下総相馬氏について

下総相馬氏

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◆下総相馬氏◆

代数 当主 通称 同時代人物名
初代 相馬師常 千葉介常胤 相馬二郎  
2代 相馬義胤 相馬師常 相馬五郎兵衛尉  
3代 相馬胤綱 相馬義胤 相馬五郎兵衛尉  
4代 相馬胤村 相馬胤綱 相馬孫五郎左衛門尉  
5代 相馬胤泰 相馬胤継 相馬民部大夫 相馬胤氏相馬師胤相馬胤継相馬胤顕
6代相馬胤親 相馬胤泰 相馬民部次郎  
7代相馬高胤相馬胤親 相馬左衛門尉 相馬胤経相馬胤村相馬氏胤
8代相馬胤基 相馬氏胤相馬左衛門尉  
9代相馬胤忠 相馬胤経相馬上野介  
10代相馬胤長 相馬胤忠相馬小次郎  
11代相馬胤宗 相馬胤長相馬左衛門尉  
12代相馬資胤 相馬胤宗相馬上野介  
13代相馬胤儀 相馬資胤相馬左衛門尉  
14代相馬胤高 相馬胤儀相馬上野介  
15代相馬胤実 相馬胤高相馬左衛門尉  
16代 徳誕蔵主 相馬胤実相馬小次郎  
17代相馬胤広 徳誕蔵主 相馬因幡守 相馬胤行 …沼田藩相馬家へ
相馬胤直…彦根藩相馬家へ
18代相馬胤貞 相馬胤広 相馬小次郎  
19代相馬胤晴 相馬胤貞 相馬小次郎  
20代相馬整胤 相馬胤晴 相馬小次郎  
21代相馬治胤 高井直将 相馬左近大夫 高井直将(相馬治胤、胤永、親胤父)
相馬胤永…小田原藩相馬家へ
相馬親胤
相馬胤房
相馬内膳亮…喜連川相馬家へ

◆旗本相馬氏◆

22代 相馬秀胤 相馬治胤 相馬小次郎 相馬師胤相馬胤吉
23代 相馬胤信 相馬治胤 相馬小三郎  
24代 相馬盛胤 相馬治胤 相馬小次郎  
25代 相馬政胤 相馬治胤 相馬小次郎  
26代 相馬貞胤 大岡貞惟 相馬小次郎  
27代 相馬要胤 相馬貞胤 相馬小次郎  
28代 相馬信胤 小笠原貞信 相馬小平太  
29代 相馬重胤 相馬信胤 相馬小平太  
30代 相馬保胤 相馬信胤 相馬小源次  
31代 相馬矩胤 相馬保胤 相馬小太郎 相馬多宮正胤(一橋相馬家)
32代 相馬是胤 相馬矩胤 相馬左兵衛  
33代 相馬敏胤 相馬是胤 相馬左近  
34代 相馬繋胤 相馬敏胤 相馬左近  
35代 相馬将枝 相馬繋胤 相馬邦三郎  
36代 相馬祚胤 相馬将枝 相馬左衛門  
37代 相馬胤正 相馬祚胤 相馬小三郎  

 

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相馬整胤(1544-1566)

 二十代当主。相馬小次郎胤晴の子。通称は小次郎。官途名は左衛門尉、下総守。法名は実山常真

 天文14(1545)年9月、古河公方・足利晴氏は敵対する北条氏康を討つべく、山内上杉憲政(関東管領)や扇谷上杉朝定らを語らい、大軍で武蔵国河越城を攻囲した。しかし、名将・北条綱成が守る河越城は攻め難く、翌天文15(1546)年4月20日、北条氏康率いる援軍の前に古河公方勢は大敗を喫し、この日、妻の父・相馬小次郎胤晴は北条氏と戦って討死を遂げた。このため、整胤が三歳の幼さで家督を継ぐこととなった。

 翌天文16(1547)年7月ごろには、北条氏に従う「櫻井」「興津神次郎」らが「相馬口」に攻め寄せ、閏7月4日、北条氏康は「櫻井との」「興津神次郎との」へ感状を発給している(閏七月四日『北条氏康感状』「取手市史」所収)。幼少の主を擁した相馬家は北条氏に対して抵抗したものの、この感状を見る限り劣勢に立たされていた様子がうかがわれる。

 天文21(1552)年、晴氏は古河公方の座を子の足利義氏(母は北条氏綱娘)へ譲らされた。義氏は氏康の従兄弟に当たり、北条氏にとっては都合のいい公方であった。

 天文23(1554)年10月、前古河公方・足利晴氏と嫡子・足利藤氏は再び反北条氏の兵を挙げ、関宿城から古河城に移って籠城したが、11月、氏康によって古河城を攻め落とされ、晴氏は相模国波多野に幽閉された。相馬氏がこのときいずれに加担していたのかは不明。

 弘治3(1557)年7月24日、晴氏らは許されて古河に戻ったが、このとき「小山之高朝」「相馬殿」が晴氏を古河に迎えるために城の普請などで人夫を指揮したようだ。足利義氏の側衆・田代三喜斎昌純の書状によれば、「小山之高朝様、相馬殿、無二に御走り廻り候、日々の御普請など仰せつけらるるの由、申し候」とある。これを見ると小山氏は「様」、相馬氏は「殿」であり、小山氏は古くからの「関東八屋形」の名家として重んじられていたことがわかる。「相馬殿」はおそらく整胤であろう。このとき整胤はまだ十四歳であるが、晴氏のために奔走したのだろう。

 しかし9月、晴氏の嫡男・藤氏は弟・足利義氏(母は北条氏康の姉妹)の追放を企てて古河に挙兵した。この挙兵は未然に発覚し、晴氏は栗橋城に幽閉され、藤氏・藤政・家国兄弟は古河を追放されることになった。

 氏康は古河公方家にさらに深く介入するには、足利家家宰・簗田晴助の政治力があまりに大きいことを懸念し、簗田家の力を殺ぐため永禄元(1558)年4月、氏康と晴氏の間で「関宿の城は公方様の御座地となし、来る六月中に御進上すること」「晴助殿には古河の地を与える」「晴助殿の御知行は、関宿近隣の地については同程度の他地と交換すること」と関宿御移座に関わる起請文が取り交わされた。こうして6月、晴助は長年の所領である関宿を追われて古河に入ることになり、義氏・北条氏の連合軍が勝利したかに見えた。

●簗田氏・北条氏と古河公方との関係図

《例》■:親古河派■:親北条派

  簗田高助―+―簗田持助―簗田助綱
 (関宿城主)|
       +―娘
         ∥――――足利藤氏【足利義藤(のち義輝)より偏諱】
         ∥
  足利高基―――足利晴氏
         ∥
         ∥――――足利義氏【足利義輝より偏諱】
  北条氏綱―+―娘
       |
       +―北条氏康

 しかし、永禄3(1560)年5月に前公方・晴氏が亡くなると、簗田氏の血をひく足利藤氏と、北条氏綱の孫である足利義氏の争いが再燃した。そこに越後の長尾景虎が藤氏擁立を旗印に9月28日、上野国厩橋城に入ると簗田晴助は景虎に通じ、藤氏を奉じて御座所となっていた旧居城・関宿城を攻め立てた。相馬氏も簗田氏の属将として従軍したのかもしれない

 一方、永禄4(1561)年3月、長尾景虎は関東管領・上杉憲政を奉じ、関東の諸将を引き連れて北条氏の居城・小田原城へ攻め寄せた。しかし、小田原城を落とすことはかなわず鎌倉に退却。閏3月16日、鶴岡八幡宮において上杉憲政より山内上杉家の名跡と関東管領職の譲渡が行われた。これによって景虎は「上杉政虎」と名を改めた。このことにつき、政虎は「簗田中務太輔殿」へ宛てて、「公方様御家督之事、其方ヘ深令談合、何之御方ニ而も御相続之稼可走廻候、仍申候、以愚慮計取立申事不可有之候」と、簗田晴助との相談を重要視し、自分ひとりの考えで新たな公方を立てる考えはないことを起請文として渡している(永禄四年閏三月十六日『上杉政虎起請文』)

 政虎は藤氏を古河公方として古河城へ入城させ、その後、厩橋城へ入った政虎は6月28日、越後へ帰国の途に就いた。この関東参陣に際して作成された、参陣諸将の幕紋書上『関東幕注文』に、「簗田」を筆頭にした「古河衆」の記載があるが、その末席に「相馬 四つめゆひ」とある。

●『関東幕注文』(「上越市史 別紙1」)


 幕之注文 古河衆簗田    水あをい三本たち
同下野守  水あをい二本たち
同右々馬助 同
同平四郎  同
同平九郎  同
一宮河内守 二ひきりやう
二階堂次良 たてすな
相馬    四ツめゆひ
 
  簗田家風
横田藤四郎 扇之内之月ニ七本松

 この「相馬」は時代的に整胤と推測されるが、彼は上杉家からは古河衆として把握されており、幕紋に「四目結」紋を使用していたことがうかがえる。「相馬」が古河衆に組み込まれていたのは、「相馬」が簗田氏の縁戚となっていたためと思われる。晴助の妹が相馬胤晴の妻で整胤の母とすれば、整胤は晴助の甥となり、藤氏の従兄弟となる。幼い整胤は縁戚の実力者・簗田晴助の支援・庇護を受け続けたのだろう。しかしその簗田氏の相馬領への介入は次第に露骨になっていくことになる。

●『與五将軍系図』(「古河市史」)

…簗田経助―簗田良助―+―簗田満助―+―簗田持助―+―簗田成助―+―     +―簗田晴助――――簗田持助
(右京亮)(河内守) |(河内守) |(河内守) |(中務大輔)|(相馬室)  |(中務大輔)  (八郎)
           |      |      |      |       |
           |      |      |      +―娘     +―娘
           |      |      |      |(ヲ子々ノ局)|(千葉介親胤妻
           |      |      |      |       |
           |      |      |      +―簗田高助――+―
           |      |      |       (河内守)  |(相馬妻)
           |      |      |              |
           |      +―娘    +――――――――娘     +―――――――――娘
           |       (興禅院殿)        (安養院殿)           ∥――――足利藤氏
           |        ∥             ∥               ∥   (左馬頭)
           |        ∥―――――足利成氏    ∥               ∥
           |       足利持氏  (左兵衛督)   ∥―――――――足利高基――――足利晴氏
           |      (左兵衛督)  ∥―――――――足利政氏   (左兵衛督)  (左兵衛督)
           |              ∥      (左馬頭)
           +―簗田直助―――――――――娘
            (長門守)        (伝心院)

●相馬家・簗田家想像系図

        相馬胤貞       
       (小次郎)
        ∥―――――相馬胤晴 +―相馬整胤 +―相馬秀胤
 簗田成助―+―娘    (小次郎) |(小次郎) |(小次郎)
(中務大輔)|        ∥   |      |
      |        ∥―――+―    +―娘
      |        ∥     ∥    |(相馬彦左衛門妻)
      |        ∥     ∥    |
      |        ∥     ∥――――+―娘
      |        ∥     ∥     (船橋半右衛門妻)
      |        ∥     ∥     
      +―簗田高助―+―     相馬治胤―――相馬胤信
       (河内守) |      (左近大夫) (小三郎)
             |       ∥
             |       ∥――――+―相馬盛胤
             | 谷上永久――娘    |(小次郎)
             |(和泉)        |
             |            +―相馬政胤
             |             (小次郎)            
             |
             +―簗田晴助――簗田持助
              (中務大輔)(八郎)

 永禄4(1561)年7月、上杉政虎の威勢を背景に簗田晴助は北条氏が擁立する足利義氏の居城・関宿城を攻めたため、足利義氏は関宿城を脱出し、小金城へ移座して高城胤辰に迎えられた。永禄4(1561)年7月14日、北条氏康が栗橋城主・野田氏に宛てた書状によれば、「御所様小金迄被移、御座之由、先以目出令存候」とある。しかし、政虎が越後へ帰国すると、反撃に出た北条勢に古河城が攻められ、公方・足利藤氏は簗田晴助を頼って関宿城に逃れた

 一方、越後へ戻った政虎は、休む間もなく信濃侵攻を企図する武田信玄を討つべく、その領境となっていた信濃国川中島へ出陣。8月15日から9月9日に渡って両軍は対陣を続け、9月10日に八幡原において激戦となった。この「於去十日信州河中嶋、対武田晴信遂一戦」で上杉勢は武田信玄の弟、武田典厩信繁らを討ち取っている。

 政虎は11月には再び関東に入り、12月には上野国で「氏康、晴信」の軍勢を防ぎ、敵を破る自信を覗かせた書状を簗田晴助に送っている。そして「何篇ニも公方様御進退、簗田可被任置之段」と、「公方様(足利藤氏)」の補佐を「簗田(簗田晴助)」に任せる旨を諸将に「能々可申上」ることを述べている(永禄四年十二月九日『上杉政虎感状』)。晴助は政虎の意を受けたか、永禄5(1562)年正月、「鮎川図書助」「目吹之城攻落」を指示し、鮎川図書助目吹城野田市目吹を攻め落とした。晴助は正月13日に感状を発給している(永禄五年正月十三日『簗田晴助感状』「下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書集三」:「取手市史」所収)。北条氏に加担する人物の持城となっていたのだろう。

 輝虎(政虎改め)は永禄5(1562)年3月まで関東で北条氏と対陣したが、厩橋城に城代として重臣の北条丹後守高広を任じて北条・武田氏に当たらせ、上杉憲政を伴って越後へ戻った。それに際し、2月11日、輝虎は簗田晴助に対し、「小山之下郷并河原田、任詫言御知行不可有相違候」と、晴助が求めていた小山下郷と河原田の知行を認めるとともに、藤氏の為に忠信を尽くすべしと指示している。藤氏はこの年、安房国の里見義堯・義弘を頼って移っている(八月二十八日佐野小太郎昌綱宛『足利藤氏書状』)

 簗田晴助はこのころ、相馬領への介入を露骨に行うようになっていた。永禄5(1562)年4月22日、晴助は「石山隼人佐」へ対し、「相馬之地、若就本意」になれば「佐賀主水助抱之知行分」を渡す判物を発給している(永禄五年四月廿二日『簗田晴助判物写』「下総旧事三」:「取手市史」所収)「佐賀主水助」については不明だが、佐賀氏は相馬氏の重臣に名を見せる家である。整胤は幼少の頃より縁戚である簗田氏の従属下にあって相馬領を保っていたと思われるが、このとき十九歳となっており、晴助といえども簡単に相馬領を我が物にすることはできなかったようである。

 その後も上杉勢と北条勢の合戦は続き、永禄8(1565)年3月、北条氏康は自ら小田原を発し、岩付城主・太田氏資を先鋒として、簗田晴助の居城・関宿城に攻めよせたが、晴助の奇襲によって大敗、氏康も自ら槍をふるって奮戦したが、晴助の猛攻によって北条勢は壊滅。氏康は退却を余儀なくされた。このときの整胤の働きは伝わっていない。

 その後の相馬家の動きはつかめないが、永禄9(1566)年正月27日、「依家僕逆心生害 年廿三」と、整胤は家臣の謀叛によって自害に追い込まれた(『相馬之系図』)。また整胤の子供「某」二人も「故ありて合川志摩某」によって殺害された(『寛政重修諸家譜』)。墓所は不明だが、『相馬藩世紀』によれば、「相馬郡大雄山海禅寺……小次郎胤晴、嫡子整胤法名実山墓所等有之」とあるので、大雄山海禅寺(守谷市)に葬られたと思われる。

 整胤がなぜ殺害されたかは不明だが、簗田晴助が大いに関係しているだろう。晴助は永禄5(1562)年頃から相馬領への野望を強くしていた形跡があり、整胤の殺害を謀った可能性もあろう。しかし、整胤亡きあと、彼の姉妹の夫に当たる「高井孫三郎」「相馬孫三郎」こと「相馬孫三郎治胤」がすぐさま相馬領をまとめたと思われる。整胤が殺害されてひと月ほど経った永禄9(1566)年3月、上杉輝虎麾下の北条丹後守高広・河田豊前守長親らは、北条方の小金城(高城胤辰)を攻めるべく本土寺(松戸市平賀)に軍勢を進めていた。この上杉勢に対し、3月3日、「相馬孫三郎治胤」は「此度金御近陣之内、以代官人数立申候」と代官に手勢を附けて出陣させる旨を伝えている。

 治胤の相続によって相馬領は一応の安泰を見たが、簗田晴助の相馬領への執着は尽きず、同年、密かに北条氏政「侘言」を述べてその麾下に属する約定を結んだ。その降伏の条件に「相馬一跡并要害」「本意候様」にすることを認める一条がある。そして氏政は晴助の要求を認め、永禄10(1567)年4月18日、降伏についての起請文を晴助へ渡した。孫三郎治胤はこの晴助の策謀を知ると、足利義氏を通じて北条氏への従属を願い、義氏の「御座所」として守谷城を進上することで、簗田晴助の野望を防ごうと試みている


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■中村藩御一家■

中村藩岡田家相馬泉家相馬泉田家相馬堀内家相馬将監家相馬主税家

●ご協力

茨城県在住の方
あさくらゆう様

●おもな参考資料●

『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料

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