室町期 粟飯原氏

粟飯原氏

平良兼流粟飯原氏千葉氏流粟飯原氏その後の粟飯原氏各地の粟飯原氏

〇室町中期~後期の粟飯原氏


◆室町中期~後期の粟飯原氏◆

 応永17(1410)年、下総国の「泉水、椎名、萩迫」に知行地を有する「粟飯原六郎」「墨」「奉免」に所領を有する「粟飯原三郎」などが見える『香取社造営料足内納帳写』

 亨徳4(1455)年、千葉介胤宣千葉介胤直入道常瑞らが、足利成氏に荷担した一族の馬加陸奥入道常義原越後守胤房に討たれたとき、胤直の弟・中務胤賢入道に従った粟飯原右衛門尉がいた。胤賢は兄・千葉介胤直入道とともに志摩城に篭城し、志摩落城時に南の小堤城へ逃れて馬加・原勢に抵抗して自害したが、このとき胤賢の子、千葉七郎実胤千葉自胤兄弟は千葉宗家の直臣である曽谷氏大野氏らのいる八幡庄へと落ち延びた。そして八幡庄市川城にこもって馬加・原勢に対抗し、その落城後は上杉氏を頼って武蔵へわたった。このとき、実胤自胤らには重臣の木内・円城寺・粟飯原・鏑木氏などが従ったという(『応仁武鑑』)

 粟飯原氏は平安末期からの本拠地・下総国香取郡小見川の領主として大きな勢力を持っており、千葉介の重臣としても活躍していた。千葉介勝胤が庇護した歌人・衲叟馴窓の私家集『雲玉和歌集』{永正11(1514)年編纂}には、幡谷加賀守胤相円城寺道頓海保丹波守幸清とならんで粟飯原民部少輔信尊が名を連ねる。

 粟飯原豊後入道浄泉印東庄伊篠北方村(酒々井町伊篠)を菩提所とした周心院などの扶持とする旨を、明応4(1495)年11月9日、千葉介入道常輝(千葉介孝胤)が認可した(『浄泉寺文書』)。浄泉寺は、この粟飯原豊後入道浄泉の法名にちなんで建立された寺院である。

 また、永正6(1509)年9月28日には千葉介入道輪覚(千葉介勝胤)が、粟飯原右衛門三郎「実父左近将監遺跡」である「下金山并松崎郷神宮寺(成田市下金山・松崎玉造)」を先例の通り知行を認め、広倉寺領である印東庄伊篠北方村(酒々井町伊篠)については、周心院に寄進することを認めた(『浄泉寺文書』)。ここに見える粟飯原右衛門三郎の父・左近将監とはどのような関係にあるかは不明だが、ともに伊篠村北方を周心院に寄進しているところから、かなり近い親族にあたると思われる。天正17(1588)年には「粟飯原豊後入道浄永」の名が見えるが(『木内文書』)粟飯原豊後入道浄泉の末裔であろう。

 天正8(1580)年正月28日、古河公方・足利義氏のもとに年頭の挨拶に訪れた「粟飯原孫二郎」がいた。同日、「千葉邦胤」「太刀」「白鳥」を持って義氏のもとを訪れており、孫二郎は邦胤とともに古河を訪れたか。この翌年の天正9(1581)年正月19日、同様に「粟飯原孫二郎」が義氏を訪れ、翌天正10(1582)年正月18日、「粟飯原左衛門大夫」が邦胤とともに古河を訪れている。この「粟飯原左衛門大夫」は前年、前々年の「粟飯原孫二郎」と同一人物であろうと思われ、粟飯原左衛門大夫保宗であろうと思われる。

芳泰寺
芳泰寺(森山城麓)

 また、伝説では室町時代後期、粟飯原胤次源公入道)が活躍したとされ、その子・粟飯原常次は父といさかいを起こし、従弟の金田弥三郎正興とともに相模国に出奔してしまった。胤次はやむをえず天文16(1547)年、北条氏康の九男・粟飯原出雲守光胤を養子に迎えたという。ただし、光胤のことは北条氏のどの系譜にも記されていないため、伝承か。その後、常次が胤次に謝罪したため、光胤は自ら相模国へ戻っていくが、常次は光胤を呼び戻して養子として家督を譲った。光胤は千葉介胤富の重臣として活躍していたが、天正16(1588)年、急病に倒れた光胤は千葉介邦胤の次男・粟飯原俊胤を養子に迎えて家督を譲り、5月5日に病死。通性院芳泰寺千葉介胤富が妻・通性院芳泰を弔った寺。また、東胤頼夫妻が葬られていると伝わる)に埋葬された。

 俊胤は粟飯原家の家督をついで「粟飯原孫平」を名乗り、小見川城から東庄森山城に移ったという。ただし、森山城に関する文書には、原若狭守親幹海上胤保を筆頭に海保・石毛・岡野氏といった名は見えるものの、粟飯原の名は見えないことから、俊胤が森山城に移ったというのは伝承か。

 天正19(1590)年の小田原の戦い当時、母や兄・千葉新介重胤とともに小田原城に人質として入城したとされ、小田原落城と同時に城も領地も失い、佐倉城下に母子で隠棲したと伝えられる。その後、母・岩松氏が秀忠夫人に仕えることになったため、岩松氏は江戸城に出仕するが、重胤俊胤は佐倉に住み、慶長3(1598)年、二十一歳になった俊胤は佐倉城主・武田信吉に仕えることになったという。信吉が常陸国水戸藩主として水戸へ移封となると、これに従った。 

 千葉介利胤の娘は粟飯原常宣助右衛門)に嫁いでいるが、彼女は粟飯原氏没落ののち、領地の小見川郷に住み、寛永3(1626)年10月23日に83歳で亡くなった。法名は新福院梅林清香大姉。ただ、彼女の夫である「粟飯原常宣」は祖母の大叔父にあたり、年代的に開きがある(→粟飯原系譜2)。彼女は没年から逆算すると天文3(1534)年生まれということになるが、彼女の弟・千葉介親胤の老臣には「粟飯原源公入道」がおり、その弟が彼女の夫・粟飯原常宣であることから、常宣はこのころまで存命であった可能性がある。


トップページ粟飯原氏 > 各地の粟飯原氏

●各地の粟飯原氏

◆肥前粟飯原氏◆

 おそらく千葉介頼胤もしくは千葉新介宗胤の肥前下向に随ったと思われる一族で、肥前千葉氏の居城である、牛頭山城(千葉城)・晴気城・牛尾城の三城が交わる要衝・平井城(現在の小城町中心部付近)を守っていた。おそらく肥前千葉氏の重臣であったろうと思われるが、室町時代後期、千葉氏が竜造寺家の支配下に入ると竜造寺家の家臣となる。『岩蔵寺過去帳』のなかに応永12(1305)年11月3日に没している「栗原胤清」という人物が見えるが、彼は平井城の西・栗原村の領主か?

 永禄5(1563)年初春、大友義鎮(大友宗麟)が竜造寺氏に肥前国主の座を追われた少弐政興を擁立して挙兵した。義鎮は島原半島の日江原城主有馬晴純入道(仙岩)と連絡をとって竜造寺氏を挟み撃ちにする計画を立て、晴純は子・有馬義貞を藤津郡に進駐させ、さらに波多鎮(上松浦党)・大村純忠(大村城主)・多久宗利(多久城主)・西郷純尚(伊佐早城主)・平井経治(須古高城主で少弐一族)らが有馬勢に荷担した。

 これに竜造寺隆信は3月17日、千葉胤連(小城城主)、鴨打胤忠徳島胤時(芦刈城主)、持永盛秀(持永城主)、粟飯原宮内少輔(平井城主)、空閑刑部左衛門(西郷城主)、橋本兵部少輔(津野城主)らを有馬勢が船から上陸するであろう港町・小城郡右原に派遣し、6月下旬、策略によっておびき寄せられていた有馬勢大将・島原弥七郎が港である柳津留に上陸するところを討ち取り、有馬勢は壊滅した。このため有馬方についていた諸豪族も次々に竜造寺方に寝返り、少弐一族で有馬勢の中心でもあった平井経治も竜造寺氏と縁組をしたことで、少弐政興再興の野望はいったん潰えた。

 退却した有馬晴純は、重臣・島原弥介を大将とした軍勢を7月2日、ふたたび小城郡横辺田まで出兵させた。竜造寺隆信はふたたび小城郡内の持永盛秀持永長門守持永清兵衛粟飯原宮内少輔粟飯原新七郎空閑刑部左衛門橋本兵部少輔峰内蔵丞峰民部少輔峰甚左衛門峰次郎兵衛尉らを派遣し、有馬晴純は猛攻を見せたものの敗れてついに退却した。


◆阿波粟飯原氏◆

 細川氏阿波入部軍監として随従して阿波国へ入った粟飯原氏がある。 細川陸奥守顕氏が建武4(1337)年、阿波・讃岐守護職となって以来、細川一族は阿波・讃岐・土佐・伊予の四国全域の守護職となっていった(伊予守護はのち河野氏)。粟飯原氏については、貞和3(1347)年から2年間、「幕府政所執事」という、幕府最中枢の長官になっている粟飯原下総守清胤があり、この一族が下っていったものか。

 阿波粟飯原氏の当主が明治期に作成した系譜では、古代氏族の粟国造であった粟凡直の子孫とする。ただし粟飯原氏に伝わる系譜及び家紋、伝わる什物などから、古代氏族末裔説はあくまで伝承であり、千葉氏流粟飯原氏流である事は間違いないだろう。この系譜についての論文でも古代氏族と粟飯原氏との接点については否定的である(『阿波国一宮社と「国造」伝承』)

 しかし、幾流かある阿波粟飯原氏の系譜はいずれも錯綜していて、確かなことはわからない。系譜上では、細川持常に仕えたという千葉大炊助胤知がおり、彼が細川氏に従って阿波に移っていったのかもしれない。彼の孫・粟飯原治部胤興細川政之に仕え、その子・粟飯原左京亮教胤は、主君・細川之持から「之」字を給わって「之胤」を称したという。細川氏没落の後は三好氏に仕えたとされる。

 また、別の系譜では、千葉太郎兵衛基胤という人物を祖とするとされ、彼の子孫・粟飯原内記清常が足利家に仕え、その子には粟飯原弾正保胤粟飯原太左衛門立胤がいたという。立胤は四代将軍・足利義持に仕えたとされる。奉公衆ということか。

 保胤の孫・粟飯原兵衛尉近胤細川持常に仕え、赤松氏追討戦の功績によって桐紋の使用を許されたという。赤松氏との戦いとは、嘉吉元(1441)年7月の赤松満祐(六代将軍・足利義教を殺害した)との戦いであると思われる。その子・粟飯原平十郎俊胤細川讃岐守義春に仕え、その子・粟飯原右近泰胤細川政之に仕えた。妹は高輪城主粟飯原下総守常親の妻となった。

 泰胤の子・粟飯原平内左衛門昌胤細川之持に仕えた。そしてその子・粟飯原平之丞正胤細川持隆に仕えたのち三好氏に属した。

 天正10(1582)年5月、右大臣・織田信長は三男・神戸信孝を総大将とした四国征討軍を起こして河内国岸和田城に集め、副将・丹羽長秀も大坂に軍を進めて、先鋒として三好笑岩入道を阿波に派遣して、勝瑞城に拠って長曾我部元親の軍勢と対峙した。阿波の諸豪族はすでに織田勢に加わっており、長曾我部勢もうかつに阿波に攻め込むことができずにいたが、6月2日、京都本能寺において信長が重臣・明智光秀によって攻め滅ぼされたことから、四国の三好勢も壊滅。笑岩はただちに兵を河内国へと戻したため、8月、長曾我部元親は2万余の大軍をもって阿波に侵攻。その主だったものは長曾我部信親(元親嫡子で、烏帽子親は信長)、香宗我部親泰(元親弟)、長曾我部新左衛門尉(親興?元親従弟か)らで、28日には軍を二手に分けて南北から阿波に攻め込んでいった。

 三好勢もこれに直ちに反応し、十河存保が5千余の軍勢で勝興寺城をかため、2千を先陣として城外・中富川に川砂利で陣地を築き、鉄砲隊を前面に押し出して長曾我部勢を待ち構えた。この三好勢には阿波各地の諸豪族が参加しており、戦いは激烈を極め、長曾我部勢の一方の大将・香宗我部親泰と存保家老・矢野伯耆守虎村が一騎打を演じるほどの接戦が繰り広げられている。親泰は虎村の槍を内腿に受けるも虎村をつきふせて討ち取った。この戦いで、高輪城(名東郡国府町)の粟飯原平之丞(粟飯原正胤)が討死を遂げたと伝わる。

◇三好氏略系譜◇

⇒三好之長――長秀―+―元長――+―長慶―――――義興
(喜雲)      |(海雲) |
          |     |
          +―康長  +―義賢―――――長治
           (笑岩) |(実休)
                |
                +―安宅冬康 +―三好義継――長元
                |      |
                |      | 
                +―十河一存―+―十河存保――存継

 ただこの直後、羽柴秀吉の四国遠征で長曾我部元親は大敗し、ついには降伏して土佐一国の一大名とされ、伊予・讃岐・阿波はすべて没収されてしまう。そして天正13(1585)年、蜂須賀家政が阿波一国を与えられ、阿波国主として入部すると、家政は土豪層の所領をすべて没収し、改めて与えるという形をとった。この措置に強い反発をもった湯浅十郎左衛門尉(仁宇山城主)・由岐備中守(山口城主)は一度は家政に従ったものの、ふたたび挙兵。これに家政自ら出陣して圧力をかける一方、帰服した豪族・服部因幡守敬元の意見を聞いて説得にも乗り出しているが、これに応じなかったため、重臣・山田織部佐宗重に命じて仁宇山城を攻め落とした。さらに同じころ名西郡大粟山森藤上野介知保も謀反を起こしており、こちらには樋口内蔵助正長が派遣されて平定された。知保は逐電しているが、家政は森藤家南北朝以来の勤皇の家柄であることを知ると、知保の弟・伊賀守知隆を召出して家名を継がせ、さらに森藤の乱鎮圧に協力した住友彦五郎住友五郎右衛門伊澤志摩守粟飯原源右衛門上野長左衛門尉には家政から感状が贈られている。粟飯原源右衛門千葉介氏胤の子とされる粟飯原満胤の五代の孫・粟飯原源右衛門清胤のことで、この功績によって名西郡上山村「政所(まどころ)」となった。

 清胤の長男・粟飯原源右衛門則胤政所役を継承、慶長19(1614)年には「留守居役」を仰せつかる。延宝3(1675)年、上山村は上分、下分の二つの村に分かれ、則胤の系統は下分の庄屋を務めることとなった。則胤の孫・粟飯原源右衛門佐胤は正式に苗字帯刀を許されている。この系統はとくに「三日月家」と呼ばれ、名士として尊敬を集めた。

 清胤の次男・粟飯原庄太夫倶胤もまた粟飯原家の一族として尊重され、その子・粟飯原太郎兵衛宗道の代に上山村上分の庄屋となり、「お東さん」と呼ばれ、代々庄屋役を務めて明治に至った。

 現在、徳島県名西郡神山町下分字栗生野にある「粟飯原家住宅」は宝永7(1710)年に建てられた粟飯原庄太夫家の住宅。県内最古で、阿波地方に珍しい六間取りの住宅であり、奥村家住宅(板野郡藍住町徳命)、福永家住宅(鳴門市鳴門町高島)、長岡家旧宅(美馬郡脇町大字猪尻)、田中家住宅(名西郡石井町藍畑)とならんで国指定の重要文化財となっている。


◆若狭粟飯原氏◆

 鎌倉末期、執権・北条相模守高時が守護職をつとめる若狭国「今富代官」である「粟飯原入道道圓」の名を見ることができる(『若狭国税所今富名領主代々次第』)

 元亨4(1324)年10月に行われた北条貞時十三回忌の際に、「禄役人」として粟飯原五郎左衛門尉常忠の名が見え、他の録役人「合田」「尾藤」「本間」「五大院」はいずれも有力御内人として知られる氏族であることから、粟飯原氏も北条氏嫡流=得宗家の家臣(御内人)であると考えられる。若狭国の「今富代官」として見える「粟飯原入道道圓」も執権・北条高時(貞時の嫡男)の御内人で、若狭国に赴いていたことが推測される。

 10月27日、幕府の諸御家人は参列した公卿らにそれぞれ品を進呈した。石岡九郎中納言・三条公雅()に鹿毛の馬一頭銀剣一振を納めているが、その際の御使は粟飯原宮内左衛門尉である。近衛実香中納言)に品を進呈した千葉介貞胤の御使となったのは、合田四郎である。ほかに「足立」「本間」「諏訪」「五大院」「尾藤」氏など、御使はすべて御内人が勤めていた。また、鹿毛の馬一頭と銀剣一振を奉納した粟飯原左衛門入道の名も見ることができる。

 若狭粟飯原氏のその後は不明だが、おそらく室町時代は武田氏に仕えたか。一方、江戸時代には、萩藩士に粟飯原氏がおり、若狭武田氏が安芸・丹後守護職を兼ねた武田大膳大夫元信のころ、安芸にうつったのかもしれない。幕末の安政2(1855)年、萩藩士に34歳の粟飯原右衛門兵衛が見え、その子に粟飯原常世が見える。

 粟飯原右衛門兵衛は、明治時代に山口県士族として見られ、明治25(1892)年3月5日に亡くなった。その子・粟飯原常世従五位勲三等陸軍歩兵大佐を経て、日露戦争当時陸軍少将の地位にあり、後備歩兵第五旅団長を務めた。日露戦争奉天会戦では第一軍(司令官:黒木為楨大将)として出征している。


◆蝦夷地の相原氏◆(★KUBO氏のご協力★)

 蝦夷地の大館館に相原政胤がいた。ただ蝦夷相原氏と粟飯原氏との関係は不明。千葉氏もしくは相馬氏の流れを組む一族といわれる。大館は蝦夷十二館のひとつで、政胤は下国定季安東定季)を補佐をしていた人物だった。長禄元(1457)年、アイヌ大族長コシャマインがおこしたの乱では、十二館のうち十館までがことごとく占領されてしまった。

―蝦夷十二館主―

館名 館主
花沢館 蛎崎季繁
比石館 厚谷繁政
原口館 岡部季澄
禰保田館 近藤季常
大館館 下国定季・相原政胤
及部館 今泉季友
隠内館 蒋士季直
脇本館 南条季継
中野館 佐藤季剛
茂別館 安東家政
箱楯館 河野政通
志濃里館 小林良景

 このコシャマインの攻撃に持ちこたえた館は、茂別館(安東家政)と花沢館(蛎崎季繁)のみで、政胤は大館城での戦いで生け捕りにされた。その後、花沢館主・蛎崎季繁の客将だった武田信広(若狭武田氏という)が大館城を奪還した際に救い出され、以降は信広に従ってコシャマインの本陣・箱館攻めでは、その後詰として兵を率いた。

 しかし、政胤はこの戦いで討死したという。このあとを継いだのが子の相原季胤で、下国定季の補佐となった。

 その発祥地は『北海道史』では「甲斐国都留郡相原村」としているが、この地名は『大日本地名辞書』にはみえず、陸奥国西津軽地方は鎌倉時代には江流末(えるま)郡と呼ばれ、郡内に「相原村」があったようなので、この地を発祥とする一族か。


◆福山藩粟飯原氏◆

 福山藩阿部家に仕えた粟飯原氏がいる。慶安元(1648)年の阿部家分限帳によれば、六百石で騎馬格粟飯原八郎左衛門がいる。このときの阿部家は岩槻藩主である。寛文8(1663)年の『阿部正春御陣代中』によれば、千石取の粟飯原八左衛門、三百石取の粟飯原文右衛門が見える。

 その後、三代藩主・阿部備中守定高の子・阿部備中守正邦備後福山藩に移封となった。福山藩分限帳には三百石取りの粟飯原五左衛門が見える。

―諸書に見える粟飯原氏―

名前 説明 出典
粟飯原家常 細五郎。粟飯原常益の子。千葉成胤と藤原親正の戦いでは親正側について千葉氏と争う。 『千学集抜粋』
粟飯原元常 権太。粟飯原家常の子。千葉成胤と藤原親正との戦いの中で矢で射られて没する。 『千学集抜粋』
粟飯原顕常 次郎。粟飯原家常の子。千葉成胤と藤原親正の戦いでは親正側について千葉氏と争う。 『千学集抜粋』
粟飯原道光入道 文永3(1266)年に7回忌を行っていることから、文応元(1260)年に没したことがわかる。「曾谷彈正忠内方親父」であり、八幡庄曾谷村(市川市曽谷)の豪族・曽谷氏との係わり合いがうかがえる。 『本土寺過去帳』
粟飯原左衛門尉 左衛門尉。徳治2(1307)年5月4日、円覚寺大斎に名を連ねる。 『相模円覚寺毎月四日大斎番文』
粟飯原右衛門四郎 右衛門四郎。徳治2(1307)年5月4日、円覚寺大斎に名を連ねる。 『相模円覚寺毎月四日大斎番文』
粟飯原清胤 下総守。千葉介氏胤の後見人を務め、貞和3(1347)年、足利尊氏の側近となり政所に出仕する。  
粟飯原又次郎 又次郎。貞和5(1349)年正月6日、御荷用に列している。 『御評定着座次第』
粟飯原下総四郎 下総四郎。貞和5(1349)年正月6日、御陪膳人衆八人の一人。清胤の四男と思われる。 『御評定着座次第』
粟飯原基胤 彦五郎。清胤の弟で足利尊氏の側近。観応3(1352)年閏2月28日、笛吹峠で新田義宗を撃退した。  
粟飯原詮胤 弾正左衛門尉。清胤の子で延文3(1358)年12月22日に名が見える。 『宝筐院殿将軍宣下記』
粟飯原彦次郎 彦次郎。応安7(1374)年9月27日の『奉行人連署奉書』を受けた人物。小見川の津を支配。  
粟飯原虎王 虎王。応安7(1374)年9月27日の『奉行人連署奉書』を受けた人物。彦次郎の子か?  
粟飯原将胤 九郎左衛門尉。明徳3(1392)年8月28日の相国寺供養の随兵四番手を東師氏とともにつとめる。  
粟飯原兼胤 次郎左衛門尉。明徳3(1392)年8月28日の相国寺供養の帯刀の列に参列。系譜では清胤の弟だが、活躍時期に30~40年ほど差があることから、詮胤の兄弟、もしくはその子と考えられる。  
粟飯原九郎右衛門 九郎右衛門。応永元(1394)年9月11日に将軍に供奉した人物。九郎左衛門将胤と同一人物? 『将軍家日枝社参詣供奉人』
粟飯原六郎 応永17(1410)年8月10日の香取社造営の文書に「泉水、椎名、萩迫」を知行していたことが見える。 『香取社造営料足内納帳写』
粟飯原三郎 応永17(1410)年8月10日の香取社造営の文書に「墨」を知行していたことが見える。 『香取社造営料足内納帳写』
粟飯原五郎   『香取社造営料足内納帳写』
粟飯原常善 但馬守。詮胤の弟。応永23(1416)年、千葉介満胤に従って上杉禅秀に荷担した。  
粟飯原下総入道 下総入道。永享年中(1429-41)の詰衆四番中に見える。 『永享以来御番帳』
粟飯原三郎左衛門尉 三郎左衛門尉。永享年中(1429-41)の詰衆四番中に見える。 『永享以来御番帳』
粟飯原下総守 下総守。文安年中(1444-1449)に詰衆四番に名を連ねる。 『文安年中御番帳』
粟飯原大和殿母 粟飯原大和守の母親。法名は妙言尼。宝徳2(1450)年6月28日没。 『本土寺過去帳』
粟飯原胤直 右衛門尉。助九郎胤宣とともに戦死したとある。千葉大介胤直のことか。 『鎌倉大草紙』
粟飯原胤宣 助九郎。右衛門尉胤直とともに戦死したとあるが、千葉介胤宣のことか。 『鎌倉大草紙』
粟飯原九郎 康正元(1455)年、馬加康胤に攻められて千葉胤宣が自害したとき、ともに自害した。  
粟飯原下総前司胤元 文明18(1486)年7月、「右大将」拝賀の際、将軍に供奉した「衛府」士として見える。 『親長記』
粟飯原豊後入道 明応4(1495)年11月9日、常輝(千葉孝胤入道)から宛てられた浄泉寺周心院に関する文書に見える。  
粟飯原久四郎 永承2(1503)年11月15日、千葉介昌胤元服の儀において、馬・太刀を妙見社へ奉納した。 『千学集抜粋』
粟飯原孫太郎 永承2(1503)年11月15日、千葉介昌胤元服の儀において、馬・太刀を妙見社へ奉納した。 『千学集抜粋』
粟飯原大学 永承2(1503)年11月15日、千葉介昌胤元服の儀において、馬・太刀を妙見社へ奉納した。 『千学集抜粋』
粟飯原左近将監 粟飯原右衛門三郎の父。永正6(1509)年9月28日、千葉介勝胤から右衛門三郎への文書に見える。 『千葉介勝胤書状』
粟飯原右衛門三郎 左近将監の子。永正6(1509)年9月28日、勝胤からの広念寺領伊篠北方を周心院に寄進する文書にある。 『千葉介勝胤寄進状』
粟飯原孝宗 左衛門尉。永正11(1514)年の文書に見える。大永元(1521)年文書の「上野介孝景」と同一人物。  
粟飯原幹宗 孫二郎・左衛門大夫。孝宗の子。永正11(1514)年、大永元(1521)年、天文6(1532)年2月の文書に見える。  
粟飯原保宗 左衛門大夫。幹宗の孫として天文6(1532)年2月に見え、天正13(1584)年の小見川金剛寺に寄付した。  
粟飯原豊後 入道浄永。天正17(1588)年のに見える。 『木内文書』
粟飯原胤光 隼人。明応年中(1492-1501)のに名がある。 『伊篠浄泉寺文書』
粟飯原大和守 小見川伊篠浄泉寺の本尊観音の背識に天文20(1551)年、粟飯原大和守の名がある。粟飯原大和守は根古屋村に墓があり、天正18(1590)年、小田原城から逃れて小見川に向かう途中で死亡した。  
粟飯原九郎次郎 天正10(1582)年、討死。 『本土寺過去帳』
粟飯原四郎左衛門 塩古。天正11(1583)年2月17日、法名:日啓。 『本土寺過去帳』
粟飯原大和守 塩古。妙浄。文禄3(1594)年正月22日。 『本土寺過去帳』
粟飯原大和守 塩古。文禄5(1596)年6月13日、法名:日昌。 『本土寺過去帳』
粟飯原道感 佐倉。慶長11(1606)年6月25日、法名:日就。 『本土寺過去帳』
粟飯原和泉 某年正月14日。 『本土寺過去帳』
粟飯原三河入道 某年10月18日、法名:日源。 『本土寺過去帳』
粟飯原治部左衛門 某年2月26日、法名:妙円。 『本土寺過去帳』
粟飯原文六 某年某月26日、法名:法忠。 『本土寺過去帳』
粟飯原彦右衛門 慶応2(1866)年の上総国佐貫藩(阿部駿河守正恒)の年寄(家老)職をつとめる 『大武鑑』

―粟飯原氏略系図①―

 平高望―+―良兼――+―粟飯原盛家――定秀―――秀家――――実秀―――――秀宗――――親秀―――朝秀      +―成胤―――時胤―――+
(上総介)|(上総介)|(左衛門尉) (尾張守)(孫次郎) (河内守)  (藤兵衛尉)(尾張守)(伊勢寿丸)   |(千葉介)(千葉介) |
     |     |                                             |           |
     |     +―良定――……―常時              +―常兼――――常重―――常胤―――胤正―+―粟飯原寛秀     |
     |     |(文次郎)  (文次郎)→妙見社神主      |(下総権介)(千葉介)(千葉介)(千葉介)(孫三郎)      |
     |     |                        |                                |
     |     +―公雅―――+―致頼              | +――――――――――――――――――――――――――――――+
     |      (武蔵守) |(散位)             | |
     |            |                 | +―頼胤――+―宗胤     +―貞胤
     |            +―娘               |  (千葉介)|(千葉新介)  |(千葉介)
     |              ∥               |       |        |
     |              ∥――――常将――――常長―――+       +―胤宗―――――+―粟飯原氏光
     |              ∥   (上総権介)(下総権介)|        (千葉介)    (下総守)
     +―良文――――忠頼―――――忠常              |
      (上総介) (上総介)  (上総介)            +―粟飯原常基――有胤==朝秀――+―信秀――胤秀――義秀―胤晴―+
                                     (孫平)   (孫平)(孫次郎)|(太郎)(孫平太)      |
                                                     |               |
                                                     |   +―――――――――――+
                                                     |   |
                                                     |   +―基繁―義秀―氏秀=満胤
                                                     |               
                                                     +―正秀
                                                     |(十次郎)
                                                     |
                                                     +―秀久
                                                     |(藤五郎)
                                                     |
                                                     +=寛秀―――常行―――常実―――+
                                                      (孫三郎)(兵衛尉)(右衛門尉)|
                                                                      |
 +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―常久――――常光====氏光――+―清胤――+―詮胤―――――+―満胤―教胤―政胤―尚胤―孝宗――――幹宗――――持宗―瀧寿
  (左衛門尉)(左衛門尉)(下総守)|(下総守)|(彈正左衛門尉)|            (左衛門尉)(左衛門大夫)   ∥――宗光―宗忠―+
                   |     |        |                            ∥        |
                   +―基胤  |        |                     成毛宗正――粟飯原宗久     |
                   |(彦五郎)|        |                    (対馬守) (対馬守)      |
                   |     |        |                                     |
                   +―兼胤  |        |      +――――――――――――――――――――――――――――――+
                    (次郎) |        |      |
                         |        |      +―宗勝―保宗――宗正―――胤秀――――家久
                         |        |
                         |        +―胤長―――秀助――――胤定―――晴次――――胤俊―――――胤行――――+
                         |         (下総守)(治部少輔)(左馬助)(蔵人栄公)(越前守鑑公)(但馬守徹公)|
                         |                                             |
                         |        +――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
                         |        |
                         |        |
                         |        +―胤次――――――+=光胤=====俊胤
                         |        |(但馬守源公)  |(出雲守金公)(孫平)
                         |        |         |
                         |        +―娘       +―常次―――――娘
                         |        |(海上山城守妻)  (孫平)
                         |        | 
                         |        +―娘
                         |        |(金田左衛門大夫信吉妻)
                         |        |
                         |        +―常直
                         |         (助右衛門)
                         |        
                         +―常善―――――――信宗―――勝助―――胤吉
                          (但馬守)    (但馬守)(下野守

―粟飯原氏略系図②― ―粟飯原・鏑木氏関係図―

粟飯原氏系図1

粟飯原氏系図2


ページの最初トップページ平良兼流粟飯原氏千葉氏流粟飯原氏その後の粟飯原氏千葉日記ブログ

Copyright©1997-2018 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。