水戸藩の白井氏
水戸藩の家老職を務めた白井氏があった。水戸藩白井氏は、白井下総守胤治の子・白井民部少輔幹時を祖とする。幹時は小田原合戦で千葉宗家が所領を追われると浪人するが、豊臣秀吉に見出され、養子の関白・豊臣秀次に付けられた。秀次切腹ののちは田舎に隠居して生涯を終えた。
幹時には波留という娘があり、彼女が家康の侍女となっていたことから、彼女の弟・白井忠左衛門伊信が家康に召し出され、家康の十一男・徳川頼房の家臣として配され、子孫は代々水戸藩士として続くこととなった(『水府系纂』)。
◆安土桃山期~江戸初期の白井氏◆
+=白井勝胤
|(左馬介)
| ∥――――――白井忠太郎
| ∥
| ∥
+=娘
|(秀胤末娘)
|
| +―白井徳蔵 +―娘
| | |(興津良得妻)
| | |
| +―白井久胤――+―白井錫胤―――白井蔵之介
| |(伊豆守) |(忠左衛門)
| | |
+=白井之胤―+―娘 +―白井卯之次郎
+―新田岩松守純 |(忠左衛門) (伊藤友和妻)
|(満二郎) |
| +―娘
+―ひがし(東) |(香取社別当香取監物妻)
∥ |
∥―――――+―千葉新介重胤 +―――――――――――――――――――――――――――――+
∥ |(法名:長胤) |
∥ | +―白井庸胤 |
千葉介胤富―+―千葉介邦胤―+―鏑木俊胤 |(左馬允) |
(千葉介) |(千葉介) (権介) | |
| ∥ +―白井富次郎 |
+―娘 ∥ | |
∥ +―娘 +―波留 +=白井象胤―――+
∥ | |(仕神君・芳春院) |(左馬助)
∥ | | |
∥―――――+―白井胤幹 +―良 +―白井伊忠 +―娘
∥ |(備後守) | ∥ |(右馬助) |(門奈直養妻)
∥ | | ∥ | +――――――――+
∥ | | ∥――――+―白井勝久――白井久俊―+―絵島 |
∥ | | 豊島忠泰 (平兵衛) (平右衛門)|(大奥老女) +―良助 |
∥ | |(作右衛門) | | |
∥ | | ∥ +―白井勝昌――+―伊織 |
∥ | | ∥ |(平右衛門) |(撰要寺) |
∥ | | ∥ | | |
∥ | | ∥ +―豊島平八郎 +―平七郎 |
∥ | | ∥ |
∥ | | ∥――――――豊島忠松――豊島忠勝―――豊島泰亮====豊島平八郎 |
∥ | | 日下部氏 (作十郎) (市郎右衛門)(作右衛門) |
∥ | | +――――――――+
∥ | | 【水戸藩大老】 |
∥ +―白井幹時―+―白井伊信―+―白井信胤==白井伊胤――白井秀胤―――+―娘
∥ |(民部少輔) (忠左衛門)|(内蔵助) (忠左衛門)(伊豆守) (白井勝胤妻)
∥ | |
∥ | +―娘
∥ | |(門奈直行妻)
∥ | |
∥ | +―娘 +―娘
∥ | |(大井田義富妻) |(荻君方妻)
∥ | | |
∥ | +―白井胤氏――白井胤永―+―白井称胤 +=白井胤豊―――+
∥ | |(平次兵衛)(平次兵衛)|(権大夫) |(平次兵衛) |
∥ | | | | |
∥ | | +―白井平胤―+―娘 |
∥ | | |(左衛門) (関信正妻) |
∥ | | | |
∥ | | +=娘 |
∥ | | (河方澄時妻) |
∥ | | |
∥ | | +―――――――――――――――――――――――+
∥ | | |
∥ | | +―娘
∥ | | |(大森忠以妻)
∥ | | |
∥ | | +=白井胤被――+―白井金之介
∥ | | (平次兵衛) |
∥ | | |
∥ | +―須磨【仕本清院夫人】 +―白井胤利
∥ | |(朝倉常政妻) |(八太郎)
∥ | | |
∥ | +―白井伊胤 +―娘
∥ | |(忠左衛門) |(宇都宮真綱妻)
∥ | | |
∥ | +―娘 +―白井真次郎
∥ | |(雑賀重春妻)
∥ | |
∥ | |【高松藩家老】
∥ | +=白井伊忠―――白井尹清――白井尹定――白井尹久…
∥ | (右馬助)
∥ |
∥ +―鶴牧信幹―――高覚院様
∥ (茂左衛門) ∥
∥ ∥――――――陽春院様
+―白井胤永――白井胤治=====白井宗幹 小谷正元 (瑞春院?)
|(三郎太郎)(下総守) +―(治部少輔) (権兵衛) ∥――――+―鶴姫
| | ∥ |(明信院)
| 小山秀綱娘 | ∥ |
| ∥――――+ 徳川綱吉 +―徳川徳松
| ∥ (五代将軍)
| 真壁胤吉
|
(下総守)
|
|【矢作白井氏】
+―白井胤久――白井胤幹―――――白井胤英―――白井胤良―――白井英盛―――白井盛幹――白井盛次――白井幹宗…
(三郎) (兵庫介) (甚兵衛) (甚之輔) (甚十郎) (順三郎) (甚兵衛) (甚兵衛)
■水戸藩白井氏歴代当主
白井幹時(????-????)
白井氏十三代。父は白井下総守入道胤治。母は千葉介胤富娘。通称は民部少輔、志摩守、金兵衛。
幹時は小田原合戦で千葉宗家が所領を追われると浪人するが、豊臣秀吉に見出され、天正14(1586)年正月18日、丹波国に五千石を与えられて養子の関白・豊臣秀次に付けられた。しかし、秀次が秀吉に疑われて切腹させられると隠居して名を金兵衛と改め、田舎に住んで生涯を終えた。秀次の家老として、若狭白井氏の末裔である「白井民部少輔政胤」があったが、どのような関係があったかは不明。
白井伊信(1604-1674)
白井氏十四代。水戸白井家初代。父は白井志摩守幹時。通称は忠左衛門、左馬助。号は幽室。
父・幹時が秀次切腹に連座して失脚するとともに浪人した。伊信には姉が二人あり、長姉の波留(芳春院)が徳川家康の侍女となっていたことから、彼女の汲引をもって元和2(1616)年、駿府城の家康のもとに召し出され、末子で水戸城主・徳川頼房に附属されて小姓となり、百五十石を賜った。
元和5(1619)年10月、百五十石が加増され、その後さらに百石の加増があり、都合四百石取りとなる。その後、御腰物番に任じられ、元和9(1623)年に大御所・徳川秀忠、将軍・徳川家光が上洛した際に、頼房に扈従して上洛を果たす。
宝永元(1624)年、歩行奉行に就任。次いで小姓頭となり、二百石が加増となった。さらに累進し、寛永10(1633)年、御書院番頭に就任。老中職を兼ね、四百石が加増され、都合一千石となった。
寛永13(1636)年11月12日、将軍・徳川家光が松原小路(千代田区)にあった水戸藩邸に徳川頼房を訪ねた際、将軍家に謁見を果たし、11月14日、大番頭に累進した。
慶安元(1648)年11月、五百石が加増となり、万治3(1660)年6月25日、大老職となった。
寛文元(1661)年2月9日、頼房が水戸から江戸に出府した際に、これに扈従して出府。頼房とともに将軍・徳川家綱に謁見した。頼房は7月29日に江戸藩邸に死去。8月23日、世子の光圀が家督相続御礼に登城した際にも伊信は水戸藩筆頭の重臣として謁見している。
寛文8(1668)年、老境を理由に大老職を辞して水戸に戻り、城代となる。そして四年間城代職を務めた後、寛文12(1672)年8月25日に隠居。幽室と号した。
延宝2(1674)年3月27日、七十一歳で亡くなった。水戸藩草創の臣として重用され、子孫繁栄の礎を築いた人物であった。
■水戸藩重臣■
名前 | 石高 | 格 | 同心等 | 初代出仕 | 出身 |
中山備前守信正 | 15,000石 | 附家老 | 与力十七騎 | 慶長12(1607)年 | 3代。父・信吉は北条氏照の旧臣。常陸松岡藩主。 |
山野辺土佐守義堅 | 10,000石 | 寛永10(1633)年 | 3代。父・義忠は最上義光の子。藩主・頼房の娘婿。 | ||
鈴木石見守 | 5,000石 | 元和4(1618)年 | 2代。三河豪族。初代・重好は松平忠輝旧臣。 | ||
松平志摩守 | 4,000石 | 寛永12(1635)年 | 3代。大草松平家。 | ||
松平主水頼利 | 3,000石 | 与力二騎 | 徳川頼房の3男。娘は白井忠左衛門伊信の嫡子・信胤の妻。 | ||
松平一学頼雄 | 3,000石 | 与力二騎 | 徳川頼房の6男。のち常陸宍戸藩主。 | ||
松平左門頼泰 | 3,000石 | 与力二騎 | 徳川頼房の8男。 | ||
松平権之佐房時 | 3,000石 | 与力二騎 | 徳川頼房の9男。 | ||
松平采女 | 3,000石 | 徳川頼房の嫡孫。高松頼重の嫡子。3代藩主綱條。 | |||
中山大膳信治 | 3,000石 | 寛永5(1628)年 | 中山信正の弟。のち4代目附家老。 | ||
太田主水資正 | 1,700石 | 与力五騎 同心三十人 | 慶長8(1603)年 | 2代。父・主水は頼房養母・英勝院の甥。藩主・頼房の娘婿。 | |
松平八左衛門 | 1,500石 | 与力五騎 同心二十人 | 寛永年中 | 福釜松平家。 | |
松平仙之助 | 1,200石 | 松平頼利の嫡子。頼道。 | |||
白井忠左衛門伊信 | 1,000石 | 御老中 | 与力五騎 同心三十人 | 元和2(1616)年 | 千葉一族。もと150石の頼房小姓。子孫は水戸藩大老・城代。 |
酒井三左衛門 | 1,000石 | 与力六騎 同心二十人 | 万治年中 | 三河酒井氏の一族か。 | |
宇都宮弥三郎隆綱 | 1,000石 | 与力三騎 同心二十人 | 寛永年中 | 父・国綱は戦国最後の宇都宮城主。下野守。藩主・頼房の娘婿。 | |
岡崎平右衛門昌純 | 1,000石 | 御老中 |
与力六騎 同心二十人 | 慶長8(1603)年 | 父・綱住の祖父は近江・浅井長政の庶兄・浅井綱政。 |
藤田将監貞清 | 800石 | 御老中 大寄合頭 | 与力五騎 同心二十人 | 元和4(1618)年 | もと150石の頼房小姓。信任を得て立身した。 |
三木左次衛門 | 900石 | 御老中 | 与力五騎 | ||
武藤長左衛門 | 800石 | 御老中 | 与力五騎 |
白井信胤(1640-1707)
白井氏十五代。水戸白井家二代。父は白井忠左衛門伊信。母は門奈三右衛門直養娘。妻は徳川光圀の弟・松平求馬頼利娘。通称は内蔵助。号は風月。
【水戸徳川家略系図】
徳川家康―徳川頼房―+―松平頼重―…讃岐高松藩主 |
寛永17(1640)年、誕生。万治年中に小姓として召し出された。寛文2(1662)年8月7日、二十三歳にて大小姓となる。さらに二年後の寛文4(1664)年閏5月17日、小姓頭となり、12月7日、二百石が加増となった。
寛文7(1667)年、改めて百石が加増されて三百石取りとなった。その後、寛文12(1672)年に父で水戸城代の白井伊信が隠居したため、二十八歳で家督と千二百石を継承し、それまでの三百石は藩へ返還となった。
延宝3(1675)年9月21日、書院番頭に就任。貞享元(1684)年5月11日、大番頭となり、元禄12(1699)年3月11日、六十歳にて寄合頭となり家老に準じた。四年間、寄合頭をつとめたのち、元禄16(1703)年に辞した。
子供のなかった信胤は、宝永元(1704)年7月21日、異母弟の白井権蔵伊胤を養嗣子に迎え、宝永元(1704)年9月16日、隠居。風月と号した。宝永2(1705)年8月8日、嗣子・伊胤が本禄千二百石のうちから六百石を賜って家督を継ぎ、信胤は隠居料として六百石を賜った。
宝永4(1707)年9月22日、六十八歳にて亡くなった。禄高六百石は藩に返還された。
白井伊胤(1663-1740)
白井氏十六代。水戸白井家三代。父は白井忠左衛門伊信。母は幕臣・倉橋庄兵衛致政娘。妻は荻源右衛門君隆娘、のち赤林三郎兵衛重行娘、のち横山甚内令政娘。通称は民部、権蔵、忠左衛門。号は樂翁。
●遠山氏系図(『浅羽本遠山系図』より作成)
⇒明智景保――遠山直景―+―綱景―――+―政景――――――直景
(左衛門尉)(紀伊守) |(丹波守) |(甲斐守) (右衛門大夫)
| |
+―康光 +――女
(左衛門尉)|(法性院日昭) 【1578-1642】 【水戸藩主】
| ∥――――――於勝======徳川頼房―+―徳川光圀
| 太田康資 (英勝院) (権中納言)|
|(新六郎) ∥ ↑ |
| 徳川家康――――徳川頼房 +―頼利――女
| (征夷大将軍) (権中納言) ∥
| ∥
+―女―――――――遠山直次 ∥
|(大道寺政繁妻)(長右衛門) ∥
| ∥
+―女 ∥
| ∥―――――――女【住下総、原氏妻】 ∥
| 高城胤辰 ∥
|(下野守) 【水戸藩家老】 ∥
| 白井伊信 ∥
+―女 (忠左衛門) ∥
∥―――――――滝野 ∥―――――――+―白井信胤
舎人源太左衛門 ∥―――――――女 |(忠左衛門)
∥ |
倉橋庄兵衛 +―娘
|(大井田治郎左衛門義富妻)
|
+―白井胤氏
|(平次郎)
|
+―須磨【仕本清院夫人】
|(朝倉番右衛門常政妻)
|
+―白井伊胤
|(忠左衛門)
|
+―娘
|(雑賀孫市重春妻)
|
+=白井伊忠…【高松藩家老】
(所左衛門)
寛文3(1663)年に誕生した。延宝4(1676)年4月12日、十四歳で小姓として召し出された。そして元禄3(1690)年8月28日、小納戸役に就任。続けて元禄6(1693)年6月12日、大小姓となり通事を務めた。翌元禄7(1694)年9月18日、二百石を賜り、元禄15(1702)年7月18日、歩行頭となった。
宝永元(1704)年7月21日、異母兄で白井家当主の白井忠左衛門信胤の養嗣子に迎えられ、寄合となり二百石が加増となった。そして宝永2(1705)年8月8日、義父・信胤の隠居に伴って後日家督を継ぐが、本禄千二百石のうち、半分の六百石は信胤の隠居料として分割されたため、六百石を継承した。その後、宝永4(1707)年11月15日、新番頭となり、宝永6(1709)年3月14日に進物番頭、宝永7(1710)年閏8月22日、書院番頭に就任した。
正徳5(1715)年11月28日、大番頭に就任。享保13(1728)年4月、徳川宗堯(四代藩主)の日光御社参に供奉した。享保18(1733)年9月24日、隠居。元文5(1740)年閏7月7日、七十八歳で亡くなった。
白井秀胤(1715-1787)
白井氏十七代。水戸白井家四代。父は白井忠左衛門伊胤。母は横山甚内令政娘。妻は肥田因幡守政業娘。通称は左太郎、左馬之允、民部、伊豆。号は廉山。
享保18(1733)年9月24日、父の伊胤が隠居したため、後日家督を継いで家禄六百石を領し、寄合となる
享保19(1734)年4月18日、二十歳のときに御側小姓となり、元文元(1736)年2月14日、御使番に就任。元文2(1737)年9月18日、歩行頭となり、その後も寄合指引、小姓頭、書院番頭、大番頭を歴任した。
寛延元(1748)年3月、松平広忠の二百回忌が三河国大樹寺で行なわれた際には、藩公の代理として出席し代参している。
宝暦元(1751)年4月15日、若年寄に就任。宝暦9(1759)年3月4日、大寄合、老中となった。そして宝暦12(1762)年正月13日、大寄合上座、大老に就任し、その後は藩公代理として将軍家へ謁見するなど、藩政のトップとして活躍する。
明和4(1767)年5月18日、六十三歳で嫡男・象胤に家督を譲って隠居し、廉山を号した。
天明7(1787)年12月5日に亡くなった。享年七十三。
白井象胤(1744-1825)
白井氏十八代。水戸白井家五代。義父は白井左馬之允秀胤。実は谷主鈴惟孝次男。妻は鈴木丹後好賢娘。通称は菊次郎、織部、左馬助。初名は忠胤、聚胤。
兄に左太郎庸胤がいたが、宝暦10(1760)年6月10日に二十五歳で亡くなったことから、嫡子に立てられ、明和3(1766)年4月13日、二十三歳で御前小姓となる。
明和4(1767)年5月18日、養父・秀胤の隠居にともなって、後日家督を相続し、家禄五百石を相続する。
明和6(1769)年3月3日、御使番に就き、明和8(1771)年2月24日、寄合指引となり、以降、新番頭、書院番頭、大番頭、寺社奉行を経て文化7(1810)年5月12日、大寄合頭となる。
文政8(1825)年正月11日、二百石を加増されて七百石取りとなるが、2月12日、八十二歳で亡くなった。
白井之胤(1787-1835)
白井氏十九代。水戸白井家六代。義父は白井左馬助象胤。実は野中三五郎重同弟。初名は野中源三郎重備。通称は忠左衛門。
義兄・久三郎勝胤が享和元(1801)年8月19日、二十九歳の若さで亡くなったため、嫡子に立てられた。当時十五歳。勝胤にはすでに忠太郎という嫡子がいたが、まだ幼少だったためか、野中家より源三郎重備が養子に迎えられ、家督を継いで之胤と称したのだろう。
文政3(1820)年12月25日、御前小姓に取立てられ、文政8(1825)年2月12日、養父・象胤が亡くなったため、3月23日、家督を相続。家禄六百石を継承した。
文政10(1827)年4月14日、歩行頭に就き、進物番頭、馬廻頭を経て、天保3(1832)年、書院番頭に就任する。
天保5(1834)年4月、藩公・徳川斉昭の江戸行きに随い、5月1日、将軍・徳川家斉に謁見した。
翌天保6(1835)年6月26日、四十九歳で亡くなった。
白井久胤(????-1865)
白井氏二十代。水戸白井家七代。父は白井忠左衛門之胤。母は門奈三右衛門直章娘。妻は水戸藩執政・興津蔵人良恭娘。通称は辰次郎、織部。官位は従五位下。官途は伊豆守。
天保2(1831)年冬、兄の徳蔵が亡くなったため、急遽12月25日に嫡子と定められ、天保6(1835)年6月26日、父・之胤が亡くなったことから、閏7月19日に家督を相続。家禄六百石を継承し、中ノ寄合となる。
天保8(1837)年正月11日に小姓となり、以降、目付、小姓頭、若年寄、大番頭を経て嘉永5(1852)年9月9日、大寄合頭上座用達となる。
御老中 | 白井忠左衛門 | 1,500石 |
御小姓頭 | 白井内蔵介 | 200石 |
御次御小姓 | 白井案衛門 | 300石 |
このころ、水戸藩内では幕府との関係強化を図る上級藩士層を中心とする保守派と、水戸学を信奉して天皇を至上のものとし、朝廷との関係を深めようとする中下級藩士層を中心とする改革派の対立が深刻さを増していた。もともと、八代藩主・徳川斉脩の死去後、その継嗣をめぐって、保守派は将軍・徳川家斉の庶子・松平恒之丞を継嗣に迎えようと図る一方、尊王派は斉脩の異母弟・松平敬三郎を擁立し、結果として敬三郎が藩主と定められ、将軍・徳川家斉の一字を賜って徳川斉昭となる。
斉昭は能力があれば積極的に中下級藩士でも抜擢したが、これに反発したのが敗れた保守派であり、その中心人物の一人が、門閥家老・結城寅寿朝道だった。結城寅寿は幕府との関係を強めて斉昭主導の尊王派を一掃すべく機会を窺っていたが、弘化元(1844)年5月6日、藩政不行届のため、幕命によって斉昭は隠居謹慎を命じられ、代わって十三歳の嫡子・徳川慶篤が藩主となった。その後は結城寅寿ら保守派が若年の慶篤のもとで実権を握り、尊王派の排斥を行なう。しかし、嘉永2(1849)年に斉昭の藩政復帰が認められ、嘉永5(1855)年、結城ら保守派の藩士は免職される。そして嘉永6(1853)年10月16日、結城は逮捕され、藩主・徳川慶篤暗殺の計画が発覚したことにより、安政3(1856)年4月25日、処刑された。このことにより、保守門閥派と尊王改革派の間での対立が一層激しくなった。
この混乱の中、白井織部久胤は安政4(1857)年7月9日、大寄合頭上座用達に御備立調練司を兼ねる要職に就く。久胤は門閥の出自ながら斉昭の信任厚く、結城寅寿とは対立関係にあった。
そんな中、幕府内でも安政5(1858)年6月19日、大老・井伊直弼主導の幕閣が、勅許を得ずにアメリカとの間に日米修好通商条約に調印してしまう。これに対し、斉昭は徳川慶篤(水戸)、徳川慶恕(尾張)、松平慶永(福井)を伴って6月24日に急遽江戸城に登城して井伊を詰問。そして、井伊は斉昭らの不時登城に対して厳罰を以って当たり、7月5日、斉昭はふたたび謹慎を命じられ、その後、孝明天皇から幕府を経ずに水戸藩へ尊皇攘夷を実行すべき旨の密勅(戊午の密勅)が下されたことが幕府の知るところとなり、8月27日、付家老・中山備前守信宝、家老・宇都宮弥三郎憲綱、白井久胤らが江戸城に召し出され、上使を以って駒込藩邸において斉昭の水戸での永蟄居を命じられた。そして、幕府の水戸藩への介入も執拗を極め、たびたび高松・府中・守山の三支藩に監視を命じている。そして、大老・井伊直弼は9月7日、一橋派志士・梅田雲浜の逮捕を皮切りに、一橋派の人々や密勅の関係者を捕らえ、次々に処刑していった。「安政の大獄」である。
なお、久胤は8月24日に水戸藩家老となり、安政6(1859)年3月3日、御勝手掛に就任する。
このような中で、幕府の執拗な藩への介入に激怒した藩士や民衆数千人が大挙して江戸に向う大事件が勃発した。9月2日、家老・杉浦羔二郎政安らが彼らの後を追い、諭して下総国小金宿で留まらせることに成功。杉浦らは事の重大性に江戸へ出て、藩公・徳川慶篤に面会して領内の混乱を伝え、慶篤は国家老に鎮諭を指示した。しかし、小金宿で押し留められたのは数千人という膨大な人数であり、白井久胤も水戸を出立して9月11日、藩公・慶篤に緊急の鎮撫が必要なことを訴えた。久胤は16日、そのまま「定府」を命じられ、江戸詰めとなる。
翌17日、幕府は家老・宇都宮憲綱、白井久胤に登城を命じ、水戸の士民がたちが大挙して江戸へ向っている理由を詰問。さらに翌18日にも久胤を呼び出して、彼らの鎮撫を厳命した。翌19日、藩公・慶篤は白井久胤、太田誠左衛門資忠、青山量太郎の三名を小金宿に遣わして、彼らを帰藩させるべく説得を試みている。
また、「戊午の密勅」の取り扱いについても藩公と話し合い、安政7(1860)年正月、藩公・慶篤のほか、弟の松平相模守慶徳(鳥取藩主)、支藩老公・松平主税頭頼位が同席の中で「密勅」は幕府へ返納することと決定した。しかし、これを聞いた藩内の尊王攘夷激派は勅状返納に強く反発し、多数の藩士が長岡駅に屯集して抵抗した。
正月15日、藩公・慶篤は登城を命じられ、25日までに勅状を幕府に返納すべきことが厳命されたため、慶篤は帰邸後、ただちに久胤らを帰藩させ、期日までに勅状を江戸に齎すべきことを命じた。しかし、長岡駅での屯集藩士の妨害は徹底しており、まったく勅状下向の目処が立たない。老公・斉昭の命にも従わず、期日の25日までに勅状の江戸下向は叶わず、27日に慶篤が幕閣に上申せざるを得ない結果となった。その後も、慶篤は在国の家老に勅状返納を厳命するが、尊王攘夷激派の抵抗は強く、ついに2月21日、老公・斉昭は長岡宿屯集藩士を鎮撫するために兵の派遣を命じた。このとき逃れた関鉄之助らが中心となって、3月3日、江戸城桜田門外で井伊直弼を討った(桜田門外の変)。
この「桜田門外の変」について、水戸藩は井伊大老暗殺に関わった者の処罰を幕府に申請し、さらに、藩士領民が藩庁に無断で江戸へ上ることを厳禁した。こうした中で、老公・斉昭は3月24日、藩公・慶篤に勅状の返納を速やかに行なうよう指示する。しかし、尊王派藩士たちの勅状返納への抵抗は強く、藩公・慶篤はたびたび勅状返納の時期の緩和を幕府に要請するが、万延元(1860)年5月5日と5月29日、幕府は京都所司代・酒井若狭守忠義を通じて、水戸藩に下した勅状の「返納の勅書」下賜を朝廷に奏請した。
これを受け、朝廷も6月13日、勅状返納の勅書を酒井へ下し、酒井はこれを江戸に送った。こうした中、8月15日に、水戸老公・徳川斉昭が急死する。これを受けて、幕府は藩公・慶篤らへの慎みを解除し、8月26日、慶篤の望みを容れて水戸への帰国を許す。これより、斉昭のもと藩政から遠ざけられていた門閥保守派が再度登用されるようになる。
12月16日、久胤は陪臣の身ながら、従五位下・伊豆守に叙任されるが、慶篤を奉じた保守層の復活は、斉昭のもとで権勢を握っていた久胤ら執政の追放を意味し、文久2(1862)年11月21日、藩公・慶篤は、再登用した岡田徳至(元家老)、武田耕雲斎らを執政とし、白井久胤、興津良恭らを免職の上、隠居・謹慎を命じた。
そして元治元(1864)年11月7日、官位召放を命じられ、慶応元(1865)年、病死した。しかし、明治時代に彼ら改革派の功績が認められ、久胤は正五位を贈られた。
●白井忠左衛門組
出澤弥衛門 | 太田新之允 | 国分新五兵衛 | 藤田惣左衛門 | 河合彦衛門 |
樫村吉左衛門 | 馬場彦之允 | 信木市郎左衛門 | 岡部又左衛門 | 信木十兵衛 |
白井錫胤(????-????)
白井氏二十一代。水戸白井家八代。父は白井伊豆守久胤。母は興津蔵人良恭娘。妻は宇都宮弥三郎憲綱娘。通称は左太郎、忠左衛門。名はのちに忠と改める。
安政5(1858)年9月、江戸詰めとなり、翌安政6(1859)年3月には小姓頭に、文久2(1862)年6月には御書院番頭にまで昇進した。
しかし、元治元(1864)年11月7日に父・久胤が官位召放を命じられたことから、錫胤も連座して逼塞。その後、名を忠と改めた。家督は実弟の白井真澄が継承している。
■参考文献
『坂東平氏一門』(鏑木清春著)
『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
『水戸市史』(水戸市史編さん委員会)
『茨城県史料』(茨城県立歴史館編)
『水府系纂』(水府明徳会)
(3)高松藩の白井氏
白井志摩守幹時の次女・良は、大坂夏の陣のとき、豊臣秀頼の正室・千姫(徳川秀忠の娘)に従って大坂城を退去し、旗本・豊島忠次(作右衛門忠泰とも)と結婚して五男をもうけた。
長男・白井平兵衛勝久は、母方の白井氏を称して旗本となり、その孫娘は江戸城大奥年寄となった絵島。勝久の弟・白井所左衛門伊忠は伯父で水戸藩大老の白井左馬助伊信の養子となって徳川頼房に仕え、頼房の長男・松平頼重(水戸光圀の兄)が讃岐高松藩を立藩すると、寛永15(1638)年、頼重の家老として高松に赴いた。
文政5(1822)年1月11日、松平頼恕の代、伊忠の四代の孫・白井総兵衛尹良が家老に抜擢された。彼は文政10(1827)年2月1日に隠居し、家督は嫡男の白井総兵衛尹民が継いで家老職に就任した。尹民は天保8(1837)年6月21日に家老を辞し、天保12(1841)年7月6日、子・白井監物尹凝が家老職に就任。明治元(1868)年の幕末の動乱で土佐藩より征討を受けたとき、同職の大久保飛騨とともに走り回り、高松を救った。
白井伊忠―+―白井実忠 +―白井尹定―――白井尹久―――白井尹良――白井尹民―――白井尹凝==白井尹諧
(所左衛門)|(所左衛門) |(総兵衛) (所左衛門) (総兵衛) (総兵衛) (監物) (潔)
| |
+―白井尹清――+―白井尹長―+=白井尹方―+―白井尹寿==白井尹正―+=白井尹義
(総兵衛) (一甫) |(彦右衛門)|(彦右衛門) |
| | |
+―山室明則 +―白井尹敦――白井尹益 +―白井尹佐
(蔀) (金太郎)
子孫は高松藩家老として明治時代に至った。
■参考文献
『坂東平氏一門』(鏑木清春著)
『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
『高松市史』(高松市史編さん委員会)
『水府系纂』(水府明徳会)
(4)香取郡矢作白井家
水戸藩の大老・白井氏と同族。鏑木駿河守公永の跡を継いで白井氏の名跡を再興した甥の三郎幹成ははじめ常陸国真壁郡白井城にあったが、のち下総国白井庄の地頭として下総へ来訪。文明11(1479)年正月におこった臼井城の合戦では寄手に加わり、先登に立って戦功をあげた。
幹成の嫡男・白井三郎太郎胤永の子孫が水戸藩や高松藩の重臣となる白井家となった。一方、胤永の弟・白井三郎胤久は下総国香取郡に移住していたようで、その子・白井兵庫助胤幹は永禄年中に矢作城主・国分氏に属した。その子・白井甚兵衛胤英は父・胤幹とともに国分氏に属し、天正年中の正木大膳亮(安房里見家重臣)による香取郡攻撃に抵抗したが、矢作城は落城。胤英も運命をともにしたか。
その末裔・白井丹右衛門貞行は天保11(1840)年3月、徳川斉昭の命により国分氏に属して狩を行い、大いに面目をほどこした。その子・白井憲司胤敬は弘化2(1845)年、天神真楊流柔術の奥義を福田八郎右衛門義典より伝授された。
●矢作白井氏略系図(白井さん御提供)
千葉介常重―千葉介常胤―千葉介胤正―白井胤時―+―鏑木胤定=鏑木胤泰
(千葉介) (千葉介) (千葉介) (八郎) |(九郎) (八郎)
| ↑
+―娘 |
∥――――鏑木胤泰――――+
∥ (八郎) |
上総権介常澄―金田頼次――康常――――――――――成常 |
(小大夫) (小大夫) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―家胤――祐胤―――胤繁――――察胤―――+―公永 +―白井幹成―――――+
(十郎)(孫十郎)(十郎太郎)(八郎四郎)|(駿河守)|(三郎) |
| | |
+―娘 | |
∥―――+―胤元――胤義――+|
真壁義成 (十郎)(長門守)||
||
+―――――――――――――――――――――+|
| |
+―胤定――+―胤家 |
|(信濃守)|(豊後守) |
| | |
| +―胤□ |
| |(与左衛門) |
| | |
| +―坂戸家定 |
| (上野介) |
| |
+―義定――――定永―――定清 |
(甚六) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 真壁胤吉―――宗幹
| ↓
+―胤永――――胤治―――+=宗幹
|(三郎太郎)(下総入道)|(治部少輔)
| |
| +―胤幹
| |(備後守)
| | 【水戸藩大老白井氏】
| +―幹時―――伊信―――…
| (志摩守)(左馬助)
|【矢作白井氏】
+―胤久――――胤幹―――胤英―――胤良―――英盛―――盛幹―――盛次―――+
(三郎) (兵庫介)(甚兵衛)(甚之輔)(甚十郎)(順三郎)(甚兵衛) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―幹宗―――宗道―――胤道――――盛行――敬貞――――貞行―――胤敬
(甚兵衛)(甚兵衛)(丹右衛門)(忠蔵)(常右衛門)(伊兵衛)(憲司)