下総相馬氏は鎌倉初期から室町末期にかけて北相馬郡守谷郷(守谷市)を本拠地として栄えた相馬氏の嫡流である。室町時代には「守屋殿」と称される独立勢力であったが、鎌倉公方が下総国古河に移る(古河公方)とその奉公衆となる。その後、古河公方が外戚の小田原北条氏に事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の支配下に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原合戦の余波を受け、居城の守谷城は徳川勢によって陥落。大名としての守谷相馬氏は滅亡した。
小田原合戦後、守谷相馬家は徳川家康に召し出され、その被官となり、大坂の陣などの活躍を賞されて五千石の大身旗本となり、子孫に伝えられた。しかし、江戸時代中期に故あって知行地を没収され、八百俵の蔵米取の旗本として幕末に至った。
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◆下総相馬氏◆
| 代数 | 当主 | 父 | 通称 | 同時代人物名 |
| 初代 | 相馬師常 | 千葉介常胤 | 相馬二郎 | |
| 2代 | 相馬義胤 | 相馬師常 | 相馬五郎兵衛尉 | |
| 3代 | 相馬胤綱 | 相馬義胤 | 相馬五郎兵衛尉 | |
| 4代 | 相馬胤村 | 相馬胤綱 | 相馬孫五郎左衛門尉 | |
| 5代 | 相馬胤泰 | 相馬胤継 | 相馬民部大夫 | 相馬胤氏・相馬師胤・相馬胤継・相馬胤顕 |
| 6代 | 相馬胤親 | 相馬胤泰 | 相馬民部次郎 | |
| 7代 | 相馬高胤 | 相馬胤親 | 相馬左衛門尉 | 相馬胤経・相馬胤村・相馬氏胤 |
| 8代 | 相馬胤基 | 相馬氏胤 | 相馬左衛門尉 | |
| 9代 | 相馬胤忠 | 相馬胤経 | 相馬上野介 | |
| 10代 | 相馬胤長 | 相馬胤忠 | 相馬小次郎 | |
| 11代 | 相馬胤宗 | 相馬胤長 | 相馬左衛門尉 | |
| 12代 | 相馬資胤 | 相馬胤宗 | 相馬上野介 | |
| 13代 | 相馬胤儀 | 相馬資胤 | 相馬左衛門尉 | |
| 14代 | 相馬胤高 | 相馬胤儀 | 相馬上野介 | |
| 15代 | 相馬胤実 | 相馬胤高 | 相馬左衛門尉 | |
| 16代 | 徳誕蔵主 | 相馬胤実 | 相馬小次郎 | |
| 17代 | 相馬胤広 | 徳誕蔵主 | 相馬因幡守 |
相馬胤行
…沼田藩相馬家へ 相馬胤直…彦根藩相馬家へ |
| 18代 | 相馬胤貞 | 相馬胤広 | 相馬小次郎 | |
| 19代 | 相馬胤晴 | 相馬胤貞 | 相馬小次郎 | |
| 20代 | 相馬整胤 | 相馬胤晴 | 相馬小次郎 | |
| 21代 | 相馬治胤 | 高井直将 | 相馬左近大夫 |
高井直将(相馬治胤、胤永、親胤父) 相馬胤永…小田原藩相馬家へ 相馬親胤 相馬胤房 相馬内膳亮…喜連川相馬家へ |
◆旗本相馬氏◆
| 22代 | 相馬秀胤 | 相馬治胤 | 相馬小次郎 | 相馬師胤・相馬胤吉 |
| 23代 | 相馬胤信 | 相馬治胤 | 相馬小三郎 | |
| 24代 | 相馬盛胤 | 相馬治胤 | 相馬小次郎 | |
| 25代 | 相馬政胤 | 相馬治胤 | 相馬小次郎 | |
| 26代 | 相馬貞胤 | 大岡貞惟 | 相馬小次郎 | |
| 27代 | 相馬要胤 | 相馬貞胤 | 相馬小次郎 | |
| 28代 | 相馬信胤 | 小笠原貞信 | 相馬小平太 | |
| 29代 | 相馬重胤 | 相馬信胤 | 相馬小平太 | |
| 30代 | 相馬保胤 | 相馬信胤 | 相馬小源次 | |
| 31代 | 相馬矩胤 | 相馬保胤 | 相馬小太郎 | 相馬多宮正胤(一橋相馬家) |
| 32代 | 相馬是胤 | 相馬矩胤 | 相馬左兵衛 | |
| 33代 | 相馬敏胤 | 相馬是胤 | 相馬左近 | |
| 34代 | 相馬繋胤 | 相馬敏胤 | 相馬左近 | |
| 35代 | 相馬将枝 | 相馬繋胤 | 相馬邦三郎 | |
| 36代 | 相馬祚胤 | 相馬将枝 | 相馬左衛門 | |
| 37代 | 相馬胤正 | 相馬祚胤 | 相馬小三郎 |
相馬貞胤(????-1656)
二十六代当主。旗本相馬家五代。大岡権兵衛貞惟の二男(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。母は相馬左近大夫治胤次女(『寛政重修諸家譜』)。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。小伝次郎(『略譜』)。先代の政胤と同一人物である可能性もある。
先代の相馬小次郎政胤から、「某年」に家督を譲られて相馬家を継ぎ(『寛政重修諸家譜』)、元和9(1623)年11月22日、三代将軍・徳川家光に拝謁した(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。貞胤が家督を継いだ年はなぜか「某年」とされていて詳細不明である。これは先代とされる政胤の家督時期との矛盾が解決しなかったための記述か。
寛永4(1627)年に大番に列し(『寛政重修諸家譜』『略譜』)、寛永9(1632)年6月、台徳院殿(徳川秀忠)の御遺金五十両を拝領した(『略譜』)。
寛永10(1633)年2月7日、二百石を加増されて知行千二百石となる(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。加増された場所がどこなのかははっきりしないが、同年9月、下総国印旛郡滝村(印西市滝)の代官を相馬家の谷上忠左衛門・谷上和泉が任命しており(『肝煎代官任命状』)、この地が新たな配領地かもしれない。また、承応3(1654)年11月、滝村の薬師堂灯明代として、薬師堂の別当寺・滝水寺に寺領を寄進安堵している(『相馬貞胤寄進状』)。
また、寛永10(1633)年、猿島郡馬立村(坂東市馬立)の代官を任命した人物として谷上忠左衛門があり、この地も加増地の一つだったと思われる。また、元禄6(1693)年、猿島郡弓田村(坂東市弓田)の年貢割付状に谷上勘兵衛の名で発給されており、この地も相馬氏の知行地であったことがわかる。
これらに名が見える「谷上」氏は下総相馬氏(もしくは高井相馬氏)の重臣だったようで、相馬左近大夫治胤の妻は「谷上和泉永久娘」である。検地帳に見える「谷上忠左衛門」は谷上和泉の子孫と考えられる。
明暦2(1656)年8月晦日に没し、江戸牛込長延寺(新宿区市谷長延寺町・左内町)に葬られた(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。一方、明暦2(1656)年正月5日に亡くなったとも(『相馬当家系図』)。法名は大昭院殿月庵宗明大居士。長延寺は明治42(1909)年に現在の杉並区(杉並区和田)へ移転し、跡地は都営長延寺アパートと自衛隊市谷駐屯地となる。
●貞胤周辺系譜●
⇒相馬治胤――娘
(左近太夫) ∥――――相馬貞胤
∥ (小次郎)
大岡貞惟
(権兵衛)
●寛永10(1633)年9月3日『肝煎代官任命状』(『下総古文書』:『房総古文書雑纂』所収)
●承応3(1654)年11月『相馬貞胤寄進状』(『下総古文書』:『房総古文書雑纂』所収)
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●ご協力
茨城県在住の方
あさくらゆう様
●おもな参考資料●
『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
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