相馬郡手賀の原氏

手賀沼 原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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―江戸町奉行所与力原氏《手賀原氏末裔》―

原胤親―+―原久胤          +―原胤一
(筑前守)|(内蔵助)         |(善左衛門)
     |              |        
     +―原胤次―――+―原胤重――+―原胤政―+=原胤中――――原胤成―――原胤正―――原胤明―――+
      (兵右衛門) |(兵右衛門)(兵左衛門)|(善左衛門) (兵右衛門)(兵左衛門)(兵左衛門) |
             |            | ∥                        |
             +―主馬助        +―久米                       |
                          |                          |
                          |                          |
                          |【田中藩家老】                   |
                          +―神谷安定                     |
                           (忠兵衛)                     |
                                                     |
     +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
     |
     +―原胤輝―――原胤豫――+―原胤保===原胤昭
      (鶴右衛門)(善左衛門)|(定太郎) (弥三郎)
                  |  
                  +―登喜
                    ∥―――+―佐久間長敬
                    ∥   |(健三郎)
                    ∥   |
                  佐久間長興 +―糸子
                 (健三郎)  | ∥――――――高瀬静谷
                        | 高瀬美佐男 
                        |
                        +―原胤昭


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原 胤親 (????-1588?)

 初代手賀原氏当主。臼井城主・原上総介胤貞の二男と伝わるが、実際は不明。通称は筑前守。妻は府川城主・豊島三郎兵衛尉源頼継息の女

 なお「原筑前守」を称した原氏として、嘉吉4(1444)年4月19日に亡くなった「原筑前守」が見える(『本土寺過去帳』)。胤親はこの嘉吉年中に亡くなった「原筑前守」の子孫である可能性もある。また、このころ、手賀隣接の蓬莱山弘誓院福満寺『洪鐘新建募縁録』「高城下野守胤則、原兵部少輔胤定、相馬弥七郎胤光等大檀那珍宝捨拾」とあり、原兵部少輔胤定が胤親の父で、臼井の原上総介胤貞と同じ諱であることで混同された可能性もある。

手賀城址
手賀城址

 原氏と相馬郡手賀村(柏市手賀)の関係は、室町後期の永正年頃(1504~)に原上総介胤貞千葉介勝胤から六百貫文を給わったことが始まりとされているが、胤貞の祖父にあたる原宮内少輔胤隆が天文5(1536)年7月11日、手賀とは目と鼻の先である豊島氏の居城・相馬郡布川城で没しており、相馬郡と原氏の関係はすでに胤隆の時代にはあったと思われる。時代的に見ても胤貞が千葉介勝胤から手賀村を給付されたとは考えにくく、その祖父・原胤隆が給わったと考えるのが妥当と思われる。家臣(大山氏、染谷氏、粟飯原氏、深山氏、篠原氏、湯浅氏、岩立氏など)を派遣して治めていたのかもしれない。

 手賀村は胤隆(宮内少輔)・胤清(式部少輔)・胤貞(上総介)が代々継承し、胤貞の二男・原筑前守胤親が派遣されて直接支配が始まったか。信憑性には疑問があるが『小金城主高城家之由来』によれば、永禄7(1564)年の第二次国府台の戦いで手賀衆の出陣が記されていて、記述がたしかであれば胤親が兵を率いて参戦していたか。

 しかし、主君である千葉宗家との関係、兄の原式部大夫胤栄とは不仲であったのか、天正7(1579)年4月6日、千葉介邦胤の命を受けた原胤栄と手賀郷近辺で戦いを繰り広げたという沼南町の歴史。ただし、我孫子市都部の曹洞宗正泉寺(原家菩提寺)に伝わる『正泉寺過去帳』によると胤親の没年は「天正六寅年九月廿六日」とあり、手賀合戦の前年に亡くなっていることになっている。一方、同寺の胤親の位牌には、「天正十六戌子暦九月廿六日」とある。また、「天正八年寅年」に没した書物もあるが、「天正八年」は辰年であるため「天正十八寅年」かもしれないが、いずれもどれが真とはいえない。さらに、天正9(1581)年正月18日、古河公方・足利義氏へ新年の賀として、「菱食一ツ」を進上している「原筑前守」がいた(『天正九年御年頭申上衆書立写』)。「菱食」は水辺に生息するカモ類の「ヒシクイ」のことで、「原筑前守」が手賀沼畔を領していた「原筑前守胤親」と推測することもできる。 「原筑前守」は翌天正10(1582)年正月21日にも「菱食」を進上している。この「原筑前守」が胤親であるとすると、胤親の没年は正泉寺(原家菩提寺)に伝わる胤親の位牌記載の「天正十六戌子暦九月廿六日」が妥当か。法名は天叟源清居士

 妻の豊島氏は元和3(1617)年12月8日に亡くなった。法名は月庵妙桂大禅定尼

月星 鶴丸
上向月星 鶴丸

 原氏が信仰したと伝えられている「妙見菩薩像」が手賀城内の手賀興福院に残されている。高さ24センチの彩色された木像で、玄武に乗り右手に宝剣を所持している中世妙見像の典型的な姿をしている。同じく、妙見神の本地仏とされる十一面観音も同寺に伝えられていて、原氏が妙見と並んで十一面観音をも信仰していた姿がうかがえる。

 手賀城の落城とともに興福院も延焼し、城内跡に移築された。胤親自身の墓所も興福院内にあったというが、現在は遺失している。子の胤次が元和7(1621)年に建立した供養塔が原氏の「御墓場」に残されている。また、十代・原胤輝のころから家紋として「鶴丸」が用いられているが、これは真向月星紋の変形か?

 

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原 久胤(1562-1592)

 二代手賀原氏当主。原筑前守胤親の嫡男。母は布川城主・豊島三郎兵衛尉頼継の娘(月庵妙桂大禅定尼)か。通称は内蔵助。最後の手賀城主。

 天正18(1590)年5月、小田原の戦いの余波を受け、徳川勢に降伏した。しかし、久胤自身は徳川家に仕えることなく弟・胤次や妹らとともに手賀村に隠棲し、文禄元(1592)年に31歳の若さで亡くなった。

 娘は出羽久保田藩士・相馬家に嫁いでいる(『原家文書』)

 

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原 胤次(????-1641)

 三代手賀原氏当主。原筑前守胤親の三男。母は布川城主・豊島三郎兵衛尉頼継の娘(月庵妙桂大禅定尼)。通称は兵右衛門尉江戸町奉行与力原家初代

 天正18(1590)年5月の手賀落城ののち、兄・姉らとともに手賀村に隠棲していたが、文禄元(1592)年に兄・久胤が亡くなり、嫡子がなかった事から弟である胤次が家を継ぐことになった。原家は旧領主家として手賀村で尊重されていたが、徳川家の重臣・板倉四郎右衛門尉勝重に召し出され、元和3(1617)年、勝重の推挙をもって江戸北町奉行・島田次兵衛尉正利の組与力に抜擢されたという。なお、姉は板倉勝重の家臣・田上与兵衛に嫁いでいる(『原家文書』)

 原家は江戸町奉行所与力となったのちも手賀村との交流は途絶えず、元和7(1621)年に興福院の末寺十一寺のひとつ、千手院ちかくに二期一対の供養塔を建立した。この右塔には「右志者為慈父(源清)是立」、左塔には「右志者為悲女妙桂是立」とあるが、「源清」は父・原胤親の法名であることから、これは胤次が建立した父母の供養塔とされている(『沼南風土記』)

 また、手賀沼を挟んだ対岸、我孫子村の曹洞宗寺院・正泉寺(我孫子市都部)を再興して原家の菩提寺と定め、寛永17(1640)年9月26日、胤次は同寺に葬られた。法名は大正院耕安本秀居士。しかし、柏市手賀の旧家に残る位牌と正泉寺の位牌に拠れば、寛永18(1641)年8月26日の卒となっている(『手賀原氏の研究』)

 胤次が菩提寺を手賀ではなく、対岸の我孫子に定めた理由については、胤次の母・妙桂尼が布川城主・豊島三郎兵衛尉頼継であったためと考えられる。胤次の墓石には「前原兵右衛門尉為菩提造立為者也、孝子■男、施主豊島源五兵衛尉」とあり、豊島氏との深い繋がりをうかがうことができる。

 妻・某氏は胤次の死から六年後(五年後)の正保3(1646)年3月28日に亡くなった。法名は清照院殿日栄大姉

 豊嶋頼継――尼妙桂 +―原久胤――――娘
(三郎兵衛)  ∥  |(内蔵助)  (嫁相馬家)
        ∥  |
        ∥――+―弥太郎
       原胤親 |
      (筑前守)|
           +―娘
           |(佐々木文斎妻)
           |
           +―娘
           |(板倉家・田上与兵衛妻)
           |
           +―原胤次――+―原胤重
            (兵右衛門)|(兵左衛門)
                  |
                  +―原主馬介

 

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原 胤重(1617-1679)

 四代手賀原氏当主。原兵右衛門胤次の嫡男。通称は兵左衛門。母は不明。

 延宝7(1679)年10月11日に亡くなり、菩提寺・正泉寺に葬られた。享年六十三。法名は月桂高雲居士

 弟・原主馬介は寛永18(1641)年に亡くなり、父や兄と同じく正泉寺に葬られている(心月常円定門)。胤重の代まで墓所も正泉寺となっていたが、その後、浅草の曹洞宗寺院・永見寺台東区寿二丁目)が墓所となった。

 

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原 胤一(????-1707)

 五代手賀原氏当主。原兵左衛門胤重の嫡男。通称は善左衛門、兵左衛門(源兵衛?)。初名は胤栄、胤通か? 

 宝永4(1707)年9月27日に亡くなった。法名は葉林宗凋居士。菩提寺は浅草・永見寺。母の某氏は元禄4(1691)年12月13日に亡くなっている。法名は高栄院梅臨寿清大姉

 娘は本多伯耆守家臣・芝山玄貞の妻となった。芝山玄貞は本国を常陸国とし、元禄16(1703)年に町医者から藩医として召し出され、三十人扶持を与えられた人物。

 

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原 胤政(????-1745)

 六代手賀原氏当主。原兵左衛門胤重の次男。通称は兵左衛門。号は一無。法名は覚了院応誉一無宗感居士。菩提寺は浅草・永見寺

 妻は某氏。胤政に先立ち、享保11(1726)年9月28日に亡くなった。法名は光明院照誉妙智大姉

 

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原 胤中(????-1742)

 七代手賀原氏当主。通称は半左衛門。実は武井十郎左衛門の二男。妻は原兵左衛門胤政の長女・久米

 義父・原兵左衛門胤政の家督を継ぎ、南町奉行与力に就任する。寛保2(1742)年3月10日に亡くなった。法名は良応院英岩宗雄居士。菩提寺の浅草・永見寺に葬られた。

 弟・神谷忠兵衛安定(原家系譜では安福)は南相馬郡に知行地のある駿河田中藩の家老・神谷忠兵衛安清の養子となった。

 田中藩神谷家は元和3(1617)年、藩公・本多正貫に召抱えられた松平出羽守旧臣神谷忠右衛門安長(本国播磨)にはじまる。安長は百二十石取、用人まで昇っている。代々重臣となり、延享3(1746)年3月1日、神谷忠兵衛安清四百石・家老になった。安清は文武に秀でた人物で、さらに清廉潔白な人柄の持主だった。その考え方は公命といえども理不尽は許さないという態度を示し、狩猟に出かけた藩公・本多正珍が側近に安清の屋敷に鉄砲を撃らせた件で、安清は鉄砲を撃った者を尋問し、藩公の命だった事が判明したが、その者の鉄砲を没収した。このことを聞いた藩公・正珍は、侘びのつもりだろう、休憩と称して安清邸を訪れたが、安清は病と称して現われず、養嗣子・安定が正珍に対応している。正珍が休息を終えて出立しようとしたとき、ようやく安清が見送りのために出てきたが、正珍は病気の安清は見送りには及ばないとしている。

 なお、安清の姉は紀伊和歌山藩主・徳川左京大夫宗直の側室に上がっていて、享保14(1729)年12月27日、松平孝三郎(松平織部正頼央)を生んだ。宝暦7(1757)年6月17日、二十九歳で卒去し、寛永寺塔頭の護国院(紀伊徳川家菩提寺)に葬られた。法名は孝順院殿性覚本明大居士

         中川氏             大久保氏   【九代将軍】
         ∥               ∥―――――――徳川家重
         ∥―――――――徳川光貞    ∥      (右大臣)
         ∥      (権大納言)  【八代将軍】
 徳川家康――――徳川頼宣    ∥―――――――徳川吉宗
(征夷大将軍) (権大納言)   ∥      (右大臣)
         ∥       ∥    
         ∥       浄円院
         ∥
         ∥―――――――松平頼純
         越智氏    (左京大夫)
                 ∥      【和歌山藩主】
                 ∥―――――――徳川宗直
                 太田氏    (左京大夫)
                         ∥
                         ∥―――――――松平頼央
                       +―姉      (織部正)
                       |
                       |
                       +―神谷安清====神谷安定―――――――――神谷安寿
                        (忠兵衛) +―(了照院覚誉願寶宗智居士)(不退院心誉明観居士)
                              |
                         原胤政――+―姉
                        (兵左衛門)| ∥―――――――――――――原胤成
                              | ∥            (兵左衛門)
                              +=原胤中
                               (半左衛門)                 

 養父・安清が安永元(1772)年12月25日に亡くなったため、原半左衛門胤中の義弟に当たる神谷忠兵衛安定(峨月)が家督を継ぎ、安永4(1775)年4月5日、家老職に就任している。安定は日置流竹林派弓術を修めた弓術の上手だった。

 安定は安永9(1780)年4月3日に亡くなった。法名は了照院覚誉願寶宗智居士。その子・神谷忠兵衛安寿も寛政4(1792)年8月、田中藩家老となったが、寛政9(1797)年5月、職を辞して隠居した。文化12(1815)年10月15日、享年七十二。法名は不退院心誉明観居士。これ以降、神谷家から家老が出ることはなくなった。

 義妹のひとりは酒井左衛門尉の家人・人見沓硯に嫁いだ。

 

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原 胤成(????-1749)

 八代手賀原氏当主。原半左衛門胤中の嫡子。母は原兵左衛門胤政の長女・久米。幼名は金次郎小丹次。通称は兵左衛門。菩提寺は浅草・永見寺

 寛延2(1749)年3月26日に亡くなった。法名はとく院縁如良随居士

 

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原 胤正(????-1769)

 九代手賀原氏当主。通称は伝蔵、兵左衛門、善左衛門。実は北町奉行所与力・松浦弥次右衛門の八男。原兵左衛門胤成の妹を娶り、胤成の婿養子となった。

 明和6(1769)年に亡くなった。菩提寺は浅草・永見寺

 

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原 胤明(????-1815)

 十代手賀原氏当主。原善左衛門胤正の嫡男。通称は与一郎、兵左衛門。菩提寺は浅草・永見寺

 長姉は北町奉行曲淵甲斐守景漸与力・松浦弥次右衛門正美の妻となった。母方の祖父の家に嫁いだと思われる。次姉は弓術家樋口良助の祖母。弟二人は、北町奉行小田切土佐守直年配下の与力、谷村家と東條家の養子となり、それぞれ谷村源次郎義俗、東條八三郎為識を名乗っている。

 文化12(1815)年6月29日、亡くなった。法名は宝光院覚翁了照居士

 

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原 胤輝(1776-1846)

 十一代手賀原氏当主。原兵左衛門胤明の二男。通称は善左衛門鶴右衛門。号は鶴円、知来。南町奉行鳥居甲斐守忠耀、跡部能登守、遠山左衛門尉組与力。兄に原半左衛門辰胤がいたが、早くに亡くなったか。

月星 鶴丸
上向月星 鶴丸

 天保13(1830)年4月、南町奉行所一番組与力として再出仕。再出仕時に号の「鶴円」に改め、家紋を「鶴丸」に改めたとされている。

 天宝13(1842)年当時、一番組は筋交門、小川町、飯田町をその管轄としていた。

 弘化2(1845)年10月、鳥居忠耀が奉行在任当時、武蔵国大井村修験の教光院了善の呪詛疑義につき不届きな件があり、「御暇」を命じられた。七十歳のときだった。同時に同役の佐久間建三郎(37)も職を解かれている(『藤岡屋日記』)。この「佐久間健三郎」は、おそらく佐久間健三郎長興(健叟)のことと思われ、「免囚保護の父」とよばれた原胤昭の実父だろう。

 弘化3(1846)年5月12日に亡くなった。法名は松樹院鶴円良栄居士。鶴丸紋は原氏の紋・真向月星紋の変形か?

 弟は北町奉行与力・松浦家の養子となるが、離縁。その後、旗本の小田切家臣・中西家の養子となり、さらにその後は御持組与力・草野家の養子となって、草野太左衛門宗淑を号すが、離縁となる。草野宗淑の子は弘前藩士・落合家の養子となり、落合織太郎を名乗る。

 

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原 胤豫(1812?-1855)

手賀原氏の墓
▲柏市手賀の手賀原氏墓所

 十三代手賀原氏当主。原鶴円胤輝の嫡子。通称は音五郎、善左衛門。字は知常。号は倚春庵

 文化9(1812)年、江戸に生まれる。文政11(1828)年、与力として出仕する。父・胤輝がいったん与力を退いたのがこの頃と思われるため、父に代わって出仕したと思われる。ただ、文化4(1807)年に根岸肥前守鎮衛の与力として「原善左衛門、原音五郎」の名が見えることから(『万世町鑑』)、生年には疑問がある。

 弘化2(1845)年、南町奉行所五番与力「原覺左衛門」として名が見える。続いて嘉永2(1849)年、南町奉行・遠山左衛門尉景元のもとで、五番組与力に列した。

 さらに嘉永7(1854)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に再来した年にも名が見えており、混乱した江戸を守る与力として活躍をしたのだろう。

 弘化3(1846)年10月、荒れていた手賀原家の墓所(手賀の御墓場)を父の遺命によって整理し、墓石なども新調して現在の御墓場の形となった。

 嘉永6(1853)年正月、五番組の吟味方として「弐百石」「原善左衛門」が見える。善左衛門はこのとき「丑四十二、勤二十六」、役は「市中取締諸色調、非常取締方」と記録されている(『南組与力同心性名帳』)

 安政2(1855)年に亡くなった。享年四十四。

 姉の登喜は南町奉行与力・佐久間健三郎長興(健叟)に嫁ぎ、次妹の登世は与力・松原晋三郎繁和に、三妹・登久は与力・都築兵右衛門に、四妹は登重は西丸御番組与力・大久保八右衛門忠義に嫁いでいる。 

 

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原 胤保(????-1862)

 十四代手賀原氏当主。原善左衛門胤豫の嫡男。通称は定太郎。字は基卿

 安政6(1859)年、池田播磨守頼方一番組与力として「原定太郎」の名が見える。文久元(1861)年、南町奉行・黒川備前守盛泰一番組与力目安方として見える。しかし、翌文久2(1862)年に亡くなった。

 

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原 胤昭(1853-1942)

 十三代手賀原氏当主。原定太郎胤保の養嗣子。通称は弥三郎。父は南町奉行与力・佐久間健三郎長興(健叟)。母は原善左衛門胤輝娘・登喜。妻は大久保八右衛門娘・ミキ。名与力・佐久間健三郎長敬の実弟である。「免囚保護の父」とよばれた明治の名士。なお、生家の佐久間家は、明暦3(1657)年から町奉行与力となった家で、下総千葉家の家臣の家柄。小弓城主・原家の「家風(家臣)」として「佐久間」とあり(『千学集抜粋』)、与力佐久間家は、小弓原氏とも関わりがあったのかもしれない。

 嘉永6(1853)年2月2日、江戸八丁堀の佐久間邸で誕生した。慶応2(1866)年、十四歳のときに母方の原家へ養嗣子に出され、南町奉行与力に就任した。この頃、南北町奉行所の与力はあわせて五十名いたが、弥三郎は最年少の与力であった。しかし、明治維新を迎えて奉行所が廃止されると失職。改めて市政裁判所に勤務となり、東京府記録方を拝命したが、すぐに退職した。

 明治以降、急速に広まっていった西洋文化を発展させるためには、外国人から英語やキリスト教を学ぶことが必要であると、弥三郎は明治4(1871)年、十九歳の若さでアメリカ人教師を雇って神保町の屋敷で英語を学ぶ。この年の7月22日、弥三郎は東京府に対して「胤昭」と改名する願書を提出している(『改名願』)。このときの弥三郎の士族触頭は旧旗本・溝口双渓

 そして翌年には横浜に出て高島学校、明治7(1874)年には、築地の築地大学校に入学して宣教師カロゾルスのもと英語とキリスト教を学び、2月28日、築地に旧大垣藩の公子・戸田欽堂(戸田氏益)や田村直臣らとともに創設した東京第一長老教会においてカロルゾスを師として洗礼を受け、キリスト教に帰依した。余談だが、この年のクリスマスにカロゾルスのもと、大々的にクリスマス会が催されたが、胤昭は裃をつけた侍姿のサンタクロースを演出し、場を盛り上げたという。これが日本に登場した初めてのサンタクロースといわれる。

 そして銀座三丁目に戸田欽堂と共同で洋書販売専門店の十字屋を開店した。ここでは主にキリスト教の書籍を販売していたが、教会音楽の影響もあって楽器や聖楽の楽譜などの販売も行い、現在の銀座十字屋の前身となった。

 明治9(1876)年、二十三歳にして銀座の京橋三十間堀に日本最初のミッション系女学校・原女学校を開校し、女子教育のさきがけとなった。残念なことに原女学校は明治11(1878)年には経営難に陥って閉校してしまうものの、生徒と女子教育の精神は後身の女子学院へと引き継がれ、高等教育は新渡戸稲造らが創立した東京女子大へと移管し、現在に至っている。

 明治15(1882)年、三十歳のときに十字屋で、暴戻な福島県令・三島通庸が自由民権運動家の河野広中と衝突して弾圧した自由民権福島事件を風刺した「天福六歌撰」と題する錦絵を刊行したが、政府の怒りを買い、翌明治16(1883)年、三島らの肖像を勝手に使用した名目の罪により、政治犯として石川島の牢獄に投獄された。この牢獄生活で公然と行われる虐待や、腸チフスに罹って一時重態に陥るほど劣悪な牢獄の環境を目の当たりにし、翌年出獄した胤昭は、こうした監獄の環境の改良や、出獄後の元囚人の社会復帰の手助けをすることを決意。先祖伝来の神保町の自宅を免囚たちの保護所とした。

 明治17(1884)年には神戸に移り住み、明治21(1888)年には兵庫の仮留監の教誨師となった。これが日本最初のキリスト教誨師である。囚人の非人道的な労役や監獄の環境の改良を建白するなど、積極的に囚人・免囚の自立支援、保護にあたり、その保護した人数は一万人を超えたという。胤昭が「免囚保護の父」とよばれるのはこのためである。

手賀原氏の墓
▲柏市手賀の手賀原氏墓所

 その後も虐待を受けた子どもたちの保護や、貧民たちのために住宅を供給、慈善活動に力を注ぎ、その功績が認められて大正4(1915)年には藍綬褒章を授かった。さらに大正13(1924)年には勲六等瑞宝章を授かるが、出獄者保護の気持ちは変わらず、神田須田町に保護所を新築し、昭和2(1927)年に財団法人東京保護会として改組した。

 昭和3(1928)年1月には従六位に叙せられた。昭和13(1938)年10月には、財団を解散し、その財産の大半を被保護者の自立向上の資として分け与えた

 昭和17(1942)年2月23日、南品川の子息宅で亡くなった。享年九十。十四歳で町奉行与力職につき石川島人足寄場の見廻りを勤めて以来、囚人との関わりを続け、免囚たちの自立更正、殖産、貧困に苦しむ人々の救済に尽くした明治を代表する名士であった。先祖が城主をつとめた柏市手賀に眠っている。

 

 胤昭の姉・糸子は川越浮嶋神社神職・高瀬美佐男に嫁ぎ、画家・高瀬静谷の母となる。また、姪・安子は米沢藩公・上杉茂憲の弟、上杉熊松に嫁いでいる。

■南町奉行与力原氏(『万世町鑑』:『江戸町鑑集成』所収)  

南町奉行 与力原氏
享保14(1729)年4月 大岡越前守忠相 原 兵右衛門 三番組
享保18(1733)年6月    〃   〃
元文3(1738)年2月 稲生下野守正長 原 善左衛門
寛保元(1741)年7月 石河土佐守政朝 原 小丹治
延享3(1746)年 馬場讃岐守尚繁   〃
宝暦7(1757)年 土屋越前守正方 原 兵右衛門
天明2(1782)年 牧野大隈守成賢 原 兵右衛門
寛政3(1791)年 池田筑後守長恵   〃
文化4(1807)年 根岸肥前守鎮衛 原 善左衛門
原 音五郎
二番組
文化10(1813)年    〃 原 善左衛門
文化15(1818)年 岩瀬加賀守氏紀   〃
文政5(1822)年 筒井和泉守政憲   〃
文政9(1826)年    〃   〃
天保2(1831)年    〃 原 善左衛門
原 小太郎
天保9(1838)年    〃   〃 三番組
天保12(1841)年    〃 原 善左衛門 一番組
天保13(1842)年 鳥居甲斐守忠耀 原 善左衛門
原 鶴右衛門
一番組
天保15(1844)年    〃 原 兵右衛門 二番組
弘化2(1845)年 遠山左衛門尉景元 原 鶴右衛門
原 善左衛門
二番組
五番組
嘉永3(1850)年    〃 原 善左衛門 五番組
嘉永7(1854)年 池田播磨守頼方   〃
安政2(1855)年    〃   〃
安政6(1859)年    〃 原 定太郎
文久元(1861)年 黒川備前守盛泰   〃 一番組

●参考資料●

『千葉氏 室町・戦国編』  千野原靖方著  たけしま出版
『妙見信仰調査報告書(二)』 千葉市立郷土博物館 
『房総叢書』:『妙見実録千集記』『千葉大系図』
『真説 北条五代』 学習研究社
『本土寺過去帳地名要覧』(上)・(下)
『戦国房総』
『沼南風土記』 沼南町史編さん委員会 著
『千葉県東葛飾郡誌』:『手賀原氏系図』『原氏略記』 千葉県東葛飾郡誌教育会
『手賀城しおり』 手賀公民館
『江戸町与力の世界 : 原胤昭が語る幕末』千代田区立四番町歴史民俗資料館編
『藤岡屋日記』


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