○小田原藩相馬家○
|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
|一橋徳川家相馬氏|喜連川藩相馬家|小田原藩相馬家|その他の相馬家|
|彦根藩相馬家【一】|彦根藩相馬家【二】|沼田藩相馬家|笠間藩相馬家|
下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。
喜連川藩 相馬家 |
小田原藩 相馬家 |
彦根藩 相馬家【一】 |
彦根藩 相馬家【二】 |
沼田藩 相馬家 |
笠間藩 相馬家 |
その他の 相馬家 |
■小田原藩相馬家■
+―相馬治胤―…【旗本相馬家】
|(左近大夫)
|
+―相馬胤永―+―相馬胤継【相馬胤房継嗣】
(民部太夫)|(小十郎)
|
+―相馬胤勝――相馬胤将==相馬胤貞――相馬胤祥――相馬胤英――相馬胤昌――相馬胤吉――相馬胤明==相馬胤鎮
(七左衛門)(七左衛門)(澤右衛門)(七左衛門)(七左衛門)(七左衛門)(七左衛門)(七左衛門)(金之丞)
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤永
相馬胤永(1558-1640)
父は相馬一族・高井某。十五代・相馬左近太夫治胤の弟。通称は十郎。官途名は民部太夫。号は覚庵斎。
十六歳から戦陣に出て活躍し、各地で軍功を挙げたという。おそらく兄・治胤とともに北条氏と戦いをくりひろげたのだろう。永禄9(1566)年6月、治胤が守谷城を明け渡して北条氏に降伏すると、彼も北条氏の旗下に入った。
天正9(1581)年8月、駿河の徳川家康の孫娘・督姫が北条氏直に嫁いだことで、北条氏は西からの驚異がなくなり、本格的に北関東に軍事展開を始めた。これを察した佐竹義重・結城晴朝・宇都宮国綱・太田資正らは互いに手を組んで、豊臣秀吉と同盟を結んだ。こうした争いの中で、天正12(1584)年3月、北条氏直は佐竹義重と下総・常陸国境で戦ったが、この戦いに胤永が参戦しており、佐竹義重の猛攻に百八十騎を率いて佐竹の大軍につっこみ、佐竹勢を退却させたことを賞され、包永の太刀と贈り物を与えられている。のち、包永は兄・治胤がほしがったため、彼に贈呈している。
天正18(1590)年正月からおこった小田原の陣では小田原城に入城したとされている。小田原に入城すると、松田憲秀の指揮のもとで宮城野口をかためていたようである。松田氏は下総の諸将をまとめる立場にあったようで、千葉介の筆頭家老・原氏も松田氏の指示を受けている。
しかし、秀吉の軍勢によって岩付城が5月20日におち、下総佐倉城も5月18日頃に陥落していることから、5月中に相馬氏の居城(高井城?)も落とされていると思われ、浅野弾正少弼(長吉、長政)・木村常陸介(一、高重)は、天正十八年五月付で領内の長龍寺(守谷市)に禁制を出している。
小田原落城後、胤永は家康に仕えて相馬郡高井村の知行を許されていたが、慶長19(1614)年の大坂の陣の際、軍律に背いたために所領を没収され、相馬郡高野村へ隠居して「道仙」を称して寛永17(1640)年正月13日、八十三歳で没した。胤永の子孫の家には、平将門の兼光の太刀(兼光は将門に時代にはないため、南北朝時代ごろに相馬家に伝来したか)、相馬次郎師常の差料と伝来した三条宗近の太刀が伝えられた。
胤永の二男・相馬十郎胤正は、一族・広瀬傳広の婿養子となり、広瀬家が高井に帰農すると、胤正もこれに従って農民になったという。
●相馬民部太夫胤永系図●
【小田原藩客分相馬家】
相馬胤永―+―胤勝――+―胤将=====胤貞――――胤純――――…―――…
(民部太夫)|(長四郎)|(七左衛門尉)(澤右衛門)(七左衛門尉)
| |
| +―娘【飯野半左衛門妻】
| |
| +―娘【田中助太夫妻】
| |
| +―娘【遠藤杢右衛門妻】
| |
| +―娘【板倉理右衛門妻】
| |
| +―娘【畔柳孫左衛門妻】
| |
| +―娘【手嶋武兵衛妻】
|
|
+―胤正―――…【相馬郡高井村廣瀬家】
(十郎)
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤勝
相馬胤勝(1582-1652)
父は相馬民部太夫胤永。通称は長四郎、七左衛門。兄の小十郎胤継は一族の相馬大蔵太夫胤房の跡を継いで、守谷城主・土岐丹後守家に仕えた。
天正10(1582)年、おそらく下総国相馬郡内で誕生したと思われる。小田原北条家が滅亡すると、父・胤永とともに相馬郡に隠棲していたが、慶長年中、松平左馬允の斡旋で武蔵国騎西城主・大久保忠常(加賀守)の家中に加わり、御先手頭役となり、三百石を与えられるという破格の待遇を受けた。
しかし、その後子細があって大久保家を辞し、名将・黒田如水(黒田官兵衛)に仕えた。しかし、黒田家でも子細があって牢人となり、慶長12(1607)年、小田原城で療養中の忠常のもとに帰参し、以前と同じ三百石にて召抱えられている。
小田原城学橋 |
慶長16(1611)年10月10日、忠常が三十二歳の若さで没すると、隠居をしていた忠常の父・大久保忠隣がふたたび小田原城主となり、胤勝は忠常の嫡子で、忠常の跡を継いで騎西城主となっていた忠職の守り役に抜擢された。忠職が美濃国加納城へ遷されると、胤勝も同道して御先手組預に任じられた。さらに肥前国唐津城へ転封されたときは、御持弓頭を仰せ付けられた。
小田原藩相馬家の家格は「藩士」ではなく「客分」であったといわれる。これは、大久保家が相馬家を「名族」としてとらえていたためとされ、小田原の里歌には「大久保に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に、相馬渡邊」というものがあるという。渡邊家は三河以来の譜代の士で、平安時代の左大臣・源融(嵯峨天皇皇子)を祖とする嵯峨源氏の名門である。
胤勝は、元和8(1622)年の秋、下総国相馬郡荒木村(我孫子市新木か)に住んでいる七十歳の古老・相馬蔵人佐則胤(栢室道固)に相馬家の系譜を尋ね、則胤は惣領・相馬小次郎家に伝わる御家伝書の写しを胤勝に与えた(『惣領小次郎殿以御家伝書写之』)。「相馬則胤」という人物についてのいわれは不明だが、相馬惣領家・相馬小次郎ともゆかりを持つ人物であったようで、相馬一族でも有名な人物だったと思われる。惣領・相馬小次郎とは、相馬郡内に千石の知行を持っていた旗本・相馬政胤(小次郎)かもしれない。
慶安5(1652)年4月18日、肥前国唐津において亡くなった。享年七十一歳。子はなく、弟の長三郎胤将が跡を継いだ。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤将
相馬胤将(1620-1690)
父は相馬七左衛門胤勝。通称は長三郎、兵右衛門、七左衛門。
元和6(1620)年、江戸に生まれた。寛永13(1636)年8月24日、十六歳のときに藩主・大久保忠職の小姓として美濃国加納へと移った。寛永18(1641)年5月15日、元服して兵右衛門胤将を称する。大久保家が肥前唐津へ転封になり、慶安5(1652)年4月18日、父・七左衛門胤勝が亡くなると、7月21日、その跡を継いで三百石を賜った。承応2(1653)年には六十石を加増され三百六十石の知行となる。
明暦2(1656)年、御先手頭となり、父の通称・七左衛門を襲名した。寛文5(1665)年3月8日には藩内の重役である御用人に進んだ。寛文7(1667)年に百石が加増され、四百六十石の知行となった。
相馬胤将墓碑 |
延宝6(1678)年、主君の大久保忠朝が老中に就任し、延宝7(1679)年に下総国佐倉に遷されると、胤将もこれに従い、佐倉へ移った。佐倉は江戸に近く、その後、老中を輩出する藩として知られるようになる。天和2(1682)年2月21日、藩主・忠朝は甥の江川浅右衛門を、嫡男がなかった胤将の養嗣子としている。胤将は2月晦日、月番役に就任する。
貞享3(1686)年、藩侯・大久保忠朝は、祖父の忠隣が改易された故地・小田原に封じられることとなり、胤将もこれに従った。これを機会にか、胤将は貞享4(1687)年に隠居願を提出。4月20日、隠居願が認められ、養子・胤貞(江川浅右衛門改め相馬澤右衛門)に家督相続がなされ、三十両五人扶持が下し置かれた。胤将はその後法体の身となり、山月と号した。
元禄3(1690)年2月3日、小田原城において亡くなった。享年七十一歳。法名は相源院殿江外山月大居士。小田原城下の東海道沿いの名刹・常光寺(小田原市板橋)に葬られ、同寺は相馬家の菩提寺となる。
●相馬胤将周辺系譜
相馬胤永―――相馬胤勝――――相馬胤将=====相馬胤貞
(民部太夫) (七左衛門尉) (七左衛門尉) (澤右衛門)
↑
江川英政 +―相馬胤貞【小田原藩客分】
(太郎左衛門) |(澤右衛門)
∥ |
∥―――――――江川英利 +―渡辺 龍【小田原藩客分】
榊原長政―+―榊原清政―――榊原照久―――娘 (太郎左衛門) |(与一兵衛)
|(七郎右衛門)(大内記) ∥ |
| ∥――――――+―江川英輝――――→【韮山代官】
| 大久保忠隣――大久保教隆―+―娘 (太郎左衛門)
| (相模守) (右京亮) |
| |
| +―大久保忠朝――→【小田原藩主】
| (加賀守)
|
|
+―榊原康政
(式部大輔)
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤貞
相馬胤貞(1656-1703)
養父は相馬七左衛門胤将。実父は江川太郎左衛門英利。母は大久保右京亮教隆娘。通称は浅右衛門、澤右衛門、七左衛門。老中・大久保忠隣の曾孫で、小田原藩主・大久保忠朝の甥にあたる。
明暦2(1656)年、江戸の江川邸にて生まれたと思われる。江川家は代々伊豆韮山代官の家柄で、幕末の江川太郎左衛門英龍が有名である。
相馬胤貞墓碑 |
浅右衛門は天和元(1681)年正月16日、二十六歳のときに三十五両五人扶持で奥御番として召し出され、天和2(1682)年2月21日、伯父の小田原藩主・大久保忠朝の命により、相馬胤将の養嗣子となり、澤右衛門胤貞を名乗った。同年晦日、養父・胤将が月番役に就任したのと同時に寄合席を仰せ付けられ、貞享4(1687)年4月20日、隠居した養父の家督を継いで四百六十石を賜り、御番頭に就任、七左衛門を襲名した。
その後は御馬方支配に進んだが、元禄16(1703)年4月5日に亡くなった。四十八歳。号は覚了院本然自性居士。小田原城下の板橋にある常光寺に葬られた。
胤貞の兄・延(与一兵衛)は小田原藩重臣の渡辺龍(三左衛門)の養子となっており、「客分」とされた相馬家、渡辺家は小田原藩の一族として藩に吸収されていったようである。
●相馬胤貞周辺系譜
相馬胤永――相馬胤勝―――相馬胤将====相馬胤貞
(民部太夫)(七左衛門尉)(七左衛門尉) (澤右衛門)
↑
江川英政 +―相馬胤貞【小田原藩客分】
(太郎左衛門) |(澤右衛門)
∥ |
∥―――――江川英利 +―渡辺 龍【小田原藩客分】
榊原長政―+―清政―――――照久――――娘 (太郎左衛門) |(与一兵衛)
|(七郎右衛門)(大内記) ∥ |
| ∥――――――+―江川英輝――――→【韮山代官】
+―康政 大久保忠隣――教隆――+―娘 (太郎左衛門)
(式部大輔)(相模守) (右京亮)|
|
+―忠朝―――――――忠増―→【小田原藩主】
(加賀守) (加賀守)
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤祥
相馬胤祥(1697-1767)
父は相馬七左衛門胤貞。通称は豊之助、貞之丞、七左衛門。初名は胤純。父の胤貞は、老中で藩主・大久保忠増とは同い年の従兄弟である。
元禄10(1697)年閏2月6日に誕生した。元禄16(1703)年7月4日、七歳で胤貞の跡式が認められ、四百六十石を継承、貞之丞と改めた。
宝永7(1710)年10月21日には十四歳で御近習席御小姓として召し出され、宝永8(1711)年2月18日、江戸一橋の小田原藩中屋敷付とされ、藩主・大久保忠増の側役となる。そして、同年中に七左衛門を襲名。翌年2月26日に元服し胤純を称した。正徳4(1714)年8月には御番頭に就任した。
●相馬胤祥周辺系図
相馬胤貞―+―娘 +―胤陳
(七左衛門)| |(勝之進)
| |
+―胤祥―――+―能之助
|(七左衛門)|
| |
+―源次郎 +―半之助
| |
| |
+―岡田光伴 +―信田七四郎
(清蔵) |
|
+―娘
|(長野大弐妻)
|
+―娘
(飯野数右衛門妻)
小田原誓願寺山門 |
享保9(1724)年当時、胤純(二十八歳)が四百六十石を知行し、渡辺三左衛門弘と並んで番頭の役にあった。渡辺家の宗家と思われる渡辺官左衛門持は千石取りの年寄、戦国期に千葉氏と戦った上総大多喜正木家の末裔と思われる正木徳太夫時恒が家老職を務めている(『享保九年小田原藩順席帳』)。その後、名を胤祥と改めた。
胤祥はおもに箱根の関所についての所役を受け持っていたようであるが、「家中法度」に触れて閉門の処分を受けた。その後、番頭から物頭に格下げされたが、さまざまな仕事に抜擢されきちんと仕事をこなしている。有能な人物だったのだろう。
明和4(1767)年に亡くなった。法名は松旭院煙■雲祥居士。彼の代より菩提寺を城下の誓願寺に移した。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤英
相馬胤英(????-1779)
父は相馬七左衛門胤祥。通称は七左衛門。
安永8(1779)年11月3日に亡くなった。法名は雙林院雪峰道寒居士。誓願寺に葬られた。妻の某氏は享和4(1804)年2月6日に亡くなった。法名は清林院蓮法妙華大姉。嫡子の胤昌が墓碑を建立している。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤昌
相馬胤昌(????-1821)
誓願寺内相馬家歴代墓所 |
父は相馬七左衛門胤英。通称は小十郎、七左衛門。役職は寄合で物頭。知行は四百六十石。
寛政9(1797)年2月28日、小田原藩は箱根湯本より小田原荻窪まで水路を通す小路を行うこととし、境内を水路が通る萬松院の住持・大超和尚を呼んで協力を要請した。しかし、住職は返答を渋ったため、4月12日、藩は「寺社奉行相馬小重郎」をして和尚を説得させ、成功させた。
文政4(1821)年6月27日に亡くなった。法名は鶴林院安道泰然居士。誓願寺に葬られた。妻の某氏は胤昌に先立つこと15年前の文化3(1806)年6月29日に亡くなっている。法名は誠心院法譽妙薫貞■大姉。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤吉
相馬胤吉(????-1848)
誓願寺内相馬家歴代墓所 |
父は相馬七左衛門胤昌。通称は源左衛門、七左衛門。弓術に優れていたようで、小田原藩弓道師範を勤めた。
文政8(1825)年当時、四百六十石で寄合の地位にあった(『文政八年小田原御家中知行高覚』)。
嘉永元(1848)年6月23日、亡くなった。法名は顕弓院練心宗通居士。弓術師範としての様子が窺える法名である。奥方の隋心院清室妙浄大姉とともに葬られた。菩提寺は小田原誓願寺。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤永
相馬胤明(????-1880)
父は相馬七左衛門胤吉。通称は清四郎、七左衛門。号は松旭庵。胤明は三男であるが、長兄・小十郎胤親、次兄・八平胤則が故あって家督を継げなかったため、胤明が惣領となる。
梅原九郎左衛門――娘
∥―――――――相馬胤鎮
∥ (金之丞)
→相馬胤吉―――+―相馬胤親
(七左衛門) |(小十郎)
|
+―相馬胤則 +―相馬[金受]之助
|(八平) |
| |
+―山中政歴 +―相馬亀之介
|(湊) |
| |
+―相馬胤明――+―相馬隆之助
(清四郎) |
|
+―相馬喜四郎
天保8(1837)年、甲州流軍学の免許を得て、藩主・大久保忠真より金三百疋を賜った。
天保13(1842)年7月15日、兄の八平胤則が亡くなり(円乗院智公涼心居士)、胤明が嫡子とされる。
嘉永元(1848)年8月15日、相馬胤吉の跡目を継いで相馬家四百六十石の当主となり、寄合席となる。その後、嘉永5(1852)年には御前御先筒頭に就任し、さらに箱根関所番頭を兼帯した。嘉永6(1853)年6月3日の下田へのペリー来航の報を受けると、12日に藩命を受けて下田へ手勢を引き連れて急行するが、すでにペリー艦隊は下田を離れていたため、小田原に引き返した。
この後の幕末動乱の中、小田原藩は佐幕派と朝廷派に二分されて混乱に巻き込まれる。結局、薩長を中心とする新政府軍に投降し、胤明も先手の将として幕府勢の遊撃隊と激戦を繰り広げた。戦いは両軍とも大きな犠牲を払って終わり、遊撃隊の死者は三十名余り、小田原藩側でも七人の戦死者のほか、城代家老の渡辺了叟らも負傷した。戦いの後、家老・岩瀬正敬(大江進)は「殿様御謝罪万分之御一端ニも相成候ハバ、本懐至極、難有奉存候」と書置きを残し、自刃して果てた。また、同じく家老・渡辺了叟も責任を取って自刃している。
小田原藩の戊辰戦争はこうした犠牲の上に終わり、藩主・大久保忠礼の命は助けられた。また、相馬胤明も松旭庵と号し、明治期には画筆の世界に生きた。
明治13(1880)年2月24日に亡くなった。法名は松旭院煙林雲祥居士。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤永
相馬胤鎮(????-????)
父は相馬小十郎胤親。母は梅原九郎左衛門娘。通称は金之丞。先代の相馬七左衛門胤明の甥にあたる。
母は文久3(1863)年5月18日に亡くなっている。法名は貞松院。
トップページ > 下総相馬氏 > 小田原藩相馬家 > 相馬胤盈
相馬胤盈(????-????)
父は相馬清四郎胤明か。通称は隆之助か。
明治11(1878)年6月4日、長女が亡くなっているが(智英童女)、墓碑を建立したのは祖父と思われる清四郎であり、胤盈がここに見えないのかは不明。
|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
|相馬氏について|相馬惣領家|下総相馬氏当主|旗本下総相馬氏|奥州相馬氏|
|彦根藩相馬家【一】|彦根藩相馬家【二】|沼田藩 相馬家|笠間藩相馬家|
|一橋徳川家相馬氏|喜連川藩相馬家|小田原藩相馬家|その他の相馬家|
■中村藩御一家■
|中村藩岡田家|相馬泉家|相馬泉田家|相馬堀内家|相馬将監家|相馬主税家|
●ご協力
茨城県在住の方
あさくらゆう様
●おもな参考資料●
『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
Copyright©1997-2009 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。