―― | 初代 | 二代 | 三代 | 四代 | 五代 | 六代 |
千葉胤賢 (????-1455) |
千葉実胤 (1442?-????) |
千葉介自胤 (????-1493) |
千葉介守胤 (1475?-1556?) |
千葉胤利 (????-????) |
千葉胤宗 (????-1574) |
千葉直胤 (????-????) |
(????-1574)
生没年 | 文明7(1475)年?~天正2(1574)年正月 |
通称 | 次郎 |
父 | 千葉胤利? |
母 | 不明 |
妻 | 不明 |
官位 | 不明 |
官職 | 不明 |
幕府役 | 不明 |
所在 | 不明 |
法号 | 不明 |
墓所 | 不明 |
武蔵千葉氏五代。四代千葉胤利の子。通称は二郎。「胤昭」「治胤」とも。
家老・木内上野介は武蔵千葉家の家政を取り仕切っていた人物だったが、永禄7(1564)年正月の国府台の戦いで北条軍の先陣として出陣し、里見勢の里見民部・正木時忠らと戦い、討死した(『異本小田原記』).。その子と思われる木内宮内少輔は武蔵千葉家の家宰になったという。
天正2(1574)年正月、古河公方・足利義氏の宿老で関宿城主・簗田持助が北条氏に反旗を翻したため、胤宗は黄色の陣羽織をはためかせ、組頭の江戸遠山氏に従って関宿城に攻めこんだが、持助の家臣・菊間図書と組み打ちして討死を遂げた(『異本小田原記』).。
胤宗を討った菊間図書は、胤宗の陣太刀・甲冑・陣羽織を戦利品として手に入れ、天正18(1590)年、松平康元が関宿城主になるとこれらを持参して康元の家臣となった。
◎足利晴氏(古河公方)の支配家:天文年中◎
長尾但馬守政長(足利) | 小田讃岐守氏治(小田) | 壬生下総守綱房(鹿沼) | 真壁右衛門尉氏幹(真壁) | 小山七郎政昭(祇園) |
結城左衛門督政勝(結城) | 水谷幡龍斎(久下田) | 山川讃岐守勝範(山川) | 多賀谷下総守政経(下妻) | 簗田中務大輔政信(関宿) |
水谷兵部大輔正持(下館) | 相馬小次郎治胤(守谷) | 千葉介利胤(千葉) | 一色義直(幸手) | |
高 修理頭(家老職) | 一色右衛門佐(家老職) | 三浦左京大夫(家老職) | 二階堂主殿頭(奥家老職) | 鳥見主計(侍大将) |
小池肥前守(侍大将) | 中根帯刀(侍大将) | 佐藤新兵衛尉(侍大将) | 布施左衛門尉(侍大将) | 梶原平太夫(侍大将) |
◎足利国朝(古河公方・足利義氏の養嗣子)が下野喜連川に移ったときに従った家臣
高 修理頭 | 伊賀金右衛門 | 相馬靫負 | 渋江弥五郎 | 梶原平右衛門 | 堀江彦右衛門 | 印東内記 | 柴田 某 |
福田 某 | 後藤内蔵助 | 大草茂右衛門 | 高塩 某 | 星 某 | 高橋 某 | 石崎 某 | |
里見主馬 | 高城左衛門 | 浅沼友左衛門 | 水戸 某 | 武田一郎右衛門 | 海老名 某 | 佐藤 某 | 土屋織部 |
小俣 某 | 大谷 某 | 江戸 某 | 芦屋 某 | 一色刑部 | 相木与右衛門 | 石塔 某 | 中村四郎兵衛 |
椎木 某 | 伊賀伊勢守 | 鴻野修理 | 山名豊前守 | 国井 某 | 山名采女 | 逸見三郎 |
◆『異本小田原記』一(『北区史』所収)
◆『異本小田原記』二(『北区史』所収)