大須賀氏

大須賀氏

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千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族

●大須賀惣領家想像系図

 大須賀胤信――通信――――――胤氏――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                           |
                           +―時朝――――――宗朝――+
                            (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正――――政常――――政朝―――政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――朝胤――――朝宗――――胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀宗朝(????-????)

 大須賀家6代当主。父は大須賀二郎左衛門尉時朝。母は不明。通称は太郎(『香取田所家蔵千葉系図断簡』)孫次郎(『宝応寺蔵大須賀系図』)。官途は左衛門尉下総守(下総前司)。

 元徳3(1331)年、多田彦四郎が香取神宮と相論した際、「千葉駿河守範真」が書を「大須賀下総守・結城六郎入道」へ発給してその対応をさせたというが、文書を確認していないため不明。

 幕府が滅んだ翌年の建武2(1335)年7月、最後の得宗高時入道の次男、相模二郎時行が挙兵して鎌倉に攻め寄せた。このとき鎌倉を守っていたのは足利尊氏の弟・足利直義であったが、彼は時行の軍勢に大敗して鎌倉から逃れた。その後、時行は鎌倉を占拠し、一時的に北条氏による鎌倉奪還が成功した(中先代の乱)。

 この報告を京都で受けた足利尊氏は、弟直義の救援と鎌倉奪還のため、後醍醐天皇に鎌倉下向を希望するが、尊氏はこれを拒否した。そのため、尊氏は勅許を得ることなく、在京の諸大名に鎌倉奪還に従軍するよう指示し、多くの大名が尊氏に従って鎌倉に攻め下った。そして、8月17日の「筥根合戦」の葦河上「凶徒大将三浦若狭判官」の軍勢に先駆けをして高名を挙げた「大須賀左衛門尉」が見えるが、時代から見て宗朝か(『足利宰相関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)

 また、8月19日の辻堂、片瀬原合戦で清見関の足利方に降伏してきた人物として、千葉一族では「千葉二郎左衛門尉」「大須賀四郎左衛門尉」「海上筑後前司」が見える(『足利宰相関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)

千葉二郎左衛門尉 千葉二郎左衛門尉胤朝 元徳2(1330)年に「殺害の咎に依」って所領を没収された 神崎流千葉氏
大須賀四郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉宗常?
大須賀四郎左衛門尉胤連?
元亨元(1321)年12月7日の陸奥国好嶋庄に関する書状
――――――――――――――――――――――――
大須賀氏
海上筑後前司 海上筑後守師胤   海上氏

 元亨元(1321)年12月7日には「大須賀四郎左衛門尉宗常」陸奥国好嶋庄の一方地頭であったが(『飯野文書』:『福島県史』資料編中世所収)、このときに降伏した「大須賀四郎左衛門尉」と同一人物であるとすればかなりの高齢となるため不明。ただし、大須賀氏が新政府方と中先代方に分かれていた事が察せられる。

●建武2(1335)年『足利宰相関東下向宿次合戦注文』(『神奈川県史』所収)

 …
 十七日 筥根合戦
 
   分取高名人数
 
 一所水飲 長井左衛門蔵人并佐々木佐渡判官入道等高名、頸取輩在之、不知名字、
 一所葦河上 大須賀左衛門尉懸先取頸了、頸取輩在之、不知名字、
 一所大平下 武蔵国住人大■五郎左衛門尉以下一党高名、
 一所湯本地蔵堂 片山兵庫以下御方数輩被疵了、云頸、云生捕、数輩在之、当所與宗之合戦也、
  兇徒大将三浦若狭判官
 …
 
 十九日 辻堂、片瀬原合戦
 
   御方打死人数
 
  三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
  土岐隠岐五郎 土岐伯耆入道孫
兵庫頭、同舎弟、
  味原三郎
 
   手負人
  
  佐々木備中前司父子 大高伊予権守
  味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
 
   降人於清見関参之、
 
  千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
  海上筑後前司 天野参川権守
  伊東六郎左衛門尉 丸六郎
  奥五郎
  諏訪上宮祝三河権守頼重法師於大御(後欠)
 

 康永3(1344)年2月9日、 足利家執事の高武蔵守師直は、千葉介氏胤に対して香取社の末社造営を早く進めるよう、「大須賀下総前司相具令催促」すべきことを命じている。

 宗朝は観応2(1351)年4月3日に亡くなったとされるが疑問。康永4(1345)年の『造営所役注文』には「一宇 北庁 大須賀保役所」として「地頭大須賀下総前司入道跡」と見え、「跡」とあることから、すでに宗時・宗信ら子息等に所領は継承されており、宗朝は康永4(1345)年にはすでに亡くなっていたのだろう。法名は大清院殿禪曜信宗大居士

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信――通信――――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +―時朝――――――宗朝――+―宗時
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
                                   |
                                   +―宗信―――憲宗
                                    (越後守)(左馬助)

奥州好嶋荘預所について

 元亨元(1321)年12月7日、好嶋荘八幡宮の供僧職に関わる相論へ対する『関東下知状』に、一族の「大須賀四郎左衛門尉宗常」陸奥国好嶋荘一方預所であったことが記されている。好嶋荘は承元元(1208)年に大須賀胤信が東西に二分し、長男・通信に東荘二郷(大野郷・紙谷郷)を、四男・小四郎胤村へは西荘一郷を分与する。

        〔好嶋東庄預所〕
 大須賀胤信―+―通信―――――+―胤氏―――――――朝氏―――――+―宗胤
(四郎)   |(太郎左衛門尉)|(左衛門尉)   (左衛門尉)  |(太郎)
       |        |                 |
       |        |                 +―時朝――――――宗朝――+―宗時
       |        |                  (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
       |        |〔好嶋東庄預所〕                       |
       |        +―信康―――――――宗常                   +―宗信―――憲宗
       |         (五郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)               (越後守)(左馬助)
       |
       +―多部田胤秀――――時綱―――――――胤連
       |(次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
       |
       |
       |〔好嶋西庄預所〕
       +―荒見胤村―――――朝胤―――――+―朝村
        (小四郎)    (太郎)    |(又太郎)
                         |
                         +―泰胤
                          (孫四郎)

 西荘預所はそれからわずか三年後の建暦元(1211)年には小四郎胤村の手を離れて三浦義村が有するようになる。胤村の弟・七郎重信八郎範胤はいずれも義村の「家子」となっており、また胤村の「村」が義村から受けているとすれば、胤村は義村烏帽子子と考えられ、大須賀一族と三浦氏との間には深い関わりが見えてくる。

 西荘預所職はその後、義村の子・三浦資村へ継承されたが、宝治元(1247)年の宝治合戦で三浦一族が滅んだ後は、北条義時の義兄・伊賀式部丞光宗へ与えられ、伊賀氏が継承していく。

 好嶋東庄のうち「陸奥国好嶋荘紙谷郷」は、胤氏「神四郎法師了義」へ沽却した「大須賀保内毛成・草毛両村」の替地として弘長3(1264)年、神四郎法師了義へ改めて与えている。この契約以前に胤氏が両村を「本間四郎左衛門尉」に二十年を限って質入していた事実が発覚し、これを知った法師了義が異議を申し立てたための措置だった。

 しかし、約束の二十年が過ぎると、本間四郎左衛門尉は、毛成村を大須賀家にではなく胤氏が沽却した相手・了義へ返却した。了義はすでに替地として「紙谷郷」をもらっていたにも関わらず、両村を大須賀家へ戻すことをせず、自らの所領として正応2(1289)年、毛成・草毛両村を円覚寺に寄進してしまった(『円覚寺文書』)。このことがきっかけで、宗朝の父・時朝は、延慶元(1308)年、円覚寺を相手に所領返還の訴訟を起こしている。この両村の訴訟沙汰は、永享年中(1429-1441)まで続く。

飯野八幡
飯野八幡宮

 元亨元(1321)年12月7日の『関東下知状』によれば、好嶋庄八幡宮は自ら供僧職を定め置く権限を持っていたことは、好嶋庄預所・千葉介常胤が建久3(1192)年8月3日に八幡宮に出した奉書によって明らかであるにも関わらず、「預所(好嶋西庄)」の伊賀前司頼泰は(おそらく供僧職の任免を巡ってトラブルがあり)八幡宮に乱入して家人を追い出した上、資財もすべて略奪したと主張した。一方、今は亡き伊賀前司頼泰の子・伊賀次郎左衛門尉光貞の代官「義直」は、「千葉介常胤発給の建久状は偽物である」と決めつけたうえ、供僧職を任命するのは預所の権限だと主張した。しかし、八幡宮の僧(と思われる)行勝と、東荘預所・大須賀四郎左衛門尉宗常は「常胤の建久状は本物である」と訴えた。

 こうして10月29日、幕府問注所において預所伊賀氏と八幡宮の裁判が執り行われた結果、八幡宮の源俊等を「濫訴」として預所伊賀氏の訴えが認められることになった。勝訴した伊賀氏は北条得宗家の家人であり、北条得宗家の後押しがあったと考えられる。

 康永3(1344)年4月19日、奥州探題・石塔義房入道秀慶「対治凶徒天下泰平家門繁衍昌」のために「陸奥国岩城郡飯野八幡宮」「同郡中平窪村三田彦四郎入道跡」を寄進しているが、これについて「海道七郡検断職」である相馬出羽権守親胤は4月26日、27日の両日にわたって伊賀三郎左衛門尉盛光の代官に三田彦四郎入道跡の打渡状を発給している『相馬親胤打渡状』。伊賀氏と八幡宮が争論した「好嶋庄八幡宮」は「岩城郡飯野八幡宮」のことであることから、伊賀氏はこの相論から20年後、鎌倉幕府が滅んだ後もまだ同地を支配していたことがわかる。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   観応2(1351)年 下総前司 大清院殿 禪曜信宗大居士
『寶應寺大須賀系図』     下総前司 信宗
『大須賀家蔵系図』   19歳 無官 善信居士

●元亨元(1321)年12月7日「関東下知状」(『陸奥飯野文書』:『千葉県史料』所収)

  僧源俊、宗純等与伊賀前司頼泰今者死去子息次郎左衛門尉光貞代義直
  相論陸奥国好嶋庄八幡宮供僧職事、

 右、源俊等則、当社者右大将家御時、崇敬異于他也、■■定置十二口供僧之條、
 千葉介常胤建久三年八月三日奉書分明也、頼泰以預所之号、任雅意追出家内、
 捜取資財之由申之、義直亦称建久状者某書也、預所成任符之段、■■御下知等炳訖之旨称之、
 爰就常胤状、僧行勝与一方預所大須賀四郎左衛門尉宗常番訴陳之上者、須其落居之由、
 両方申之間、閣今論之處、供僧職為可預所進止之旨、去十月廿九日被裁許訖、
 此上不及豫議、仍源俊等濫訴旁非沙汰限之状、仍鎌倉殿仰、下知如件、
   元亨元年十二月七日
                    相模守  平朝臣(花押:北条高時)
                    前武蔵守 平朝臣(花押:金沢貞顕)
 

●康永4(1345)年「造営所役注文」(『香取文書』:『千葉県史料』所収)

  注進 下総国香取太神宮廿一ヶ年一度造替諸社役所雑掌人事
 一当国諸御家人勤仕役所
 
  一宇 正神殿 千葉介貞胤
  一宇 同大床舞殿 当国上猿嶋郡役所 地頭常陸前司跡
  一宇 殿 当国大戸神崎両庄役所
  一宇 同大床舞殿 同役所
  一宇 仮殿 同役所
  一宇 内院中門 同北条庄南北役所 地頭飯高彦二郎以下
  一宇 楼門 同埴生印西庄役所
  一宇 東廻廊五間 同風早庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 二間廻廊
  一宇 西廻廊五間 同矢木庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 不開殿 同小見郷役所 地頭小見四郎左衛門入道跡
  一宇 佐土殿 同北条庄役所 地頭飯高彦二郎
           小鮎猿俣役所 地頭伊豆四郎入道
  一宇 財殿 葛西伊豆入道明蓮跡
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守跡
  一宇 若宮社 吉橋郷役所 地頭千葉介
  一宇 日御子社 同役所
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守跡
  一宇 息洲社 同役所
  一宇 南庁 結城山川庄役所 地頭結城七郎跡 山川判官跡
  一宇 北庁 大須賀保役所 地頭大須賀下総前司入道跡
  一宇 酒殿并高倉 遠山形役所
  一宇 外院中門 印西所役
  一宇 忍男 千田庄役所
  一宇 瞻男
     印東庄役所
  一鳥居 千葉介役所
  二鳥居 葛西伊豆入道明蓮跡
  三鳥居 当国大方庄役所
    已上廿九ヶ所
 
 一大行事造進所々
   …【中略】…
 
  色々御神宝物以下調進物 大行事所役也、

 右大概粗注進如件、
 
     康永四年三月   日

●応永3年4月26日『出羽権守親胤打渡状』(『飯野八幡社古文書』:『大日本史料』所収)

     打渡

  陸奥国岩城郡中平窪村三田彦四郎入道跡事

  右彼所者、同郡飯野八幡宮江任御寄進之旨、伊賀三郎左衛門尉盛光代官打渡之畢、
  仍渡状如件

       応永三年四月廿六日      出羽権守親胤(花押)


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大須賀宗時(????-????)

 大須賀家7代当主。父は大須賀下総守宗朝。母は不明。通称は下総次郎。官途は下総守。のち下総入道と号す(『宝応寺蔵大須賀系図』)

 具体的な活躍は不明だが、元徳2(1330)年に「千葉介家臣多田彦四郎与香取神主相論之決断之」とも(『宝応寺蔵大須賀系図』)

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信――通信――――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +―時朝――――――宗朝――+―宗時
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
                                   |
                                   +―宗信―――憲宗
                                    (越後守)(左馬助)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   永和3(1377)年 下総守 浄妙院殿 心覺宗源大居士
『寶應寺大須賀系図』     下総守  
『大須賀家蔵系図』 正応4(1291)年 観応2(1351)年 61歳 下総守 信性居士


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大須賀宗信(????-????)

 大須賀家8代当主。父は大須賀下総守宗朝か? 母は不明。通称は不明。官途は越後守。号は聖応

 元弘元(1331)年8月24日夜、関東と対立していた大覚寺統の後醍醐天皇は、三種の神器をもって内裏を脱出し、花山院師賢が身代わりに比叡山へ上りって関東勢が気を取られている間に、天皇は大和国境まで歩き、27日には笠置山笠置寺に籠って全国の武士に挙兵の号令をかけた。この報を受けた河内国出身の兵衛尉の官歴を持つ楠木兵衛尉正成が挙兵した。

 29日、関東に天皇挙兵の報がもたらされると、鎌倉では直ちに御家人が招集され、9月上旬も京都へ向けて出向した。この中に千葉介貞胤千葉太郎胤貞の両千葉家も上洛勢に加わっている。千葉介貞胤「千葉介 一族并伊賀国」とあることから、大須賀氏も貞胤に従っていたのだろう。年月欠の『洛中宿人在所注文断簡』(『南北朝遺文』)は、関東滅亡後の建武2(1335)年から建武3(1336)年までの文書であると考えられているが、四条坊門の石女一宇に「千葉介一族大須賀」が陣宿しており、時代から見て宗信であろう。鎌倉末の動乱の際にも千葉介の軍勢の一翼を担っていたと思われる。

 天皇が籠もっていた笠置山は、幕府軍の攻撃にあって9月28日に陥落。山林に逃れていた後醍醐天皇はじめ、万里小路藤房・花山院師賢・千種忠顕ら公卿も捕らえられた。このころ千葉介貞胤は幕府軍大将・大仏貞直の軍勢に加わって楠木正成一党の籠る河内国赤坂城を攻めており、幕府の大軍の前にさしもの天嶮も10月21日に陥落、正成らは逐電した(『増鏡』)

 捕らえられた後醍醐天皇は10月3日、六波羅探題に幽閉されたのち、三種の神器を持明院統の光厳天皇へ引き渡し、翌年の元弘2(1332)年3月7日、隠岐国へ配流となった。このとき、後醍醐天皇の護衛についた人物が、佐々木導譽を主将とする千葉介貞胤小山左衛門尉秀朝の三名、率いる武士は五百騎だった(『増鏡』)。隠岐国は佐々木一族が守護職にある国で、六角佐々木氏とならぶ京極佐々木導譽が主将に選ばれたのだろう。4月2日、天皇は隠岐国分寺へ到着したことが『続史愚抄』に記されている。

 『増鏡』によれば、貞胤は帰京直後、今度は下総国へ配流が決まった花山院師賢の護衛を命じられ、元弘2(1332)年5月10日、京都を発って下総へ下った。この旅の途路で、花山院師賢は様々な歌を詠んでいる。

今日までは ありとききても頼むなよ 猶行末もしらぬ命に          尾張国から都の家族へ宛てた和歌
海山を みる空もなしわが心 さながら君にこそへてこしかば             〃
契ありて 今日は三嶋のみたらしに 憂き影うつす墨染の袖         伊豆国三嶋大社へ詣でた際に詠んだ歌
こととひて いざさば茲に隅田川 鳥の名きくも都なりけり          隅田川の渡しで詠った歌

 花山院師賢は香取郡下総村に幽閉の身となるが、この地は大須賀氏の所領であり、「千葉介一族大須賀」として千葉介貞胤とともに上洛していたと思われる千葉一族の重鎮・大須賀宗信がこれを預かることとなったのだろう。師賢の館が建てられたのは、現在の成田市小帝であり、「館内」という字名も残る。

小御門神社

 師賢はこの地に移ったのもつかの間、心労からか病に罹り、わずか四か月後の10月29日に亡くなった。享年三十二。師賢の遺体は館の隣に築かれた塚に埋葬され、「公家塚」と呼ばれた。この公家塚の前に明治15(1882)年、師賢を祭神とする「小御門神社」が建てられた。

 建武2(1335)年7月、信濃国諏訪で鎌倉奪還を目指して挙兵した得宗高時入道の次男、相模次郎時行(亀寿丸)は、7月14日、信濃守護・小笠原信濃守貞宗の軍勢を潰滅すると、そのまま武蔵国になだれ込み、7月22日の井出沢の戦い(町田市)で足利直義(足利尊氏の弟)の軍勢を破り、7月25日には鎌倉を攻め落とした。ここからはじまる一連の戦いを「中先代の乱」という。鎌倉陥落の報を京都で受けた足利尊氏は、8月2日、後醍醐天皇の勅許を得ないまま、鎌倉奪還・足利直義ならびに足利一族救出のために京都を出陣して鎌倉へ向かった。

 尊氏の軍勢は三河国矢作で、武蔵国で敗れた足利直義の軍勢と合流。8月9日の遠江国橋本の戦いでは、「千田太郎」こと千葉太郎胤貞が軍功を挙げた。勢いに乗った足利勢は19日には箱根を越え、鎌倉を攻め落とした。このときの辻堂・片瀬原の戦いでは「千葉二郎左衛門尉」「大須賀四郎左衛門尉」「海上筑後前司」が降伏していることが『足利尊氏合戦注文』(『国立国会図書館所蔵文書』)に記されている。

千葉二郎左衛門尉 千葉二郎左衛門尉胤朝 元徳2(1330)年に「殺害の咎に依」って所領を没収された 神崎流千葉氏
大須賀四郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉宗常?
大須賀四郎左衛門尉胤連?
元亨元(1321)年12月7日の陸奥国好嶋庄に関する書状
――――――――――――――――――――――――
大須賀氏
海上筑後前司 海上筑後守師胤   海上氏

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信―+―通信―――――+―胤氏―――――――朝氏―――――+―宗胤
(四郎)   |(太郎左衛門尉)|(左衛門尉)   (左衛門尉)  |(太郎)
       |        |                 |
       |        |                 +―時朝――――――宗朝――+―宗時
       |        |                  (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
       |        |                               |
       |        +―信康―――――――宗常                   +―宗信―――憲宗
       |         (五郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)               (越後守)(左馬助)
       |
       +―多部田胤秀――――時綱―――――――胤連
       |(次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
       |
       +―成毛範胤―――――則泰―――――――胤時〔尊氏が籠る鎌倉を攻める新田義貞に三河で従う〕
        (八郎)     (左衛門尉)   (十郎)

 貞治4(1365)年12月26日の『鎌倉府下知状』には、「東弥六(盛義)・海上八郎入道(公胤)下総国東庄上代郷内土持を横領していることにつき、「国分遠江守(胤氏)・大須賀越後守(宗信)を使者として金沢称名寺雑掌に引き渡すよう命じている。

香取神社
香取神社

 貞治7(1368)年3月2日、千葉一族の宿老五人(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)が、「建永承元の御下知に任せて」、香取神領のことを保証することによって一揆(千葉一族一揆)の所願成就を達成することを願った『聖応等連署願文』『聖応誓阿連署書状』を香取神社に納めた。ここに見える「沙弥聖応」は宗信(生応・姓応)のことと思われ、貞治4(1365)年12月26日から翌年3月2日までの約二か月の間に出家をしたのだろう。

 『聖応誓阿連署書状』では「仰可有常州合戦候、此事鹿島東條大事候間」と、常陸国で戦乱が起こっていて、一族一揆のほかのメンバーはすでに出陣しており、我々も明日出陣すること、さらに中村入道性阿(千葉介満胤家人)が押領したところも香取社に帰属することを保証した書状を誓阿・聖応の両名をもって発給した。

名前 貞治7(1368)年4月25日 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康(孝山誓阿)
⇒これまで粟飯原清胤とされてきたが誤り。
 
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀(宏覚) 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 不明  
沙弥寿歓 国分三河守胤詮(千葉国分三河守入道寿歓) 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信(生応・性応) すでに没したと思われ、「大須賀左馬助(憲宗)」が就任

 応安4(1371)年に4月15日、大須賀聖応・大須賀左馬助は、金沢称名寺の末寺である大宝院(真言律宗)に対して、「大須賀保柴村内田壱町在家一宇屋敷荒野并奈土郷内下別当職」を寄進した(『金沢文庫文書』)

 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』、同年6月5日『鎌倉府執事奉書写』では「大須賀左馬助」が記されており、宗信の子・左馬助憲宗であろうと思われることから、左馬助憲宗と連署で大宝寺(金沢称名寺末寺)へ書状を発給した応安4(1371)年に4月15日から、応安7(1375)年までの4年の間に亡くなったと思われる。法名は大榮院殿感契生應大居士

「沙弥誓阿」について

 一族一揆の中心的な人物「沙弥誓阿」については、これまで『千葉大系図』をもとにして粟飯原下総守清胤(室町幕府政所執事)とされてきたが、この時点で清胤はすでに討死をしており、花押の形もまったく違うことから異なる人物と考えられる(『千葉氏と足利政権』「千葉史学」十二号 山田邦明氏)。粟飯原清胤が「下総守」であるところから誤解され続けていたのだろう。

 一方、千葉介宿老の木内氏には「下総介胤康」という人物が見え、法名は「孝山誓阿」である(『木内系図』)ことから、応安7(1375)年の『鎌倉府執事奉書写』と照らし合わせてみると、木内胤康が「誓阿」であろうか。『聖応等連署願文』『聖応誓阿連署書状』の中に見える「仍総州以下一揆為所願成就」とは「木内下総入道誓阿」以下の一族一揆の所願成就のために奉納した願書ということになろう。

●貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』

    金沢称名寺雑掌円爾申、下総国東庄上代郷内土持
    河嶋、原井渡野辺源内兵衛入道等跡事、

  訴状如此、東弥六、海上八郎入道押領云々太無謂、所詮、大須賀越後守相共莅彼所、
  任観応元年五月十九日御下知奉書、渡状等之旨、厳密沙汰付下知於寺家雑掌、
  可執進謂取之状。若不承引者載起請之詞可被注申、使節緩怠者可有其咎之状、
  依仰執達如件、

   貞治四年十二月廿六日   沙弥(花押)
     国分遠江守殿

●貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』

 任建永承元御下知、御神領之事、無子細可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、
 立願状如件、

    貞治七年三月二日        沙弥誓阿(花押)
                    沙弥宏覚(花押)
                    沙弥禅広(花押)
                    沙弥寿歓(花押)
                    沙弥聖応(花押)
  

●貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 長房所領等事、一揆御契状見候了、尤可然存候之間、御沙汰之時、
 可心得申候、就中当国安全祈祷事、殊以可令致精誠給之状如件、
 
   貞治七年三月六日   平長胤(花押)

●貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

  下総国千田庄多古郷内田地壱町事、
 
 右当社者、本朝無双之地、別者当国有縁之神、霊験異于他、誰不奉欽仰哉、
 爰生阿故中村入道為別駕之旧臣、為当所之政所、勤誇其権威、恣令押地神領、
 是故社人等、為達鬱訴於上聞、奉出神輿於仮殿、其間之星霜良積四ヶ年也、
 不測去々年貞治五之秋、竹壽丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之畢
 世以無其隠者也而氏政円城寺図書允以下之輩、非蔑如上裁而已、対于一族浄心
 取弓箭動干戈、是又三ヶ年也、次幹胤中村式部丞押寄宮中、依致合戦射立箭於神輿、
 令放火於殿、加之在々所々之神社仏事等、或逢破損之難、或稟回録之事、
 因茲田地者荒廃、黎民者失堵歟、世縦及澆季、神鑑争不至哉、冥慮不空、賞罰分明者、
 罰逆心、守当家、古語曰、神安者人即安、国安者民即安、文、測知神輿帰本座者、
 人又如元安穏歟、御帰座之費、其料分抜群也、為退散幹胤、令進発之間、依陣中忩劇、
 銭貨不足之餘、為償彼大営、所寄附小所也、微者著之始、小者大之赴也、志之所之、
 唯仰明鑑耳、就中神之為神者、依人之敬也、人之為人者、依神之助也、
 彼志趣全非限長胤父子息災、為竹壽及一揆之仁、兼又国土安全、万民快楽、
 寄進之状如件、
 
   貞治七年三月 日   平長胤(花押)
 

●貞治7(1368)年3月 日『聖応等連署安堵状』

 任代々御下知之旨、長房所領、小野、織幡、葛原、次十二ヶ村散在、犬丸、金丸以下村々、
 或云下知、或云所務、并屋敷田畠等事、依為御神領、悉可被還付長房由、総州方江可口入申候、
 仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、
      貞治七年三月 日        沙弥誓阿(花押)
                      沙弥宏覚(花押)
                      沙弥禅広(花押)
                      沙弥寿歓(花押)
                      沙弥聖応(花押)
  

●某年5月26日『聖応誓阿連署書状』

   其後何條御事候哉、仰可有常州合戦候、此事鹿島東條大事候間、一揆一族等、
   少々先罷越候、愚身も今明日之間罷越候、

 一、香取就神領事、御 輿を出申候て、於公方訴訟仕候時分御越候て、御輿奉成帰座候へ、
   中村入道性阿押領地可被帰之由、雖彼御状出候、其後一事以上無左様御沙汰候間、
   又御 輿を出申候て、可訴訟仕候由、社人等申候、然者以前御沙汰も無正体様覚候、
   且公方聞も不可然候、悉候ハすとも、一道御計も候て、社人等の心おもなく
   さめられ候へかしと存候、委細旨難尽書状候、恐々謹言、

        五月廿六日         沙弥誓阿(花押)
                      沙弥聖応(花押)
    謹上 上総次郎殿
 

 

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   明徳4(1393)年 越後守 大榮院殿 感契生應大居士
『寶應寺大須賀系図』     越後守 生應
『大須賀家蔵系図』 貞治3(1364)年 応永元(1394)年 31歳 越後守 姓應居士


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大須賀憲宗(????-????)

 大須賀家9代当主。父は大須賀越後守宗信。母は不明。通称は不明。官途は左馬助臼井上総介胤盛と並んで下総国守護代

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信――通信――――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +―時朝――――――宗朝――+―宗時
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
                                   |
                                   +―宗信―――憲宗
                                    (越後守)(左馬助)

 憲宗は、貞治4(1365)年の竹壽丸(千葉介満胤)の家督相続のとき、竹壽丸がまだ6歳と幼少であったため、鎌倉公方・足利氏満の命を受け、その後見人となった。憲宗の「憲」は関東執事・上杉憲顕(民部大輔入道道昌)からの偏諱かもしれない。

 このころ、大須賀憲宗ら鎌倉以来の千葉一族と、竹壽丸を擁している千葉家の直臣・中村氏などの対立が表面化した。千葉家の直臣・中村式部丞胤幹の父・入道弥六入道性阿は、かつて千葉介貞胤の代官として香取神領の奉行を務めていた人物であった。しかし、千葉介の権勢を背景に中村氏は次第に香取神領を押領。その子・中村胤幹は、香取大禰宜家と対立する香取社の神官を抱き込んで香取神宮を攻めたり、火を放ったりといった狼藉を行うようになった。こうした千葉介の権威を笠に着る千葉家直臣層に対抗するべく、満胤の後見人は「一族一揆」を結び、香取神社と組んだ。

名前 実名 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康?(孝山誓阿)
⇒これまで粟飯原清胤とされてきたが誤り。
――――――――
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀(宏覚) 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 不明 木内七郎兵衛入道(?)
沙弥寿歓 国分三河守胤詮(千葉国分三河守入道寿歓) 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信(生応・性応) 大須賀左馬助(聖応の子・憲宗)

 その一族一揆の代表者五人が、沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応だったたが、「沙弥聖応」こと大須賀宗信はすでに亡く、嫡男・左馬助憲宗がこれにかわって一族一揆に加わった。応安7(1374)年8月9日、鎌倉府は千葉介満胤の香取神領押領に関して、千葉一族にこれを退けるよう命じている『鎌倉府執事奉書』。この中には十一名の一族一揆のメンバーが記されており、下総国でかなり大きな力を持っていたことがうかがえる。

名前 法名 実名
木内七郎兵衛入道  
大隅次郎   千田義胤か?…木内胤康の義弟
相馬上野次郎 茂林 相馬左衛門尉胤宗か?
大須賀左馬助   大須賀左馬助憲宗
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分六郎兵衛入道   国分小六郎胤任?
国分越前五郎   国分越前五郎時常
国分与一   国分与一氏胤?
東次郎左衛門尉入道 沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀
神崎左衛門五郎   神崎左衛門五郎秀尚
那智左衛門蔵人入道 沙弥禅広?

 応永4(1397)年12月23日『足利氏満書状』には、法華寺・本妙寺、弘法寺の寺領として日暹が申し出ている『日尊譲状』『埴谷重義避状』の旨通りの知行地が実際に支配されているかどうか、「大須賀左馬助憲宗・臼井上総介胤盛」の両名を派遣して調べさせたところ、証文通り相違なく知行されていたことを認め、安堵したことが記されている。大須賀憲宗・臼井上総介胤盛は「守護代」としての任務に携わっていたと考えられ、国分氏とともに大須賀氏が巡察に命じられていたこともあった。「臼井上総介胤盛」は臼井氏中興の祖・臼井左近将監行胤の孫にあたる人物で、臼井六郎尚胤の次男である。

●応永4(1397)年12月23日の下総国八幡庄法花寺・本妙寺・弘法寺の免田

知行地名 知行形態 現在地
下総国八幡庄谷中郷 田畠在家  
         北方村 田畠在家 市川市北方・北方町・本北方
      曽谷郷 田畠在家  
         秋山村 田畠在家 松戸市秋山
   臼井庄神保郷小室村 田畠在家 船橋市小室町
         伊毛窪 田畠在家 船橋市神久保
         嶋田 田畠在家 船橋市島田
         平戸 田畠在家 船橋市平戸
         真木野 田畠在家 船橋市真木野
   千田庄原郷 所々堂免 香取郡多古町多古
      中村郷 田畠在家 香取郡多古町北中・南中
         三谷村 田畠在家
      金原郷 阿久山堂免 八日市場市阿久山
   千葉庄堀籠郷 屋敷一ヶ所  
   葛西御厨篠崎郷 田畠在家 江戸川区篠崎町・上篠崎・西篠崎・南篠崎・東篠崎
上総国周東郡末利上村中嶋 田畠在家 君津市中嶋

応安5(1372)年11月14日『将軍家御教書』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

   香取社大禰宜長房申条々
 
 一 当社造替、千葉竹壽丸大須賀左馬助等無沙汰事、
 一 常陸下総両国海夫事、
 一 実秋、実持中村式部丞胤幹等、対于神輿及狼藉、神人殺害、社宇放下以下事、
   以前条々、関白家就被執申、所有吹嘘也、神訴異于他歟、早厳密且被遵行之、
   且可被申左右、更無遅怠様、殊可有其沙汰之状、依仰執達如件、

    応安五年十一月十四日  武蔵守(花押:細川頼之)
      上椙兵部少輔入道殿(上杉能憲)
 

応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取神輿御帰座事、可致警固之状、依仰執達如件、
    応安七年四月二十五日     沙弥(在判)

     大須賀左馬助殿
  国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿四通同前、

応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社警固事、先立 神輿御帰座時被仰了、所詮神領静謐之程、
 可被致警固之状、依仰執達如件、

   応安七年六月五日     沙弥(在判)

   大須賀左馬助殿   国分三河入道殿
   東次郎左衛門入道殿 木内七郎兵衛入道殿四通同前、

応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、
 所被仰両使也、早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件、

   応安七年八月九日     沙弥(在判)

    木内七郎兵衛入道殿

   ※大隅次郎、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、国分六郎兵衛入道、
    国分越前五郎、国分与一、東次郎左衛門尉、木内七郎左衛門入道、野崎左衛門五郎、
    那智左衛門蔵人入道、に同文書
 

応永4(1397)年12月23日『足利氏満書状』(『中山法華経寺文書』)

 治部卿大僧都日暹申、下総国八幡庄法花寺本妙寺弘法寺等免田
 谷中郷并北方村内田畠在家、同庄曽谷郷田畠在家、同郷秋山村内田畠在家、
 臼井庄神保郷小室村、同伊毛窪嶋田平戸真木野等村々田畠在家、
 同国千田庄原郷内所々堂免、同庄中村郷内田畠在家、同三谷村内田畠在家、
 金原郷内阿久山堂免以下千葉庄堀籠郷内屋敷壱ヶ所、葛西御厨篠崎郷内田畠在家、
 上総国周東郡末利上村中嶋内田畠在家等、任師匠日尊譲状重義避状之旨、
 相伝当知行実否可支申仁有無被尋、証人大須賀左馬助憲宗、臼井上総介胤盛之處、
 證文無相違之上者、安堵事可有申沙汰候哉、恐々謹言

    応永四年十二月廿三日     氏満(花押)
     右衛門督入道殿


書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   応永17(1410)年 左馬助 憲章院殿 明應聖哲大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     左馬助 聖哲居士
『大須賀家蔵系図』 至徳3(1386)年 応永20(1413)年 28歳 右馬助 聖哲大居士

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