相馬氏惣領 相馬胤頼

相馬氏
代数 名前 生没年 父親 母親 備考
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘 相馬家の祖
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常 畠山重忠討伐軍に加わる
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤  
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱 胤綱死後、継母に義絶される
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏 濫訴の罪で所領三分の一を収公
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳) 幕府に惣領職を主張するも認められず
 7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤 奥州相馬氏の祖
 8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘 足利尊氏に従って活躍
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘 南朝の北畠顕信と戦う
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼  
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤  
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘  
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤 標葉郡領主の標葉清隆と争う
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤 標葉郡を手に入れる
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘 伊達晴宗と領地を争う
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘 伊達政宗と激戦を繰り広げる

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤娘
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤娘
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤娘
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■九代惣領家

相馬胤頼 相馬氏八代 (1324?-1371)

<正室> 不明
<幼名> 松鶴丸
<通称> 不明
<父> 相馬出羽権守親胤
<養父> 相馬弥次郎光胤(実叔父)
<母> 三河入道道中娘
<官位> 従五位下
<官職> 治部少輔、讃岐守
<法号> 大成大居士

●相馬胤頼事歴●

 父は相馬出羽権守親胤。母は三河入道道中娘。養父は相馬弥次郎光胤。幼名は松鶴丸。通称は不明。官途は治部少輔、讃岐守

 松鶴丸胤頼の正確な生年は不明ながら、建武3(1336)年5月20日の光胤『相馬光胤譲状』(『相馬文書』)「養子松鶴丸」「松鶴為甥之上、依有志、養子として所譲与」とあり、この頃にはすでに自らの志を述べるほどに成長していたと推測でき、十歳前後であったと思われる。なお、養父の光胤自身も建武2(1335)年11月20日当時「松犬」と呼ばれており、光胤と胤頼は年齢的にあまり離れていなかったと推測される。

 建武3(1336)年5月20日、光胤から譲られた所領は下記の通り。

●建武3(1336)年5月20日『相馬光胤譲状』によって光胤から胤頼へ譲られた所領

所領 田畠在家等 現在地
下総国相馬郡 粟野村   千葉県鎌ヶ谷市粟野
陸奥国行方郡 耳谷村   福島県南相馬市小高区耳谷
小高村 谷河原十郎後家尼給分田在家 福島県南相馬市小高区小高
彦三郎入道給分田在家 福島県南相馬市小高区小高
盤崎村 釘野在家并山 福島県南相馬市小高区飯崎、北釘野
陸奥国田村庄 新田村   福島県郡山市中田町高倉
七草木村   福島県田村郡三春町七草木

 このうち、田村庄の新田村、七草木村は、松鶴丸には祖母に当たる「参川前司入道宗猷女子藤原氏女」から光胤を通じて譲られたものと推測される。七草木村は元弘3(1333)年6月5日の『地頭代超円着到状』「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」とあり、田村三河前司女子が地頭であったことがわかる。

 松鶴丸の祖父・相馬孫五郎重胤(小高孫五郎重胤)は鎌倉討幕の軍を起こして以来、朝廷側に属して戦っており、元弘3(1333)年11月に赴任してきた十六歳の若き鎮守府将軍・北畠陸奥守顕家のもとで働いていた。しかし、建武2(1335)年6月以降、重胤は朝廷と対立する足利尊氏方に属した。これは、朝廷政治と武家社会の間に矛盾を感じた重胤が、足利尊氏が奥州総大将として陸奥国に派遣した十五歳の足利一門・斯波尾張弥三郎家長に同調したものであろう。

 斯波家長が所領のある陸奥国斯波郡に下向したのは8月末であり、重胤が家長と結びつきを持ったのはこのあたりと思われる。ただ、北畠顕家支配下の多賀国府より「行方郡事、可令奉行条々」「伊具、曰理、宇多、行方郡等、金原保検断事」の重職(建武2年6月3日『陸奥国宣』)であった重胤が足利方につくことは、国府軍との戦いに発展する事は明らかで、相当な覚悟だったことが察せられる。重胤は11月20日には子女達に譲状を発給し、今後に備えていた。

 12月11日、鎌倉に在陣して帰洛の勅命を無視し続けていた足利尊氏が、尊氏追討軍を率いて鎌倉に向っていた新田右衛門佐義貞筥根竹之下に破り、京都に攻め上った。その報を受けた北畠顕家は後醍醐天皇の勅命を奉じ、12月22日に多賀城を出陣して急遽上洛の途に着いた。しかし、北畠顕家上洛に際して相馬家が攻撃された形跡はなく、重胤が家長と結んでいたことは露見していなかったのだろう。

 そして、北畠勢を追撃するように、斯波家長は鎌倉へ攻め下った。この軍勢の中に重胤を筆頭とする相馬一族の姿があった。このとき重胤には次男・光胤や従弟の相馬行胤、一族の相馬胤康らが従っていたが、本拠の小高城の留守が気になったか、建武3(1336)年2月8日(カ)に光胤行胤をはじめとする一族を小高へ戻し、2月18日には小高城の守りを固めることや兵糧の事など事細かに認めた『相馬重胤事書目録』を発給している。

 こうした切羽詰った状況の中、松鶴丸は小高城にいたと思われるが、3月3日『相馬光胤着到軍忠状』光胤が率いた相馬一族の中に「松鶴丸」の名は見られない。おそらく同年代だったと思われる元服前の一族として「相馬満丸」「相馬千代」「相馬松王丸」の名が見える。

 3月22日には北畠顕家の麾下・広橋修理亮経泰が小高城に攻め寄せたが撃退。4月9日にも攻め寄せた北畠勢の国魂行泰を撃退し、光胤は小高城を出て熊野堂などを攻める気概を見せた。しかし、4月16日には片瀬川や鎌倉で奥州総奉行・斯波家長、光胤の父・重胤以下の相馬一族と奥州へ下向してきた北畠顕家勢が合戦し、相馬重胤らは討死を遂げた。

 鎌倉での相馬一族壊滅の報を受けた光胤は、5月20日、「重胤鎌倉にて自害之由承及之、舎兄親胤上洛之後音信不通也、光胤又存命不定」であるという決死の覚悟の上で、松鶴丸を養子として所領を譲り渡した。その際に譲られた所領は前記のとおり。この直後、松鶴丸は小高城を脱出したものと思われる。光胤は松鶴丸に「公私不遂本望者、僧仁なりて各の後生を可訪也」とも伝えており(建武3年5月20日『相馬光胤譲状』)、相馬家滅亡という最悪の事態も視野に入れていたことがうかがえる。そして、その四日後の5月24日、北畠顕家勢が小高城に攻め寄せ、小高城は落城。光胤以下相馬一門は討死を遂げた

 ただし、小高落城の際に戦死をしている相馬姓は光胤と相馬岡田一族数名だけであり、家人の戦死者も光胤と相馬岡田胤俊・長胤の家人のみが記されていることから、落城当時、城内には光胤と一族数名、その郎従が残っていただけと思われる。他の一族は「惣領代」光胤の命により、松鶴丸とともに城から遁れさせたのだろう。

 松鶴丸らは小高落城ののち「隠居山林」したが、翌建武4(1337)年正月26日、松鶴丸は「引率一族」「結城上野入道代中村六郎」が数万で籠もっている熊野堂に攻め寄せている。このきっかけは「幸此御合戦蜂起」で、北畠顕家が霊山福島県伊達市霊山町)に築いた新陸奥国府を、斯波式部大夫兼頼の代官、氏家十郎入道道誠が攻めた戦いである(建武4年正月日『相馬松鶴丸着到軍忠状』)

●建武4(1337)年正月26日熊野堂を攻めた相馬一族

名前 血縁 活躍
相馬松鶴丸 惣領家  
相馬九郎入道了胤 俗名は胤国 建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
相馬九郎五郎胤景 相馬九郎胤国の子 建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂合戦で二人捕らえる。
建武3(1336)年3月27日、標葉孫四郎を討ち取る。
江井御房丸  
相馬小次郎胤盛   建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂合戦で一人捕らえる。
建武3(1336)年3月22日、小高城で一人を捕らえる。
建武3(1336)年3月27日、標葉庄で標葉三郎四郎・長田孫四郎を負傷しつつ捕らえる。
相馬弥五郎胤仲  
相馬弥次郎実胤   建武3(1336)年3月22日、小高城で中間・九郎太郎が負傷。
相馬孫次郎綱胤   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
相馬五郎顕胤 相馬七郎時胤入道の子 建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
相馬小四郎胤時   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
相馬五郎康胤   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る(五郎泰胤)。
相馬又一胤貞   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る(又一胤貞)。
相馬小次郎胤政   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
岡田駒一丸 岡田氏の一族
相馬千代丸   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
岡田主一丸 岡田氏の一族
相馬孫六郎盛胤    建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
相馬孫次郎入道行胤 相馬与一通胤の子 建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
建武3(1336)年3月22日、小高城で、家人・小嶋田五郎太郎が戦死。
相馬五郎胤経   建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。
建武3(1336)年3月22日、小高城で、家人・大畠彦太郎・増尾十郎が負傷。
武石五郎胤通 武石上総権介胤顕の子?
武石四郎左衛門入道の子?
建武3(1336)年2月18日、光胤とともに鎌倉から小高に戻る。

 さらに氏家道誠入道は「相馬惣領松鶴殿」に対し、霊山の東側の「玉野路(相馬市玉野)」での軍功も期待している(建武4年正月27日『氏家道誠軍勢催促状』)。氏家道誠入道は惣領である松鶴丸の父・親胤を差し置いて松鶴丸を「惣領」としているのは、親胤の生死が不明だったことによるものかもしれない。

 この直後、石塔蔵人義房入道が足利尊氏より新任の「奥州総大将」に任じられ、奥州へ攻め下ってきた。この軍勢の中に「俄将軍家京都御上洛之間、御具申、至于今未及下国」で、「上洛之後音信不通」になっていた父・親胤が従っており、2月21日、石塔義房が攻め落とした常陸国の関城茨城県筑西市関城)を出立、北上して敵勢数万を追い散らした(建武4年2月22日『相馬親胤軍忠状』)。そしてこののち、石塔義房とともに親胤は奥州へ帰国し、松鶴丸は親胤と対面を果たした。

 北畠勢によって乗っ取られていた小高城がいつ相馬家の手に戻ったかは不明ながら、3月23日には北畠勢に加わって相馬惣領家と対立していた相馬六郎左衛門尉胤平一族が小高城を「不惜身命塞戦」ったとあり、3月23日までは北畠勢の手にあったことがわかるが、おそらく4月1日までには相馬惣領家が取り戻している。胤平はその後、常陸国を転戦していることから、奥州を追われたのだろう。そんな胤平につき、石塔義房は暦応元(1338)年11月10日、軍勢催促状を発給している(暦応元年11月10日『石塔義房軍勢催促状』)

 さて、親胤以下の相馬一族は、石塔義房入道の指揮のもと、4月1日には楢葉郡八里原を攻めて羽鳥小太郎を追い落とし、翌4月2日には標葉庄小丸城口尾羽で合戦した。その後、相馬勢は小高城に帰還したが、4月9日には小高城に北畠勢が攻め寄せるなど、合戦が続いている(建武4年4月某日『相馬胤時軍忠状』)。松鶴丸がこれらの合戦に加わっていたかは定かではない。

 観応3(1352)年11月22日、親胤が恩賞を求めたことを吉良右京大夫貞家仁木兵部大輔に進めた『吉良貞家披露状』によれば、「子息治部少輔胤頼」が見える。胤頼は観応3(1352)年、陸奥国田村庄で南朝勢が蜂起したとき、真っ先に出陣し、安積郡部谷田に在陣。佐々河、田村、矢柄、宇津峯においても軍功をあらわした。文和2(1353)年5月4日、宇津峯を陥落させたことにより、この宇津峯を本拠としていた鎮守府将軍・北畠少将顕信(北畠顕家弟)は、守永親王(尊良親王王子)を奉じて出羽へ逃れた。

 文和3(1354)年6月1日、胤頼「陸奥国黒川郡南迫」兵糧所として預け置かれた。また、同日、陸奥国竹城保「如元可領掌」との施行状を受けている(文和3年6月1日『石塔左衛門佐義憲』)。この竹城保の地頭職は、相馬余一通胤(胤頼の曽祖父・相馬彦次郎師胤の末弟)が正和2(1313)年11月23日に娘の鶴夜叉に譲った「陸奥国竹城保内長田村内蒔田屋敷地頭職」が、鶴夜叉の養子になった胤頼に譲られたものと推測される。

●相馬系図(『相馬文書』より抜粋)

 相馬胤村―――+―相馬師胤―――相馬重胤―――相馬親胤―――相馬胤頼
(五郎左衛門尉)|(彦次郎)  (孫五郎)  (出羽権守) (治部少輔)
        |
        +―相馬通胤―+―相馬行胤―――相馬朝胤
         (余一)  |(孫次郎)  (次郎兵衛尉)
               |
               +―鶴夜叉――――相馬胤頼
                       (治部少輔)

 延文3(1358)年11月20日、父・出羽権守親胤入道聖心は胤頼に所領を譲った。譲った所領は以下の通り。

●延文3(1358)年11月20日『相馬親胤譲状』によって親胤から胤頼へ譲られた所領

所領 田畠在家等 但し
陸奥国行方郡 小高村    
彦三郎入道給分田在家    
福岡村   寿福寺領のため年貢を納める事
多賀村    
目々澤村 付桜浜  
堤谷村 付浜  
草野内 堰澤山  
村上浜    
吉名村    
太田村 付馬牧山野  
内山総三村 付浜  
那良夫山    
牛越村 付山野  
陸奥国千倉庄 仁木田村    
安倉村    
太倉村    
北草野村    

 これを見ると、下総国相馬郡内の所領をすでに喪っていた様子がうかがえる。建武3(1336)年11月22日、親胤が斯波家長から受けた下総国相馬郡内の所領も喪われている。また、胤頼光胤から譲られた下総国相馬郡粟野村も、胤頼から子息・千代王丸(憲胤)への譲状に見えず、奥州相馬惣領家は戦乱の中で、下総国相馬郡内の所領を完全に失ったと考えられる。なお、一族の相馬岡田家はその後も相馬郡内に所領を持ち続けている。

 胤頼のその後の活躍は文書からみることはできないが、足利尊氏とその弟・足利直義の抗争「観応の擾乱」の余波を受けた奥州足利方の内部抗争の中で、文和3(1354)年に幕府より正式に「奥州管領」に任じられて下向した斯波左京権大夫家兼に属したのだろう。家兼は、かつて胤頼の養父・光胤が小高城に籠もって戦った際に属した斯波兼頼の父である。

 幕府へ「讃岐守」補任を求め、康安元(1361)年8月10日、将軍・足利義詮は朝廷に「相馬治部少輔殿」「讃岐守」に推挙した旨を胤頼に申し伝え、9月18日、胤頼讃岐守に任じられた。

 康安2(1362)年10月(カ?)、胤頼「東海道■■■■検断職」に補任された(康安2年10月[カ?]『斯波直持書下』)。検断職とされた具体的な郡名は文書欠損のため不明だが、建武2(1335)年6月3日『陸奥国宣』に准じれば「伊具、曰理、宇多、行方郡等、金原保検断事」のうち、武石氏が実質領有していた亘理を除いた、伊具、宇多、行方のうちのいずれかであろう。

 貞治2(1363)年7月11日、奥州管領・斯波左京大夫直持(斯波家兼の長男)より「陸奥国宮城郡国分寺郷半分国分淡路守并一族等跡内」の地頭職を給わった。これは、胤頼が有していた「八幡介景朝(跡)」との交換であった。また、8月15日には「東海道■■■■■■職」に補されている。これは、前年に補任された検断職の郡以外の検断職を補任されたと思われる。

 貞治3(1364)年9月11日、「沙弥真季」から「出羽国下大山庄内漆山郷、大■■庄内門田、飯沢、前明■■事」の下地を打ち渡された(貞治3年9月11日『沙弥真季打渡状』)

●貞治3(1364)年9月11日『沙弥真季打渡状』に見える出羽国内に打ち渡された所領

所領(最上郡内) 現在地
下大山庄内漆山郷(下大山庄漆山郷) 山形市漆山
大■■庄内門田(大曾祢庄門田) 山形市門伝
飯沢(大曾祢庄飯沢) 山形市飯沢
前明■(大曾祢庄前明石) 山形市前明石

 相馬家はこのとき出羽国最上郡内にも所領を有したことがわかる。当時、出羽国最上郡には相馬家とは所縁の深い斯波兼頼が入部しており、所領はいずれも兼頼の屋形の近隣であった。また、打ち渡しの「沙弥真季」は兼頼の代官だったと思われる。しかし、この出羽国内の地頭職は次代の相馬憲胤には譲られていないため、所領を移されたのだろう。

 貞治6(1367)年正月25日には、斯波直持より「陸奥国名取郡南方坪沼郷内堀内郷内合■■」を勲功の賞として宛がわれた。

 貞治6(1367)年4月26日、関東管領・足利基氏が二十八歳の若さで病死する。跡は基氏の嫡男・足利金王丸(のちの氏満)が九歳の幼さで継承するが、その二日後の4月28日、「兵■■■(兵部大輔:吉良治家)」から「陸奥国宇多郡代々全領」「陸奥国高城保一族等知行分」の領有を認める旨の施行状が発給された(貞治6年4月28日『吉良治家施行状』)吉良治家は鎌倉府と結びつきが強い人物であり、基氏の死にともなって金王丸が事実上の関東管領となるにあたり、治家を通じて胤頼に改めて所領を安堵したものだろう。

 この直後、胤頼は「讃岐守」を辞した。おそらく基氏の死に関係しているのだろう。そして8月23日、胤頼は嫡男・千代王丸に所領を譲り渡した。

●貞治6(1367)年8月23日『相馬胤頼譲状』に見える所領

所領 所領の種類
行方郡   小高村 重代相伝
目々沢村 付桜浜 重代相伝
     森合田在家一宇 後家分(一期後は千代王へ)
草野内関沢、村上浜 重代相伝
吉名村 当知行
太田村 付馬場桑良夫山
    藤治田在家一宇 後家分(一期後は千代王へ)
福岡村 寿福寺領
小池村
千倉庄内仁木田村 当知行
    安倉村
    太倉村
    北草野村

 嫡男・千代王丸相馬治部少輔憲胤)に所領を譲り渡したのち、文書から胤頼の名は見えなくなっており、おそらくまもなく亡くなったのだろう。

●相馬氏の「一族」「若黨=家人=郎従?」「中間」

名前 名字地 活躍
吉名五郎兵衛尉胤遠 一族 相馬六郎左衛門尉胤平 小高郷吉名村  
目々澤七郎蔵人盛清 若党 相馬孫次郎親胤 行方郡目々澤村 建武3(1336)年2月22日、総大将御宮某の命を受けた親胤の指示によって、某城を守るために派遣される。
須江九郎左衛門尉 給主代か    建武3(1336)年2月18日の『重胤定書』に彼の持つ200石を、籠城に備えるため、小高城に入れるよう光胤に指示している。
須江八郎 家人 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂の戦いで、結城宗広の家人・六郎左衛門入道を捕らえる。
木幡次郎 家人 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂の戦いで戦死。
木幡三郎左衛門尉 家人 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年3月27日、標葉庄の戦いで一人捕らえる。
木幡三郎兵衛尉 家人 相馬小次郎胤顕   建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂の戦いで一人捕らえる。
石町又太郎 家人 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年3月22日、小高城で標葉蒔田十郎を討ち取る。
田信彦太郎 家人 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年3月27日、標葉庄の戦いで標葉孫七郎を生捕る。
同年5月24日、小高城で戦死。
田信乗阿 若党 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年5月6日、宇多庄熊野堂にて戦死。
田信左衛門三郎 若党 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年5月6日、宇多庄熊野堂にて戦死。田信乗阿の子。
五十嵐弥四郎入道 若党 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年5月6日、宇多庄熊野堂にて戦死。
松本四郎 若党 相馬弥次郎光胤   建武3(1336)年5月24日、小高城で戦死。
小嶋田五郎太郎 家人 相馬孫次郎行胤 行方郡小嶋田村 建武3(1336)年3月22日、小高城の戦いで討ち取られる。
小嶋田五郎太郎 家人 相馬又五郎朝胤 行方郡小嶋田村 上記の五郎太郎の子?建武4(1337)年4月10日、標葉庄小丸合戦で負傷する。
小嶋田孫五郎 家人 相馬又五郎朝胤 行方郡小嶋田村 建武4(1337)年4月10日、標葉庄小丸合戦で負傷する。
 某 兵衛四郎 家人 相馬又五郎朝胤   建武4(1337)年4月10日、標葉庄小丸合戦で一人射とる。
江多利六郎入道 家人 相馬又五郎朝胤 行方郡江垂村 建武4(1337)年4月10日、標葉庄小丸合戦で戦死。
小野弥三郎 家人 相馬又五郎朝胤   建武4(1337)年6月27日、行方郡小池城の戦いで城内に懸け入って奮戦し、敵を追い散らした。
田中八郎三郎 若党 相馬孫五郎長胤   建武3(1336)年5月24日、小高城で戦死。
田中(?)三郎二郎 家人 相馬孫五郎長胤   建武3(1336)年3月22日、小高城の戦いで討ち取られる。
大畠彦太郎 家人 相馬五郎胤経   建武3(1336)年3月22日、小高城の戦いで負傷。
増尾十郎 家人 相馬五郎胤経 下総国相馬郡増尾村 建武3(1336)年3月22日、小高城の戦いで負傷。
吉武弥次郎 若党 相馬十郎胤俊   建武3(1336)年5月24日、小高城で戦死。
青田孫左衛門尉祐胤 家人 相馬助房   重胤の奥州下向に従ったとされる宿老の一人。
建武3(1336)年3月3日、光胤に従って鎌倉から小高に帰還。
東条七郎右衛門尉 家人 相馬助房   建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂にて一人生捕る。
橘内新兵衛尉光胤 郎従 相馬六郎左衛門尉胤平   建武4(1337)年8月22日、常陸国久慈東小里郷内の佐竹・石川氏との戦いで先駆けし、二階堂五郎の首をとる。
幡差平七助久 郎従か 相馬六郎左衛門尉胤平   建武3(1336)年12月23日、高野郡内矢築宿の戦いで北朝方に小耳を射られる。
彦四郎家守 中間 相馬六郎左衛門尉胤平   建武4(1337)年3月23日、小高城に攻め寄せた際、負傷する。
五郎太郎 中間 相馬九郎胤国   建武3(1336)年3月22日、小高城の戦いで討ち取られる。
九郎太郎 中間 相馬弥次郎実胤   建武3(1336)年3月22日、小高城の戦いで負傷。

※「若党」=「家人」


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