東氏 東氏胤

東氏
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東氏胤(1479-1547)

 系譜によれば東三郎元胤の子とされるが、東下野守常和や堯恵法印、三條西実隆といった東下野守常縁の関係者と所縁が深いことから、常縁の子孫である可能性が高く、本人が東常縁、東頼数、大坪基清の説を「当流ノ金言」としている点からも、東常縁の子孫、東頼数の子とも考えられる。官途は宮内少輔。のち師胤。号は素珊とも。【氏胤ほかの時系列】

■東氏想像系図■

 東益之─+─東氏数──────東元胤
(下野守)|(下総守)    (下総三郎)
     |          ∥───────東尚胤────東素山
     |          ∥      (下総守)  (寿昌院)
     |          慈永大姉
     |                
     |        +─東頼数─────東氏胤
     |        |(左近将監)  (宮内少輔)
     |        |
     +─東常縁────+─東常和───+─東常慶────東常堯
     |(下野守)   |(下野守)  |(下野守)  (七郎)
     |        |       |         
     +─正宗龍統   +─東胤氏   +─東素経
      (建仁寺住持) |(最勝院素純) (最勝院)
              |
              +─常庵龍崇
               (建仁寺住持)

 『古今和歌集』の東常縁流の正統を伝えるとされる『涇渭鈔』の注記に、

 道曉ニ聞侍キ、此哥ヲ末ニイルヽ子細……口伝也、秘々

とある(1)。なお、この一文の後ろに「明応弐年正月十二日書之 平朝臣氏胤」とある諸本もあり、明応2(1493)年正月に氏胤が道暁から口伝を受けたものとされる。ここから『涇渭鈔』は「道曉」の口伝を聞いてまとめたものとわかり、ここに見える「道曉」は『月花集拾遺』の奥書にある「明応二年三月日 東常縁弟子関東大坪治部少輔沙弥道教」と同一人物とされる(1)。

 東常縁の弟子として『桂宮智仁親王筆 古今相伝人数分量』(『郡上八幡町史』所収)に「大坪治部少輔基清 本名村上」が見え(2)、基清は『自讃歌注』(『自讃歌注十種集成』)の標語中の「文明十五年八月廿三日 大坪道曉」と同一人物とされる(3)。大坪治部少輔基清は文明3(1471)年6月12日から7月25日まで東常縁から古今和歌集について聴聞した「上総国大坪基清」のことであるが(1)(4)、本国は上総国市西郡村上村を本貫とする在地領主で、足利家の根本被官である。おそらく常縁同様に堀越公方の支援要員として三島に派遣された際に常縁と交流を持ち、古今伝受されたと思われる。氏胤はこの東常縁の直弟子・大坪基清入道道曉から古今伝受され、宗祇が広めた「宗祇流」東常縁説を受け継いだ「十代末葉」東素純と対抗すべく、明応2(1493)年、『涇渭鈔』を著したという(1)。この「十代」とは嚢祖東素暹以来である。

 明応3(1494)年頃、美濃国より「東宮内少輔氏胤」が詠草を常光院堯恵に送って合点を依頼した(『下葉集』)。堯恵は東常縁の兄弟子で、文明17(1485)年秋から文明18(1486)年にかけて、東常縁の子、東頼数、東常和へ再度の古今伝授を行った人物である(『北国紀行』)。

●二条流歌道の略系譜

二条為世─+─後宇多天皇 +─経賢───堯尋──堯孝─+─東常縁──+─宗祇───+─三条西実隆─+─東素経
     |       |             |      |      |       |
     +─二条為通  +─二条良基(摂関家)   |      |      +─東素純   +─東氏胤
     |       |             |      |
     +─頓阿────+─足利尊氏        |      +─東頼数────東素純
                           |      |
                           |      +─東常和────東氏胤
                           |      |
                           |      +─東素純
                           |      |
                           |      +─大坪基清
                           |
                           +─堯恵───+─東頼数
                           |      |
                           +─一条兼良 +─東常和──+─東氏胤
                           |             |
                           +─東元胤         +─木戸範実(二條冷泉合流)

 文亀元(1501)年7月11日、「東左近大夫常和」から「切帋(切紙)」によって古今伝受したことが『京大本古今集』の奥書「文亀元年七月十一日 代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」にあることからうかがえる。このころから氏胤は東素純と同様「十代末葉」を称するようになる(4)。

    +─行氏───時常───貞常───素[舟光]====益之
    |
東胤行─+─氏村───常顕─+─師氏─+─泰村
              |    |
              +─常長 +─江西派公
                   |
                   +─益之────正宗龍統

 氏胤は永正5(1508)年6月8日、周防長門の大名・大内義興の後援を得て将軍に返り咲いた足利義尹(のち義稙)の奉公衆として出仕していたようである。おそらく彼は義尹が京都から逃れる以前から奉公衆として傍近くに仕えていたのだろう。京都に舞い戻ると、氏胤は三条西実隆のもとに行くことを決心したようである。実隆は若くして宮中でも歌道講義を行うなど、評判の高い人物であった。実隆は宗祇から古今伝授を受け、宗祇の名を宮中に広めた要人である。宗祇自身もどうやら実隆のために三条西家領の問題を解決するなど政治的な活動をしていたようである。宗祇のみならず、常光院流の常光院堯盛、堯恵の弟子である鳥居小路經厚、猪苗代兼斎など当代の歌人と幅広く交流し、広く知識を得ていた。氏胤も堯恵亡きあと、宗祇や三条西実隆に勝る高名な歌人が見当たらなかったためか、三条西実隆を師と定めたようである。

●『実隆公記』

 七月廿七日癸亥
 
  東宮内少輔氏胤来初謁・・・ 
…
 九月十日巳乙 晴
 
  東宮内少輔来、新古今真名序授之了

 7月24日、京都の三条西実隆邸において、十八名の公家・歌人によって宗祇七回忌の追善和歌披講が行われた。さらに26日、27日の両日に法文連歌独吟七十句が行われたが、27日に「東宮内少輔氏胤」がはじめて実隆の邸を訪ねている。「新古今集」の講義を求めたと考えられる。 

 氏胤はそのまま京都に滞在し、8月3日にふたたび実隆の館を訪ねた。9月10日にも「東宮内少輔来りて、新古今真名序、これを授けおわんぬ」とある(『実隆公記』)。このころ、氏胤は「師胤」と名を改めたようである。

 なお、周防から上洛を果たした足利義尹は大内氏の支援のもとでなんとか京都に戻ってきており、その側近である奉公衆の生活は困窮の極みにあったのだろう。某年(永正5年か?)8月16日、奉公衆の「粟飯原三郎左衛門尉」が「依困窮」って「餓死」しかかり、遁世してしまった。そのため、義稙は当番の奉公衆三十名に心構えを諭したようだ。これに「東宮内少輔師胤」ら三十名の奉公衆は「各忝可存候由」を認めた連書状を義稙に提出している(『吉見文書』)。

 粟飯原三郎左衛門尉、依困窮及餓死之■、昨日十六日遁世仕候、対 上意申、更無別心緩怠通、以書状申入候由、相番中へ■申置候、以御憐愍、可然様被■食計候者、各忝可存候由、以御取合、御披露可畏入候、恐々謹言、
 
  八月十七日  下津屋与次郎
            信秀(花押)
           :
           :
         東宮内少輔
            師胤(花押)

         大和佐渡入道
            永存(花押)

         ■■新蔵人佐
            資継(花押)

 翌永正6(1509)年2月29日、「東宮内少輔師胤」が梅の花を京都の三条西家へ歌一首とともに贈り、3月8日、実隆は返事をしたためた(『再昌草』)。

 永正六年三月八日
 
    東宮内少輔師胤、二月廿九日梅花をヽくるとて、
  君がため波路しのきし松浦方 待こし梅の色香ならすや

    返事、程へてつかはし侍し
  色に猶のこる昔か梅花 浪ちしのきし心つくしは

 その後、師胤の名は諸書に見えなくなる。天文16(1547)年1月21日に69歳で亡くなったと伝えられる。法名は聖慶院知寶常光。

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◎東頼数・元胤・氏胤・常和・尚胤の時系列

元号 月日 名前 事柄 出典
宝徳3(1451)年 2月18日 元胤 ・・・二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世、元胤同道申て、罷て一座有・・・
・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・ 
『東野州聞書』
~17年~  
応仁2(1468)年 11月~12月 平縁数 足利義視が義政と不和になって坂本へ落ちた際、剃髪して詠んだ歌の署名。 『東家大々集』
応仁3(1469)年 4月 東縁数 下総の父・東常縁のもとへ駆けつける。 『鎌倉大草子』
応仁4(1470)年 4月21日 東縁数 「下総の国には子息縁数をとヾめ、四月廿一日東野州は上洛して・・・」 『鎌倉大草子』
~15年~  
文明17(1485)年 6月17日 右近将監平頼数 東家伝来の藤原俊成女筆『古今和歌集』を「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進。 『長瀧寺文書』
文明17(1485)年 秋~5月 平頼数 「みのの国平頼数しる所の山亭」に常縁同門の常光院堯恵が訪れ、堯恵に古今伝授を受ける。 『北国紀行』
文明18(1486)年 2月~5月 平常和 堯恵、相模国芦名の平常和(東下野守常縁二男)と出逢い、古今伝授を始める。 『北国紀行』
〃 2月19日 東左近将監頼数 年始御礼として「東山様」に太刀と馬一匹を送る。 『親郷日記』
〃 9月12日 東三郎 足利義尚の近江出陣に供奉。(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』)  
長享元(1487)年 12月14日 東之三郎 正宗龍統が蔭涼軒に語った言葉の中に、「美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣」 『蔭涼軒日録』
長享3(1489)年 正月15日 東将監 三条西実隆を訪問。この「東将監」は「東左近大夫常和」か。 『実隆公記』
〃 10月26日 東中務 正宗龍統が蔭涼軒と語った中に、「我俗姪東中務在濃州知行、自国方攻之、終可及生害乎」 『蔭涼軒日録』
延徳3(1491)年 8月6日 東中務 「東中務被官遠藤但馬守、同名者二人、厩者一人、以上四員、於四条道場前白日討之、蓋以中務命也」 『蔭涼軒日録』
~10年~  
文亀元(1501)年 7月11日 東左近大夫常和
氏胤
「東左近大夫常和」から「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」 『京大本古今集』
永正3(1506)年 2月 東下総守尚胤 「長空慈永大姉卒於栗城北萱之堂、転盻問生七云臨、孝子総州刺史平公尚胤虔就墳院…」 『祭慈永大姉文』
永正5(1508)年 3月11日 東下野守常和 「東下野守常和自相模国上洛、以民部卿挙達来携一桶、対面賜盃、談曩祖事等…」 『実隆公記』
〃 4月30日 東下野守常和 「東下野守平常和、百首歌みせ侍し、合点して返しつかはす奥に書付侍し」
「東下野守平常和来、明後日可下向云々、短冊所望、予書遣之由報了、百首合点遣之…」
『再昌草』
『実隆公記』
〃 5月2日 東下野守常和 「東下野守常和来、勧一盞、遣愚詠、今日可下向之所より」 『実隆公記』
〃 7月27日 東宮内少輔氏胤 三条西実隆の邸にて行われた宗祇七回忌の追善和歌披講の最終日に実隆邸を初訪問。 『実隆公記』
〃 8月3日 東宮内少輔 実隆邸を訪れて「新古今真名序授之了」 『実隆公記』
永正6(1509)年 2月29日 東宮内少輔師胤 師胤から贈られた梅の花と歌一首が三条西家へ届けられる。 『再昌草』
〃 3月8日 東宮内少輔師胤 三条西実隆から師胤に歌が届けられる。 『再昌草』
~8年~  
永正14(1517)年 10月 東下野守 実隆と和歌の贈答。 氏数は「千葉介」の妻の熱心な働きかけが見える。 『実隆公記』
永正16(1519)年 9月2日 千葉介守胤
同妻
東下野守常和
「千葉介守胤」「同妻」「常和」の百首歌合点の依頼が三条西実隆のもとへもたらされる。 『再章草』
永正17(1520)年 9月3日 東下野守    
大永3(1523)年 9月 東下総守■胤 武蔵国淵江から「東下総守胤?」から三条西実隆のもとへ和歌を記した書状が届く。 『再章草』
大永4(1524)年?   求浄斎素安 9月状の返事を実隆は12月10日に関東に遣わし、それに対する返書。 『再章草』
大永5(1525)年 9月6日 東下野守 「東下野守逝去由被語、不便々々・・・」  『実隆公記』
永禄元(1558)年? 6月17日 常慶   『宝幢坊文書』
永禄元(1558)年 8月7日 東下野守常慶
東七郎常堯
  『郡上藩家中記録』

【参考文献】

(1)青木賜鶴子「『古今涇渭鈔』の成立とその性格」/『女子大文学 国文篇』35
→氏胤の古今集関連の思想等、『古今涇渭鈔』の成立に関する詳細・綿密な考察をされている。また、参考文献の(2)(3)はこの文献からの教受である。
 ただし、氏胤が対抗したという東素純は、宗祇の弟子である一方で、①自身が「当流ノ金言」とする頼数(頼常。父・常縁から伝受)の弟子でもあること、②氏胤は常和からの伝授からわずか7年後に、宗祇の直弟子である三条西実隆に入門し真名序の伝授を受けていること、が挙げられるため、氏胤が素純に対して対抗意識を持っていたとは必ずしも言えない。

(2)林祝子「月花集拾遺について」/『大妻国文』9
(3)石川常彦『月花集拾遺 温泉寺本自讃歌注』解説
(4)井上宗雄、島津忠夫編『東常縁』和泉書院1995
(5)宮川葉子『三条西実隆と古典学』風間書房1995


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