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東元胤(1427?-1495?)

 郡上東氏九代。東下総守氏数の嫡男。通称は三郎。官途は中務。号は素通。妻は某氏(長空慈永大姉)か。応永34(1427)年生まれとされるが不明【このページの当主の時系列】

■東氏想像系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤――――+―氏胤
(下野守)|(下総守)   (三郎)   |(宮内少輔)
     |               |
     |               +―尚胤――――素山
     |                (下総守) (寿昌院)
     |
     |       +―頼数    +―常慶――――常堯
     |       |(左近将監) |(下野守) (七郎)
     |       |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―素経
     |(下野守)  |(下野守)   (最勝院)
     |       | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) 
             |
             +―常庵龍崇
              (建仁寺住持)

 「古伊勢真蓮入道」は幕府高倉御所において、「東」「白次(申次)」に選んだが、伊勢氏は千葉氏=東氏と同族で「敵流」であったという。何が原因で「敵流」となったかは不明だが、東氏は伊勢氏と対立関係にあったようで、「東」「法体」であることと、子息も「幼稚」であったために固辞したにも関わらず、「白次」辞退を認めず、それならば「東」の「弟」を代わりに「白次」とすることとした。この「東之舎弟」「安東」氏の養子となっており、文安3(1446)年正月4日の常光院堯孝の歌会に列した「藤原氏世(安東遠江守氏世)」のことと考えられる(『堯孝法印日記』)。また法体となっていた「東」は同じく歌会に列していた「下総入道素忻(東下総守氏数入道素忻)」であり、氏世の異母兄にあたる(『堯孝法印日記』)

 伊勢貞国が幕府政所執事に就任したのが応永17(1410)年、辞任したのが宝徳元(1449)年であり、没したのが享徳3(1454)年3月である。長享元年の『蔭涼軒日録』の記述は伊勢貞国入道真蓮がまだ政所執事として実権を握っていた頃の話と思われ、氏数の子である元胤はまだ「幼稚」であったのだろう。

 宝徳元(1449)年8月28日、八代将軍・足利義成(のち義政)の初参内に随った帯刀十三番の中に「東下総三郎元胤」の名があり、この頃には帯刀として幕府に出仕していたことがうかがえる(『經覺私要鈔』)

  帯刀交名
赤松有間小三郎 豊則 赤松有田八郎 豊忠
伊勢八郎 貞藤 同八郎左衛門尉 盛經
伊勢因幡守 貞仲 同次郎左衛門尉 貞枝
二階堂六郎左衛門尉 忠政 朝日因幡守 持長
宮下野守 元盛 同五郎左衛門尉 盛長
東下総三郎 元胤 屋代四郎 貞昌
松田上野介 信朝 同三郎左衛門尉 賢信
小早川備後守 熈平 小串新次郎
土岐肥田伊豆守 持重 同石谷孫九郎 行久
土岐外山孫九郎 康明 同今峯三郎 益光
佐々木黒田兵庫助 清高 同黒田掃部助 信秀
佐々木大原越前守 信業 同大原新次郎 持頼
佐々木加賀守 教久 同治部少輔 秀直
   

 『永享以来御番衆』(1450~)の番衆四番のなかに「藤下総入道」「藤三郎」「安東遠江守」が列記され、また、同じ頃の時期と思われる『久下文書』の番衆四番には「東下総守」「東三郎」「安東遠江入道」「東左近大夫」の名が列記されている(『久下文書』:「東山殿時代大名外様附」今谷明著・「史林」第六十三巻六号)。このうち「藤下総入道」「東下総守」とは氏数のこと、「藤三郎」東三郎元胤「安東遠江守」「安東遠江入道」安東遠江守氏世(氏数次弟)、「東左近大夫」東左近大夫常縁のことである。

 宝徳3(1451)年2月18日、元胤は叔父の安東氏世・常縁とともに常光院堯孝法印が開いた北野天神の歌会に出席した。元胤はこののち堯孝へ弟子入りをしている(『東野州聞書』)

 一 二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世元胤同道申て、罷て一座有、
 
   ・・・
 
   ・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・

●二条流歌道の略系譜

二条為世―+―後宇多天皇 +―経賢―――堯尋――堯孝―+―東常縁――――飯尾宗祇―+―三条西実隆――東素経
     |       |             |             |
     +―二条為通  +―二条良基(摂関家)   +―堯恵―――+―東頼数  +―東素純
     |       |             |      |
     +―頓阿――――+―足利尊氏        +―一条兼良 +―東常和――――東氏胤
                           |
                           +―東元胤

 応仁2(1468)年9月、郡上東氏の居城・篠脇城に、土岐成頼の守護代・斎藤妙椿が攻め寄せ、父「平宗玄(東氏数入道宗玄)」は少ない軍勢を指揮して戦ったもののついに落城した(『尊星王院鐘銘』)。このとき元胤がどこにいたのか不明だが、京都で父に代わって幕府に出仕していたと思われる。

●『尊星王院鐘銘』(『郡上町史』:東家史料提供)

 濃之郡栗栖洞尊星王院神祠之側、本有楼鐘、応永戊子、平宗玄兵敗之日失火焉…  

 文明元(1469)年2月、当時、下総国で千葉陸奥入道常義原越後守胤房と戦っていた叔父・東左近大夫常縁齋藤妙椿の間で城の返還について和歌のやり取りが行われ、文明元(1469)年4月21日、常縁は子・縁数を下総国に残して上洛の途に就き、5月12日、斎藤妙椿と会見して正式に篠脇城は返還されることになった。このとき、逃れていた父・氏数入道も恐らく篠脇城に戻ったと思われるが、二年後の文明3(1471)年5月8日、亡くなったと伝わっている。

篠脇城と東氏館跡
篠脇城と東氏館跡

 文明5(1473)年正月7日、大坪治部少輔基清への古今集相伝一流についての奥書「下野守平常縁」の署名が見えること、常縁の弟・正宗龍統が記した『故左金吾兼野州太守平公墳記』の記述の一「常縁、今之所宗也、氏数擢之為後継」とされている部分をみると、氏数の後は常縁が継承したと考えられ、元胤はそのまま京都にいたのかもしれない。

 文明16(1484)年9月11日、三条西実隆『打聞集』の編纂の過程で「平常顕哥前下野守東 平元胤 素明法師 道空細川讃岐守入道の詠草中から百首を選んでいるが、ここに見える「元胤」は三郎元胤のことか? 元胤が堯孝の弟子になってわずか4年後の康正元(1455)年7月5日、堯孝は65歳で示寂し、常光院清水谷実久が継承。さらに堯孝の俗弟・堯憲(清水谷公知子)が継いだ。

 軒ちかく馴れてそおもふ鶯の ふるすのたにの春のさむしさ   元胤

 東常縁は文明16(1484)年3月に亡くなっており、約一年後の文明17(1486)年6月17日、「右近将監平頼数」が東氏に代々伝わってきた藤原俊成女筆『古今和歌集』長滝寺白山権現に寄進して、東氏と歌道の隆盛を祈願している。そしてその年の秋には堯恵(常縁同門)が常縁の子息たちに古今伝授するべく三浦半島までの旅の中で、「美濃国、平頼数知る所」に訪れている(『北国紀行』)。「平頼数知る所」つまり、頼数が知行するところということで、常縁の跡は元胤ではなく頼数が継承したことがわかる。

 同文明17(1486)年9月12日、将軍・足利義尚(義煕に改名)が近江守護・六角高頼を攻めるため、直々に出陣した際に「東三郎」が供奉している(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』)。彼が元胤であるとするとすでに五十歳代後半に達していたと思われるが、いまだ任官をしていなかったということか。

 文明18(1486)年2月19日、「東左近将監頼数」が年始御礼として「東山様(足利義政)」に太刀と馬一匹を送っており(『親郷日記』)、頼数がまだ東家の当主であっただろうと推測できる。

 しかし、長享元(1487)年12月14日『蔭涼軒日録』の記述によれば、建仁寺霊泉院先住の正宗龍統相国寺蔭涼軒亀泉集證を訪ねて、「美濃国下田郷(郡上市美並町)」の代官職の事について話しているが(長享元(1487)年12月14日『蔭涼軒日録』)、この下田郷は我俗姪東之三郎本領相隣」とある。当時、下田郷は粥川氏の所領であったと思われ、東氏の所領とは隣りあっていたことがうかがえる。この「我俗姪東之三郎」は元胤と思われ、このころ「東三郎(元胤か)」が家督を継いでいたということになる。

 長享3(1489)年10月26日、正宗蔭涼軒亀泉清水寺での話の中で、「濃州知行」「我俗姪東中務「国方(守護・土岐勢か)」から攻められて「生害」に及んだか、と話している(『蔭涼軒日録』延徳元(1489)年10月26日条)が、この「我俗姪東中務」は時期的に元胤のことと思われる。

 ただし、この事件から2年後の延徳3(1491)年8月6月、「東中務」が京都四条道場=金蓮寺か=前(京都市下京区奈良物町か)において被官遠藤但馬守以下四名を討っており(『蔭涼軒日録』)、実際には自刃せずに生き残っていたことがうかがえる(遠藤盛胤の項目)。

 
 延徳三年八月六日
 
 ・・・東中務被官遠藤但馬守、同名二人、厩者一人、以上四員、於四條道場前、白日討之、蓋以中務也、

 没年は明応4(1495)年5月9日と伝わるが、不明。法名は栄樹院道潤了源

●『蔭涼軒日録』-長享元年12月14日条-(「白次」とは「もうしつぎ」)

 ・・・及帰霊泉正宗和尚来云、妙■■領美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣、彼代官職事、自寺家有契約者、自他可然事也如何、愚云、相尋寺家一左右可白云々、愚話正宗云、室町殿白次、安東右馬助勤之、桃井殿■■之云々如何、正宗云、我族也、与千葉同氏、平氏也、為伊勢守為敵流、以故於高倉御所、古伊勢真蓮入道為白次、時法体也、其子幼稚也、雖固辞不允、不能免、其弟為代為白次、其人会為安東被養、安東者藤氏也、名字姓氏、与格別者也、為養子謂者、昔安東某為赤松伊予守被害、無正体之故不被立御子孫、えん其弟也、以故還俗而可続其家之由雖督之、九峻拒而不就也、其後云、我一家已断絶了、願賜東之舎弟為我養子、可興安東家、於爰東之舎弟為安東其人為之代為白次、興安東■各別也、然於安東右馬助、掠公儀相話伊勢守為白次、天下曲事也、雑話移剋、専為賛詩礼謝来也云々、建仁寺進上折紙銭之事話正宗・・・

-「藤民部」と称する一族について-

 文明12(1480)年頃の御相伴衆走衆の中に、「藤民部中務少輔(政盛)」の名があり、足利義政の東山御移にも付き従っている。長享元(1487)年、六角高頼を討つために近江国へ出陣した足利義尚に従った人物に「藤民部又三郎政兼」があった。彼らは将軍家の「走衆」として供奉する一族である。「藤(東)氏」との関わりがうかがわれたが、幕府が康正2(1456)年に内裏造営のための段銭を課付した際、「藤民部又六郎殿」「尾州田中庄」の段銭課付が命じられていることから、郡上東氏とは関係のない家である。

 「藤民部」という一族は、文和4(1355)年2月25日『足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状』にはじめて名を見せる。前年12月、南朝に寝返っていた足利直冬・桃井直常・山名時氏らが京都をうかがい、尊氏は後光厳上皇を奉じて近江へ逃れたが。そして1月、直冬・直常・時氏らが京都へ入ると、播磨の嫡男・足利義詮の軍勢を京都へ向かわせ、尊氏勢と挟み撃ちの形となり、3月、直冬勢は摂津天王寺へ退却していった。『~連署一揆契約状』はこの一連の戦いにおいて、尊氏近習が一揆して強いきずなで結ぶために認めた連判状と思われる。

○文和4(1355)年2月25日『足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状』(『越前島津家文書』:『兵庫県史』所収)

福部氏重、糟屋越前了義、村上河内貞頼、伴四郎助長、島津忠兼、駒沢新蔵人義員、大和氏政、島津薩摩守忠春、宇津木師重、和泉五郎左衛門師忠、大草持継、さす(?)左衛門大夫道幸、村上掃部助氏頼、松岡弾正左衛門尉盛時、山口弾正氏衡、三浦越中次郎左衛門尉忠連、山下左京亮氏秀、筧兵庫通保、内ヶ島泰連、山下四郎左衛門氏郷、小笠原民部丞氏長、市弾正朝明、島津二郎左衛門範忠、市四郎左衛門信明、福部将監貞治、市九郎左衛門春明、森本顕景、市太郎左衛門氏明、新富政元、薬師寺勘解由左衛門義治、山口勘解由左衛門高衡、三村孫七為成、大和弥太郎政行、薬師寺修理進義夏、武田兵庫助信春、北村左近大夫守忠、小林五郎二郎久信、倉沢三郎左衛門尉盛氏、大屋三郎入道性善、田崎三郎左衛門尉頼重、井上清広、市行明、笠原氏匡、松浦十郎左衛門尉持、山下左衛門大夫政秀、藤民部五郎左衛門盛行、こほや(?)新五郎経光、藤民部新左衛門盛信、清水光宗、中村時光、白井弾正左衛門尉行胤、笠原中務入道匡蓮、佐貫宗綱

●元胤の生没年について●

(1)永享12(1440)年~????
(2)応永34(1427)年~明応4(1495)年5月9日(『東氏系図』)
(3)????       ~享禄元(1528)年8月10日

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