千葉介守胤

武蔵千葉氏

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千葉胤賢
(????-1455)
千葉実胤
(1442?-????)
千葉介自胤
(????-1493)
千葉介守胤
(1475?-1556?)
千葉胤利
(????-????)
千葉胤宗
(????-1574)
千葉直胤
(????-????)

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千葉介守胤(1475?-1556?)

生没年 文明7(1475)年?~弘治2(1556)年11月8日?
通称 不明
千葉介自胤
某氏(龍興院殿了室覚公大姉)か
某氏
官位 不明
官職 不明
幕府役 (千葉介)
所在 武蔵国下足立郡淵江郷
法号 總泉寺殿長山昌撤
墓所 妙亀山総泉寺

 武蔵千葉氏四代。千葉介自胤の子。母は不明。守胤は「千葉介」を自称し、おそらく下総国佐倉の千葉介勝胤とは対立関係にあったが、勝胤と同様に和歌についても強い関心を持っていた(『再章草』)。守胤は下記のように、東下野守常和を通じて、京都の三条西実隆に和歌の添削を依頼している。これは、佐倉の地方歌壇に対し、古今伝授の大家である「東野州」の子息かつ古今伝受されている東下野守常和を擁し、中央歌壇とも繋がることで、千葉介勝胤へ対抗意識をあらわしているのかもしれない。

○永正17(1520)年9月2日条(『再昌草』)

 千葉介守胤、百首歌よみて、合点の事申とて、つヽみ紙に歌侍し、これより浦紙に、
 
  としふかきおもひもさそとあしたつの 心しらるヽわかのうら風
 
 同妻、百首歌、おなしく歌侍し
 
  藻しほ草まきれぬ玉の数々は ひろひのこすもあかぬ光を
 
 東下野守常和、同前
 
  代々の跡に和歌のうら波かけて猶 神のまもらん末をしそ思

 この東下野守常和は、若い頃から相模国芦名に住んでいたが、当時ここは三浦氏の支配領域となっていることから、これは常和の父・東下野守常縁の門人とされる三浦義同入道道寸との私的関係によるものであろう。しかし、伊豆の伊勢宗瑞が相模国に勢力を広げ始め、三浦道寸との間で対立が深まっていく。永正7(1510)年7月には三浦勢が伊勢方の権現山城を攻め落とすなど、三浦半島から進出していくが、伊勢氏は堅実に地盤を固めて三浦氏の疲弊を待ち、永正9(1512)年8月、相模国府中に近い岡崎城を攻め落とすと、三浦道寸と嫡子・三浦荒次郎義意が籠もる三浦半島先端の新井城を攻め立てて、永正13(1516)年7月11日、三浦道寸を自害に追い込んで三浦氏を滅ぼした。常和が三浦半島を去って千葉介守胤を頼ったのはこのような経緯があったためであろう。

 永正17(1520)年7月頃、常和は弟で建仁寺住持の常庵龍崇(常和弟)を通じて、三条西実隆へ「千葉介守胤」と「同妻」と自分の詠草合点の依頼を送り、8月4日、常庵龍崇がその書状を実隆の屋敷にもたらした。三条西実隆はその詠草に合点を付けて、9月2日にはすでに終わり(『再章草』)、翌9月3日、「関東返事東下野守」を認めて、百人一首の歌とともに常庵龍崇へ戻し(『実隆公記』)常庵龍崇を通じて常和へと届けている。

 なお、文書にも見えるとおり、守胤の妻も和歌を嗜んでおり、おそらく幼い頃から和歌に親しむ家に生まれた女性であると思われる。守胤の妻は東常和の娘である可能性もあろう。武蔵千葉氏と東氏の関係は、守胤の父・千葉介自胤東常和の父・東常縁がともに下総千葉氏と戦ったころから始まったと思われ、その交流がそれぞれの子・千葉介守胤と東常和にも引き継がれたと考えられる。

●下総千葉氏、武蔵千葉氏の関係

(番号は「千葉介」の就任順番。赤:武蔵千葉介青:下総千葉介緑:就任疑問

+―馬加康胤―――+?=岩橋胤輔――――⑤千葉介孝胤――⑥千葉介勝胤
|(陸奥守)   | (千葉介?)   (千葉介)   (千葉介)
|        |
|        +―千葉胤持
|          

+―①千葉介兼胤―+―②千葉介胤直―+―③千葉介胤将
  (千葉介)  | (千葉介)  | (千葉介)
         |        |
         |        +―④千葉介胤宣<胤直(父)、胤賢(叔父)とともに、馬加康胤に討たれる>
         |          (千葉介)
         |
         +―千葉胤賢―――+―①千葉介実胤
          (中務丞)   | (七郎)
                  |
                  +―②千葉介自胤――③千葉介守胤
                    (千葉介)   (千葉介)

 また、その三年後の大永3(1523)年9月には、武蔵国淵江「東下総守守胤」から三条西実隆へ和歌が届けられている(宮内庁書陵部『再昌草』)。この当時、東氏系譜上「下総守」であって「胤」のつく人物は「東下総守尚胤」がいるが、『再昌草』の記載の「守胤」は千葉介守胤との混同であろう。また、同じく「求浄斎素安」も実隆へ歌を送っているが、この「素安」は系譜及び『二条家冷泉家両家相伝次第(『中世歌壇史の研究』)から、東常和であることがわかり、常和と尚胤はともに武蔵国淵江の千葉介守胤の支配領域近辺にいたことがわかる。

○『再昌草』大永3(1523)年12月10日条詞書(宮内庁書陵部蔵)

 大永三年十二月十日
 
  武蔵国淵江より、東下総守守胤書状に 九月状也
 
 あつまちや風のたよりのことの葉は 行ゑいかにといつかきかまし
 
  返し 十二月十遣也
 
 ことの葉はめにみぬ風の使ありと 聞わたりてそ月日へにける
 
  同求浄斎素安
 
 思いつることの葉なくは月も花も 袖にやつして年はへてまし
 
  返事
 
 思やれいまは老木の苔の袖 花も紅葉もわすれはてにき

 なお、この「武蔵国淵江」とは、現在の足立区北部一帯、舎人地域の東から南側に相当する一帯であるが、ここは下記に見える通り、「千葉殿」の知行地の過半を占める(ただし春松院殿:氏綱の代に不入分はこの知行高から除かれているため、実際の知行地はこれを上回っている)本拠地となっていたことがわかる。

●『小田原衆所領役帳』(塙保己一編『続群書類従 第25輯上』続群書類従完成会)

     一 千葉殿

  八拾貫文    江戸  赤塚六ヶ村 (板橋区赤塚付近)
  四拾貫文    同   新倉    (和光市新倉)
  廿貫文     小机  上丸子   (川崎市上丸子)
  卅五貫文    葛西  上平井   (葛飾区新小岩)
  百八拾五貫文  下足立 淵江    (足立区保木間淵江)
  卅五貫文    同   沼田村   (足立区上沼田)
  卅貫文     同   伊興村   (足立区伊興)
  拾五貫文    同   保木間村  (足立区保木間)
  拾五貫文    同   専住村   (足立区千住)
  六貫文     同   三俣    (墨田区墨田五丁目)
  拾貫文     上足立 内野郷   (さいたま市大宮区内野)
  三貫文     同   大窪村   (さいたま市桜区大久保領家周辺)
  一貫文     同   大多窪   (さいたま市緑区太田窪)

    以上 四百七拾五貫文

   春松院殿様御代より高除不入 於自今以後一切不被成候 
   但御人数者 其改可有之

●武蔵千葉氏の知行分(氏綱代に定められた不入分は除く)と被官二名(木内、円城寺)の知行分

郷等 知行比率(%) 千葉殿
知行比率(%)
領主
武蔵国 豊島郡 赤塚郷 不明(六か村) 80貫文 16.8776 16.8776 千葉殿
千束郷 石浜今津 22貫480文 (32.602)   木内宮内少輔
  上野 18貫220文 (35.572)   円城寺
新倉郡 新倉(郷?)   40貫文 8.4388 8.4388 千葉殿
橘樹郡 (丸子郷)上丸子(分)   20貫文 4.2194 4.2194
下総国 葛飾郡 上平井(郷)   35貫文 7.3840 7.3840
  堀内 45貫文 (66.686)   木内宮内少輔
武蔵国 下足立郡 淵江(郷)   185貫文 39.0295 60.3976 千葉殿
(淵江郷) 沼田村 35貫文 7.3840
伊興村 30貫文 6.3891
保木間村 15貫文 3.1646
(淵江郷?) 専住村 15貫文 3.1646
(淵江郷?) 三俣 6貫文 1.2658
上足立郡 内野郷   10貫文 2.1097 2.9536
  大窪村 3貫文 0.6329
  大田窪 1貫文 0.2110
荏原郡 六郷(保) 鎌田 20貫文 (39.047)   円城寺
多東郡   石田 10貫文 (19.523)  
  道宗分 3貫文 (1.9524)  
合計(千葉殿) 474貫文      
合計(木内宮内少輔) 67貫480文      
合計(円城寺) 51貫220文      

 「淵江」の貫高は他の知行地と比べて極めて高くなっており、赤塚郷の「赤塚六ケ村」と同様、沼田村以下を除いた淵江郷内の知行地をまとめたものであろう。淵江郷など下足立郡の知行地の合計は全体の約六割を占め、赤塚郷は二割強である。赤塚郷は、長禄4(1460)年頃に堀越御所執事・渋川右衛門佐義鏡が実胤の兵糧料所とするよう政知に「頻申」して許可されたもので、武蔵千葉氏の最初の根本知行地と変質していったものである。

 その後、武蔵千葉氏は淵江郷を与えらえれ、その地へ本拠を移している。この『小田原衆所領役帳』記載の「千葉殿」知行地は、知行年代順に記載されていると思われ、父の自胤は明応2(1493)年12月6日、「武州三間田ニテ」没していることから(『本土寺過去帳』)、淵江郷の諸村を知行したのは自胤代であろう。自胤は兄・実胤の知行地であった赤塚郷を継承して菩提寺の松月院を建立。入間川沿いに淵江郷、三俣、石浜を繋ぐルートを確立させたのであろう。なお、現在の荒川(荒川放水路)沿岸北側に幅七メートルもの掘割を廻らした城郭(中曽根城)が発掘されているが、守胤の常駐した城郭であったかは不明。

 赤塚郷の浄蓮寺に伝わる『浄蓮寺過去帳』によれば、「天文六年(1537)」の12月27日に亡くなった「宗雄 千葉介」が見え(『浄蓮寺過去帳』)、さらに天文14(1545)年9月11日に亡くなった「日香 千葉介殿御内」もある。彼らは三条西実隆に和歌の添削を依頼した守胤とその妻に相当するとみられる。法名は總泉寺殿長山昌撤。石浜に妙亀山総泉寺を建立しており、菩提寺としている。なお、総泉寺は江戸期には久保田藩佐竹家の菩提寺となるが、現在は板橋区へ移転している。

 一説には、盛胤(=守胤?)は千葉実胤と上杉顕房娘との子「中務大輔守胤」であって、臼井俊胤の養子となって臼井氏の家督を継いだともされるが、伝承の域を出ない。


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