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東常堯 東常尭(????-1583)

 郡上東氏十二代。東下野守常慶の嫡男。通称は七郎。妻は内ヶ島兵庫頭氏理娘。

■東氏想像系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤――――+―氏胤
(下野守)|(下総守)   (三郎)   |(宮内少輔)
     |               |
     |               +―尚胤――――素山
     |                (下総守) (寿昌院)
     |
     |       +―頼数    +―常慶――――常堯
     |       |(左近将監) |(下野守) (七郎)
     |       |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―素経
     |(下野守)  |(下野守)   (最勝院)
     |       | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) 
             |
             +―常庵龍崇
              (建仁寺住持)

篠脇城と東氏館跡
篠脇城と東氏館跡

 天文9(1540)年8月、越前の朝倉義景の郡上侵攻があり、篠脇城を取り囲まれたという。しかし篠脇城は堅固であったため、朝倉勢はかえって返り討ちとなり、多数の犠牲者を出しながら越前へと退いた。この戦いで篠脇城や城下は荒れたのか、東下野守常慶は翌天文10(1541)年、吉田川沿いの赤谷山(八幡町島谷)に城を築いて移り住んだという。

 天文18(1549)年、常堯は飛騨国の帰雲城主・内ヶ島兵庫頭の娘を娶ることとなった(『常慶ヨリ慶利迄縁家之図』:「郡上八幡町史」所収)

+―内ヶ島氏理―――
|(兵庫頭)    ∥
|         ∥
| 東常慶―――+―東常堯                 粥川小十郎
|(下野守)  |(七郎)                  ∥
|       |                      ∥
|       +―     +―遠藤慶胤――遠藤慶重―+―娘
|       |(照用院)  |(助治郎) (長助)  |
|       | ∥     |            |
|       | ∥―――――+―遠藤慶隆       +―娘
|       | 遠藤盛数   (但馬守)         ∥
|       |(六郎左衛門尉)              ∥
|       |                      ∥
|       +―      (郡上藩召出百五十石)   ∥
|         ∥―――――――徳方――――――――内ヶ島勘左衛門
+―応円――――――意休     (経聞坊治部卿)  (経聞坊寺役)
 (長滝寺経聞坊)         ∥
                  ∥
         三木伊予守――――娘

 朝倉氏や三木氏(姉小路氏)の侵入を防ぐためには、内ヶ島氏との連携は重要な意味を持っていたのだろう。「内ヶ島兵庫頭と申人之弟」である「應圓(応円)」長瀧寺経聞坊を継承しているが、彼の子・意休「東下野守様聟」であり、時代的に見ると常堯の姉妹が内ヶ島氏理の甥・意休に嫁いでいると思われることから、東氏は内ヶ島氏と二重の縁で結ばれていたことがうかがえる(『経聞坊慶祐同坊由緒書』「岐阜県史」)。そして、永禄元(1558)年ごろ、常慶から家督を譲られたと思われる。

 郡上藩主遠藤家に伝わる伝承によれば、常堯は素行が悪く、人望のない人物であったという。そんな彼は、遠藤新兵衛胤縁に娘を妻にと申し込むが胤縁は常堯を嫌い、畑佐備後守に彼女を娶せてしまった。常堯はこれを恨んで、永禄2(1559)年8月1日の「八朔の礼」に際し、常慶・常堯に祝辞を述べるために登城する胤縁を、常堯が配した長瀬大膳に命じて撃ち殺したという。

東殿山(左)と赤谷山(右奥)
東殿山(左)と赤谷山(右奥)

 胤縁暗殺の報告を木越城で受けた胤縁の弟・遠藤六郎左衛門尉盛数は、胤縁の子・遠藤新右衛門胤俊を伴い、東氏居城・赤谷山とは吉田川を挟んだ対岸・八幡山に砦を築いて東氏に反旗を翻し、赤谷山を攻めて8月24日、ついに赤谷山城を攻め落とした。

 常堯の父で、盛数の舅・東下野守常慶は自刃し、常堯は城を脱して舅・内ヶ島氏理を頼って飛騨国白川郷に逃れたという。

 常堯は郡上郡北部に何度となく出兵して郡上郡の回復を目指すも果たせず、天正13(1583)年11月29日におこった天正大地震によって、内ヶ島氏の居城・帰雲城が崩壊。城の麓にあったといわれる内ヶ島家の館も山津波に襲われ、常堯は内ヶ島一族、住民など五百余名の命とともに亡くなった。享年は不明。

 東家を郡上から追った遠藤盛数は実質的に郡上郡の領主となり、東家の赤谷山城を廃して、吉田川をはさんだ対岸の八幡山に城を築いて、木越城から本拠を移した。盛数の嫡男・遠藤新六郎慶隆の母は東常慶の娘であり、東氏の血をひいている。慶隆は知将として知られ、織田氏、豊臣氏と的確に主君を乗り換え、関ヶ原の戦いでは東軍に属したため、江戸時代には郡上八幡五万石の大名として取り立てられた。しかし、江戸時代中期、跡継ぎ問題のために郡上藩は改易。祖の功績が認められて、あらためて近江国甲賀郡三上に一万石で入封して三上藩を立藩。明治維新を迎えた。

 明治になり、最後の藩主・遠藤胤城は勅許を得て、氏を「東」に改めた。

 しかし、東七郎常堯は伝えられている通りの暗愚な領主であったのだろうか。『寛政重修諸家譜』の「遠藤盛数」の項には、

永禄二年、常慶嫡子常堯、年来不動の行あるにより、家臣及び郡中の者みなこれを疎む。之によりて常慶、常堯を廃し、聟盛数をして家継しめむことを議す。常堯これを恨み、兵を以って強いて家督を継むとす。盛数、常慶が命を受けて常堯を攻。常堯戦ひ負て飛騨国白河に走る。これより盛数、常慶が養子となりて家を継ぐ

とある。内容を見ると、常慶はわが子・常堯の行いが悪いから、常堯を廃して聟・盛数を家督にしようとしたと記載されている。さらに、常堯が兵を挙げて家督を強奪しようとしたため、常慶は盛数にわが子・常堯の討伐を命じたという。しかし、常慶は盛数との戦いで自害したことになっているので、この記述は矛盾がある。

 盛数の兄・胤縁は東常堯によって殺害されたことになっているが、これは事実なのかもしれない。遠藤氏は東氏被官中でも有数の勢力を持っていたようで、また、主の東家は「仇」であったのかもしれない。盛数の祖と思われる「遠藤但馬守」と遠藤一族二名が延徳3(1491)年8月6月、「東中務(元胤か)」の命を受けた討手によって京都四条道場(金蓮寺か)前(京都市下京区奈良物町か)で討たれている(『蔭涼軒日録』)。世代的には盛数の曽祖父代に当たり、系譜上の遠藤八左衛門盛胤の代となる。東氏と遠藤氏はこの頃から確執が深まっていたのかもしれない。

八幡山遠景
八幡山遠景

 東常慶に仕えた遠藤胤縁盛数兄弟の権勢は先祖と同様に大きかったのだろう。和田氏や鷲見氏を討ち、郡上の統一を図った常慶に最後に立ちはだかったのが、この両名だったのかもしれない。遠藤盛数常慶にとっては婿でもあり、東一族として権勢は揺るぎないものだったのだろう。永禄元(1558)年ごろ東家の家督を継いだと思われる常堯にとっても、遠藤氏の権勢は目の上の瘤であったと思われる。そして常堯は翌永禄2(1559)年8月1日の「八朔」を利用し、赤谷山に登城してきた遠藤新兵衛胤縁を暗殺。次いで義兄の盛数をも討とうとしたのだろう。しかし歴戦の士である盛数の行動は早く、赤谷山を攻めて常慶を自害させ、常堯を追った、というのが真相なのかもしれない。あくまで想像である。

 そもそも、遠藤家は祖先を東常縁の末子・遠藤六左衛門盛胤としているが、この人物は常縁の手紙や文書、常縁と親交のあった宗祇や三条西実隆、堯孝、堯恵らの文書にも一切現れず、盛胤・胤好父子は『寛政重修諸家譜』にも略歴すら記されていない。『美濃明細記』には「遠藤但馬守盛胤」が記されており、郡上藩遠藤氏はこの系統か?(遠藤盛胤の項目)

 遠藤家は鎌倉時代より東家の家臣として名が見えており、弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会で七番の流鏑馬が行われた際、その五番手の「東六郎左衛門尉平行氏法師」の射手として「遠藤左衛門三郎盛氏」が見える(『勘仲記』補史料大成所収)。その後も、室町時代中期の明徳3(1392)年8月25日の相国寺供養で東下総守師氏の介添として「遠藤修理亮顕基・遠藤新左衛門尉顕保・遠藤郡左衛門大夫顕久・遠藤兵庫助氏遠」が見える。さらに下って東下野守常和の被官に「遠藤越中守基保」があり、遠藤氏は東氏の家臣中でもかなりの古い家柄であったことがうかがえる。その中には東氏と縁戚になった人物もあったと思われ、東氏と遠藤氏が同族として認識されるほどであったのかもしれない。ただし、実際には遠藤氏は東氏の子孫ではなく、遠藤氏が主君である東氏の所領を事実上奪い取ったことは、江戸時代においては芳しいことではなかったのだろう。郡上藩三代藩主・遠藤備前守常友の代に遠藤家家譜の編纂を命じられた桜井玄登、餌取八郎右衛門、伊藤玄伯らは東氏から遠藤氏に郡上の支配権が移った次第を正当化するために、様々に改竄したようである。江戸中期の新井白石『藩翰譜』の中で改竄の可能性に言及している。

●某年8月7日『東常慶・東常堯連署状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

 執行進退之儀、今度悪党同意其上不相届子細重々之儀ニ候条、彼一類於末代雖立置間敷候、詫言段達而蒙仰候間難去貴坊、免申候、然間被官之儀可申付之由、存分之分是又種々承候、然者治部卿殿へ為被官進之置候、於永代子々孫々不可有相違候、万一悪逆之分忌存於令違輩ハ則彼跡職之義可被仰付候、仍為後日状如件
 
                 七郎
     八月七日         常堯(花押)
                 下野守
                  常慶(花押)
   経 聞 坊
        御同宿中
 
   白鳥別当職之事

●某年8月2日『東常堯折紙』(『経聞坊文書』:岐阜県史 史料編 古代・中世一所収)

 
 今度御馳走祝著候、仍本意上ニ而、先千疋末代おゐて可令扶持候、仍如件、
 
                     
    八月十二日             常堯(花押)
 
     大蔵公
   まいる
 

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◎東頼数・元胤・氏胤・常和・尚胤の時系列

元号 月日 名前 事柄 出典
宝徳3(1451)年 2月18日 元胤 ・・・二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世、元胤同道申て、罷て一座有・・・
・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・ 
『東野州聞書』
~17年~  
応仁2(1468)年 11月~12月 平縁数 足利義視が義政と不和になって坂本へ落ちた際、剃髪して詠んだ歌の署名。 『東家大々集』
応仁3(1469)年 4月 東縁数 下総の父・東常縁のもとへ駆けつける。 『鎌倉大草子』
応仁4(1470)年 4月21日 東縁数 「下総の国には子息縁数をとヾめ、四月廿一日東野州は上洛して・・・」 『鎌倉大草子』
~15年~  
文明17(1485)年 6月17日 右近将監平頼数 東家伝来の藤原俊成女筆『古今和歌集』を「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進。 『長瀧寺文書』
文明17(1485)年 秋~5月 平頼数 「みのの国平頼数しる所の山亭」に常縁同門の常光院堯恵が訪れ、堯恵に古今伝授を受ける。 『北国紀行』
文明18(1486)年 2月~5月 平常和 堯恵、相模国芦名の平常和(東下野守常縁二男)と出逢い、古今伝授を始める。 『北国紀行』
2月19日 東左近将監頼数 年始御礼として「東山様」に太刀と馬一匹を送る。 『親郷日記』
9月12日 東三郎 足利義尚の近江出陣に供奉。(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』)  
長享元(1487)年 12月14日 東之三郎 正宗龍統が蔭涼軒に語った言葉の中に、「美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣」 『蔭涼軒日録』
長享3(1489)年 正月15日 東将監 三条西実隆を訪問。この「東将監」は「東左近大夫常和」か。 『実隆公記』
10月26日 東中務 正宗龍統が蔭涼軒と語った中に、「我俗姪東中務在濃州知行、自国方攻之、終可及生害乎」 『蔭涼軒日録』
延徳3(1491)年 8月6日 東中務 「東中務被官遠藤但馬守、同名者二人、厩者一人、以上四員、於四条道場前白日討之、蓋以中務命也」 『蔭涼軒日録』
~10年~  
文亀元(1501)年 7月11日 東左近大夫常和
氏胤
「東左近大夫常和」から「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」 『京大本古今集』
永正3(1506)年 2月 東下総守尚胤 「長空慈永大姉卒於栗城北萱之堂、転盻問生七云臨、孝子総州刺史平公尚胤虔就墳院…」 『祭慈永大姉文』
永正5(1508)年 3月11日 東下野守常和 「東下野守常和自相模国上洛、以民部卿挙達来携一桶、対面賜盃、談曩祖事等…」 『実隆公記』
4月30日 東下野守常和 「東下野守平常和、百首歌みせ侍し、合点して返しつかはす奥に書付侍し」
「東下野守平常和来、明後日可下向云々、短冊所望、予書遣之由報了、百首合点遣之…」
『再昌草』
『実隆公記』
5月2日 東下野守常和 「東下野守常和来、勧一盞、遣愚詠、今日可下向之所より」 『実隆公記』
7月27日 東宮内少輔氏胤 三条西実隆の邸にて行われた宗祇七回忌の追善和歌披講の最終日に実隆邸を初訪問。 『実隆公記』
8月3日 東宮内少輔 実隆邸を訪れて「新古今真名序授之了」 『実隆公記』
永正6(1509)年 2月29日 東宮内少輔師胤 師胤から贈られた梅の花と歌一首が三条西家へ届けられる。 『再昌草』
3月8日 東宮内少輔師胤 三条西実隆から師胤に歌が届けられる。 『再昌草』
~8年~  
永正14(1517)年 10月 東下野守 実隆と和歌の贈答。 氏数は「千葉介」の妻の熱心な働きかけが見える。 『実隆公記』
永正16(1519)年 9月2日 千葉介守胤
同妻
東下野守常和
「千葉介守胤」「同妻」「常和」の百首歌合点の依頼が三条西実隆のもとへもたらされる。 『再章草』
永正17(1520)年 9月3日 東下野守 関東東氏内の一般代の隠居。ひゃくにんいっしゅお  
大永3(1523)年 9月 東下総守■胤 武蔵国淵江から「東下総守胤?」から三条西実隆のもとへ和歌を記した書状が届く。 『再章草』
大永4(1524)年?   求浄斎素安 9月状の返事を実隆は12月10日に関東に遣わし、それに対する返書。 『再章草』
大永5(1525)年 9月6日 東下野守 東下野守逝去由被語、不便々々・・・」  『実隆公記』
永禄元(1558)年? 6月17日 常慶   『宝幢坊文書』
永禄元(1558)年 8月7日 東下野守常慶
東七郎常堯
  『郡上藩家中記録』

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●東氏の家臣●

郡上東氏  遠藤・野田、埴生・粟飯原・土松・日置・尾藤・滝日・和田・餌取・石神・井股・土屋・村上・河合・市村・増田

●諸書の東氏系図

『千葉大系図』

●東胤綱―――常縁―――頼数―――――元胤――――常知――――氏胤―――――尚胤――――常氏―――――常数――
  式部少輔  下野守  宮内少輔   下野守   大和守   宮内少輔   下総守   宮内少輔   宮内少輔
  素明    素伝   素光     三郎    兵庫頭   素純     素経    素山     素縁

『松羅館本千葉系図』

●東胤綱(益之)――――+―氏数――――+―元胤――――常慶
  式部少輔・下総守  |  下野守  |  三郎    下野守
  素明        |  宗玄   |  早世す
            |       |     
            |       +―氏胤
            |          中務・宮内少輔
            |          素珊
            |
            +―東常縁―――+―頼数
               下野守  |  宮内少輔
               素伝   |  素光     
                    |
                    +―常和―――――胤氏―――――尚胤――――常氏
                       左近大夫          下総守   宮内少輔
                              素純     素経     素山

『系図簒要』(官途は代表的なもの)

●東益之(胤綱)――――+―氏数――――+=常縁(養子)――――――+―元胤(元数)―+―常慶
  式部少輔      |  下野守  |  下野守        |  下野守   |
  素明・乗明     |  素玄   |  書錦居士       |        |
            |       |             |        +―尚胤――――胤氏
            +―野田常縁  +―頼数(常政)―胤氏   |           下総守
                       宮内少輔   素純  |           素光    素山
                                  |    
                                  +―常和―――――――素昌
                                     下野守・歌人


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