東氏村
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東氏村(????-????)

 郡上東氏庶家初代。父は東中務丞胤行(東入道素暹)。通称は平六(『松蘿館本千葉系図』)。官途は左衛門尉下総守。号は素源六郎左衛門尉行氏の弟で『故左金吾兼野州太守平公墳記』胤行最晩年の子と思われる。

●『故左金吾兼野州太守平公墳記』を基本とした想像系譜

    +―行氏―――時常―――貞常―――素[舟光]====益之
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東胤行―+―氏村―――常顕―――師氏―+―泰村
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                   +―江西派公
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                   +―益之――――正宗龍統

 東家が二條流の門弟となったのは氏村が初めであったとされる(「古今和歌東家極秘」:井上宗雄『室町期和歌資料の翻刻と解説』所収)。東家の和歌の流れは、もともと素暹(胤行)が中院為家に伝えられたものとされ、為家の家流が二條流と冷泉流に分流する以前の古流の解釈を伝えていたという。しかし、氏村が二條門弟となるにより、二條流の解釈を面に立てざるを得なくなるが、東家伝としては両流の解釈も成り立つことを述べている。

 彼も歌人であり、数々の勅撰和歌集に計十首が選出されている。

 あくるをぞ 待つべかりける横雲の みねより出づる ほととぎすかな  氏村(『新後拾遺和歌集』)

 氏村と甥で惣領の時常は歌を通じて仲がよく、氏村は六波羅に伺候する在京の時常と文のやり取りをしていたようである。時常が亡くなったとき、氏村は手元に遺された手紙に経を書いて送っている。おそらく京都に送られたのだろう。このとき詠まれた歌が『続千載和歌集』「十九哀傷」に載せられている。

 平時常みまかりて後、常にかきかわしける文のうちに経を書きて、人の許よりおくられければ

 心だに 通わば苔の下にても さぞな哀れと みずくきの跡  氏村(『続千載和歌集』)

 氏村は時常、またはその子・貞常が亡くなると、郡上東氏(西国東氏)を継いでいる。郡上東氏は美濃郡上郡大和村阿千葉に屋敷を構えて以来、氏村まで続いていたが、氏村は阿千葉の南東に位置する篠脇の地に城を築き、ここに本拠を移したという。以降、郡上東氏の滅亡までの約二百年、郡上東氏はこの篠脇の地を本拠とし、城の下には苑池を設けた館を営んでいる。 

 氏村は代々の郡上東氏と同様に在京御家人であったと思われ、元弘2(1332)年、笠置山で挙兵した後醍醐天皇に呼応し、河内国赤坂で挙兵した楠木兵衛尉正成(元御内人とされる)らの反乱をきっかけに幕府は衰退の一途をたどる。一度は鎮圧に成功するも、翌元弘3(1333)年の再挙兵に際しては、後醍醐天皇と内通していた幕府軍大将・足利治部大輔高氏が丹波国篠山で離反し、5月7日、六波羅探題が陥落した。氏村は本来、在京御家人として六波羅探題の指揮下で合戦を遂げるべき人物であるが、早々に寝返ったとみられ、探題に殉じた六波羅伺候の武士のなかに東氏の名は見られない。

 さらに鎌倉も足利高氏の指示を受けたとみられる新田太郎義貞、岩松下野五郎経家ら足利一門を主力とする反乱軍によって攻められ、5月22日、得宗北条高時入道以下一門眷属が自害して滅亡する。

 その後、後醍醐天皇の親政による建武新政府が成立するが、氏村は武者所に抜擢されている。氏村は「或時賜和歌之題、即献一首而、預叡感」(『遠藤家譜』)とあるように、後醍醐天皇より和歌の題が下されると、即座に一首詠んで叡感に預かったとある。実際に「耽美和歌之道、辱後醍醐皇帝寵命、於武者所、献歌章、而名聞四方矣」との記録が残る(『故左金吾兼野州太守平公墳記』「俗群書類従巻百九十二」)。その際に詠まれた歌が『続千載和歌集』に納められており、武者所に属していることがわかる。

  後醍醐院御時 武者所に侍りけるに 題を給て歌つかうまつりける時

  夕立

 なる神の音はそこともなかりけり 曇れるかたやゆふたちの空  氏村(『続千載和歌集』)

 建武2(1335)年10月、中先代(北条高時の遺児時行を推戴する幕府残党)軍追討のために鎌倉に下向していた足利尊氏が帰京の命を無視して居座ったことで、朝廷は尊氏追討の軍勢を発し、追討使には、鎌倉攻めの経験を持つ足利一門の新田義貞が任じられた。して鎌倉に派遣したが、新田勢は箱根竹之下の戦いで大敗し、京都へ壊走した。足利勢は勢いに乗って京都に攻め上り、一時京都を占領することに成功したが、奥州から上洛した北畠顕家や、反撃に出た新田義貞、楠木正成ら朝廷軍に敗れて九州へ落ちて行った。しかし、尊氏は九州でたちまち勢力を取り戻し、播磨国にて新田義貞、楠木正成らを討ち破って京都を奪還した。後醍醐天皇は京都を脱出し、大和国吉野山に籠もって、皇位正統を唱えた。

 建武3(1336)年10月、朝廷は新田義貞尊良親王恒良親王をつけて越前へ派遣した。このとき、千葉氏惣領家の千葉介貞胤は新田勢の大将として越前金ヶ崎へ向かっていたが、大雪に阻まれて木ノ芽峠で足利方の越前守護職・足利高経(のち斯波高経)に囲まれ降伏する。氏村がこのときいずれに属していたかは不明だが、二か月前の建武3(1336)年8月には、嫡子・東常顕が足利尊氏方の美濃守護・土岐頼春に属して弾正尹宮と戦っており、氏村は武者所所司であった新田義貞から離反して足利方へ属したと推測される。ただし、伝の一つであるが、東行氏の子・東重常は新田義貞に属して藤井寺にて討死を遂げたという(『讃岐千葉氏系譜』)。新田氏に属した東氏がいたのかもしれない。なお、重常の孫・親常(孫太郎)が讃岐国那珂郡高笹村へ移住して「千葉」を称したという。親常の弟・利胤(弾正)は、河内国古市郡の古市氏を継ぎ、古市安村(弾正)を称したという。

  応永3(1344)年3月21日、室町幕府の引付衆五番「東下総入道」として名を連ねており、当時の幕府政治の中枢部に加わっていたことがうかがえる。同じく引付三番には同族の「粟飯原下総守(清胤)」の名が見えるが、彼は三年後に政所執事となる。

◆応永3(1344)年3月21日、幕府引付結番(五番)◆

越後守 駿河守 長井丹後入道 伯耆入道 後藤壱岐入道 東下総入道(氏村)
島津豊後前司 後藤対馬守 雑賀隼人入道 豊前四郎左衛門入道 斎藤四郎兵衛入道 和田四郎入道
門真彈正忠入道 杉原左近将監 松田右近入道 青砥左衛門尉 佐藤九郎左衛門尉 中沢又四郎
帯刀中務丞               

 永和3(1377)年9月4日亡くなったとされるが不明。享年も不明。

 遥なる波路隔てて漕ぐ舟はゆくともみえず遠ざかりつつ  氏村(東大社歌碑)

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