総守
                       宮内少輔   素純  |           素光    素山
                                  |    
                                  +―常和―――――――素昌
                                     下野守・歌人


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