涌谷竹ニ雀 | 月星 | 月に九曜 | 十曜 | 縦三引両紋 |
【千葉氏】【相馬氏】【大須賀氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】
〔ご協力・ご参考〕
伊達定宗 (1578-1652) |
伊達宗重 (1615-1671) |
伊達宗元 (1642-1712) |
伊達村元 (1666-1718) |
伊達村定 (1687-1723) |
伊達村盛 (1715-1736) |
伊達村胤 (1721-1759) |
伊達村倫 (1749-1776) |
伊達村常 (1759-1803) |
伊達村清 (1779-1820) |
伊達義基 (1808-1839) |
伊達邦隆 (1835-1867) |
伊達胤元 (1857-1882) |
(1615-1671)
武石氏十九代当主。涌谷伊達家二代当主。父は伊達安芸定宗。母は黒木肥前宗俊娘(桂昌院天真周高)。幼名は虎松丸。通称は甲斐、信濃、安芸。
伊達安芸宗重胸像 |
次男であった虎松丸は、はじめ天童兵部頼重の家督を継いで天童甲斐頼長と称していたが、寛永16(1639)年に涌谷伊達家に戻り、藩主・伊達忠宗から「宗」を賜って「伊達信濃宗重」を称した。
次男であった彼が涌谷伊達家の家督を継承したのは、兄・宗実が同年8月にわずか二十九歳の若さで急死してしまったためで、彼が涌谷伊達家嫡子と定められ、慶安4(1651)年、父・定宗が隠居すると宗重が正式に涌谷伊達家二万千六百四十石(21,640石)を継承。以降「伊達安芸宗重」と称した。
慶安4(1651)年4月、徳川家光が四十八歳で亡くなり、世子・徳川家綱が四代将軍に就任すると、藩主・伊達忠宗に代わって宗重が祝いの言葉を述べるため江戸城に登った。
東照宮の宗重寄進灯篭 |
承応3(1654)年3月、仙台城の北の丘の上に東照宮を建立。一門重臣たちが灯篭を寄進した。このとき、宗重も二基の灯篭を寄進した。灯篭の銘には「伊達信濃守藤原宗重」とあり、伊達姓を賜って以降、涌谷伊達家は藩主家と同じ藤原姓を名乗ったようである。これが平姓に戻るのは、宝暦5(1755)年5月21日のことで、百年にわたり涌谷伊達家は藤原姓で通していた。
明暦3(1657)年、忠宗から原野を新たに賜り、万治2(1659)年、新藩主・伊達綱宗はその原野の検地を行って二百六十四貫四十二文と定められ、宗重の采地は二万二千六十四貫四十二文となった。この年の12月26日、母(黒木肥前宗俊の娘)が大貫村で71歳にて亡くなっている。法名は桂昌院天真周高。
■亘理家と天童家■
天道頼国――天童頼貞 最上義光
(治部大夫)(修理大夫) (出羽守)
∥ ∥
∥―――――+―娘
∥ |
国分盛氏――娘 +―天童頼澄=+―天童頼重――+――娘 +―亘理宗元
(甲斐守) |(兵部) | ∥ |
| | ∥―――+―娘
伊達稙宗―+―伊達晴宗―+―留守政景―+―伊達宗利 +=天童頼長 ∥
| |(上野介) (武蔵守) (甲斐) ∥
| | | ∥
| +―伊達輝宗―――伊達政宗 | ∥
| |(左京大夫) (中納言) | ∥
| | | ∥
| +―国分盛重―――国分盛氏 | ∥
| | ∥
| +―相馬義胤―――相馬利胤 | ∥
| |(長門守) ↓ ∥ [宮内重條子]
| | +―伊達定宗――――伊達宗重 ∥――天童頼眞――天童成頼==天童頼清―+
| 相馬盛胤―+――娘 |(右近) (安芸) ∥ (修理) (右近) (平大夫) |
|(彈正大弼) ∥ | ∥ |
| ∥―――+―亘理重次―――――――――――天童頼次 |
| ∥ (備後) (肥後) |
+―亘理元宗―――亘理重宗 |
(元安斎) (美濃守) |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―天童頼根――天童倫頼――天童常頼――天童頼益――天童頼宣――天童頼永
(備後) (久蔵) ∥
∥
【宮床伊達家】 ∥
伊達宗規―――伊達宗広――娘
(勝三郎)
◆伊達家略系図◆ |
徳川振姫 +―田村宗良 |
万治3(1660)年8月、藩主・伊達綱宗は不行跡を幕府に咎められて二十一歳の若さにもかかわらず隠居を命じられ、嫡男の亀千代(伊達綱村)が二歳で六十二万石の大封を継ぐ事になった。この時、藩を代表して江戸にのぼり、将軍・徳川家綱にお目見えしている。ただ、数え2歳の幼さで藩政を執ることはできず、幕府は伊達一門の伊達兵部少輔宗勝と田村隠岐守宗良の両名を後見として添えさせた。しかし、田村宗良は伊達宗勝の甥にあたるため、藩政は自然と宗勝の独断となっていった。
この宗勝の専横に憤った田村宗良は屋敷にこもって出仕しなくなったため、宗勝は自身の取巻きを藩政に加わらせ、仙台藩の藩政は完全に宗勝が仕切ることとなった。この状況を見た宗重は、文を宗勝に送って意見をしたが、宗勝は聞き入れることはなく、このことがのちの「寛文事件」に発展していくこととなる。
寛文2(1662)年8月、宗重は嫡男・宗元の妻に伊達弾正宗敏の娘を迎えた。宗敏は岩出山伊達家の二代目で伊達政宗の孫。宗勝の甥にあたる。
寛文5(1665)年、宗重と登米領主・伊達式部宗倫(伊達忠宗の子で田村宗良弟)との間で領地争いがおこった。当時、伊達家は新田の開発に力を注いでいて、境界が判然としづらくなっていたのが原因だったが、この領地境界争いはその後も続き、寛文9(1669)年2月3日、宗倫は自らの主張を書状にしたためて藩に提出した(『伊達式部口上之覚』:『登米伊達家文書』)。
この争いは同年6月、宗重は宗倫に譲歩する形で境界を定めることで一応の決着を見たが、この年の秋、藩政を一手に握る伊達宗勝は、自らの息のかかっている志賀右衛門由清、浜田一郎兵衛重次を使者に、今村善太夫安長、横山弥次郎右衛門元時を目付として宗重のもとに遣わし、
(1)郡境地の三分の一は涌谷伊達家領
(2)郡境地の三分の二は登米伊達家領
と決定した。この登米伊達宗倫に有利な裁決を知った宗重は憤り、寛文10(1670)年、非を糾すように藩に要求したが、執政の伊達宗勝はこの要求を拒否。すでに幕府の島田出雲守守政・妻木彦右衛門頼能・大井新右衛門政直の三名を仲介として老中に結果を報告しているとして受け付けなかった。
藩内の宗勝一派による専横に危機感を抱いた宗重は、幕府に藩政問題を訴えることをほのめかす。これを知った江戸屋敷の茂庭周防良元と片倉小十郎景長があわてて国許に駆けつけ、宗重に境界の諍いを幕府に質す事は幼主の藩政不行き届きとして処断される恐れもあり、亀千代が成長したのちに訴えを起こすべきであると訴えるも、宗重は邪な者たちを今質さねば、幼主の成長までにその奸悪はますます増長するであろうと逆に彼らを説き伏せると、茂庭良元と片倉小十郎は宗重の素願をまとめあげ、12月に島田出雲守ら幕府申次に提出。島田らから老中に上表された。この結果、寛文11(1671)年正月、幕府より宗重へ早々に出府すべしとの命が届き、2月2日、涌谷を発して江戸へ向かった。
2月13日、宗重は麻布の下屋敷(現韓国大使館)に到着し、16日、申次の大井新右衛門の屋敷を訪ね、ここで島田出雲守・妻木彦右衛門とも面会。宗重は自らの主張と諍いの原因になっている境界の図面を示して正当性を訴えたのち帰邸した。そして27日、今度は妻木彦右衛門の邸を訪れ、ここで島田出雲守・大井新右衛門らも同席の中、仙台藩の現状を訴えた。
3月4日、宗重は老中・板倉内膳正重矩の召しに応じて板倉邸を訪問し、同じく老中・土屋但馬守数直が同席の中で訴状の委細を聞かれ、宗重は、藩奉行の原田甲斐宗輔、古内志摩重如、柴田外記意朝は、三名が一心に藩主を支えるべきであるのに、原田甲斐は宗勝に同心して権力を恣にし、藩政を省みないと、伊達兵部宗勝・原田甲斐宗輔の専横を訴えた。
主な伊達安芸派 | 主な伊達兵部派 |
伊達安芸宗重 | 伊達兵部少輔宗勝 |
奥山大学常辰 | 原田甲斐宗輔 |
柴田外記意朝 | 津田玄蕃景康 |
古内志摩重如 | 高泉長門兼康 |
茂庭周防姓元 | 志賀右衛門由清 |
片倉小十郎景長 | 浜田一郎兵衛重次 |
里見十左衛門重勝 | 今村善太夫安長 |
伊東七十郎重孝 | 横山弥次郎右衛門元時 |
蜂谷六郎左衛門可広 | 早川淡路永義 |
渡辺金兵衛義俊 |
3月7日、宗重の訴えが事実であるかどうかを問うため、板倉・土屋両老中は宗重、原田甲斐、柴田外記を板倉邸に召し出して、柴田と原田に事実を問うが、両者の意見の相違はなはだしく、ついに仙台から第三者の古内志摩重如が召還された。
3月21日、江戸に着いた古内志摩は板倉邸を訪問。板倉は土屋とともに古内に仙台藩の藩政状況を問いただしたところ、宗重や柴田外記の申し条とまったく一致したのだ。こうして原田甲斐の申し条は非であるとされた。
3月27日、宗重は板倉邸に召され、次いで大老・酒井雅楽頭忠清邸に召し出された。すでに酒井邸には老中の稲葉美濃守正則、久世大和守広之、土屋但馬守数直、板倉内膳正重矩、大目付の大岡佐渡守忠勝、宮崎助右衛門らが詰めており、仙台藩からは宗重のほか、柴田外記、原田甲斐、古内志摩らが呼ばれていた。
老中らは藩重臣に藩政について問うが、すでに老中たちの中では伊達兵部、原田甲斐一派の専横は動かぬものとの認識があり、原田甲斐の言葉には矛盾が多いとして叱責され下がらされた。こうして宗重らの訴えが認められ、伊達兵部らの藩政の専横は厳しく咎められた。
詮議ののち、宗重は御用部屋を退出して控えの部屋に移ったが、突如、背後から抜刀した原田甲斐が斬りつけた。不意をつかれた宗重はその斬撃をまともに受けたが、気丈にも抜刀して原田甲斐の股を斬りつけた。しかしその傷は深く、ついにそのまま絶命した。五十七歳。法名は見龍院徳翁収沢。
この騒ぎを聞きつけた柴田外記、古内志摩、蜂谷六左衛門可広が原田甲斐に斬りかかった。柴田外記は原田を斬るも自らも負傷し、さらに酒井家の家臣に誤って斬られて絶命。古内志摩、蜂谷六左衛門も負傷したが、古内志摩は島田出雲守とともに原田を討ち取った。
この騒ぎののち、酒井家家臣・関主税は「騒擾は仙台人の起こしたものですでに収まった。御執政方や御有司方はつつがなく、騒ぐことなかれ」と人々を制し、宗重に従っていた亘理善左衛門長信が関主税に宗重の安否を問うと、「不慮の死に遭われ、痛嘆に堪えず。しかし、その述べた所はすべて遺漏なく聞いた」と宗重の死を伝えた。
宗重の遺骸は、事件当日の夜に一門の亘理蔵人重信と村田勘右衛門久時が引き取ったが、このとき酒井家の上田五太夫は亘理蔵人らに、酒井家世子・酒井河内守忠挙や老中の言葉として「安芸殿は不慮の変に遭われた。大変惜しむべき人材をなくした。慎んで遺体に供奉すべし」と伝えたという。
翌28日、宗重の遺骸は芝の東禅寺(東京都港区高輪3丁目)に移されて、住持の大仙和尚によって荼毘に付され、七日忌の供養が執り行われた。そして4月3日、幕府は伊達兵部少輔宗勝・田村隠岐守宗良を藩主後見職の解任ならびに、宗勝の土佐への配流、田村宗良の閉門を命じた。さらに原田家は断絶とされた。ここに寛文事件は一応の決着を見ることとなる。
原田甲斐宗輔屋敷跡 | 原田甲斐屋敷門(荘厳寺山門) |
4月7日、老中・土屋但馬守の家臣・曽根市郎左衛門から、宗重の老臣・亘理善左衛門長信のもとに書状が届けられた。その書状は宗重の手紙で、宗重が藩政を正すべく無私の心で働いていたことを知った土屋但馬守ら老中たちは感嘆し、「一々無比類、可謂日本第一忠義之士、前代未聞也」と激賞し、諸侯の間で回覧されたという。
海雲山見龍寺 |
この日、涌谷へ戻るべく、宗重に随って江戸に出てきていた亘理蔵人重信、村田久時、千石甚兵衛胤香、亘理善左衛門長信ら家臣十四人が遺骨を奉じて江戸を出発。4月15日に涌谷の圓同寺に到着し、4月19日、同寺に埋葬された。法名の「見龍院徳翁収沢」は宗重が江戸へ向かう際に、同寺住持の石水和尚より受けた号謚であり、宗重は死を覚悟で江戸へ向かったことが推測される。圓同寺は宗重の法号にちなんで「見龍寺」に改められ、現在に至っている。
延宝2(1674)年3月27日、藩主・伊逹綱基(のち綱村)は宗重の嫡男・伊達宗元へ「尽忠見龍院」の五字を、宗重の廟の扁額とするようにと贈った。
なお、寛文事件の発端となった登米領との境界争いは、この騒動のあと宗重の主張が認められて境界が定められた。
妹は水沢領主・伊達和泉宗直の妻。伊達和泉宗直は伊達政宗の叔父・留守上野介政景の孫にあたる人物。
~ご協力・参考文献~
坂本氏 | 『佐沼亘理家御系図草案』(享和2年 目々澤新右衛門) 『涌谷伊達家関係資料集』 『平姓千葉一家武石亘理分流坂本氏関係系図並びに史料』 |
臼井D-FF氏 | 長野県武石村の武石氏宝塔フォト |
『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』 | 監修/平重道 発行/宝文堂 |
『亘理家譜』 | 『仙台叢書 第九巻』(平重道 監修 宝文堂) 所収 |