○相馬諸家○
|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
|一橋徳川家相馬氏|喜連川藩相馬家|小田原藩相馬家|その他の相馬家|
|彦根藩相馬家【一】|彦根藩相馬家【二】|沼田藩相馬家|笠間藩相馬家|
下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。
喜連川藩 相馬家 |
小田原藩 相馬家 |
彦根藩 相馬家【一】 |
彦根藩 相馬家【二】 |
沼田藩 相馬家 |
笠間藩 相馬家 |
その他の 相馬家 |
■笠間藩相馬家■
相馬正義―+―相馬正次―――相馬正方―+=相馬正常 +―娘
(右平治) |(右平治) (郡七) |(岡之助) |(内海猪三郎妻)
| | |
+―相馬丈八 +=相馬正備===相馬正芳―+―娘
(村田家へ) (右平治) (右平治) (水野篤太郎妻)
相馬正義(????-1736)
牧野家臣相馬家初代。通称は右平治。父は不明。関宿にて召し出されており、簗田氏と縁戚にあった古河公方家臣の相馬家(喜連川相馬家)に連なる一族か。
宝永2(1705)年7月、関宿藩主・牧野成貞から中小姓として召し出され、八両三人扶持を給される。享保3(1718)年6月28日、奥附を命じられ、八両加増とされ、享保11(1726)年9月6日、新知五十石が給された。
享保21(1736)年6月6日、亡くなった。
相馬正次(????-1782)
牧野家臣相馬家二代。通称は岡之助、右平治。父は相馬右平治正義。妻は鈴木平七娘。
享保17(1732)年2月1日、中小姓として召し出され、銀二枚を下された。元文元(1730)年9月1日、父・右平治正義の家督を継承し、二十人扶持を下されている。
寛保3(1743)年12月11日、弟の丈八が谷口藤七の養子願いの通り聞き届けられ、谷口家の養子となるが、延享2(1745)年12月7日、離縁となってしまう。この谷口家は幕末の笠間藩士に名が見えないことから、藩を辞したのかもしれない。
延享3(1746)年5月1日、弟の丈八は村田茂太夫の養子願が認められ、村田家に入った。この村田茂太夫家は百年後の弘化3(1846)年の『名順帳』にも見え、笠間藩士として続いていたようだ。
延享4(1747)年3月15日、正次は鈴木平七娘と婚約が調った。鈴木家もおそらく関宿藩士の鈴木家と思われる。
寛延2年(1749)年5月10日、改名願いの通り「岡之助」を「右平治」と改めた。そして明暦2(1765)年12月22日、次男の岡五郎を嫡子とする願いが許された。長男の名は伝わっていないが、次男・岡五郎は宝暦3(1753)年の生まれである。
安永2(1773)年3月25日、鉄砲方となった。安永6(1777)年正月11日、五十石取となる。翌安永7(1778)年8月15日、石井吉太夫の孫娘(養女)を、嫡男の郡七の妻として迎えた。
安永8(1779)年2月1日、目付役となり役量五人扶持が下される。その3年後の天明2(1782)年6月2日、亡くなった。
相馬正方(1753-1830)
牧野家臣相馬家三代。通称は岡五郎、郡七、宗十郎、右平治。父は相馬右平治正次。妻は石井吉太夫養女。
安永3(1774)年正月11日、二十二歳のときに中小姓として召し出され、鼻紙代として銀二枚下された。
安永6(1777)年9月15日、藩主・牧野兵部少輔貞長は大坂城代を命じられたことから、9月23日、正方はその供として大坂への引っ越しを命じられ、在坂中は五両二人扶持が下された。
天明元(1781)年閏5月11日、藩主・貞長は大坂城代を転じ、京都所司代とされ侍従に補された。このため正方は大坂から京都へ引き移ることとなり、6月14日、京都へ転じた。
天明2(1782)年6月2日、父・右平治正次が亡くなったことから、跡式願が提出され、8月8日、正方に相馬家家督として二十人扶持が下された。
天明3(1783)年5月10日、改名願いの通り「宗十郎」と改め、天明6(1787)年11月1日には、親の禄高五十石を相馬家の禄高と定めた。以降、幕末に至るまで相馬家は五十石取の中堅藩士として続く。
寛政9(1797)年3月1日、再度名を改め、代々の名乗りである「右平次」とした。
寛政13(1801)年2月7日、正方は「相馬因幡守殿家来分奥州磐城郡四ツ倉村」の「鈴木志右衛門」の二男辰蔵の養子願が聞き届けられた。「相馬因幡守殿」とは中村藩主・相馬因幡守祥胤のことであるが、遠い一族であるがゆえに相馬氏ゆかりの家から養子をもらったか、偶然かは不明。辰蔵は養子に入り、「岡之助」を称したと思われる。
文化3(1806)年6月19日、「土井大炊頭殿家来宇井寛左衛門娘」を養子・岡之助正常の妻として縁組が成立した。「土井大炊頭」は下総国古河藩主・土井大炊頭利厚のことで、宇井家は古河藩士の家柄である。文化2(1805)年正月11日、岡之助正常は二十二歳で中小姓として召し出され、文化8(1811)年2月26日以来代官職を務めた。文化11(1814)年5月13日、「御代官四支配に御分被成候」として、笠間は「山内南郷」「山内北郷」「山外南郷」「山外北郷」の四支配に分けられ、岡之助は「山内北郷」の代官としてその勤めに当たり、文政3(1820)年2月26日当時には、「山内(北郷か)」の「御代官」であった。
文化6(1809)年正月11日、正方は徒士頭、大納戸武具方兼帯が命じられ、文化11(1814)年には「中務附頭取」として奥勤も果たし、文化14(1817)年正月11日には使番格、文政2(1819)年正月20日には表勤に転じた。
文政5(1822)年正月5日、養子の岡之助は「永之暇」を申付けられた。その原因は不明だが、代官職に不手際があったものか。正方へも正常の「離縁」を命じている。跡継ぎのなくなった正方は、坂部主内の弟・文庫を養子とすることとし、7月1日に養子願が許され、文庫は正方の養子となって宗十郎正備と称した。宗十郎このとき十五歳。文政7(1824)年閏8月13日、森半左衛門娘と宗十郎の縁組願いが許された。
文政11(1828)年正月11日、取次格を命じられ、さらに翌文政12(1829)年6月15日には下屋敷広間詰とされた。しかしこのとき右平次は七十七歳と老齢であったため、役儀を免じられた。
文政13(1830)年11月8日、亡くなった。享年七十八。
相馬正備(1808-1832)
牧野家臣相馬家四代。坂部主内の弟。通称は文庫、宗十郎。相馬右平次正方の養嗣子。
文政5(1822)年正月5日、相馬正方の養嗣子だった岡之助正常が「永之暇」を申付けられたため、坂部文庫が養子に迎えられ、文政8(1825)年正月21日(?)、十八歳のときに中小姓として召され、二人扶持を下された。
文政13(1830)年11月8日、養父・右平治正方が七十八歳で亡くなったため、12月28日、正備は家督を相続し、禄高五十石を継承した。
天保3(1832)年7月7日、地方役となるが、閏11月3日、二十五歳の若さで亡くなった。正備の急死のため、親類の坂部隆平が急遽、犬塚郡兵衛の三男・金吾を養子に迎えて相馬家を相続させている。
相馬正芳(1820-????)
牧野家臣相馬家五代。父は犬塚郡兵衛(三男)。養父は相馬宗十郎正備。養母は森半左衛門娘(ただし、相馬宗十郎妻ではなく相馬宗十郎の養子・相馬岡之助正常妻)。妻は坂部隆平娘。通称は金吾、右平治。
文政3(1820)年、犬塚郡兵衛の三男として誕生。金吾と称した。天保4(1833)年正月15日、故人だった相馬宗十郎を養父として、相馬家の跡式を相続し、馬廻席を申付けられた。ただし、まだ十四歳という幼年だったため、家禄五十石のうち半知二十五石を下されている。そして天保9(1888)年正月11日、家禄五十石すべてを相続した。
弘化3(1846)年時点では「馬廻」であった(『弘化三年名順帳』)。当時、やはり馬廻衆に属していた七十石の犬塚佐仲は親族か。
安政3(1856)年10月1日、笠間藩の武芸修練所・講武館世話に就任。安政7(1860)年正月11日、徒士頭格となった。
文久2(1862)年12月1日、娘を内海清三郎の子・内海猪三郎の妻とする縁組届が受理された。内海清三郎は徒士頭で八十石取の藩士。清三郎には弘化3(1846)年当時、すでに「内海縫殿助」という子がおり、中小姓二人扶持で出仕していた。猪三郎は縫殿助の弟か?
文久3(1863)年7月28日、在番中の書翰役を申付けられたが、12月19日には免ぜられ、替って使者番勤へ転じている。これは金吾自身の内々の願いに基づいた役替えであったようだ。元治元(1864)年6月19日、在番を免じられた。ここでいう「在番」の意味が不詳だが、藩主・牧野越中守貞明は、このころ寺社奉行を務め江戸在府だったため、笠間城在番士を務めていたということか。
慶応2(1867)年4月21日、金吾から「右平治」への改名願いが許され、右平治を称る。11月25日、娘を水野篤太郎へ妻とする縁組願いが許された。
明治元(1868)年、「使番」として「相馬右平治」が見え、「学校世話」の役に就いていた(『明治初年役高定並家中分限帳』)。
|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
|相馬氏について|相馬惣領家|下総相馬氏当主|旗本下総相馬氏|奥州相馬氏|
|彦根藩相馬家【一】|彦根藩相馬家【二】|沼田藩 相馬家|笠間藩相馬家|
|一橋徳川家相馬氏|喜連川藩相馬家|小田原藩相馬家|その他の相馬家|
■中村藩御一家■
|中村藩岡田家|相馬泉家|相馬泉田家|相馬堀内家|相馬将監家|相馬主税家|
●ご協力
茨城県在住の方
あさくらゆう様
●おもな参考資料●
『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
Copyright©1997-2009 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。