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東 益之(1376-1441)

 郡上東氏五代。東下総守師氏の子。通称は三郎。官途は左衛門尉式部少輔下野守。法号は友周。道号は素明。永和2(1376)年丙辰年生まれ。別名として「胤綱」が系譜では伝わっているが、胤綱は和良遠藤氏の「遠藤清左衛門」のことであるため別人である。

 幼少の頃、郡上東氏四代・東素[舟光](諱不明)の養嗣子となった。益之は幼少の頃、少々型破りな子どもであったようで、素[舟光]から「以心副心」という訓戒をうけ、生涯心の銘としていた。そして、美濃守護・土岐頼康(源善忠)「他姓父」つまり烏帽子親として元服。「割与濃之坪」とあるように美濃国武儀郡津保に所領が分け与えられた。元服がいつごろ行われたのか正確な年月は不明だが、嘉慶元(1387)年の土岐頼康の死までで、益之が十歳前後の時であろうと思われる。

 益之欲捨俗入真、扣江之山上霊仲之室、名以友周とあって(『故左金吾兼野州太守平公墳記』)、近江永源寺の禅僧・霊仲禅英に入門し「友周」と号していた時期があった。霊仲禅英は至徳元(1384)年に永源寺の住持となり、応永17(1410)年に入寂しており、益之が入門したのは嘉慶元(1387)年頃から応永17(1410)年までの間となる。

 ちょうどこの頃、康応元(1389)年4月、美濃国では頼康の跡を継いだ守護・土岐康行(頼康の養嗣子)が幕府から謀叛の疑いをかけられて追捕される事件(土岐康行の乱)が起こっており、美濃守護は幕府側の追捕使となっていた叔父・土岐頼忠へと与えられた。益之の出家は、親しい前守護・頼康善忠の死と現守護・康行の没落を目の当たりにしたためかもしれない。

 おそらく益之が近江国永源寺にいると思われる応永16(1409)年、美濃では「東ノ四郎煩」を聞いた守護・土岐頼益(土岐頼忠子)が、同年9月7日に郡上郡気良中保(郡上市明宝気良)に侵攻した。しかし、東氏の恩恵を受けていた郡上郡の人々は、郡内の中野川に砦を築いて土岐勢の侵略を許さず、頼益もついに侵攻をあきらめた(長滝寺文書『荘厳講記録』:白鳥町史)

 依東ノ四郎煩、土岐勢郡内発向、九月七日土岐一門悉気良中保マテ発向、当郡人々、一味同心シテ中野川ニ構要害云々、属無為里帰云々、

 このことから、おそらく東氏は「土岐康行の乱」の際にはほかの国人らとともに康行方につき、幕府側の土岐庶家・土岐頼忠、頼益父子とは対立関係にあったと推測できる。このころ益之の父・師氏は六十七歳、すでに出家して「素果 東下野入道を称しており、この「東ノ四郎」は益之の兄・東泰村(師氏の嫡子)であろう。しかし、泰村は早くに亡くなったとあり、玉洞禅庵を導師として祠が建てられた(『故左金吾兼野州太守平公墳記』)。その後、父・師氏の命によって益之は還俗させられており、兄・泰行の死によって空いた東家家督の継承を命じられたとみられる。益之には兄・江西龍派がいたが、彼はすでに建仁寺僧であったため、継承権者からは除かれていた。そこで、同族・東素[舟光]の養子となっていた益之が家督権者と定められたのだろう。益之の「益」はおそらく守護・土岐頼益の一字を受けたものと思われることから、近江から帰国して還俗した際に、その一字を賜ったということなのだろう。守護土岐氏と東氏の和睦の意があるのかもしれない。その時期は、頼益の侵攻があった応永16(1409)年から、益之自身が「益之」を称していた応永19(1412)年8月15日までの間となろう。益之が家督を継いだころ、養父の素[舟光]が亡くなり、益之は琳蔵庵を開いて禅僧を招いて祀っている(『故左金吾兼野州太守平公墳記』)

●『故左金吾兼野州太守平公墳記』を基本とした想像系譜

    +―行氏―――時常―――貞常―――素[舟光]====益之
    |
東胤行―+―氏村―――常顕―――師氏―+―泰村
                   |
                   +―江西龍派
                   |
                   +―益之――――正宗龍統

 家督を継いだ益之は上洛して幕府に出仕し、左衛門尉に叙任されている。また彼は乗馬や騎射を小笠原浄元から学び、念流を僧玄心から学び、文武両道の教養人に成長する。その後、信濃国で起こった反乱を鎮圧するため出陣、そののち「伊州国司反」にも出陣して志賀山に陣を張って比叡山を攻めた。この「伊州国司」とは伊勢国司・北畠満雅のことと思われ、満雅は正長元(1428)年12月に敗死した。

 益之は京都三条堀河に隠居の師氏入道とともに住し、郡上郡は嫡子・東氏数に任せていたか。応永19(1412)年8月15日、将軍・足利義持の八幡宮放生会参詣に供奉。このとき安東二郎祐氏がともに供奉人となっており、益之の次男・氏世はこの祐氏の養子となっていたのかもしれない(こちらも参照)。

●応永19(1412)年8月15日「八幡放生会供奉人」(『八幡社参記』:『後鏡』巻百廿三 義持将軍記十八)

帯刀侍 赤松出雲守則友、赤松左馬助義雅、赤松宮内少輔満政、赤松右馬助祐久、赤松左京亮則綱、赤松近江守満永、伊勢守貞経、海老名太郎左衛門尉持季、伊勢七郎左衛門尉貞家、伊勢兵庫助貞則、伊勢与一左衛門尉貞安、伊勢九郎右衛門尉盛綱、伊勢平三左衛門尉盛信、曾我平次持康、長佐渡三郎宗信、富樫兵部大輔満成、朝日因幡守満時、佐々木黒田備前守高宗、佐々木黒田九郎右衛門尉高清、佐々木鞍智四郎左衛門尉高信、佐々木越中四郎右衛門尉高泰、佐々木治部少輔満秀、佐々木加賀守高教
衛府侍 大和三郎右衛門尉持行、佐々木塩冶五郎右衛門尉満通、松田七郎右衛門尉信郷、遠山明智右馬助景澄、勝田太郎左衛門尉定長、宮二郎左衛門尉満信、東三郎左衛門尉益之、宮式部丞盛広、安東二郎祐氏、小早川四郎二郎持平

 益之は造園に長け、三条堀河の庭園も造っては壊して造りなおすという徹底ぶりであった。郡上の内政面でも、洪水や飢饉からの復興、新田開発に力を注いだという。

 また、東氏の宿命である和歌の道にも非常に長けた人物であり、応永28(1421)年1月16日、細川満元(入道道観)の月次歌会始に招待され、飛鳥井宋雅(雅縁)・雅清(雅世)父子らと同席、さらに22日には、常光院堯孝の草庵で、飛鳥井宋雅父子らとともに二十首を詠じ、24日には、招月庵清巖正徹・常光院堯孝らが三条堀川の益之邸に参じたため、十首を詠じた。24日の堯孝の歌は「遼遠帰路及晩頭の間、不及講頌無念云々」とあることから、益之は美濃郡上郡へ帰ったのだろう。ただ、2月29日に行われた赤松左京大夫満祐邸の歌会に「下野守」が出席しているので、この頃には在京で下野守に昇叙していたことがわかる(『慕風愚吟集』:「私家集大成五」)

 正月廿四日、平益之もとにて、たのめさるに、正徹書記、善節禅師なとにまかりあひ侍しかは十首歌よみ侍しに 
 
   別恋
 
  まれにあふ契りにこそうき中に かへるさとをきみちのくるしさ
 
  遼遠帰路及晩頭の間、不及講頌無念云々、別恋歌為晩如比詠之不可説之、
 

 3月2日、雪が降る中、益之は堯孝の草庵へ書状を遣わした。この中で、「久しく音信侍らぬに、雪のうちの消息めずらかに侍る」とあるように、しばらく手紙のやり取りもなかったことがうかがえ、正月25日から翌月下旬まで益之は美濃郡上郡へと戻っていたと思われる(『慕風愚吟集』:「私家集大成五」)

 下野守益之もとより、この雪いかになかめ侍るにてなと申て、
 
  春ふかき木のしたかせは名のみして そらにしらるヽ花のしら雪
 
 ひさしく音信侍らぬに雪のうちのせうそこめつらかに侍るよしなと返事し侍て、
 
  春ふかき雪と花とをさそひくる 木のしたかせのつてもめつらし

 4月、「平常顕東下野守法名素英の三十三回忌にあたって、子・素果師氏)が経の料紙のために親交のある人々から歌を詠んでもらっている。堯恵法印も歌を献じた(『慕風愚吟集』:「私家集大成五」)

 平常顕東下野守法名素英三十三年にあたりて、経の料紙のため、人々をすすめて、
 
 素果東下野入道、素英息一品経歌よませ侍りしに、分別功徳品を仏名聞十方広饒益衆生、 
 
  ほとヽきすいたらぬかたも夏のよや 月にまちきくよものさと人

 9月24日、益之は飛鳥井雅縁や、8月に管領職を退いた細川満元入道などとともに玉津島社頭に参篭して、寄神祝について29日の深更におよぶまで講義を行った。

 11月27日、益之邸において大神宮法楽のために百首が詠まれたが、ここには父の素果(師氏)と並んで「祐氏」という人物を見ることができる。「祐氏」は応永19(1412)年8月15日「八幡放生会供奉人」の中に見える「安東二郎祐氏」の事であろうと推測でき、益之の二男・氏世は彼の養子になって、安東氏を継承したとも考えられる(『慕風愚吟集』:「私家集大成五」)『堯孝法印日記』によれば、文安3(1446)年4月21日の畠山右馬頭入道仙室邸で行われた歌会に「下総入道素忻(氏数)」とともに「藤原氏世」が見え、彼はおそらく安東氏世であろうと思われる。

応永28年
(1421) 
正月16日
細川邸月次会始
飛鳥井入道中納言、亭主、左中将雅清、右馬助持元、阿波守基之、治部少輔頼重、左京大夫満祐、民部少輔持頼、中務少輔持之、細川弥九郎、加賀守高数、予、善節、兵部大輔持政、鞍智入道性高、波多野入道元尚、東下野守平益之・・・
正月24日
平益之邸歌会
正徹書記、善節禅師、堯孝僧都、東下野守益之
2月29日
赤松満祐邸歌会
飛黄門、管領、羽林、典厩、阿州、亭主、加州、予、兵部大輔、左馬助、善節、鞍智、下野守、藤原元久、重阿、貞能
9月24日
玉津島参篭
飛黄門、同羽林、同権中将、前管領、同右馬助、同中務少輔、同民部少輔、同弥九郎、阿波守、左京大夫、徹書記、重阿、元久、宝密、元重、元俊、元衡、元高、貞能、下野守益之、元康、範次、堯信、予
11月27日
平益之邸歌会
正徹、善節、素果益之祐氏、重阿、予

 永享元(1429)年2月7日、正徹は「下野守益之」の邸にて歌会を開いた(『草根集』)

 永享2(1430)年4月25日、将軍家御拝賀の際、後陣の衛府侍十騎の中に「東三郎左衛門尉」の名が見える。そして同年6月30日、「下野守益之」の邸に正徹、堯孝らがきて歌会が行われた(『草根集』)

 卅日、下野守益之家に堯孝僧都なときたりて、一続ありし中に・・・

 永享4(1432)年10月5日、「東下野入道素明」の邸から正徹の招月庵へ小者が遣わされ、益之の歌と朝露のついた菊の花をとどけた。益之は出家していることがわかる。

 五日、東下野入道素明所より小者をめしつかへとて菊の枝を朝露なからおりて、
 
  ふる霜のしたにあせ行冬みえは 又をきかへよ白菊の露
 
    返し
 
  年ふとも比霜なからをきかへし 未は一夜にしら菊の露

 『故左金吾兼野州太守平公墳記』には益之が「永享四歳、公年五十六、以病乞骸於朝、乃去鬚髪著方外服、自號素明」とあり(『故左金吾兼野州太守平公墳記』)、永享4(1432)年に病のため出家を遂げた事が見え、格物居士と自ら号し、鉄壁とも号した。

 10月12日、素明(益之)の邸で歌会が行われた(『草根集』)

 十二日 素明家にて題をさくりて、
 
   澤冬霰
 
  あさ沢や氷のうへにふる霰 なかれぬ水につもる雪かな(正徹)

 翌永享5(1433)年正月12日の招月庵における歌会には「下野入道素明」とともに長男の「同左衛門尉氏数」がはじめて列席していることから、出家と同時に嫡男・氏数に家督を譲ったと思われる(『草根集』)

 十二日 草庵に畠山阿波守、同右馬頭、山名中務大輔、下野入道素明同左衛門尉氏数なとヽもなひて続歌ありし中に・・・

 7月20日、「東入道素明」の邸で歌会が行われた。そして10月20日、後小松上皇が崩御したため、素明は正徹に哀傷歌を贈った(『草根集』)。実はこの前月の9月10日、妻(本通大姉)が亡くなっており、身内の死を重ね合わせた素明の気持ちも詠み込まれているのだろう。

 廿日 院のかくれさせ給て、世の中あはれにおほえし比、初雪ふりたりしつとめて、下野入道素明のもとより中をくられたし、
 
  消えやすきあわになふりそあはれ世の あけぬはこやの山の初雪
 
    返し
 
  跡そなきあわにふれとも初雪は きえぬはこやの山の下露  

 永享6(1434)年正月28日、「東下野入道素明」の邸にて新年の歌会が催された(『草根集』)

 廿八日 東下野入道素明家にて続歌ありしに・・・

 この年の冬、益之(素明)は父の十三回忌追善のために二十八首を勧進した(『草根集』)。ただし益之の父・師氏(素果)は応永33(1426)年冬に八十四歳で亡くなっている事から(『故左金吾兼野州太守平公墳記』)、師氏没後九年目ということになる。実際の師氏十三回忌は永享10(1436)年にあたること、益之五十の年に師氏が亡くなっている事を含んでいると思われる追善歌「古郷の親のある世にめくりきて 五十年の旅の身をそ恨る」があることなどから、おそらく『草根集』師氏十三回忌のことは正徹の年の記憶違い、または繰り上げての忌ということになる。

●『草根集』

 永享六年の冬の比、東下野守益之、父の十三年の追善のためとて、法花廿八品を勧進ありしに、懐旧所々詠之…

●『故左金吾兼野州太守平公墳記』

 然師氏不許、遂再還俗、応永三十三年、公年五十師氏卒、実八十四歳之冬也、兄江西、弟慕哲
苦海雨法船也、経紀喪事、共罄痛慟之誠、丁其十三回、長瀧寺将建塔婆、因需助縁、輙命工雕大日像、施一百余緡、懿裁為孝、軽財固可尚矣、而後塔遂不成、今同州有一十三重塔、購以、為尊主是也、

 永享10(1438)年、関東公方・足利持氏が6代将軍・足利義宣(のち義教)に対して挙兵する事件「永享の乱」がおこった。この永享の乱では、千葉一族の宗家・千葉介胤直が持氏と同調して幕府に反抗している。

 永享12(1440)年3月、益之は「讒者」に何事かを訴えられて周防国へと流された。何を讒言されたのかは不明だが、二年前に起こった永享の乱に内通を疑われたとも(『鎌倉公方九代記』)。益之は讒言について一言も弁明せず、「公謂禍福前定、此昨邪今邪、皆所自作之報也、豈可遽驚乎」と悟っている『故左金吾兼野州太守平公墳記』。これは、益之の出家時の号であった「友周」がすべてを物語り、讒言つまり「友が口を用い」ることによって「周(周防)を友とす」という定めであった、ということを暗示しているものと思われる。

●『故左金吾兼野州太守平公墳記』

 永享十二年庚申、年六十五、為讒者所劾、相不弁問其誣、遂黜周防州謂禍福前定、
 此昨邪今邪、皆所自作之報也、豈可遽驚乎、東華西海不二於懐、其中之所存者、人固能識之也、

 益之は配所へ赴く際、朱雀大路南端の西寺で、出家していた三男・宗祐と久しぶりの対面をしている。その後、配所に赴くにあたっては、従っていた二人の童子に着ていた衣を脱ぎ与えて離別。二童子はその後、高野山へ登り、後日益之の訃報が伝えられるとその冥福を祈ったという。

 益之の配流先である周防守護は、益之とは歌道の友であった大内新介持世だった。ある日、持世は益之に今の心を詠んだ歌を一首所望した。

 かそふれは 六十路あまりの老いのさか つれてそのほれ 山の端の月

 嘉吉元(1441)年、大内持世は上洛したときに将軍義教の前に益之のこの歌をわざと落とした。義教はこれを拾って熟覧し、感動して益之赦免を認め、持世へ益之を京都へ召還する旨を命じた。持世は喜び、ただちに国許へ使者を遣わして益之にその旨を伝えると、益之も身支度を整えて京へ向かった。しかし、同年4月3日、「西瀧不動堂」(石清水八幡宮の麓の杉山谷不動か)で亡くなった。享年六十六。益之の歌は永享11(1439)年6月27日に完成した『新続古今和歌集』一首が選ばれている。

 嫡男・氏数は父の死を聞くと使者を派遣して益之の遺骨を貰い受けるが、二つに分骨され、ひとつは「京之先壟霊泉(建仁寺霊泉院)と、益之開基の美濃国郡上郡木蛇寺に収められた。法名は称光院経雅常月


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