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鏑木胤泰(????-????)
鏑木氏三代。実父は金田小大夫成常(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。母は千葉八郎胤時女子。養父は叔父の白井九郎胤定。通称は孫八郎。法名は圓佛(『長泉寺鏑木系図』)。
養父の白井九郎胤定には胤泰を含めて少なくとも七人の成人した男子がおり(『神代本千葉系図』)、そのうちの一人は通例に則り出家者(理胤)している。おそらく胤定の実子は白井庄内の地頭職を継承し、隠居所の鏑木郷は別に養子の胤泰へ譲ったと考えるのが妥当か。
胤泰以降の鏑木氏の伝承・系譜には史実的な傍証がなく、実に室町時代後期から江戸初期に至るまで、鏑木氏に関する説話は家伝・伝承の域を出ることはない。
●『神代本千葉系図』
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
| |
+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
| |
| | +─白井親胤
| | |(孫太郎)
| | |
+─千葉胤時──+─鏑木胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
| |
| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
| | |
| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
| |
| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
| | | |
| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
| | | |
| | | |
| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | |(彦九郎)
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| +─白井五郎 +─鏑木胤信
| |(彦十郎)
| |
+─長吉信清 +─鏑木胤方
(十郎) (余一)
一方で、『鏑木長泉寺系図』にみられる胤泰の継承者「十郎家胤」及び二男の「孫八郎常泰」の名は『神代本千葉系図』に見られないことや、金田成常との縁組の不自然さから、彼らの実在性は疑問が大きいと言わざるを得ない。
以降は後世に制作された『長泉寺鏑木系図』の伝及び、それを引いたとみられる『千葉大系図』の伝である。
弘安10(1287)年、胤泰は「家紋及上総国武射郡蕪木郷」を千葉介胤宗に請うたという。その結果は記されないが、長男十郎家胤を下総国香取郡鏑木郷に置き、みずからは二男の孫八郎「常泰」を伴って上総国武射郡蕪木郷(山武郡松尾村蕪木)に移住したという。以降、武射郡蕪木郷は孫八郎常泰が継承して「蕪木」を称したという。家紋は鏑木十郎家胤の子孫は十曜を用い、蕪木孫八郎常泰の子孫は三星を用いることとなった。
次男・蕪木孫八郎常泰の子孫は祖先・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)へ移り、本氏である「金田」を称し、のちに三河国へ移り岡崎松平家に仕えた。
鏑木家胤(1270-????)
鏑木氏四代。父は鏑木孫八郎胤泰。通称は十郎。実在かどうか不詳の人物。
千葉惣領家西遷以前の系譜を伝える『神代本千葉系図』には鏑木孫八郎胤泰の子に「十郎家胤」はない。また、弟で三河金田氏の祖とされる蕪木孫八郎常泰もまた見えない。鏑木胤泰の弟に諱不明の「十郎」が見えるため、彼が相当する可能性はあるが、傍証はない。『神代本千葉系図』で鏑木胤泰の子として見える「胤朝彦八郎」は、鏑木・白井家の祖である「胤時八郎」の「彦(曾孫)」として名付けられたと想像できるので、彦八郎胤朝が鏑木胤泰の嫡子であるとみられる。弟の彦九郎胤鑑、彦十郎胤信、余一胤方はそのあととして付けられたのだろう。
●『神代本千葉系図』
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
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+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
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| | +─白井親胤
| | |(孫太郎)
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+─千葉胤時──+─鏑木胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
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| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
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| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
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| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
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| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
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| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | |(彦九郎)
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| +─白井五郎 +─鏑木胤信
| |(彦十郎)
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+─長吉信清 +─鏑木胤方
(十郎) (余一)
伝によれば、弘安10(1287)年、十八歳にして父・孫八郎胤泰から下総国香取郡鏑木郷を相続して鏑木を称した(「鏑木氏」の項参照)。弟の蕪木孫八郎常泰は父・鏑木孫八郎胤泰とともに上総国武射郡蕪木郷(山武郡松尾村蕪木)に移住し、常泰の子孫は祖先・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)へ移り、本氏である「金田」を称した。その子孫は江戸幕府の旗本となる。
鏑木祐胤(????-????)
鏑木氏五代。父は鏑木十郎家胤。通称は孫十郎。実在かどうか不詳の人物。
元弘以来、千葉介貞胤に属して軍功を挙げたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
鏑木胤繁(????-????)
鏑木氏六代。父は鏑木孫十郎祐胤。通称は十郎太郎。
応安以来、千葉介満胤に属して軍功を挙げたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
応安2(1369)年4月、鏑木郷に程近い生尾の式内社生尾神社に材木や造営料の「神殿造営奉加」をしている「鏑木十郎太郎胤繁」の名が見える(『生尾神社寄進帳』松山家蔵文書)。
鏑木察胤(????-????)
鏑木氏七代。父は鏑木十郎太郎胤繁。通称は八郎四郎。
応永23(1416)年、上杉禅秀の乱においては千葉介満胤に属したという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。系譜では禅秀を「討之」とあるが、満胤は禅秀側として米町付近に布陣していたとされており(『鎌倉大草紙』)、少なくともこの伝は史料上不可である。
応永30(1423)年の小栗孫十郎満重の叛乱では鎌倉御所持氏に属し、千葉介満胤・兼胤に従って結城城に向かい、勇名を馳せたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
鏑木公永(????-????)
鏑木氏八代。父は鏑木八郎四郎察胤。通称は駿河守。
永享12(1440)年の結城合戦においては、結城城南部に布陣した千葉介胤直に属して軍功を挙げたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
公永には嗣子がなかったため、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。真壁新七義成は上曾駿河守義堯の子(『小田軍記』)で真壁伊豆守治幹舅といい(『小田天庵記』)、近世成立の軍記物『小田軍記』によれば真壁安芸入道道夢の兄弟という(『小田軍記』)。「真壁安芸入道道夢」については、応永11(1404)年9月11日生、文明12(1480)年3月18日に七十七歳で亡くなった真壁朝幹(三郎、右京亮、安芸守、法名参翁永真)が世代的に相当する(真壁家文書『当家大系図 全』)。また、世代的・人物比定に問題がある『水府志料』所収の系譜でも真壁新七義成の子・白井三郎幹成が「鏑木駿河守公永養子」とみえる。
●「常府小田氏撰系図」(『水府志料』所収)
平直幹
(常陸大掾)
∥─────真壁長幹─+─真壁貞幹──真壁邦幹===真壁武幹──真壁豊幹──真壁満幹──真壁康幹───真壁行幹──真壁安幹──+
∥ (六郎) |(太郎) (小六郎) (孫四郎) (平六太) (左衛門) (左衛門次郎)(次郎) (十郎) |
∥ | |
千葉介常胤──女子 +=真壁秀幹──門井行秀─+─真壁武幹 |
(千葉介) (紀内) (弥四郎) |(孫四郎) |
| |
+─真壁豊幹 |
(平六太) |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─真壁久幹──真壁茂幹───真壁是幹─+─真壁義成─+─真壁義助──真壁成幹──+─真壁助幹──真壁綱幹──────────────────+
(孫四郎) (右衛門太夫)(安芸守) |(新七) |(左衛門佐)(六郎左衛門)| (左衛門尉) |
| | | |
| | +─門井武真──門井定正──門井定能──女子 |
| | |(縫殿介) (弥四郎) (与八郎) ∥────門井定光 |
| | | ∥ (丹波守) |
| | | ∥ |
| | +─烟田憲幹──烟田幹家──江寺幹光==江寺胤光 |
| | (対馬頭) (右衛門尉)(五郎) +─(右京亮) |
| | | |
| | 海上山城守─────+ |
| | |
| +─麻生義幹──麻生久幹──麻生為幹──麻生之幹────+─麻生勝幹 |
| |(淡路守) (左兵衛尉)(淡路守) (左衛門入道残雪)|(左衛門太郎) |
| | | |
| +─白井幹成 +─麻生冨幹 |
| (三郎) (左衛門次郎) |
| |
+─嶋崎利幹─+─嶋崎利正──嶋崎是利──嶋崎久利──嶋崎宗利 |
(大炊介) |(左衛門) (右衛門) (大炊介) (左衛門入道宗庵) |
| |
+─大生利定 |
(左京亮) |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─真壁家幹────+─真壁師幹
|(安芸守道務入道)|(安芸守)
| |
| +─女子
| |(水谷勝俊妻)
| |
| +─真壁某
| (右衛門太夫)
|
| 千葉介胤富─────女子
| ∥───────+─白井胤幹
| ∥ |(備後守)
| ∥ |
+─真壁幹吉────+─白井宗幹 +―女子
(下総守) |(治部少輔) | ∥
| | ∥
| | 千葉俊胤
| |(千葉権介)
| |
| +―白井幹時
| |(民部少輔)
| |
| +―鶴牧信幹
| (茂右衛門)
|
+─真壁正幹────+─白井幹度───白井伊信
(下総守) |(八左衛門) (忠左衛門)
|
+―白井元勝
|(一郎衛門)
|
+―芦野資継
(五郎左衛門)
●『小田軍記』
白井察胤───女子
(八郎四郎) ∥
∥──────白井幹成
∥ (三郎)
∥
∥ 真壁治幹
∥ (伊豆守)
∥ ∥
上曾義堯───真壁義成─+─女子
(駿河守) (新七) |
|
+─真壁道夢
(安芸入道)
『長泉寺鏑木系図』によれば、公永は後嗣がいなかった当時、前述の通り「常陸国真壁郡白井地頭」の白井幹成(真壁義成の子、姉の子)を養子に迎えていたが、その際に公永は「千葉介康胤(康胤は「千葉陸奥守入道」とあるように千葉介に就いたことはない)」に、「我若産男子、則以下総白井庄与幹成也、而冀与祖先白井家、公熟思之(もし私に男子が生まれたならば、下総国白井庄は幹成に与えようと思います。祖先白井家由緒の地であり、この旨を熟思いただきたい)」と願い出た(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。鏑木氏は香取郡鏑木村へ移ってのちは白井庄に関する知行権は失っていたであろうから、もしこの記述通りであれば、胤時流白井氏の再興のために幹成へ白井庄を与えてほしいという願いということになるが、「則以下総白井庄与幹成也」には「欲」する文字がないため意図が通じず事績を記載する上での不備とみられる。それは「康胤許之、康正元年乙亥与証書」とあることからも、白井庄の新知を願ったものであることは明白である。この文の通り康胤は公永の請願を許諾して白井庄の安堵状を発給。公永は「而築新城於白井庄、使幹成居之」と、鏑木三郎幹成を白井庄に派遣した(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
その後、「公永生胤元、而譲家督」ったとあるように、実子の十郎胤元が誕生。彼に鏑木家の家督を譲ったとする。そして「於是因務、所相定之約、分与白井庄於幹成(以前の約定通り、白井庄を幹成に分与した)」した。このことを聞いた「千葉介輔胤(輔胤も岩橋殿と称された宗家一門で千葉介に就任していない)」は「真壁氏当家同姓、而其祖長幹者常胤外孫也、依之世々倚頼当家相睦、幹成旧為真壁郡白井地頭、而今為公永所養亦領下総白井庄、両地其国雖異、地名是同宣、復白井氏、以七星為家紋、称白井三郎、乃是継絶興廃不亦可乎(真壁氏は当家と同姓で、祖の真壁長幹は千葉介常胤の外孫である。それゆえ代々当家を頼りとし睦まじく交流してきたのだ。幹成はもともと常陸国真壁郡白井地頭であるが、いまや公永の養子となり、下総国白井庄をも領有した。両白井は国こそ違え同じ『白井』である。白井氏が再興され『七星』を家紋とし鏑木を白井三郎と改め称す。これにより絶家が継承され、衰退した家が再興されるのは、なんと素晴らしいことではないか)」と評したという(『長泉寺鏑木系図』)。
以降の鏑木氏は旗本鏑木氏へ
鏑木胤元 (????-????)
父は白井駿河守公永。母は不明。
伝によれば父駿河守公永に実子がなく、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えていた(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。ところが、その後「公永生胤元」たため、白井家は幹成へ継承したまま、胤元には鏑木家の「而譲家督」っという(『長泉寺鏑木系図』)。
鏑木胤義 (????-????)
父は白井駿河守公永。母は不明。
胤元の嫡子・鏑木胤義(長門守)は千葉介利胤、千葉介親胤、千葉介胤富に従属した。天文19(1550)年11月23日に行われた妙見遷宮式では、「大檀那新介平親胤(当時は民部丸)」のもと、宿老・原式部大夫胤清以下、本庄伊豆守胤村・原大蔵丞胤安・馬場又四郎胤平・本庄新太郎胤里・粟飯原源公・海上山城守胤秀・原九郎右衛門尉胤行・金親兵庫正能・鏑木長門守胤義・牛尾左京胤道・牛尾孫二郎胤貞(原胤貞)・小川外記政俊・原隼人祐胤次・斎藤源太左衛門尉清家ら被官層が参列したとされる(『千学集抜粋』)。
年月不詳10月21日、おそらく台風で破壊された香取社の神殿の造営について「治房」「実隆(大禰宜)」が鏑木長門守(胤義)へ宛てて発給された『大禰宜実隆等連署書状』が残る。
千葉介邦胤の代と想定されるが、千葉介被官人に「鏑木備後守胤家」がいた(年不詳3月「鏑木胤家書状」『龍大夫文書』)。『千葉大系図』では長門守胤義の子・信濃守胤定(法号動賀)の長男とされる。胤家は下総国などの領主や大名との間に師檀関係を築いた伊勢の御師「龍大夫」に対し、祈祷および「御祓大麻」「五明櫛」を拝領したことの礼状と「最花三十足」を送っている。
●年不詳3月「鏑木胤家書状」(『龍大夫文書』)
天正18(1890)年の小田原合戦当時、「蕪木駿河守」が「かふらき城」に在城し、その勢は「三百騎」(「北条家人数付」『毛利家文書』)という。ただしこの鏑木駿河守が誰なのかは定かではない。
鏑木胤次 (1597-1653)
臼井四郎の子とされる。「臼井四郎」は「臼井四郎胤吉(臼居久胤弟)」という(『鏑木城主系譜』)。一方、千葉介昌胤の次男に臼井四郎胤壽がおり、「臼井四郎」とはこの人物かもしれない。
承応2(1653)年12月23日、古河において五十七歳で亡くなったという。法名は常英。
鏑木長胤 (1613-1636)
鏑木胤次の子。通称は権太郎、与兵衛(『寛政重修諸家譜』)。一説には千葉新介重胤の法名「長胤」はこの鏑木長胤と混同しているともされるが、「権太郎」は寛永16(1639)年10月6日に亡くなった「鏑木重胤」とされている(『寛政重修諸家譜』)。
伝によれば、千葉新介重胤が寛永10(1633)年に病死した際、重胤に子がなかったため、長胤が養子となり、系図ならびに千葉家に代々伝わってきた妙見不動二体、鏡などを継承したという。
その後、長胤は古河において寛永13(1636)年正月26日に亡くなったという。二十四歳。法名は洞裡院雲高常無(『寛政重修諸家譜』)。
鏑木胤利 (1648-1662)
鏑木胤幹の次男。通称は作之丞。
伯父の鏑木胤次の養嗣子となり、鏑木家を継ぐが、寛文2(1662)年9月7日、江戸において十五歳で亡くなった。法名は宗順。
鏑木胤房 (1642-1636)
鏑木胤幹の長男。通称は十太夫。
弟で鏑木家の家督を継いだ鏑木胤利の跡を継ぐが、寛文5(1665)年8月26日に下総国香取郡鏑木村で亡くなった。二十四歳。法名は常正院仏光金性。
鏑木胤幹 (1608-1665)
鏑木胤次の弟。通称は新右衛門。鏑木作之丞胤利、鏑木十太夫胤房の父である。
胤利、胤房らが早くに亡くなったため、鏑木家を継ぐが、胤房の死後約一年後の寛文6(1666)年8月29日、下総国香取郡鏑木村で亡くなった。五十八歳。法名は常桂院殿雲州胤露大居士。
鏑木氏胤 (1613-1636)
鏑木胤幹の子。母は某氏(出入院殿照月妙圓大姉)。通称は平内。
元千葉氏の客将で、館林藩主・松平右馬頭綱吉の御守役(のち御用人)として仕えていた押田三左衛門直勝に寄食し、 氏胤は押田直勝の推挙によって綱吉に仕えることとなり百五十俵を給わった。
延宝8(1680)年5月、綱吉が将軍となって江戸城西ノ丸に入ると旗本に列し、小普請大久保玄蕃忠兼組となった。
元禄16(1703)年8月12日に亡くなった。法名は常光院健安全勝。
養嗣子・鏑木十左衛門成胤が跡を継ぐ。成胤の実父は星野覚左衛門安休といった。成胤にも子はなく、神尾七郎左衛門の子・鏑木三五郎教胤を養嗣子に迎えた。しかし、教胤も子宝に恵まれず、天野甚左衛門宗閑の子・鏑木次郎吉近胤を養嗣子として鏑木家を継がせた。近胤は享保12(1727)年3月27日、小十人岡部伊右衛門組となり、享保14(1729)年閏9月2日、将軍・徳川吉宗の三男・小五郎(一橋刑部卿宗尹)の近習番として仕えた。
近胤にも子がおらず、大河内源八郎正明の子・鏑木平内盛胤を養子として延享2(1745)年に家督を相続した。しかし宝暦3(1753)年3月5日、出奔して鏑木家は断絶となった。
鏑木正胤 (1614-1660)
千葉権之助俊胤の次男とされ、通称は作十郎、式部。『千葉大系図』によれば、慶長19(1614)年6月13日生まれ。
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| 第六榊神社 |
寛永5(1628)年9月、浅草第六天神(現在の第六榊神社)の神主として氏子が迎えたという。兄・胤正は浅草鳥越明神の神主になったと伝わる。万治3(1660)年3月22日、四十七歳で亡くなった(『千葉大系図』)。
正胤については、宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から「千葉介正胤・尚胤」の名を確認することができるが、ここに見える「千葉介正胤」と、俊胤の子とされる「鏑木正胤」は別人だろう。『千葉大系図』と『千葉伝考記』の正胤に関する記述から見ると、俊胤が父親ということと、正胤両者の生年がまったく同じであることから、両者は同一人物としか考えられないが、その後の経歴・没年などがまったく異なっており、別人と考えざるを得ない。
| 史料名 | 正胤の生年 | 正胤の没年 | 正胤のその後 | 正胤の子 |
| 『千葉大系図』 | 慶長19(1614)年6月13日 | 万治3(1660)年3月22日 | 浅草第六明神神主 | 千葉正重(子孫神主) |
| 『千葉伝考記』 | 慶長19(1614)年 | 延宝19(1677)年8月4日 | 厩橋藩士 | 千葉尚胤(子孫不明) |
「千葉平祥胤」という人物が香取郡の大須賀家菩提寺である宝応寺に納めた『大須賀家系図』のなかに、「平介正胤」の子に「平介政胤」という人物が記載されている。その子孫も続いているように描かれているため、両者がともに「マサタネ」というところから混同されたのかもしれない。
千葉邦胤─+─千葉新介重胤
(千葉介) |(千葉新介)
|
+─千葉俊胤──+─鏑木胤正──…(鳥越神社家)
|(千葉権之助)|(作兵衛)
| |
+─門井正道──+=正胤─+─尚胤───祥胤
(弥四郎) (平介)|(権之助)(権之助)
|
+─政胤─?─正重──…(第六天榊神社家)
(平介)
「千葉介正胤・尚胤」が連署した宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から実在を確認することができる。
正胤・尚胤父子の出自を裏づけるものとして、享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」が増上寺へ宛てたと思われる願書によれば、「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤(長胤弟ニ御座候)」「祖父平助正胤」「私親権之助」とある。
千葉介邦胤─+─千葉新介重胤==権之助俊胤==平助正胤──権之助──権之助
|(高祖父長胤) (曽祖父) (祖父) (親) (私)
|
+─権之助俊胤
おそらく「私親権之助」とは「尚胤」を指していると思われ、香取郡の宝応寺に伝わる『大須賀系図』の中に見える「千葉権介尚胤」と同一人物と思われる。
●元文7(1738)年『大須賀系図(千葉平祥胤筆)』(宝応寺蔵)
新田満次郎────娘
∥──────千葉重胤
∥ (法名長胤)
千葉介胤富─+─千葉介邦胤
(千葉介) |(千葉介)
| ∥
| ∥─────+─千葉俊胤=+─正胤──+─尚胤───?─祥胤
| ∥ |(千葉権介)|(平介) |(千葉権介)
|常陸大掾幹定娘 | | |
| +─門井正道 | +─政胤────…
+─娘 (弥四郎) | (平介)
∥ ∥────+
∥ ∥
∥─────+==娘
白井宗幹 |(実ハ岡里和泉守道明娘)
(治部少輔) |
+─白井胤幹
|(備後守)
|
+─白井幹時
|(志摩守)
|
+─鶴牧信幹
(茂右衛門)
宝応寺に伝わる『大須賀系図』を記した千葉祥胤は、祖先が天正年中に所領を失い諸所を転々としたのち、元文2(1737)年5月、下総に戻って宝応寺に寄宿し、元文3(1738)年、大須賀家の系図をみずからの系譜と合わせて宝応寺に納めている。この祥胤は、おそらくそれまで江戸にあって、享保11(1726)年10月11日、増上寺へ宛てて千葉家再興の嘆願書を提出した「千葉権之助」その人であると思われる。
宝永4(1678)年11月30日『千葉介正胤・尚胤連署書状』
江戸時代、千葉家の再興を目指した千葉宗家の末裔は俊胤の子孫だけではなく、慶安元(1648)年11月には千葉新介重胤の子・「千葉介定胤」が香取神社に願文を奉納し、千葉介邦胤の子といわれる「千葉介良胤」の子・「千葉源之介知胤」も増上寺へ願文を提出した。
千葉知胤(源之介)が増上寺に宛てた千葉家再興に関する文書の中には「千葉源之介祖父千葉介良胤、親千葉釆女正当胤候儀迄、増上寺住持御開山之系図ニ委細ニ書戴申候」とある。
●千葉家再興を願った宗家の末裔たち
⇒千葉介胤富─+─千葉介良胤───釆女正当胤──源之介知胤
|(祖父) (親)
|
+─千葉介邦胤─+─千葉新介重胤─+─千葉介定胤─七之助完胤
|(高祖父) |(千葉介)
| |
+─権之助俊胤 +=権之助俊胤=平助正胤─権之助(尚胤)─権之助(祥胤)
(曽祖父)(祖父) (私親)
正胤については『千葉伝考記』によれば、俊胤の子ではなく、俊胤の弟・門井正道(弥四郎)の子で、母は白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)。俊胤の娘と結婚して養嗣子として俊胤のあとを継いだという。正胤の初名は門井平助、のち千葉権介と称し、千葉家の家宝を譲り受けたとある。
+─千葉新介重胤
|
+─千葉権介俊胤===正胤
| ↑
+─門井正道─────正胤───尚胤
(善兵衛) (平助) (平助)
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白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)
俊胤から家督を継ぐ前、十四歳の時に重胤(入道長胤)・俊胤の意を受けて、上野国厩橋藩主・酒井雅楽頭忠世(老中筆頭)に仕えた。これは重胤・俊胤の「千葉家再興」の願いを伝えるという意図があった。正胤はこのときには「千葉」を名乗っておらず、実父・正道の「門井」を名乗り、重胤の甥であることを明らかにしていなかった。この後、俊胤より千葉宗家を継いだものの、この事を秘密にして仕えていたようである。
その後、弘文院学士・春斎法印が4代将軍・徳川家綱(厳有院殿)の命を受けて『本朝通鑑』の編纂をはじめたが、正胤はこれを聞いて、
「私は千葉の嫡流を受け継ぐものとはいえ、なんの功績もない。何をもって祖先に酬いればよいのかわからない。千葉家累代の勲業も長く地に落ちて、後の世の者が我が家の偉業を知ることもなくなるだろう。ただ恨むばかりだ」
と、そのとき一大決心をして、家に伝わっている系図・家譜をうつしとって春斎法印に提出した。法印も系譜を見て「なんとすばらしい」と賞賛し、これを『本朝通鑑』に書き入れた。
寛文10(1670)年の冬、忠世の孫・酒井雅楽頭忠清(大老)はこの事を聞いて系譜などを見たあと「千葉」を称するようにと正胤に伝えて時服を与え、亡き重胤・俊胤の念願もかなうと思ったのもつかの間、急病にかかってしまったため、酒井家を辞して閑居した。病は次第に篤くなり、子・尚胤(平助)を枕辺に呼び、先祖の志を継ぐべき由を遺言して、延宝5(1677)年8月4日、浅草の屋敷で亡くなった。享年は六十四歳。
正胤は浅草寺塔中梅園院に葬られ、佐倉海隣寺に御影が安置された。法号は臨阿弥陀仏。龍昌院殿井雲■門大居士。
| 史料名 | 正胤の生年 | 正胤の没年 | 正胤のその後 | 正胤の子 |
| (1)『千葉大系図』 | 慶長19(1614)年6月13日 | 万治3(1660)年3月22日 | 浅草第六明神神主 | 千葉正重(子孫神主) |
| (2)『千葉伝考記』 | 慶長19(1614)年 | 延宝19(1677)年8月4日 | 厩橋藩士 | 千葉尚胤(子孫不明) |
→(1)(2)の正胤は、生年が慶長19(1614)年と同じであり、同一人物とも思われるが、名前と生年だけが同じでほかはまったく生き方も子孫の経歴も違っていて、違う人物とも思えるほど。
千葉権之助という者の由緒について、酒井雅楽頭の儒臣・古市兵庫(初名は南軒、のち藤之進)が、
「先年、酒井雅楽頭家に門井何某という者があるが、故あって千葉氏の文書・記録を得、時期を待ってから自分は千葉氏の嫡流ということを言って千葉嫡流の証書を提出し、門井から千葉への復姓を願っていたのだが、望みの通りに許された。その後、この人はあらかじめ用意していた『月に星』の紋のついた衣類・大小脇差をつけて翌日から出仕した。
しかし、そののちに千葉氏の嫡流であることが偽りとわかったため勤仕し難くなって酒井家を辞し、浪人して下総国に来たのだが、『千葉権之助』という名を聞いて『千葉の殿様だ』と信じる者がいたのだが、地元には千葉氏をいまだに知る古老がいて、権之助にいろいろ質問をしてみると、答えにつまること多く、面目をなくして江戸に上って針灸などをして暮らして一生を終えた。子もいた」
と語っている。この「千葉権之助」とは門井正胤のことと思われる。(2)でみる酒井家退転の理由と(3)の退転理由がまったく異なっており、実際はどういうことなのか不明。
| 人物 | 酒井家退転の理由 | 酒井家退転の理由(原文) | |
| (2) | 千葉権介 | 病にかかって辞す | 偶々病患に罹り、酒井家を辞去して閑居す |
| (3) | 千葉権之助 | 偽りが発覚して辞す | 千葉の正統を偽ること顕はれて勤仕し難くなり同家を立ち退いて浪人せり |
松平摂津守(嵩岩院)の家臣・楠岡右衛門の談によると、
「今世の千葉権之助は本苗字を門井といって、千葉の一族で千葉の家来筋である。千葉重胤殿が浪人しておれらたのを、家来筋の者どもが敬って保護された。重胤が亡くなる時、千葉の家書と妙見尊像を門井という者がひったくったとか、看病の褒美にもらったとかいわれているが、門井という者がこれらを相伝した。
門井は酒井雅楽頭に仕え、あるとき千葉権之助と改めた。門井はもともと常陸・下総両代官・関口作左衛門の妹婿である。作左衛門は厳有院様(家綱)の御代に、不始末があって切腹を仰せ付けられた。その弟・関口孫右衛門は甲府様(甲府宰相綱豊)に仕えていた。孫右衛門と権之助は一族であり、権之助は本所にすんでいた。その子は『千葉新介』と言ったが、子がないまま亡くなった。権之助は千葉相伝の家書の箱を笈にしていたが、新介が亡くなってしまったので、岩村八郎右衛門(もと水野隼人正家臣。隼人家が改易される前に浪人)の子・藤右衛門を養子として迎え、「千葉」姓を与えた。藤右衛門は元文年中(1736-1741)に神尾内記殿に仕えて千葉新助を称したという。」
岩村八郎右衛門──藤右衛門
門井権之助 (水野隼人正旧臣) |
∥ ↓
∥────────千葉新介=====千葉新助
+─娘 (神尾内記家臣)
|
|
+─関口作左衛門(作兵衛満継)
|(常陸・下総御代官)
|
加瀬胤正─+─関口孫右衛門
(太左衛門) (徳川綱豊の家臣)
『千葉家実記』に収められた「関口家文書『加瀬家由来書』」の記述によると、下総代官・関口作左衛門は、笹本村馬走の加瀬太左衛門胤正の長男、加瀬作兵衛満継という人物で、母方の関口姓に改めるようにとの上意を受け、さらに総州御代官を仰せつかり、上総国小西に知行を与えられて居所としたという。また、代官所手代として疋田太左衛門(米倉村)、堀江権右衛門(八日市場村)、湯浅金左衛門(松山村)を召抱えたという。加瀬氏は千葉一族であり、その孫にあたる人物が「千葉新介」を称したということだろうか。
関口作兵衛満継は元和元(1615)年4月、下総代官職を拝命し、翌元和2(1616)年に上総国小西陣屋に赴任した。正保2(1645)年8月10日には常陸国宍戸領二万石の代官も拝命し、承応元(1652)年8月25日、亡くなった。子息・関口作左衛門正満が跡を継ぎ、承応2(1653)年3月25日、代官職を拝命し小西陣屋に赴任するが、勘定方の不始末の廉で、延宝5(1677)年7月26日、代官を罷免され、切腹を命じられた(『江戸幕府郡代代官史料集』)。
大久保源次郎は岩松治部の次男。千葉新介重胤の母は岩松治部少輔(新田満二郎)の娘であり、彼は治部少輔の子孫か。源次郎は彼の書のなかで、(4)の岩村藤右衛門(千葉新助)について
「岩村藤右衛門は源次郎が知る人である。ただし千葉旧記のなかに岩村の名を見ことはできない。この岩村という者はもともと千葉の庶流といって九曜紋をつけていたが、不審がある。私が思うに、岩村はいずれの代にか、縁のある家から紋をもらったものであろう。もしくは古くは千葉の家来で主君より賜ったものかもしれない」
とある。
また、「増上寺の開山・酉譽上人(父は千葉介氏胤。母は新田義貞女)は千葉氏の出であるから、幔幕・什器にも十曜星を付けていた。その縁によってか、貞譽大僧正の時、千葉権之助は大僧正に頼んで、千葉氏の再興を桂昌院様(綱吉の母)まで願いあげたたのだが、桂昌院様が程なく亡くなってしまったので、結局千葉氏の再興はならなかった」とある。
鏑木正重 (1647-1690)
鏑木式部正胤の子。正保4(1647)年5月11日生まれ。幼名は千勝、通称は織部正。父が亡くなると家督を継ぎ、元禄3(1690)年3月13日亡くなった。
鏑木正義 (1675-1736)
鏑木織部正重の子。初名は正家。通称は大蔵丞・出羽守・下総守。延宝3(1675)年10月2日生まれ。元文元(1736)年12月16日没した。
鏑木慶寛 (1718-1750)
鏑木下総守正義の子。通称は長門掾、長門守、紀伊守、出羽守。
享保3(1718)年12月29日生まれ。享保17(1732)年に15歳で家督を相続し、寛延3(1750)年7月5日亡くなった。
鏑木 崇 (1740-1806)
鏑木出羽守慶寛の子。通称は兵庫頭、出羽守。
元文5(1740)年1月9日生まれ。寛延3(1750)年9月、11歳で家督を継いだ。文化3(1806)年6月22日亡くなった。
鏑木 栄 (1765-1821)
鏑木出羽守崇の子。諱は栄。通称は出羽介。弟は泰(兵庫助・隼人)。明和2(1765)年6月6日生まれ。
千葉胤正 (????-1640)
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| 鳥越神社 |
二代鳥越神社宮司。千葉権介俊胤の長男。通称は作兵衛。父・俊胤は水戸城主・武田信吉(家康の五男)に仕えていたが、信吉が亡くなると浪人。そののち武蔵国江戸浅草の鳥越神社・第六天神にまねかれて神主となり、氏を「鏑木」に改めた。
胤正(作兵衛)は鳥越神社神主となり、弟の正胤(式部)は第六天神の神主となったと伝わっている。胤正は元和7(1621)年1月6日、江戸城大広間に召されて年賀の儀を務めた。
鏑木式部 (????-1673)
三代鳥越神社宮司。千葉作兵衛胤正の子。通称は式部、対馬と称した。子孫は代々、毎年1月6日の江戸城大広間にて行われる年賀惣礼の儀を勤めた。
鏑木勝豊 (????-1708)
四代鳥越神社宮司。式部の子。通称を対馬・飛騨守と称し、正六位上に叙された。
延宝8(1680)年には江戸神職触頭役に就任した。寺社奉行支配の神職触頭役は寛政4(1792)年まで代々受け継がれた。
鏑木弘豊 (????-1728)
五代鳥越神社宮司。勝豊の子。右近・民部少輔を称し、正六位上に叙された。神職触頭役。
鏑木対馬 (????-1754)
六代鳥越神社宮司。通称は左内・対馬。正六位上に叙せられた。神職触頭役。
鏑木盛弘 (????-1767)
七代鳥越神社宮司。通称は飛騨・隼人。正六位上に叙せられた。神職触頭役。
鏑木直方 (????-1771)
八代鳥越神社宮司。盛弘の跡を継いで宮司となった。通称は左門・土佐守。神職触頭役。
鏑木大内蔵 (????-1773)
九代鳥越神社宮司。
鏑木織部 (????-1774)
十代鳥越神社宮司。
鏑木秀邦 (????-1783)
十一代鳥越神社宮司。通称は式部。神職触頭役。
鏑木久方 (????-1797)
十二代鳥越神社宮司。通称は権守。神職触頭役。
鏑木豊郷 (????-1805)
十三代鳥越神社宮司。通称は求馬。
鏑木豊喬 (????-1828)
十四代鳥越神社宮司。通称は一学。
鏑木豊貞 (????-1864)
十五代鳥越神社宮司。通称は靫負。幕府の御連歌衆に抜擢された。
鏑木豊秀 (1833-1884)
十六代鳥越神社宮司(詞掌)。通称は求馬。幕府の御連歌衆に抜擢された。江戸城大広間で行われた新年の儀を勤めた最後の宮司。
天保12(1841)年2月から天保14(1843)年2月までの2年間、岩村田藩士「伊東玄之丞え従学」し(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)、天保14(1843)2月年から弘化4(1848)年11月までの五年間を泉藩士「阿部傳え転学」し、「筆額」は「寺澤友幸え従学修行」して学問を修めた(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。
元治元(1864)年7月、嫡男鏑木鏺麿が誕生する(『大日本人物誌』)。
明治元(1868)年8月10日、新政府から「諸社廻達頭」に任命され、翌明治2(1869)年、高野山金剛三昧院末寺の長楽寺を分離させた。
明治5(1873)年4月25日、「第五大区二ノ小区浅草元鳥越町四十六番拝借地」に「家塾(塾名 別段無御坐)」を開塾する(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。習字(幼童教草、古今集序、国名歌、新古今集序、世界国尽、庭訓往来)と素読(本朝三字経、玉鉾百首、大統歌、古事記、孝経、大学、論語、易経)を教える塾で、生徒は六歳から十九歳まで「男三十二人 女十一人」を定員としている(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。
明治18(1881)年1月、嫡子鏑木鏺麿に家督を譲って隠居する。
千葉繁胤 (1552-1634)
千葉介胤富の四男と伝わる。通称は但馬守。
千葉介邦胤は天文21(1557)年生まれであり、彼の兄ということになる。事歴は不明。寛永11(1634)年4月13日に亡くなった。法号は法阿弥陀仏。ただし、この法号は千葉権介俊胤と同様であり、繁胤の実在も含めて違和感がある。
千葉総胤 (1575-1650)
千葉但馬守繁胤の子。通称は新介。慶安3(1650)年3月13日66歳で亡くなった。
千葉征胤 (1599-1680)
千葉新介総胤の子。通称は但馬。延宝8(1680)年11月13日、82歳で亡くなった。法号は常阿弥陀仏。
千葉叙胤 (1621-1680)
千葉但馬征胤の子。通称は新介。延宝8(1680)年3月3日、60歳で亡くなった。
千葉貴胤 (1647-1733)
千葉新介叙胤の子。通称は新介。享保18(1733)年8月9日、87歳で亡くなった。法号は長阿弥陀仏。