下総相馬氏について

下総相馬氏

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◆下総相馬氏◆

代数 当主 通称 同時代人物名
初代 相馬師常 千葉介常胤 相馬二郎  
2代 相馬義胤 相馬師常 相馬五郎兵衛尉  
3代 相馬胤綱 相馬義胤 相馬五郎兵衛尉  
4代 相馬胤村 相馬胤綱 相馬孫五郎左衛門尉  
5代 相馬胤泰 相馬胤継 相馬民部大夫 相馬胤氏相馬師胤相馬胤継相馬胤顕
6代相馬胤親 相馬胤泰 相馬民部次郎  
7代相馬高胤相馬胤親 相馬左衛門尉 相馬胤経相馬胤村相馬氏胤
8代相馬胤基 相馬氏胤相馬左衛門尉  
9代相馬胤忠 相馬胤経相馬上野介  
10代相馬胤長 相馬胤忠相馬小次郎  
11代相馬胤宗 相馬胤長相馬左衛門尉  
12代相馬資胤 相馬胤宗相馬上野介  
13代相馬胤儀 相馬資胤相馬左衛門尉  
14代相馬胤高 相馬胤儀相馬上野介  
15代相馬胤実 相馬胤高相馬左衛門尉  
16代 徳誕蔵主 相馬胤実相馬小次郎  
17代相馬胤広 徳誕蔵主 相馬因幡守 相馬胤行 …沼田藩相馬家へ
相馬胤直…彦根藩相馬家へ
18代相馬胤貞 相馬胤広 相馬小次郎  
19代相馬胤晴 相馬胤貞 相馬小次郎  
20代相馬整胤 相馬胤晴 相馬小次郎  
21代相馬治胤 高井直将 相馬左近大夫 高井直将(相馬治胤、胤永、親胤父)
相馬胤永…小田原藩相馬家へ
相馬親胤
相馬胤房
相馬内膳亮…喜連川相馬家へ

◆旗本相馬氏◆

22代 相馬秀胤 相馬治胤 相馬小次郎 相馬師胤相馬胤吉
23代 相馬胤信 相馬治胤 相馬小三郎  
24代 相馬盛胤 相馬治胤 相馬小次郎  
25代 相馬政胤 相馬治胤 相馬小次郎  
26代 相馬貞胤 大岡貞惟 相馬小次郎  
27代 相馬要胤 相馬貞胤 相馬小次郎  
28代 相馬信胤 小笠原貞信 相馬小平太  
29代 相馬重胤 相馬信胤 相馬小平太  
30代 相馬保胤 相馬信胤 相馬小源次  
31代 相馬矩胤 相馬保胤 相馬小太郎 相馬多宮正胤(一橋相馬家)
32代 相馬是胤 相馬矩胤 相馬左兵衛  
33代 相馬敏胤 相馬是胤 相馬左近  
34代 相馬繋胤 相馬敏胤 相馬左近  
35代 相馬将枝 相馬繋胤 相馬邦三郎  
36代 相馬祚胤 相馬将枝 相馬左衛門  
37代 相馬胤正 相馬祚胤 相馬小三郎  

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相馬治胤(1541-1602)

 二十一代当主。通称は孫三郎。官途は左近太夫。父は高井某(高井下総守直将か)。妻は相馬胤晴娘。本貫地は下総国相馬郡高井村取手市下高井

高井相馬氏の居城 高井城
高井相馬氏の高井城

 高井相馬氏の出身の治胤は十九代・相馬小次郎胤晴の娘と結婚し、相馬惣領家の一門に連なったという。

 天文14(1545)年9月、古河公方・足利晴氏は敵対する北条氏康を討つべく、山内上杉憲政(関東管領)や扇谷上杉朝定らを語らい、大軍で武蔵国河越城を攻囲した。しかし、名将・北条綱成が守る河越城は攻め難く、翌天文15(1546)年4月20日、北条氏康率いる援軍の前に古河公方勢は大敗を喫し、この日、宗家の相馬小次郎胤晴は北条氏と戦って討死を遂げ、胤晴の嫡男・整胤が三歳の幼さで家督を継ぐこととなった。このとき治胤は五歳。

 天文21(1552)年、晴氏は古河公方の座を子の足利義氏(母は北条氏綱娘)へ譲らされた。義氏は氏康の従兄弟に当たり、北条氏にとっては都合のいい公方であった。

●簗田氏・北条氏と古河公方との関係図●

《例》■:親古河派■:親北条派

  簗田高助―+―簗田持助―簗田助綱
 (関宿城主)|
       +―娘
         ∥――――足利藤氏【足利義藤(のち義輝)より偏諱】
         ∥
  足利高基―――足利晴氏
         ∥
         ∥――――足利義氏【足利義輝より偏諱】
  北条氏綱―+―娘
       |
       +―北条氏康

 天文23(1554)年10月、前古河公方・足利晴氏と嫡子・足利藤氏は再び反北条氏の兵を挙げ、関宿城から古河城に移って籠城したが、11月、氏康によって古河城を攻め落とされ、晴氏は相模国波多野に幽閉された。

 弘治3(1557)年7月24日、晴氏らは許されて古河に戻ったが、9月、晴氏の嫡男・藤氏が弟・足利義氏(母は北条氏康の姉妹)の追放を企てて古河に挙兵した。しかし、この挙兵は未然に発覚し、晴氏は栗橋城に幽閉され、藤氏・藤政・家国兄弟は古河から逐電した。

 簗田晴助はこのころ、相馬領への介入を露骨に行うようになっていた。永禄5(1562)年4月22日、晴助は「石山隼人佐」へ対し、「相馬之地、若就本意」になれば「佐賀主水助抱之知行分」を渡す判物を発給している(永禄五年四月廿二日『簗田晴助判物写』「下総旧事三」:「取手市史」所収)佐賀氏は相馬氏の重臣に名を見せる家であるが、永禄期の佐賀主水助の先祖と思われる「佐賀主水」は、隼人佐の祖父・石山三河守の代に「筑波山ニ佐賀主水ト言者楯籠候ニ付、石山参河守、逆井右衛門四郎両将ニテ、右主水可討亡ス由、従古河公方蒙仰、則軍士ヲ引率シ早速筑波江令進発、数日相戦候処、逆井右衛門四郎三月始方討死ス、…敵之大勢ニ取囲マレ勇猛モ不相叶、終ニ討死ニ卒」とあるように、筑波山に挙兵して戦いを繰り広げた人物だったようだ(『石山家由緒書』:「総和町史」)。このように、相馬家に属する前は筑波山周辺の土豪だったか。

 整胤は幼少の頃より縁戚である簗田氏の従属下にあって相馬領を保っていたと思われるが、このとき十九歳となっており、晴助といえども簡単に相馬領を我が物にすることはできなかったようで、「若就本意」としている。

 永禄8(1565)年3月、簗田晴助上杉政虎(上杉謙信)と結んで藤氏に加勢して関宿城に籠城北条氏康太田氏資(岩付城主)を先鋒にして攻め寄せたが、簗田晴助の奇襲によって北条勢は壊走。簗田晴助は北条氏康の本陣にまでなだれ込んできた。これにはさすがの氏康もみずから槍を振るって血路を開き、逃げる他なかった。北条勢の散々な敗戦であった。この戦いでの相馬家の活躍は伝わっていないが、簗田勢の一手として参戦していた可能性はある。

 関宿合戦の翌永禄9(1566)年正月27日、当主の整胤「依家僕逆心生害 年廿三」と、家臣の謀叛によって自害に追い込まれてしまった(『相馬之系図』)。整胤がなぜ殺害されたかは不明だが、簗田晴助が大いに関係しているだろう。晴助は永禄5(1562)年頃から相馬領への野望を強くしていた形跡があり、整胤の殺害を謀った可能性もあろう。

 しかし、整胤亡きあと、彼の姉妹の夫に当たる「相馬孫三郎治胤(高井孫三郎)」がすぐさま相馬領をまとめたと思われる。整胤が殺害されてひと月ほど経った永禄9(1566)年3月、上杉輝虎麾下の北条丹後守高広・河田豊前守長親らは、北条方の小金城(高城胤辰)を攻めるべく本土寺(松戸市平賀)に軍勢を進めていた。この上杉勢に対し、3月3日、「相馬孫三郎治胤」「此度金御近陣之内、以代官人数立申候」と代官に手勢を附けて出陣させる旨を伝えている(『相馬治胤書状』「江口文書」:「我孫子市史」所収)。これが、治胤に関する初出の文書である。

 治胤の相続によって相馬領は一応の安泰を見たが、簗田晴助の相馬領への執着は尽きず、同年、密かに北条氏政に「佗言」を述べてその麾下に属する約定を結んだ。その降伏の条件に「相馬一跡并要害」「本意候様」にすることを認める一条がある。治胤の領有を認めていなかったのだろう。これに対し、上杉氏の後援が期待できなくなっている今、治胤も密かに義氏に対し「懇望筋目」していたと思われる。

足利義氏・北条氏への降伏

 永禄10(1567)年4月18日、氏政は晴助の要求を認め、降伏についての起請文を晴助へ渡した。その一条に「若又相馬折角之上、御所様へ奉対佗言申候者、氏政涯分晴助御為宜様可馳走事」と、相馬氏が義氏へ対して「佗言」を言ってこようとも、氏政は晴助のために努力する旨をしたためた(永禄十年四月十八日『北条氏政起請文写』「簗田文書」:「取手市史」所収)。氏政はこの直後、鎌倉葛西ヶ谷鎌倉市小町3)の足利義氏に報告し、その三日後の4月21日、義氏は「今度属氏政進退儀佗言申上」たことにつき、晴助・持助父子を「被任氏政意見被成御赦免」した(四月廿一日『足利義氏契状写』「国会本集古文書」:「取手市史」所収)

 また、おそらく永禄9年中から義氏に対して「懇望筋目度々申上」てきた治胤は、氏政が晴助へ対して「相馬一跡要害」の領有を認めたことを知ったか、義氏から提示されていた「要害可相渡」という条件を飲んだ。この治胤からの申し出を義氏は「不慮之吉事」と受け止めており、「要害(守谷城)」を渡すことは最後まで渋っていたが、晴助の訴えが認められたことで治胤もついに折れたのだろう(六月廿七日『足利義氏条書写』「国会本集古文書」:「取手市史」所収)。この「不慮之吉事」は永禄9年5月の北条氏と上杉輝虎の和睦を指しているともされるが(『取手市史』解説)、この文書は全体を通じて相馬領の事を述べており、和睦と相馬領の直接的な関係はなく不自然である(七月廿七日『北条氏政書状写』「静嘉堂本集古文書」:「取手市史」所収)

相馬氏の居城 守谷城
守谷城遠景

 6月27日、義氏は氏政に対して相馬孫三郎懇望筋目度々申上間、如返答者、要害可相渡趣申遣處、此度可任其儀由申来事」とし、守谷城には「遠山人衆五百も三百も即時に被指越、要害可被請取、御膝下之各々、十騎も十五騎も可指添事」と、江戸城代・遠山氏の人数をただちに遣わすことを指示している(六月廿七日『足利義氏条書写』「国会本集古文書」:「取手市史」所収)

 また、この条書には「相馬地速於請取者、当年中古河へ可移御座候、其砌相馬地簗田ニ可被渡遣間、只今簗田不可有異儀事」とあり、おそらく治胤が知らない水面下では、相馬の地は義氏が今年中に古河へ移ったあかつきには簗田領とされることが内々に決められており、簗田晴助もこれについては「不可有異儀事」としていたとがわかる。

●五箇条の事柄(『取手市史』参照)

(1)義氏が命じた守谷城開城に治胤が従うと返答してきていること。
(2)遠山人衆(江戸衆)の軍勢をただちに遣わして守谷城を受け取ること。
(3)自分の奉公衆も請取に加わること。
(4)自分は今年中に鎌倉から古河に移り、守谷城は簗田持助に遣わすこと。
(5)簗田持助を関宿城主とし、御座所の設置のために働かせること。

 治胤の守谷城明け渡しと義氏の条書きに応じた氏政は、早速手勢を守谷へ手配した【(1)(2)】。

 軍勢催促は内々に簗田晴助へも伝えられていたが、晴助はなかなか兵を動かさず、7月27日、氏政は手勢を守谷城へ入れたことを報告し、義氏が今年中に古河城へ移った際には相馬領を「則刻可返被遣儀、勿論候」と、晴助との約定を改めて確認する配慮も見せている。

 氏政の手勢が守谷城に入った二日後の7月29日、芳春院周興(義氏側近の禅僧)は芹沢土佐守に宛てて「相左(相馬左近太夫治胤)」が守谷を御座所として進上したこと(「当城森谷之事、為 御座所相左進上被申候」)と、また氏政が手勢を守谷に入れたこと(「以小田原之人数、被為請取之候」)、義氏も奉公衆を守谷城へ入れた(「依之某も奉公衆同心申上、廿九令著城候」)ことを伝えた【(3)】。なお、芳春院周興の書状より、治胤はこのころに官途名「左近大夫」を称したことがわかる。

 8月8日、義氏は晴助に宛てて森屋地為御座所可致進上段、相馬左近大夫申上候間、任其儀被為請取候、古河仕置等被仰付間、彼地へ可被移御座候、可存其旨候」と、治胤から守谷城を御座所として進上されたことを報告し、古河城の普請を行っているため、それが済むまでは守谷を御座所とすることとしている(八月八日『足利義氏書状写』「静嘉堂本集古文書」:「取手市史」所収)。義氏は古河の改修が済み次第、守谷を引き払って古河へ移る考えであったことがうかがえ、守谷はあくまでも一時的な御座所との考えだったのだろう。守谷を一段階置いたのは、永禄元(1558)年の簗田晴助の挙兵以来、晴助が古河を実質支配していたためであろう。守谷を欲する晴助に対し、義氏は古河を取り戻すために守谷を駒として使ったのだろう。

 10月24日、上杉輝虎沼田城に着陣した。上杉家の厩橋城代だった北条丹後守高広はすでに北条方に寝返っており、輝虎の主だった拠点は沼田城のみとなっていた。翌25日、輝虎は「始厩橋、新田、足利敵城廿四ヶ所打通、氏政陳所間近打懸」た。一方、唐沢山城佐野市富士町では、城将の佐野小太郎昌綱が北条氏と結んで上杉家に抵抗(霜月四日『足利義氏書状写』「豊前氏古文書抄」:「取手市史」所収)。さらに、氏政は唐沢山城の援軍として自ら兵を率いて「赤岩地ニ懸船橋、利根川取越」て佐野に向かっていたが、輝虎の攻撃によって赤岩邑楽郡千代田町赤岩に懸けた船橋を切り落とされ、北条勢は「廿七日夜中敗北」して佐野から退いた(極月二日『上杉輝虎書状』:「上越市史」所収)。佐野に出張していたのは「大導寺以下」とあり、河越城主・大導寺駿河守政繁が主力となっていたと思われる。北条勢は「岩付へ引除」いた。

 このような中で、いまだ鎌倉葛西ヶ谷から動かなかった義氏は、守谷に在番中の奉公衆・豊前山城守らから、守谷の仕置がままならない報告を受けていたと思われ、11月4日、豊前山城守へ相馬之儀万事御窮屈思召候、仕置之様体、氏康氏政へ可有御談合候、相馬左近大夫方へも急度可被仰出候」と、守谷の万事思うに任せない状況(恐らく人手不足)については、氏康・氏政親子とよく話し合い、「相馬左近大夫(治胤)」にも急ぎ対応を命じるべきことを指示している。また、守谷城の「清光曲輪」の守りのための先番衆についても、番衆が不足していて配備を命じられないことを「是又左近大夫方」へ指示して対応させるよう命じた(霜月四日『足利義氏書状写』「豊前氏古文書抄」:「取手市史」所収)

 北条氏が義氏の御座所と定めていたところは、守谷城内ではなく、守谷城から谷を挟んで北西三キロほどにある高台・御所ヶ丘(御所台)ともいわれている。しかし、結局のところ、義氏が守谷へ移ることはなかったようだ。永禄11(1568)年4月7日、義氏は奉公衆「大草修理亮」相馬在城之儀、被仰付候處、無相違申上候」ことに対し、年貢のうちから十貫文を下した(戊辰四月七日『足利義氏宛行状写』「喜連川文書」:「取手市史」)相変わらず奉公衆を守谷に遣わしていたことが見える。そして古河・守谷の修築普請を指揮していた北条氏政は、5月26日、義氏の下知の通り堅固に普請し終えて帰陣。奉公衆・豊前山城守に義氏へ報告の依頼をしたことを「御奏者」へ伝えた。この「御奏者」は芳春院周興か。

 この直後の8月ごろ、簗田晴助入道はふたたび足利義氏ならびに北条氏に反旗を翻し、関宿城野田市関宿町)に挙兵した。これは、古河城が北条氏によって接収されて普請が終わったにも関わらず、なかなか義氏が移座せず、移座に伴って簗田氏に渡されるはずの「相馬一跡要害」が反故にされていることに関係しているのだろう。

 晴助の背反に対し、北条氏康関宿城野田市関宿町の力攻めをやめ、三男・北条氏照を主将とした軍勢で関宿城を包囲する作戦に出た。氏照は関宿城とは川を挟んだ対岸にある山王山猿島郡五霞町山王山に砦を築き、ここを足がかりに関宿を攻めようとしたが、翌永禄12(1569)年閏5月3日、上杉謙信と北条氏康との間で和睦が調い、「越相同盟」に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止されることとなった。氏康も「御一和之上、対関宿可被残遺恨候哉、則破却、人衆可引取候旨被申付」ことを諸将に命じ、山王山砦で関宿城をうかがっていた氏照も父・氏康の命を受け、「早々破却」に同意している(五月七日『北条氏照書状』)。そして永禄12(1569)年8月、義氏は修復の終わった古河城に帰還した。

 某年12月15日、「相馬孫五郎」「鎌倉被立御座以来、昼夜奉公走廻」った功績に対して「上飯津嶋」が下されている(『足利義氏宛行状写』「猿島町史」所収)。この文書は永禄10(1567)年のものとされているが、義氏が古河城に帰還した永禄12(1569)年8月にともなう恩賞と考える方が妥当であり、この文書は永禄12(1569)年12月15日のものか。そして、こののちに記載されたと思われる『御料所知行人注文写』(「猿島町史」所収)には、「いゝつ嶋」の領主として「相馬孫五郎」の名が見える。この「相馬孫五郎」は治胤とは別の流れと推測され、古河公方家の奉公衆として仕えていた一族であろう。

 某年9月17日、足利義氏は「今度相馬家中之仕合」を鎮圧するため「簗田中務大輔(簗田晴助)」に出兵を命じ、野田左衛門大夫(栗橋城主)と小山弾正大弼秀綱(小山高朝の子)にも速やかな派兵を命じているが、義氏が簗田晴助と敵対していない時期のことであり、永禄年後半のころ、相馬家内に内紛があったことがうかがわれる。

関宿合戦

 元亀元(1570)年になると、簗田氏はふたたび反北条方として行動を始める。「越相同盟」ののちも北条氏が約定を守らない状況に我慢がならなかったのだろう。簗田晴助は武田信玄と連絡を取り、「相馬遺跡要害」を簗田領とすることを条件に武田方に付く交渉を続けたと思われる。そして5月26日、武田信玄は簗田晴助(洗心斎)へ宛てて相馬領についての起請文を提示した。その第一条には「相馬遺跡要害、貴辺御本意之義、里見義弘談合申、可相稼候…畢竟、房州へ御入魂肝要ニ候」と、まず相馬領についての条件を挙げ、里見義弘と談合することが肝要であるとしている。

 元亀2(1571)年10月3日、北条氏康は五十六歳で病死し、嫡男・北条氏政が跡を継いだ。その三か月後の1月、氏政は「越相同盟」を破棄し、武田信玄と同盟を結んだ。北条氏と武田氏が同盟関係となると、これまた「相馬遺跡要害」についての起請文は反故となったのだろう。こうしたことで、天正元(1573)年9月、晴助の嫡男・簗田八郎持助佐竹義重と結び、上杉謙信に通じて関宿城で反北条氏の兵を挙げた。三度目の挙兵である。

 簗田氏の挙兵に呼応した佐竹義重は、相馬郡に向けて軍勢を発した。治胤はこれを撃退するべく、9月18日、弟の民部大夫胤永に百八十騎をつけて対陣させ、ついに佐竹の大軍を追い崩した。これにより、北条氏直は9月24日、胤永に「刀一包永并三種一荷」を進上して功績を賞した(『北条氏直感状』「取手市史」所収)

 天正2(1574)年1月26日、越後を発った謙信は、2月6日、上野国沼田城へ着陣。3月には北条方の城を次々と攻め落としたが、すでに北条左衛門大夫氏繁の手勢が羽生城を取り囲み、4月には簗田氏の本拠である水海城をも取り囲んでいた。このような中で5月、謙信はいったん越後へ帰国し、8月に再び関東へ出陣した。11月7日に利根川を渡り、「鉢形城下、成田、上田領悉放火」した。

 上杉勢が関宿に迫る閏11月3日、北条氏政は、氏照に従って関宿城に向かっていたと思われる相馬治胤に、越衆幸嶋口へ可打下由、其聞候、然者当陣之備者無異儀候、手遠候共、其口之儀、無心元候間、被立越候人衆、先早々返候、堅固之防戦肝要候、若敵之動相違、此方手前之用所有之者、追而可申候、恐々謹言」という書状を送り、ただちに幸嶋口の守りが心もとないため、こちらに手配している相馬勢を早々に返すので防戦に専念するよう頼んでいる(閏十一月三日『氏政書状』「上杉家文書」)。「幸嶋口」が具体的にどこかは不明だが、古河と幸嶋郡の境界にある逆井城坂東市逆井に相当するか。

 閏11月、北条氏照は遠山政景率いる江戸衆とともに関宿城を遠巻きに囲んだ。一方、簗田氏の援軍として南下を企てていた上杉謙信だったが、上野国金山城主・由良成繁が反旗を翻したために、援軍に駆けつけることはできなくなった。しかし簗田持助は必死に防戦し、北条方の先陣として関宿城に取りついた武蔵千葉氏の当主・千葉二郎胤宗を家臣・菊間図書が鉄砲で狙撃して討ちとっている。なお、菊間図書は胤宗の陣太刀・甲冑・陣羽織を戦利品として手に入れ、天正18(1590)年、松平康元が関宿城主になるとこれらを持参して康元の家臣となった。

 持助は9月17日、属将の鮎川図書助「殊兵粮自下郷者関宿へうつし、領主に可預置候、世上静候者、速可被為返候」と、兵糧の提供を指示していたが、多勢に無勢、閏11月19日、ついに降伏して関宿城を開城。上杉謙信も生城を放棄し、越後へ帰国した。これ以降、謙信は関東に出兵することはないまま天正6(1578)年3月、急死した。

 簗田氏は関宿城を開城したのち水海城に移され、関宿城は北条氏がその手中に収めることとなる。 そして天正2(1574)年12月2日、足利義氏の奏者、芳春院周興松嶺昌寿首座が、北条家奉行・垪和刑部丞康忠に対して公方家領内へ朱印状に基づいた制札の発給を依頼した(『芳春院、松嶺首座連署書状写』「猿島町史」所収)。この中で、古河・関宿・幸嶋については、「河妻猿島郡五霞町川妻」「番匠免三郷市番匠免」「はたや北埼玉郡大利根町旗井)は「簗田左馬助(簗田右馬助助実)」の所領と認められており、簗田助実は系譜上の位置は不明ながら、簗田持助ら嫡流とは行動を異にし、足利義氏(北条方)に属していた人物と推測される。

 また、相馬氏も永禄12(1569)年に「相馬孫五郎」「上飯津嶋」に所領を与えられており、天正2(1574)年12月2日にも相馬氏への所領宛行に関するものがうかがえる。ここに見える「相馬」については、古河公方家に仕えていた奉公衆相馬氏(相馬内膳亮、相馬大膳亮、相馬孫五郎、相馬靱負など)のことであり、守谷相馬氏のことではないだろう。文書によれば、それぞれ「相馬」に下されている知行のうちから他家への宛行が行われていたことがうかがえる。

●「相馬へ被下内」の所領

上幸嶋 屋か井 古河市谷貝
下幸嶋 いゝつ嶋 坂東市幸田
かり宿 坂東市仮宿
きりの木 坂東市桐木
こいつミ 坂東市小泉
上てつ嶋 坂東市上出島

 北条氏政は簗田持助の赦免を足利義氏に働きかけていたようだ。そして12月16日、北条氏政は水海在城の簗田持助へ「古河様へ御赦免之儀、以前雖申上候、御鬱憤之旨深被仰出候条、其後思慮重而一昨日以源三申上候、依之無御別条旨御書被下候」と、義氏の怒りを解いて赦免を引き出したことを報告した。この結果、松嶺昌寿首座領として下されていた「幡谷郷、同酒井両郷加須市旗井猿島郡境町を持助へ返還することが決まった(『北条氏政条書写』)。北条氏はこののち、関宿城・栗橋城を拠点として、北関東に進出していくことになる。

 天正9(1581)年、治胤は高野山へ連判状を送っているが、その連判者は次の通り。

●天正9年高野山連判(『相馬当家系図』)

菅生越前守胤貞 筒戸小四郎胤文 岩堀主馬首弘助 大木駿河守胤清 新木三河守胤重
横瀬伊勢守保広 横瀬弾正忠恒広 佐賀掃部介整満 佐賀美濃守久次 佐賀筑後守長弘
寺田弾正左衛門吉次 寺田出雲守長尚 横瀬源太左衛門貞広 木屋長門守満吉 松井主税広吉
鮎川筑後守安勝 安富斎朝直 遊座右京亮広直 泉勝坊光音   

小田原の戦い

 天正10(1582)年閏12月20日、足利義氏は病死し、翌天正11(1583)年正月13日、久喜の甘棠院にて送葬の儀が執り行われた。この義氏の死に関して、治胤は「諸士為御弔言上候処、彼一人至于今日是非不申上」と、義氏に対して弔問を行わなかった。さらに治胤は古河衆「何与計策被申」であると、「御当地栗橋」北条陸奥守氏照に注進し、「下幸嶋各々知行分」を所望したようである。しかし、この治胤の策略を知った古河公方家の奉行人は、氏照に対して「相馬注進状写為披見給置」き、治胤の注進状は「近此無曲儀ニ候」とした上で、治胤は「如御存知前々御重恩相忘、違背上意候」であり、公方の葬儀に対しても一人弔問を行わなかった「無法人」であるとし、「畢竟彼地共成望、加様之侫人致之由、令分別候、向後之儀御塩味尤候」と、治胤のような侫人に下幸嶋を与えては今後痛い目を見ると断じた(『古河足利家奉行人連署奉書』「取手市史」)。これにより、下幸嶋は相馬氏の所領としては認められなかったのだろう。

 その後、治胤の活動はまったく見られなくなる。義氏葬儀後の弔問不参、偽計などが咎められて隠居に追い込まれたのかもしれない。おそらく嫡男・小次郎秀胤が跡を継ぎ、弟・民部大夫胤永が後見したか。北条氏政・氏直が「一万五千余騎引率総州下向 其節氏直胤永於一里塚互於馬上対顔」したとあり(『相馬当家系図』)、天正13(1585)年の佐倉下向の際、胤永が氏直と軍陣の作法に則り馬上の対面をしたという。 

 天正18(1590)年の豊臣秀吉と北条氏の小田原戦役に際しては、相馬氏は「惣馬小次郎 百騎」で城を固めていた(『北条氏人数覚書』「取手市史」所収)「惣馬小次郎」は治胤の嫡男・小次郎秀胤のことと思われる。守谷城で相馬勢と豊臣勢とがどのような戦いを繰り広げたかは不明だが、守谷の長龍寺には天正18(1590)年5月付の「浅野弾正少弼・木村常陸介」連署の禁制が出されており、5月には守谷城は陥落していたことがわかる。

 小田原城落城後の治胤の動向はわからないが、『相馬之系図』によると、

「属相州北條家勤仕、北條滅却之後、欲事関白秀吉公雖訴訟不叶、流浪之後、請信濃守胤信扶持、旁遺恨難散、於武州江戸山手思死云々、子孫断絶

とされていて、北条氏の滅亡後は秀吉に旧領安堵などを訴えたものの認められず、流浪したのち、「信濃守胤信」に扶持を請うたとされている。ここに見える「信濃守胤信」は、おそらく相馬信濃守胤信のことと考えられ、彼は『寛政重修諸家譜』においては治胤の次男とされている。

 治胤の嫡男・相馬小次郎秀胤が慶長2(1597)年正月15日に亡くなり、その跡を継いでいた次男・相馬信濃守胤信のもとで余生を過ごし、慶長7(1602)年5月6日、江戸にて62歳で亡くなったのだろう。法名は了山悟公


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●おもな参考資料●

『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料

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