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●鏑木家系図
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
| |
+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
| |
| | +─白井親胤
| | |(孫太郎)
| | |
+─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
| |
| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
| | |
| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
| | 【系不詳】
| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高 … 鏑木胤繁
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎) (十郎太郎)
| | | |
| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎 鏑木察胤──鏑木公永──鏑木胤元──+
| | | | (八郎四郎)(駿河守) |
| | | | |
| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次 |
| | |(彦九郎) |
| | | |
| +─白井五郎 +─鏑木胤信 |
| |(彦十郎) |
| | |
+─長吉信清 +─鏑木胤方 |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─鏑木胤定──鏑木胤安─+─鏑木胤通──鏑木成胤
(信濃守) (長門守) |(備後守) (紀伊守)
|
+─鏑木胤近──鏑木胤宗──鏑木長胤─+─鏑木胤次 +─鏑木胤利
(十左衛門)(八郎) (与兵衛) |(十太夫) |(作之丞)
| |
+─鏑木胤幹─+─鏑木胤房──鏑木氏胤==鏑木成胤==鏑木教胤==鏑木近胤===鏑木盛胤
(新右衛門) (十太夫) (平内) (十左衛門)(三五郎) (次郎右衛門)(平内)
鏑木胤泰(????-????)
鏑木氏三代。実父は金田小大夫成常(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。母は千葉八郎胤時女子。養父は叔父の白井九郎胤定。通称は孫八郎。法名は圓佛(『鏑木長泉寺系図』)。
養父とされる白井九郎胤定には胤泰を含めて少なくとも七人の成人した男子がおり(『神代本千葉系図』)、そのうちの一人は氏族の通例に則り出家者(理胤)となった。胤泰以降の鏑木氏の伝承・系譜には史実的な傍証がなく、実に室町時代後期から江戸初期に至るまで、鏑木氏に関する説話は家伝・伝承の域を出ることはない。ただし、『神代本千葉系図』においても胤泰のみが「鳴矢木」氏となり、その兄弟は注記がなく「白井」氏のままであるとすると、胤泰は養子で白井庄ではない土地の地頭職を継承したとしても矛盾はない事から、胤泰が胤定の養子であるという伝を否定する必要はないだろう。おそらく胤定の実子は白井庄内の地頭職を継承し、隠居所の鏑木郷は胤定が養子とともに移ったと考えるのが妥当か。
一方で、『鏑木長泉寺系図』にみられる胤泰の継承者「十郎家胤」及び二男の「孫八郎常泰」の名は『神代本千葉系図』に見られないことから、彼らの実在には疑問があると言わざるを得ない。胤泰入道の弟に実名不詳の「十郎」がおり、彼を家胤と比定することも可能ではあるが、彦八郎胤朝、彦九郎胤鑑、彦十郎胤信、余一胤方が実子として明記されていることから、少なくとも「鏑木」胤泰を継承した可能性は低い。
●『神代本千葉系図』
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
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+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
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| | +─白井親胤
| | |(孫太郎)
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+─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
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| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
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| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
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| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
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| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
| | | |
| | | |
| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | |(彦九郎)
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| +─白井五郎 +─鏑木胤信
| |(彦十郎)
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+─長吉信清 +─鏑木胤方
(十郎) (余一)
●『鏑木長泉寺系図』の伝
弘安10(1287)年、鏑木胤泰は「家紋及上総国武射郡蕪木郷」を千葉介胤宗に請うた。その結果は記されないが、長男十郎家胤を下総国香取郡鏑木郷に置き、みずからは二男の孫八郎「常泰」を伴って上総国武射郡蕪木郷(山武郡松尾村蕪木)に移住したという。以降、武射郡蕪木郷は孫八郎常泰が継承して「蕪木」を称したという。家紋は鏑木十郎家胤の子孫は十曜を用い、蕪木孫八郎常泰の子孫は三星を用いることとなった。
蕪木孫八郎常泰の子孫は実父方の祖・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)へ移り、本氏である「金田」を称し、のちに三河国へ移り岡崎松平家に仕えた。
鏑木胤朝(????-????)
鏑木氏四代。父は鏑木孫八郎胤泰。通称は彦八郎。
千葉惣領家西遷以前の系譜を伝える『神代本千葉系図』で鏑木胤泰の子として見える「胤朝彦八郎」は、鏑木・白井家の祖である「胤時八郎」の「彦(曾孫)」として名付けられたと想像できるので、彦八郎胤朝が鏑木胤泰の嫡子であるとみられる。弟の彦九郎胤鑑、彦十郎胤信、余一胤方はそのあととして付けられたのだろう。
なお、『神代本千葉系図』には鏑木孫八郎胤泰の子に、『鏑木長泉寺系図』による胤泰継嗣「十郎家胤」及びその弟・蕪木孫八郎常泰は見えない。『千葉大系図』では十郎家胤を「追記」し、孫八郎常泰を「初鏑木孫八郎胤朝」とすることで辻褄を合わせている。
●『神代本千葉系図』
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
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+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
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| | +─白井親胤
| | |(孫太郎)
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+─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
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| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
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| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
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| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
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| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
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| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | |(彦九郎)
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| +─白井五郎 +─鏑木胤信
| |(彦十郎)
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+─長吉信清 +─鏑木胤方
(十郎) (余一)
●『鏑木長泉寺系図』の伝
弘安10(1287)年、鏑木十郎胤家(1270-????)は十八歳にして父・孫八郎胤泰から下総国香取郡鏑木郷を相続して鏑木を称した(「鏑木氏」の項参照)。弟の蕪木孫八郎常泰(1272-????)は父・孫八郎胤泰とともに上総国武射郡蕪木郷(山武郡松尾村蕪木)に移住し、常泰の子孫は祖先・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)へ移り、本氏である「金田」を称した。その子孫は江戸幕府の旗本となる。
鏑木胤高(????-????)
鏑木氏五代。父は鏑木彦八郎胤朝。通称は弥八郎。
詳細な伝はない。『神代本千葉系図』にのみその名が見える。
●『神代本千葉系図』
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
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+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
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| | +─白井親胤
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+─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
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| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
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| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
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| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
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| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
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| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | |(彦九郎)
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| +─白井五郎 +─鏑木胤信
| |(彦十郎)
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+─長吉信清 +─鏑木胤方
(十郎) (余一)
●『鏑木長泉寺系図』の伝
鏑木氏を継承した鏑木十郎胤家(1270-????)の子は、孫十郎祐胤。祐胤は「元弘以来数度軍役、属千葉介定(ママ)感状軍功」(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
鏑木胤繁(????-????)
鏑木氏六代。父は鏑木孫十郎祐胤。童名は伊豆犬丸。通称は十郎太郎。ただし、祐胤が実在の人物かどうかは定かではない。
応安2(1369)年4月、鏑木郷に程近い生尾の式内社老尾神社に材木や造営料の「神殿造営奉加」をしている「鏑木十郎太郎胤繁」の名が見える(『老尾神社寄進帳』松山家蔵文書)。
●応安2(1369)年4月(『老尾神社寄進帳』松山家蔵文書)
また、鏑木山願勝寺(旭市鏑木)には応安2(1369)年中の「ア」の種子の刻まれた某逆修板碑と応安5(1372)年8月16日の「結衆」による「バク(釈迦如来)」の種子の刻まれた板碑が残るが、願勝寺は胤繁子息の四郎察胤が芸範法印を開山として応永12(1405)年に開いたとされる真言宗寺院である。もともとは隣接する府馬郷にあった天台宗願勝寺が当地に移されたものと伝わる(『干潟町史』)。応安2年と応安5年の板碑はともに光明寺(旭市鏑木)など浄土宗寺院にあったものが移設されたと考えられ、応安2(1369)年中の「ア」の逆修板碑は大日如来ではなく阿弥陀如来を示したものだろう。
●『鏑木長泉寺系図』の伝
「応安以来属千葉介満胤厚励軍功」という(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
鏑木察胤(????-????)
鏑木氏七代。父は鏑木十郎太郎胤繁または鏑木弥八郎胤高か。通称は八郎四郎。童名は松寿丸(『鏑木長泉寺系図』)。官途名は大蔵少輔(『鏑木長泉寺系図』)。
応永12(1405)年、四郎察胤は鏑木家屋敷跡(察胤は屋敷を移したか)に芸範法印を招き、開山として真言宗寺院の鏑木山願勝寺釈迦院を建立したとされる。芸範上人は京都の人で応永7(1400)年3月21日、高野山において灌頂を得て密印を授かった人物(「願勝寺芸範上人碑文」『干潟町史』)。
●『鏑木長泉寺系図』の伝
「応永二十三年丙申、上杉氏憲入道禅秀作乱於鎌倉、察胤属千葉介満胤、討之同三十年癸卯、小栗孫十郎満重背持氏卿、拠下総国結城城此時亦属満胤、兼胤、振勇名矣」という(『鏑木長泉寺系図』)とあるように、応永23(1416)年、上杉禅秀の乱においては千葉介満胤に属したという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。系譜では禅秀を「討之」とあるが、満胤は禅秀側に加担して鎌倉米町付近に布陣していたとされており(『鎌倉大草紙』)、この伝は史料上不可である。
応永30(1423)年の小栗孫十郎満重の叛乱では鎌倉御所持氏に属し、千葉介満胤・兼胤に従って結城城に向かい、勇名を馳せたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
鏑木公永(????-????)
鏑木氏八代。父は鏑木八郎四郎察胤。通称は駿河守。
ただし、公永については発給文書及び関連史料が一切存在しない。さらに公永の説話が信憑性の高くない史料にのみみられ、登場する人物もまた比定できないことから、常陸国の真壁一族の混乱の中で創造された人物と考えるのが妥当であろう。つまり、15世紀初期から16世紀中期までの百五十年余りは鏑木氏は「史実」としては空白時期となる。さらには公永の跡を受けたとされる「下総白井氏」においては、白井氏成立譚が登場人物の実在性の真偽も含めて史実として成立し難く、他氏族までもを同族さらには同一人物と仮託するほど混乱を極めている。以下は軍記物および後世成立系譜に依存した人物譚である。
永享12(1440)年の結城合戦においては、結城城南部に布陣した千葉介胤直に属して軍功を挙げたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
公永には嗣子がなかったため、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。真壁新七義成は上曾駿河守義堯の子(『小田軍記』)で真壁伊豆守治幹舅といい(『小田天庵記』)、近世成立の軍記物『小田軍記』によれば真壁安芸入道道夢の兄弟という(『小田軍記』)。「真壁安芸入道道夢」については、応永11(1404)年9月11日生、文明12(1480)年3月18日に七十七歳で亡くなった真壁朝幹(三郎、右京亮、安芸守、法名参翁永真)が世代的に相当する(真壁家文書『当家大系図 全』)。また、世代的・人物比定に問題がある『水府志料』所収の系譜でも真壁新七義成の子・白井三郎幹成が「鏑木駿河守公永養子」とみえる。
●「常府小田氏撰系図」(『水府志料』所収)
平直幹
(常陸大掾)
∥─────真壁長幹─+─真壁貞幹──真壁邦幹===真壁武幹──真壁豊幹──真壁満幹──真壁康幹───真壁行幹──真壁安幹──+
∥ (六郎) |(太郎) (小六郎) (孫四郎) (平六太) (左衛門) (左衛門次郎)(次郎) (十郎) |
∥ | |
千葉介常胤──女子 +=真壁秀幹──門井行秀─+─真壁武幹 |
(千葉介) (紀内) (弥四郎) |(孫四郎) |
| |
+─真壁豊幹 |
(平六太) |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─真壁久幹──真壁茂幹───真壁是幹─+─真壁義成─+─真壁義助──真壁成幹──+─真壁助幹──真壁綱幹──────────────────+
(孫四郎) (右衛門太夫)(安芸守) |(新七) |(左衛門佐)(六郎左衛門)| (左衛門尉) |
| | | |
| | +─門井武真──門井定正──門井定能──女子 |
| | |(縫殿介) (弥四郎) (与八郎) ∥────門井定光 |
| | | ∥ (丹波守) |
| | | ∥ |
| | +─烟田憲幹──烟田幹家──江寺幹光==江寺胤光 |
| | (対馬頭) (右衛門尉)(五郎)+─(右京亮) |
| | | |
| | 海上山城守────+ |
| | |
| +─麻生義幹──麻生久幹──麻生為幹──麻生之幹────+─麻生勝幹 |
| |(淡路守) (左兵衛尉)(淡路守) (左衛門入道残雪)|(左衛門太郎) |
| | | |
| +─白井幹成 +─麻生冨幹 |
| (三郎) (左衛門次郎) |
| |
+─嶋崎利幹─+─嶋崎利正──嶋崎是利──嶋崎久利──嶋崎宗利 |
(大炊介) |(左衛門) (右衛門) (大炊介) (左衛門入道宗庵) |
| |
+─大生利定 |
(左京亮) |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─真壁家幹────+─真壁師幹
|(安芸守道務入道)|(安芸守)
| |
| +─女子
| |(水谷勝俊妻)
| |
| +─真壁某
| (右衛門太夫)
|
| 千葉介胤富─────女子
| ∥───────+─白井胤幹
| ∥ |(備後守)
| ∥ |
+─真壁幹吉────+─白井宗幹 +―女子
(下総守) |(治部少輔) | ∥
| | ∥
| | 千葉俊胤
| |(千葉権介)
| |
| +―白井幹時
| |(民部少輔)
| |
| +―鶴牧信幹
| (茂右衛門)
|
+─真壁正幹────+─白井幹度───白井伊信
(下総守) |(八左衛門) (忠左衛門)
|
+―白井元勝
|(一郎衛門)
|
+―芦野資継
(五郎左衛門)
●『小田軍記』
白井察胤───女子
(八郎四郎) ∥
∥──────白井幹成
∥ (三郎)
∥
∥ 真壁治幹
∥ (伊豆守)
∥ ∥
上曾義堯───真壁義成─+─女子
(駿河守) (新七) |
|
+─真壁道夢
(安芸入道)
『鏑木長泉寺系図』によれば、公永は後嗣がいなかった当時、前述の通り「常陸国真壁郡白井地頭」の白井幹成(真壁義成の子、姉の子)を養子に迎えていたが、その際に公永は「千葉介康胤(康胤は「千葉陸奥守入道」とあるように千葉介に就いたことはない)」に、「我若産男子、則以下総白井庄与幹成也、而冀与祖先白井家、公熟思之(もし私に男子が生まれたならば、下総国白井庄は幹成に与えようと思います。祖先白井家由緒の地であり、この旨を熟思いただきたい)」と願い出た(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。鏑木氏は香取郡鏑木村へ移ってのちは白井庄に関する知行権は失っていたであろうから、もしこの記述通りであれば、胤時流白井氏の再興のために幹成へ白井庄を与えてほしいという願いということになるが、「則以下総白井庄与幹成也」には「欲」する文字がないため意図が通じず事績を記載する上での不備とみられる。それは「康胤許之、康正元年乙亥与証書」とあることからも、白井庄の新知を願ったものであることは明白である。この文の通り康胤は公永の請願を許諾して白井庄の安堵状を発給。公永は「而築新城於白井庄、使幹成居之」と、鏑木三郎幹成を白井庄に派遣した(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
その後、「公永生胤元、而譲家督」ったとあるように、実子の十郎胤元が誕生。彼に鏑木家の家督を譲ったとする。そして「於是因務、所相定之約、分与白井庄於幹成(以前の約定通り、白井庄を幹成に分与した)」した。このことを聞いた「千葉介輔胤(輔胤も岩橋殿と称された宗家一門で千葉介に就任していない)」は「真壁氏当家同姓、而其祖長幹者常胤外孫也、依之世々倚頼当家相睦、幹成旧為真壁郡白井地頭、而今為公永所養亦領下総白井庄、両地其国雖異、地名是同宣、復白井氏、以七星為家紋、称白井三郎、乃是継絶興廃不亦可乎(真壁氏は当家と同姓で、祖の真壁長幹は千葉介常胤の外孫である。それゆえ代々当家を頼りとし睦まじく交流してきたのだ。幹成はもともと常陸国真壁郡白井地頭であるが、いまや公永の養子となり、下総国白井庄をも領有した。両白井は国こそ違え同じ『白井』である。白井氏が再興され『七星』を家紋とし鏑木を白井三郎と改め称す。これにより絶家が継承され、衰退した家が再興されるのは、なんと素晴らしいことではないか)」と評したという(『鏑木長泉寺系図』)。
鏑木胤元(????-????)
鏑木氏九代。父は白井駿河守公永。母は不明。通称は十郎(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。義兄は白井三郎幹成。ただし、実在の人物かは疑問が残る。
伝によれば父駿河守公永に実子がなく、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えていた(『鏑木長泉寺系図』)。ところが、その後「公永生胤元」たため、白井家は幹成へ継承したまま、胤元には鏑木家の「而譲家督」ったという(『鏑木長泉寺系図』)。法号は道意。ただし、この法号「道意」は後世の長門守胤家と同じものである。
鏑木胤定(????-????)
鏑木氏十代(実際は不明)。父母は不詳。通称は信濃守。諱は胤貞(『断家譜』)とも。15世紀初めの鏑木八郎四郎察胤以降、胤定の記述が現れる16世紀中期までの百五十年余り(世代にして五世代程度)は鏑木氏の史実は不明となる。
永禄2(1559)年正月22日、千葉介胤富の指示を受け、老尾神社に飯塚郷内から五十五石の籾を寄進し、これを毎年行う旨を奉納している。胤定は鏑木郷に拠点を有しつつも「介殿」の奉行人的な立場にあったと推測される。
●永禄2(1559)年正月22日(『老尾神社寄進帳』松山家蔵文書)
永禄3(1560)年、古墳の墳丘上に「信濃守大守長泉大檀越」として「新福寿位 高岩道賀」の逆修塔を建立する(『千葉県地域民俗調査報告書第1集 千葉県史編さん基礎資料3』)。その後、百三十年余り風雨にさらされたこの逆修塔は傾き崩れはじめていたため、元禄6(1693)年3月、子孫の旗本鏑木平内氏胤がこの「御塚」の石塔を修復を施した(『千葉県地域民俗調査報告書第1集 千葉県史編さん基礎資料3』)。
永禄6(1563)年4月2日、胤定は家人の「高根十郎左衛門尉」に対して、所領安堵の文書を遺したと伝わる(『高根家文書』)。
●永禄6(1563)年4月2日『鏑木胤定知行安堵状』(『干潟町史』所収「高根家文書」)
永禄9(1566)年正月20日卒去(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。「葬下総国香取郡鏑木邑高岩山長泉禅寺」した(『断家譜』)。法名は天長院高岩道賀(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。
妻某氏は元亀4(1573)年8月28日卒去。法名は本性院殿明室永公大姉(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。
天正17(1589)年8月20日、菩提寺の鏑木長泉寺に「道賀居士菩提之」の刻まれた五輪塔、「為道賀居士」の刻まれた宝篋印塔が建てられた(『千葉県史料 金石文篇2』)。
鏑木胤安(????-????)
鏑木氏十一代。父は鏑木信濃守胤定。母は不明。妻は某氏。通称は長門守。『鏑木長泉寺系図』における長門守胤義(父は鏑木十郎胤元)と同一人物。
天文19(1550)年11月23日に行われた妙見遷宮式では、「大檀那新介平親胤(当時は民部卿丸)」のもと、宿老・原式部大夫胤清以下、本庄伊豆守胤村・原大蔵丞胤安・馬場又四郎胤平・本庄新太郎胤里・粟飯原源公・海上山城守胤秀・原九郎右衛門尉胤行・金親兵庫正能・鏑木長門守胤義・牛尾左京胤道・牛尾孫二郎胤貞(原胤貞)・小川外記政俊・原隼人祐胤次・斎藤源太左衛門尉清家ら被官層が参列したとされる(『千学集抜粋』)。
年不詳10月21日、おそらく台風で破壊された香取社の神殿の造営について「治房」「実隆(香取大禰宜)」が鏑木長門守へ宛てて発給された『大禰宜実隆等連署書状』が残る。該当する時期の式年遷宮としては天文年中に千葉介親胤が雑掌を務めたものと想定される。
●年不詳10月21日『大禰宜実隆等連署書状』(『香取文書』)
また、胤安は千葉介胤富にも仕え、某年12月28日、胤富からの香取神宮への使者として派遣されている(『香取文書』)。
●年不詳12月28日『千葉介胤富書状』(『香取文書』)
天正2(1574)年5月5日(『鏑木長泉寺系図』)、または6月5日(『断家譜』)卒去。法名は天光院殿春格心芳大居士(『鏑木長泉寺系図』『断家譜』)。供養塔が長泉寺に遺されていたが、昭和18年当時「倒壊して僅に塔身のみ存す」(『古城村誌』)という状況にあった。
妻某氏は「長門守胤安室」は文禄4(1595)年10月15日卒。法名は在到院殿澗泉正照大姉(『断家譜』)。「長門守胤義室」は文禄4(1595)年2月27日卒去。法名は自然院殿月心明公大禅定尼(『鏑木長泉寺系図』)。この妻については歿年は同じだが日にちと法名が全く異なる。一方で、『鏑木長泉寺系図』における「長門守胤家室」は文禄4(1595)年10月15日卒。法名は右到院殿澗泉正照大姉(『鏑木長泉寺系図』)とあるように『断家譜』の「長門守胤安室」と同一人物である。
| 『出典』 | 名前 | 没年 | 室 | 室没年 | 室法名 |
| 『断家譜』 | 長門守胤安 | 天正2(1574)年6月5日 | 胤安室 | 文禄4(1595)年10月15日 | 在到院殿澗泉正照大姉 |
| 備後守胤通 | 文禄5(1596)年正月9日 | ||||
| 『鏑木長泉寺系図』 | 長門守胤義 | 天正2(1574)年5月5日 | 胤義室 | 文禄4(1595)年2月27日 | 自然院殿月心明公大禅定尼 |
| 長門守胤家 備後守胤家 |
文禄5(1596)年正月9日 | 胤家室 | 文禄4(1595)年10月15日 | 右到院殿澗泉正照大姉 |
ここから考えられることは、「長門守」胤安(『断家譜』)と「長門守」胤義(『鏑木長泉寺系図』)は同一人物であるが、『鏑木長泉寺系図』ではさらに「長門守」胤家(系譜に国司名が表記されているのは彼のみであるため長門守は矛盾を解消するために付された肩書であろう)とも混同した結果その妻室をも同一人物としたが、本来「胤安」と同一人物である「胤義」の妻が「胤家」の妻とされていることで矛盾が生じたことから、同年の文禄4(1595)年卒去の新たな人物「月心明公」を作り出したと想定される。また、胤安の子である備後守胤通は没年月日が同じ備後守胤家と同一人物である。
下表は『鏑木長泉寺系図』と『断家譜』の差異を色別でまとめたものである。世代の逆転、法名の重複などを見ると『断家譜』の記述が理に適っている。
| 続柄 | 人物 | 出典 | 卒年 | 法名 | 葬地 | 別典拠 |
| 長門守父 | 鏑木十郎胤元 | 『鏑木長泉寺系図』 | ー | 道意 | ||
| 信濃守胤貞(道賀) | 『断家譜』 | 永禄9(1566)年正月20日 | 天長院高岩道賀 | 鏑木邑長泉寺 | 永禄2(1559)年正月22日 『老尾神社寄進帳』 |
|
| 長門守母 | 胤元室 | 『鏑木長泉寺系図』 | ー | ー | ||
| 胤貞室 | 『断家譜』 | 元亀4(1573)年8月28日 | 本性院殿明室永公大姉 | |||
| 長門守 | 長門守胤義 | 『鏑木長泉寺系図』 | 天正2(1574)年5月5日 | 天光院殿春格心芳大居士 | 『千学集抜粋』 | |
| 長門守胤安 | 『断家譜』 | 天正2(1574)年6月5日 | 春格心芳 | 鏑木邑長泉寺 | ||
| 長門守妻 | 胤義室 | 『鏑木長泉寺系図』 | 文禄4(1595)年2月27日 | 自然院殿月心明公大禅定尼 | ||
| 胤安室 | 『断家譜』 | 文禄4(1595)年10月15日 | 在到院殿澗泉正照大姉 | |||
| 長門守子 | 信濃守胤定(道賀) | 『鏑木長泉寺系図』 | 永禄9(1566)年正月20日 | 天長院殿高巌道賀大居士 | 永禄2(1559)年正月22日 『老尾神社寄進帳』 |
|
| 備後守胤通 | 『断家譜』 | 文禄5(1596)年正月9日 | 常鶴殿松岩道意 | 鏑木邑長泉寺 | 年不詳3月 『鏑木備後守胤家書状』 |
|
| 長門守子妻 | 胤定室 | 『鏑木長泉寺系図』 | 元亀4(1573)年8月28日 | 本性院殿明室永公大姉 | ||
| ー | 『断家譜』 | ー | ー | |||
| 長門守孫 | 長門守胤家 備後守胤家 |
『鏑木長泉寺系図』 |
文禄5(1596)年正月9日 |
常鶴院殿松岩道意大居士 | 年不詳3月 『鏑木備後守胤家書状』 |
|
| ー | 『断家譜』 | ー | ー | |||
| 長門守孫妻 | 胤家室 | 『鏑木長泉寺系図』 | 文禄4(1595)年10月15日 | 右到院殿澗泉正照大姉 | ||
| ー | 『断家譜』 | ー | ー |
鏑木胤家(????-????)
鏑木氏十二代。父は鏑木長門守胤安(『断家譜』)。母は不明。通称は彦次郎。官途名は備後守(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。諱は胤通(『断家譜』)とも。
胤家は下総国などの領主や大名との間に師檀関係を築いた伊勢の御師「龍大夫」に対し、祈祷および「御祓大麻」「五明櫛」を拝領したことの礼状と「最花三十足」を送っている。
●年不詳3月「鏑木胤家書状」(『龍大夫文書』)
天正18(1590)年の小田原合戦当時、「蕪木駿河守」が「かふらき城」に在城し、その勢は「三百騎」(「北条家人数付」『毛利家文書』)という。ただし胤家は「備後守」または「信濃守」であって「駿河守」ではなく、さらに胤家は千葉介被官として佐倉に常駐していたであろうから、毛利家が把握したという「蕪木駿河守」は鏑木郷に拠点を有した家とみられる。
文禄4(1595)年10月15日、妻某氏が卒去。法名は在到院殿澗泉正照大姉(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。
文禄5(1596)年正月9日卒去。法名は常鶴院殿松岩道意大居士(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。
鏑木成胤(????-1633)
鏑木氏十三代。鏑木備後守胤通の子。官途名は紀伊守(『鏑木長泉寺系図』)。
天正年中、数か年小田原在陣したという(『鏑木長泉寺系図』)。成胤は『断家譜』には掲載されておらず、のちの旗本鏑木家とは別系統である可能性があろう。天正18(1590)年の小田原合戦当時、「かふらき城」に在城した「蕪木駿河守」(「北条家人数付」『毛利家文書』)か。
寛永10(1633)年9月22日卒去。法号は勧叟道喜(『鏑木長泉寺系図』)。
『鏑木長泉寺系図』では、弟に鏑木主膳正が見える。
古河藩士を経て旗本となった鏑木家は、鏑木郷を拠点とする鏑木家とは別の家と想定される。しかし、旗本鏑木家の出自については、初代の「胤近」の通称「十左衛門」が旗本鏑木家の「成胤」でも用いられるようにおそらく一統と思われるが、諸書で記述が曖昧であり、江戸中期において「無系譜分脉不詳」(『断家譜』)と記されている。矛盾点も多々あるものの、その系譜を記す。
| 『断家譜』 | 『鏑木長泉寺系図』 (鏑木清春氏写『鏑木長泉寺系図』) |
『長泉寺過去帳』 (『古城村誌』) |
東保胤氏蔵『白井氏系図附図』 (鏑木清春氏写『鏑木長泉寺系図』) |
| 胤近 ・十左衛門 ・慶長11(1606)年6月29日歿 ・常徳院高月常了居士 |
胤近 ・孫左衛門 ・慶長11(1606)年6月29日歿 ・常悟院殿高月常了居士大居士 |
胤近 ・十左衛門 ・慶長11(1606)年6月29日歿 ・常悟院殿高月常龍居士(常了大居士) |
|
| 胤宗 ・八郎 ・慶長17(1612)年7月28日歿 ・月宮院胤宗常桂 |
胤宗 ・八郎 ・慶長17(1612)年7月28日歿 ・月宮院殿胤宗常桂大居士 |
胤宗 ・八郎 ・慶長17(1612)年7月28日歿 ・月宮院胤宗常桂大居士 |
|
| 重胤 ・ー ・寛永10(1633)年6月16日歿 ・常心 |
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| 長胤 ・与兵衛 ・寛永13(1636)年正月26日歿 ・洞裡院雲高常無 |
長胤 ・権太郎 ・寛永13(1636)年正月26日歿 ・常徹 |
長胤 ・与兵衛 ・寛永13(1636)年正月26日歿 ・洞裡院殿高山常無大居士 |
|
| 重胤 ・権太郎 ・寛永16(1639)年10月6日歿 ・孤円院月光常心 |
|||
| 胤次 ・ー(古河鮭延寺に墓碑・鏑木十太夫) ・承応2(1653)年12月23日歿(古河57歳) ・常英 |
胤次 ・十太夫 ・承応2(1653)年12月23日歿(古河57歳) ・常出院殿傑山常英大居士 |
||
| 胤利 ・作之丞(胤次甥) ・寛文2(1662)年9月7日歿(江戸15歳) ・宗順 |
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| 胤房 ・十太夫 ・寛文5(1665)年8月26日歿 ・常正院仏光全性 |
胤房 ・十大夫(胤次甥) ・寛文5(1665)年8月26日歿(鏑木24歳) ・全性 |
胤房(『過去帳』になし。長泉寺墓碑) ・十太夫 ・寛文5(1665)年8月26日歿 ・常正院殿仏光全性居士 |
|
| 胤幹 ・新右衛門 ・寛文6(1666)年8月29日 ・常桂院殿雲州胤露居士 |
胤幹 ・新衛門(胤房父) ・寛文5(1665)年8月29日歿(鏑木58歳) ・胤露 |
胤幹(長泉寺墓碑もあり) ・新右衛門 ・寛文6(1666)年8月29日(58歳) ・常桂院殿雲州胤露居士 |
胤幹 ・新右衛門 ・寛文6(1666)年8月29日歿 ・常桂院殿雲州胤露大居士 |
鏑木胤近(????-1606)
父は不詳だが鏑木長門守胤安(『断家譜』)と同世代。通称は十左衛門(『断家譜』)。
慶長11(1606)年6月29日卒去(『断家譜』)。法名は常悟院高月常了居士(『断家譜』『長泉寺過去帳』)。
鏑木胤宗(????-1612)
鏑木十左衛門胤近の子。通称は八郎 (『断家譜』)。
慶長17(1612)年7月28日卒去。法名は月宮院胤宗常桂(『断家譜』『長泉寺過去帳』)。
鏑木長胤(????-1636)
鏑木八郎胤宗の子。通称は与兵衛(『断家譜』)。
寛永13(1636)年正月26日卒去。法名は洞裡院雲高常無(『断家譜』『長泉寺過去帳』)。
鏑木家所蔵文書の伝によれば、「長胤始称重胤御死去之砌、系図弐通有リ、其内壱通ハ邦胤ノ御自筆、壱通ハ長胤御作リ成サレ候、此長胤ノ御作ノ系図ハ鏑木十太夫ヘ寛永十年正月十六日ニ相渡候處ニ、其年ノ暮古河ニオイテ内木テンノ原ニテ喧嘩ニテ相果テ、系図香取ノ明神ニ納候」とあるように、千葉重胤が寛永10(1633)年に病死した際、長胤に系図二通が譲られたが、長胤は同年末に古河で討たれたため、香取社へ奉納されたという。ただし、与兵衛長胤の卒去年はそれより三年のちの寛永13(1636)年であるため、千葉重胤との関わりを謳った貴種譚のひとつであろう。
鏑木重胤(????-1639)
鏑木与兵衛長胤の子。通称は権太郎(『断家譜』)。寛永16(1639)年10月6日卒去。法名は孤円院月光常心(『断家譜』)。『鏑木長泉寺系図』では長胤の通称を「権太郎」とし、「重胤」の没年は千葉新介重胤とまったく同一の寛永10(1633)年6月16日となっており(法名は常心)、重胤に仮託した架空の人物であろう。
鏑木胤次(1597-1653)
父は不詳だが鏑木与兵衛長胤か。通称は十太夫(『古城村誌前編』所収「長泉寺過去帳」)。慶長2(1597)年生まれ(『長泉寺過去帳』より逆算)。『断家譜』には名が見えない。鏑木郷に帰農した鏑木紀伊守成胤とは別系の鏑木氏と思われるが、古河藩士鏑木家及び旗本鏑木家も鏑木郷長泉寺に関わっていることから、遠縁ではないとみられる。
土井利勝が小見川領から佐倉領に転封した慶長15(1610)年正月以降に召し出されたと思われるが、具体的な事績は伝わらない。
没年については、古河の正源山鮭延寺(古河市大堤)の「鏑木十太夫」の墓碑では「承応三年十二月廿三日没」とあるが(早川和見『山形最上家と古河土井家について』)、『長泉寺過去帳』では「承応癸巳年十二月廿三日」と干支で記しており、『長泉寺過去帳』を正とし、承応2(1653)年12月23日卒。五十七歳で古河で卒去(『長泉寺過去帳』)。法名は常出院殿傑山常英大居士(『長泉寺過去帳』)。
鏑木胤幹(1609-1666)
古河藩士。鏑木与兵衛長胤の子か。鏑木十太夫胤次の弟とみられる。通称は新右衛門(『断家譜』)。
寛永19(1642)年当時の古河藩分限帳に「二百石」の「鏑木十太夫」があり(寛永十九年『利勝公御代分限帳』)、おそらく胤幹は初名十太夫を称したとみられる。
甥の一人、鏑木作之丞胤利は寛文2(1662)年9月7日に江戸で亡くなったという。享年十五(『長泉寺過去帳』)。法名は宗順。慶安元(1648)年生まれとなる。
五年後の正保4(1647)年当時の古河藩分限帳に「大番」に属する「二百石」の「鏑木新左衛門」「鏑木重太夫」の二名がみえる(「正保四年亥年分限帳」『古河市史 資料近世遍』)。「鏑木新左衛門」は胤幹、「鏑木重太夫」は十太夫胤房と想定される。
寛文6(1666)年8月29日卒去。法名は常桂院殿雲州胤露居士(『断家譜』)。享年五十八(『長泉寺過去帳』)。長泉寺に宝篋印塔が建つ(『古城村誌前編』)。
鏑木胤房(1642?-1665)
古河藩士。父は鏑木新右衛門胤幹か。通称は十太夫(『断家譜』)。『長泉寺過去帳』に「胤房廿四歳、胤次甥」(『古城村誌前編』所収)とあり、鏑木十太夫胤次の甥である。
正保4(1647)年当時の古河藩分限帳に「大番」に属する「二百石」の「鏑木新左衛門」「鏑木重太夫」の二名がみえる(「正保四年亥年分限帳」『古河市史 資料近世遍』)。「鏑木新左衛門」は新右衛門胤幹、「鏑木重太夫」は十太夫胤房と想定される。
『長泉寺過去帳』に「胤房廿四歳、胤次甥」(『古城村誌前編』所収)とあり、寛文5(1665)年8月26日に二十四歳(『長泉寺過去帳』)で亡くなったことになる。法名は常正院仏光全性(『断家譜』)。長泉寺に宝篋印塔が建つ(『古城村誌前編』)。
ただし、歿年齢については「鏑木重太夫」は正保4(1647)年は大番に属し二百石を知行したとある。これは当時の公文書であるため信用できると考えれば、『長泉寺過去帳』の伝からひく歿年齢が「胤房廿四歳」であれば寛永19(1642)年生まれ(『長泉寺過去帳』より逆算)となり、五歳での大番は現実的ではない。さらに「胤次甥」とすれば、父は鏑木十太夫胤次の兄弟となるが、胤房の従兄・新右衛門胤幹とは三十三歳差となり、一世代異なる。これらのことから、歿当時の年齢は「廿四歳」ではなかった可能性が高く、寛永19(1642)年から正保4(1647)年までの五年間に元服し、従兄で養父の十太夫胤幹から「十太夫」を継承していたとすれば、「卅四歳」の誤記または誤読の可能性が高いだろう。
鏑木氏胤(????-1703)
鏑木新右衛門胤幹の子。母は某氏(出入院殿照月妙圓大姉)。通称は平内。
正保4(1647)年当時の古河藩分限帳に「大番」に属する「二百石」の「鏑木新左衛門」「鏑木重太夫」の二名がみえる(「正保四年亥年分限帳」『古河市史 資料近世遍』)が、その後の古河藩分限帳には鏑木姓は見られないため、土井家を退いていると考えられる。
元千葉氏の客将で、館林藩主・松平右馬頭綱吉の御守役(のち御用人)として仕えていた押田三左衛門直勝に寄食し(『千葉伝考記』)、 氏胤は押田直勝の推挙によって綱吉に仕えて小十人組に列し五十俵を給わった(『千葉伝考記』)。
延宝8(1680)年5月、綱吉嫡男「徳松殿」が西ノ丸に入ると直勝とともにその御家人に列する(『寛政重修諸家譜』『千葉伝考記』)。しかし、天和3(1683)年閏5月28日、徳松が逝去すると小普請となった(『寛政重修諸家譜』)。同年7月2日、押田直勝もまた五十五歳で卒去する。法名は円鏡院殿常貞居士。押田家領の下総国野手村(匝瑳市野手)の真言宗円長寺に葬られた。
元禄元(1688)年11月26日、押田直勝の弟・押田五郎太夫頼意の三男・八三郎を養子とし、八三郎は「鏑木左門」と号したが、兄の三五郎周勝が病がちとなったことから元禄8(1695)年3月23日、押田家の嫡子に戻されている。こののち、氏胤は旗本津久見家との関わりの中で、その縁者であった星野安休の子を養嗣子(鏑木十左衛門成胤)に迎えたとみられる。
元禄14(1701)年2月、鏑木村の南、椿海を干拓してできた「椿新田」の小作料について、鏑木村七兵衛と鏑木平内らとの間で締結がなされた。それによれば、干拓地の「下総国万力村椿新田」の新検地によって出された4反18歩の土地について、これは御殿様(氏胤)と御奥様(氏胤妻)付御年寄が、御後生金(隠居時用途の積立金)として使うものであるため、作次(小作料)として反別米9斗2升の代金と取り決め、合計した米を用意して年貢や諸役などを務め、残った米は何俵であっても屋敷まで確実に差し上げなければならないとした。百姓側は、もし年貢米の納付が遅れるようなことがあれば、右の田地を取り上げられてほかの人に預けられても異議申し立てはしないが、日照りや風水害があった時期には年貢等の減免を配慮いただきたい旨を認め、「鏑木平内」と「同十左衛門様御内、岡野文右衛門殿」に対して発給した。
●『元禄十四年椿新田小作売渡等証文写』(『海上町史特殊史料編』所収『高木文書』)
元禄16(1703)年8月12日卒去。「歳六十余」(『千葉伝考記』)という。法名は常光院健安全勝。
鏑木成胤(????-1709)
鏑木平内氏胤の養嗣子。実父は浪人・星野安休(俗名は覚左衛門。旗本久津見又助の縁者という)。通称は十左衛門(『千葉伝考記』『寛政重修諸家譜』)。のちに鏑木近胤が天野家から養嗣子として入って家名が保たれたのは、成胤の実父が久津見家と何らかの所縁があったためと想定される。ただし、久津見家との具体的な関係は不明である。
天野康世────天野康勝
(六右衛門) (又右衛門)
∥────────天野康作
∥ (甚左衛門)
∥ ∥
堀江式部大輔─…─久津見又助─久津見又助─久津見頼久─久津見茂豊─+─女子 ∥─────+─鏑木近胤
(又助) (又助) |(貫珠院峯梅恵芳) ∥ |(次郎右衛門)
| ∥ |
| 内河正宣=====養女 +─天野康平
|(伝次郎) (新八郎)
|
+─久津見充信──+─久津見息信───久津見主水──久津見息言──久津見又兵衛
(又助) |(又助) (又助)
|
+─女子
∥───────天野康泰
∥ (甚左衛門)
天野康作
(甚左衛門)
元禄16(1703)年10月27日に遺跡を継いで百五十俵を給され西ノ丸小十人番に列す(『寛政重修諸家譜』)。その後、小普請大久保玄蕃忠兼組に属す。のち大久保淡路守組のとき宝永6(1709)年6月23日に卒去した(『断家譜』)。
成胤には男子がなく、神尾七郎左衛門の子・三五郎教胤を養嗣子に迎えた。
鏑木教胤(1693-1715)
鏑木十左衛門成胤の養嗣子(『御家人分限帳』『千葉伝考記』)。実は神尾七郎左衛門長孝二男(『御家人分限帳』『千葉伝考記』)。通称は三五郎(『御家人分限帳』)。「丑十七歳」(『御家人分限帳』)とあることから元禄6(1693)年に誕生(『御家人分限帳』より逆算)となる。なお『断家譜』によれば諱は「胤致」で「実天野宗閑俗名甚左衛門康作二男」(『断家譜』)とある。
宝永6(1709)年6月23日に家督を継承。小普請大久保淡路守組に属した(『御家人分限帳』『断家譜』)。
正徳5(1715)年10月12日卒去(『御家人分限帳』)。享年二十三。「牛込松源寺」(『断家譜』)に葬られた。法名は玄峰了通(『断家譜』)。
教胤には男子がなく、天野甚左衛門宗閑の子・次郎吉近胤を養嗣子に迎えた。
鏑木近胤(1709-1745)
鏑木三五郎教胤の養嗣子。実父は天野甚左衛門康作(宗閑)(『断家譜』)。母は御書物奉行内河伝次郎正宣女(『断家譜』)。妻は石原左兵衛義方女。通称は次郎助(『断家譜』)、次郎吉、次郎右衛門(『寛政重修諸家譜』)。
宝永6(1709)年、天野甚左衛門康作の三男として生まれた。母は内河伝次郎正宣の女子(養女)。
●『御家人分限帳』
●『御家人分限帳』
+─久津見充信─────女子
|(又助) ∥
| ∥
| 天野康勝 ∥───────天野康泰=====天野康明
|(又右衛門) ∥ (甚左衛門) (六右衛門)
| ∥ ∥
| ∥─────────天野康作 +─天野康建
| ∥ (甚左衛門) |(三郎兵衛)
| ∥ ∥ |
久津見茂豊─+─女子 ∥─────+─鏑木近胤=====鏑木盛胤
(又助) (貫珠院峯梅恵芳) ∥ |(次郎右衛門) (平内)
∥ |
内河吉次 ∥ +─大野康平
(七左衛門) ∥ |(新八郎)
∥ ∥ |
∥──────内河正宣=======養女 +─女子
∥ (伝次郎) (貞寿院殿)
∥ ∥ ∥
∥ ∥ 土岐頼雄
∥ ∥ (十左衛門)
∥ ∥
水原親好───女子 ∥──────────内河正明──+─内河正知
(八右衛門) ∥ (源八郎) |(七左衛門)
∥ |
平尾茂右衛門────────女子 +─鏑木盛胤
(平内)
先代の鏑木三五郎教胤が正徳5(1715)年10月12日に二十三歳で急死しており(『御家人分限帳』)、その直前に養嗣子に迎えられたものだろう。正徳5(1715)年12月26日、七歳で遺跡を継いでいる(『寛政重修諸家譜』)。その後、小普請大久保淡路守組に属し、さらに仙石丹波守組に属す(『断家譜』)。
享保12(1727)年3月27日、西ノ丸小十人岡部伊右衛門組に配され、享保14(1729)年閏9月2日、将軍徳川吉宗の三男・小五郎(一橋刑部卿宗尹)の御近習番となる。享保17(1732)年12月7日、御足高五十俵で廩米二百俵となる(『断家譜』)。
享保19(1734)年5月20日、小五郎の御小姓となるが、病気により小普請内藤越前守組に属し、延享2(1745)年10月に病没した。享年三十七。
鏑木盛胤(1722-????)
鏑木次郎右衛門近胤の養嗣子。実父は内河源八郎正明(『断家譜』)。通称は金之丞、平内(『断家譜』)。
享保7(1722)年、内河源八郎正明の次男として江戸に生まれた。近胤が延享2(1745)年10月に三十七歳で急死したため、その直前に従弟の金之允がその女婿に入ったとみられる。延享2(1745)年12月26日に二十四歳で廩米百五十俵を給され、家督を相続した(『断家譜』)。
天野康世────天野康勝
(六右衛門) (又右衛門)
∥───────────天野康作 +─天野康達
∥ (甚左衛門) |(三郎兵衛)
∥ ∥ |
久津見茂豊───女子 ∥─────+─鏑木近胤=====鏑木盛胤
(又助) (貫珠院峯梅恵芳) ∥ |(次郎右衛門) (平内)
∥ |
内河吉次 ∥ +─天野康平
(七左衛門) ∥ (新八郎)
∥───────内河正宣========養女
∥ (伝次郎)
∥ ∥
水原親好───女子 ∥───────────内河正明──+─内河正知
(八右衛門) ∥ (源八郎) |(七左衛門)
∥ |
平尾茂右衛門─────────女子 +─鏑木盛胤
(平内)
小普請内藤越前守組に属したのち、寛延3(1750)年12月21日に西ノ丸に入り、小十人組竹中彦八郎組に属した。宝暦2(1752)年2月9日、吹上で「大納言様(家治)騎射上覧勤之」(『断家譜』)と見える。当日は「大納言殿吹上にて大的を見給ふ、射手新番十人、小十人二十人」(『惇信院殿御実紀』)とあるように、小十人組が射手として見えるため、おそらく盛胤も射手として出仕したのだろう。
しかし宝暦3(1753)年3月5日、突如出奔して旗本鏑木家は断絶となった(『断家譜』『寛政重修諸家譜』)。その後の盛胤の消息は不明である。当時の旗本鏑木家の屋敷は「糀町三軒家」(平河町二丁目)にあり敷地面積は「坪数弐百七拾六坪」あった(『東京市史稿』)。平内盛胤の出奔によりこの屋敷地は収公され、5月22日に御小性組三上与九郎季良に「御預ケ」られた。