千葉介胤連 肥前千葉氏

小城千葉氏

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千葉介胤連(????-1593)

 小城千葉氏十八代。西千葉氏五代。四代千葉介胤勝の嫡男。通称は千葉介大隅守(『直茂公譜考補』)右京大夫(『龍公御幕下并御祈願寺附』)。妻は龍造寺家純娘(心月妙鏡大禅定尼)。佐賀藩祖・鍋島直茂義理の伯父であり義父でもある。

千葉胤連の花押
胤連花押

 胤連は父・千葉介胤勝の家督を継いだ当時、大内家の後援を受けていた惣領家・牛頭山城の千葉丹波守喜胤と敵対しており、島原半島の有馬晴純にまでつけこまれていた。

 天文10(1541)年4月、有馬晴純は多久梶峰城の多久宗時と結んで、小城郡へ攻め込んできた。これに対し、佐嘉郡の龍造寺家門は有馬勢の侵略を阻止するためとして、まず晴気城の胤連と、牛頭山城の喜胤の両千葉家を和睦させ、少弐氏と千葉氏の関係改善に奔走した。このころ少弐氏は大内氏に旧領の多くを侵略されており、すでに神埼郡を領するのみとなっていた。少弐氏が大内氏や有馬氏らの大勢力と対抗するためには、少弐氏・龍造寺氏・千葉氏の三氏が協調していかなくてはならなかった。

 少弐家当主・少弐冬尚は三氏強調の手始めとして、自分の弟を大内方の千葉喜胤の養子とし、喜胤の居館・平井館(三日月町平井)に送って千葉新介胤頼と名乗らせた。一方、少弐方の龍造寺家門も外曾孫・鍋島彦法師丸を胤連の養子として晴気城に遣わした。彦法師丸はのちに肥前佐賀藩の祖となった鍋島直茂その人である。

★両千葉氏和睦策★ー少弐・龍造寺・千葉三氏の協力関係を目指したー

西千葉氏 東千葉氏
千葉胤連(晴気城主)=【親少弐氏】 千葉喜胤(惣領家。牛頭山城主)=【親大内氏】
↓(養子を迎える) ↓(養子を迎える)
彦法師丸(鍋島清房の子) 新介胤頼(少弐冬尚の弟)

        鍋島清房         +―鍋島勝茂――――鍋島忠直
       (駿河守)         |(信濃守)   (肥前守)
         ∥           |
         ∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂――――佐野茂久
 龍造寺家純―+―娘    +=(加賀守) (和泉守)   (右衛門尉)   
(豊後守)  |      |
       +―娘    |
       |(心月妙鏡)|
       | ∥――――+―千葉胤信―+=鍋島常貞
       | ∥     (右馬佑) | ∥―――――――千葉常成
       | ∥           | ∥      (太郎介)
       | 千葉介胤連       +―娘                                      
       |(千葉介)         (心光妙観)                                  
       |                                                      
       +―龍造寺周家                                                
        (六郎次郎)                                                
         ∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房                          
 龍造寺胤和―――娘     (山城守)  (民部大輔)  (駿河守)                           
(刑部大輔)  (慶誾尼)

 千葉氏・少弐氏・龍造寺氏の三氏協調が固まったと思われた矢先の天文14(1545)年、龍造寺一族の若者たちが暗殺される大事件が起こった。

 龍造寺家は少弐氏勢力の中でも強大であり功績も大きかった。しかし、それに対して抵抗感を抱いていたと思われるのが、少弐家の重臣・馬場肥前守頼周である。彼は先代の少弐資元が大内家に滅ぼされたのは「龍造寺家兼が勢福寺城の明け渡しを勧めたためだ」と信じており、馬場頼周少弐冬尚「龍造寺家兼に自立の疑いあり」と訴え、冬尚もそれを信じて龍造寺家の追討を準備した。

 天文13(1544)年末、少弐冬尚は龍造寺家に対して、有馬晴純らが謀反したため、出兵するよう命じたが、これは少弐冬尚が有馬氏らに命じて行った偽りの謀反だった。晴純は冬尚の命じた通り挙兵して、杵島郡長島(武雄市)まで兵を出した。

 一方、冬尚からの有馬氏討伐の命を受けた龍造寺家兼はこのとき九十一歳で出兵に堪えずとして、龍造寺盛家ら一族の者たちを長島の有馬勢に向けた。このとき、胤連も援軍として出兵し、有馬勢と戦うが、龍造寺勢は各地で敗れ、翌天文14(1545)年正月までの戦いの中で、龍造寺盛家、龍造寺家久、龍造寺信以、龍造寺胤明、龍造寺胤直ら一族が各地で討死を遂げてしまった。大敗を喫した龍造寺勢は、なんとか佐嘉郡水ヶ江館まで退いたものの、事もあろうに水ヶ江館を囲んだのは、有馬晴純の軍勢と合流した少弐冬尚の手勢だったのである

 包囲の中で、少弐勢の馬場頼周から使者が水ヶ江に遣わされた。頼周は使者を通じて家兼に「ただちに水ヶ江館を開城して無罪を証明されれば冬尚公も御赦免なさるであろう」と伝えた。家兼もおそらく誤解が招いたことと思ったのだろう。謝罪の使者として、孫の龍造寺周家・龍造寺家泰・龍造寺頼純の三人を冬尚のもとへ遣わした。しかし、この三人は正月23日、神埼郡祇園原において、馬場頼周・神代勝利によってことごとく殺害されてしまった。事の次第を知った家兼は、水ヶ江館を脱出して筑後へ逃れていった。こうして、龍造寺家は所領を没収され、旧領は討伐に功績のあった馬場頼周、神代勝利、小田政光へ分け与えられている

 さらに、龍造寺家と親密な千葉介胤連も、少弐家にとってはもはや必要悪の存在となっていたのだろう。馬場頼周・江上元種は、牛頭山城の千葉胤頼(冬尚弟)と連携し、晴気城に攻め寄せた。胤連は2月27日、城を脱出して白石郷杵島郡白石町)へ逃れている。その後、晴気城は千葉胤頼が入り、牛頭山城は、改修の上で少弐冬尚の居城とするべく城普請が開始された。馬場頼周は少弐家の本拠・勢福寺城を抑えることとなった。

★肥前関係図19★―少弐氏と龍造寺氏の対立ー

少弐氏 大内氏
少弐冬尚(龍造寺氏討伐を決定) 大内義隆
馬場頼周(家兼追い落としを図る)  
龍造寺家兼(筑後へ逃れる)→ 龍造寺家兼・隆信(旧名・胤信)ら
千葉胤頼(胤連を追放、晴気城主となる)  
牛頭山城西橋の祇園社
牛頭山城(おんさん)

 筑後へ逃れた龍造寺家兼は、馬場頼周の所業に激怒。家兼と連絡を取っていたのだろうか、佐嘉郡に残っていた鍋島清久清房らが密かに旧龍造寺家臣たちに挙兵を働きかけ、二千を超す兵を集めることに成功する。そして鍋島清久は筑後から家兼ら一行を呼び寄せ、佐嘉郡川副郷鰡江無量寺で挙兵した。

 3月下旬、龍造寺勢は佐嘉城を攻めて、城番・小田覚派を放逐。小田は蓮池に追れた。この挙兵を聞いた杵島郡白石郷胤連も挙兵して龍造寺勢に合流し、4月2日、千葉勢と鍋島勢は牛頭山城に攻め寄せた。

 牛頭山城を修復中だった馬場頼周は、攻め寄せる胤連勢を防ごうとするが、修復を行っていた農民たちまでが頼周に反旗を翻したため、城を逃れた。この戦いで、頼周の子・馬場六郎政員野田三河守家俊に射殺され、頼周も川上まで逃れて古穴に隠れていたが、警戒中の加茂弾正に見つけ出され、斬首された。

★肥前関係図20★―天文14(1545)年の馬場頼周戦死ー

少弐氏 大内氏
少弐冬尚→勢福寺城に籠る 大内義隆
馬場頼周・政員→討死 龍造寺家兼・隆信
千葉胤頼(東千葉氏・晴気城主) 千葉胤連(西千葉氏・嫡流)

 馬場頼周らの首は家兼のもとに届けられ、首実検に供された。彼らによって一族の多くを殺された家兼だったが、彼は頼周父子の首を目にすると

「如何ニ頼周、凡武士ノ習ヒ、敵トナリ味方ト成、怨ヲ結フコト、古今例ヒアリトイヘトモ、情ナク我ヲ方便リケルソ、家純ハ御事ノ子政員カ舅ナラスヤ、然ルニ家純ヲ初一門輙ク鏖ニセシ暴悪ノ甚キ、誠ニ言ンカタナシ、其因果忽チ回リ報ヒ、百日ヲ過スシテ父子ナカラ身ヲ亡シ屍ヲ晒ス、実ニ天命ニ非スヤ、他人ヲ恨ムル事ナカレ」

と涙を流した。これに対し家兼の重臣・野田兵部は、

「頼周目嚮ニ御一門ノ首ヲ城原門ノ下ニ埋ミ、往来ノ人ニ踏セシト、然レハ今度渠等カ頸ヲ、佐嘉城門ニテ其如ク致サン」

と怒りを含めて言上するが、家兼は首を振って、

「イヤイヤ、彼カ不道ハ人倫ノ所行ニアラス、我何ソ是ニ倣ハンヤ」

と、二人の首を春日山高城寺水上山萬寿寺(佐賀市)へ送り、それぞれ手厚く埋葬した。なお、胤連の妻となる龍造寺家純娘は、このとき討たれた馬場頼周の子・馬場六郎政員の妻だった女性で、おそらく実家の龍造寺家に引き取られ、こののち胤連の妻になったのだろう(『同格系図』)

 馬場頼周――――馬場政員
(肥前守)   (六郎)
         ∥
 龍造寺家純―+―娘
(豊後守)  |(心月妙鏡)
       | ∥――――――鍋島胤信
       | 千葉介胤連 (左馬助)
       |(千葉介)
       |
       +―娘
       | ∥――――――鍋島直茂
       | 鍋島清房  (加賀守)
       |(駿河守)
       |
       +―龍造寺周家――龍造寺隆信
        (六郎次郎) (山城守)

 この後、胤連は家兼とともに小城郡に赴き、胤連牛頭山城に入城。晴気城に拠る宿敵・胤頼と対峙した。

 なお、龍造寺家兼はその後、馬場頼周に味方した神代宗利も討ち、龍造寺家繁栄の礎を築いた。そして天文15(1556)年3月10日、水ヶ江城において亡くなった。享年九十三。龍造寺家の家督は、馬場頼周によって龍造寺本館の年頃の若者はすべて殺害されてしまっていたため、親族会議が行われ、故六郎次郎周家の子で、いまは宝琳坊の僧侶になっていた中納言圓月に跡を継がせることと決定。石井安芸守兼清の館へ圓月を招いて還俗させ、胤連が偏諱して「龍造寺民部大輔胤信」とした。このとき胤信十八歳の若者だった。胤信はこののち、大内義隆の偏諱を受けて「隆胤」と改め、さらに「隆信」と改名している。「肥前の虎」と称される龍造寺隆信である。実は、胤連は隆信の義理の伯父にあたる。

 千葉介胤連は天文10(1541)年に養子にしていた彦法師丸(鍋島清房次男・のちの鍋島直茂)をとても可愛がっていたが、天文20(1551)年、嫡男・胤信が生まれたため、彦法師丸には自らの隠居料の小城郡美奈岐八十町を譲ったうえ、家臣として胤連から十二人の武士(鍵尼・野辺田・金原・小出・仁戸田・堀江・平田・巨勢・井出・田中・浜野・陣内)がつけられた。このわずか十二人の武士がのちに肥前国三十二万石を領した鍋島直茂の初めての家臣であり、小城郡美奈岐八十町が初めての知行地であった。

 永禄2(1559)年正月、千葉介胤連は、晴気城の千葉介胤頼を討つべく出兵。援軍に駆け付けた龍造寺勢とともに晴気城を取り囲んだ。実は前月の12月、佐嘉の河上実相院座主増純法印の扱いで、千葉・少弐・龍造寺・江上・神代家は互いに異心無き旨の起請文をかわしており、起請文は「龍造寺山城守藤原隆信、神代大和守武辺勝利、江上左馬大夫武種」の三名の名で血判され、河上社の宝殿に納められていた。この起請文締結で少弐冬尚はすっかり安心してしまっていた。その虚を突いた胤連の挙兵だった。

小城晴気城
小城晴気城

 このとき、冬尚は弟・胤頼を頼って晴気城におり、千葉介胤連龍造寺胤信の連合軍は積年の恨みを晴らすべく、油断した晴気城に襲いかかったのだった。晴気城はかつては胤連の居城であり、縄張りは手に取るように知悉していたのだろう。

 正月11日、晴気城を攻め落とした千葉介胤連は、晴気城東方の山中に宿敵・千葉介胤頼を追い詰め、自刃に追い込んだ。胤頼享年二十八。法名は日頼。遺体は千葉家代々の菩提寺であった三間山円通寺に葬られたという。ほかに、開基となった晴気本龍院に隣接する立中社にも墓が残る。胤頼の子・千葉胤誠は家臣たちに護られて城を脱出し、ゆかりのある川久保領主・神代大和守勝利を頼って落ち延びており、事実上、小城千葉氏の惣領家たる牛頭山千葉氏は滅亡し、胤連が小城千葉氏の惣領を継承した形となる。

 一方、晴気城から逃れた少弐冬尚は、かつての居城・勢福寺城へ入ったが、城将・江上武種はすでに少弐氏を見限っており、「却テ自裁ヲ勧」めたという。冬尚はこの背信を恨むこと骨髄に徹し、割腹して腸を掴み出して武種に向けて放り投げ、「江上家七代マテ祟リヲナスヘシ」と恨みを述べて亡くなったという。享年三十三。こうして鎌倉時代から十三代、三百七十年あまり続いた名門少弐氏は滅亡。代わって龍造寺氏が北九州一体に勢力を広げていく。

 永禄6(1563)年秋、有馬晴純入道仙岩は子息の義純、義直、大村丹後守純忠と談合し、島原弥介を大将として高来郡の安富伯耆守・安徳上野介らを率い、小城郡砥河村(小城市牛津町砥川)に攻め寄せた。千葉介胤連はただちに龍造寺隆信に出兵を乞い、隆信は舎弟の龍造寺左馬頭周光、従弟の龍造寺左衛門佐鑑兼、鍋島三郎兵衛尉信房、納富但馬守信景に八百騎を付けて小城へ派遣。胤連は龍造寺勢とともに丹坂峠に布陣し、有馬勢を撃退した。

 その後、龍造寺隆信の勢力は拡大の一途をたどり、杵島の平井氏、武雄の後藤氏、平戸の松浦氏、彼杵の大村氏、高来の諫早氏などを支配下に納め、天正4(1576)年、龍造寺隆信は肥前における最大の敵であった有馬家を攻略すべく藤津に進出。天正6(1578)年、ついに有馬修理大夫晴信を屈服させ、嫡男・龍造寺政家との間に「悪行」を行わない和議を結んだ。

 こうした龍造寺家の勢力拡大により、かつては龍造寺家の主筋であった千葉家もその勢力下に収められていくこととなる。龍造寺家の幕下において、「千葉右京大夫胤連」「小城高田(小城市三日月町高田)」を本拠とする大名となった(『龍公御幕下并御祈願寺附』)

本行寺の蒲池鎮並供養塔
蒲池鎮並供養塔

 しかし天正8(1580)年、龍造寺隆信は、大友家の影響力ののこる筑後国を平定すべく、かつて龍造寺家の危機を救った恩義もある蒲池鎮並を、佐嘉の本行寺に猿楽見物を理由に招いて殺害した。この暗殺には女童までもが斬首され、首実検に供されたという。こうした目に余る行為が幾度かあり、隆信の家老となっていた胤連のかつての養子・鍋島直茂も諫言しているが、受け入れられなかった。

 天正9(1581)年、薩摩の島津家が肥前へ向けて進行を始めた。これに天正11(1581)年、隆信は嫡男・龍造寺政家を大将とする軍勢を肥後に向けて進発させ、一度は島津勢侵攻を食い止めた。しかし、天正12(1582)年、和議を結んでいた有馬晴信が島津家に応じて龍造寺家に敵対したため、ふたたび嫡男・政家を島原半島へ派遣するが、なかなか決着がつかず、痺れを切らした隆信はみずから五万七千の大軍を率いて出陣した。島津・有馬勢は八千余であり、七倍余りの龍造寺勢の敵ではないと思われたが、3月24日、隆信の命により中軍の主力・鍋島直茂が、山手の隆信本隊と入れ替えとなり、この隆信本隊が、名称と名高い島津家久率いる三千の島津勢に当たることとなった。

 この島津家久の軍勢に隆信率いる本隊は翻弄され、ついに旗本衆にまで戦死者が出始めた。隆信は肥満体のため馬にも満足に乗れず、「御近習の者共が悉く討死」する有様を見て、逃れられずと観念し、床几に座って自害せんとしたところ、黒糸縅鎧を身にまとった島津家人・川上左京忠堅が現れ、隆信に一礼してその首を打った(『直茂公譜考』)

 この報を受けた鍋島直茂は、事やぶれたといったんは自害を決意するが、同道の中野式部清明に止められて、居城の柳川城に逃れた。この龍造寺隆信の戦死を境に、龍造寺家は衰退の一途をたどることになる。胤連がこの戦いに参戦したかは不明ながら、佐嘉より島原半島に近い小城郡の領主である胤連も出陣を要請された可能性はある。

 龍造寺家の衰退ののち頭角を現したのが鍋島直茂であった。このころ、胤連の子・胤信龍造寺の名字を受けて龍造寺作兵衛胤信を称しており、胤連も隆信の跡を継いだ龍造寺政家の幕下にあったものと推測されるが、鍋島直茂とは密接に関係を持っていたと思われる。

 文禄元(1592)年の文禄の役では、胤連の子・「千葉左馬佐胤信」鍋島直茂に従って渡鮮しており、すでに胤連は隠居していたのだろう。

千葉介胤連墓 妙鏡院
千葉介胤連墓(天継秀胤) 胤連妻墓(心月妙鏡)

 胤連は文禄2(1593)年7月18日に小城で亡くなった。法名は天継秀胤大禅定門。三間山円通寺の塔頭として天継院があり、胤連の菩提を弔っている。墓石は現在は円通寺墓所に遺されており、隣には妻の龍造寺家純娘(心月妙鏡大禅定尼)の墓石がある。妻の龍造寺氏は胤連よりも十年ほど前の天正10(1582)年9月18日に亡くなっており、やはり円通寺塔頭・妙鏡院が祭祀を行っている。

 胤連が亡くなったとき、鍋島直茂「文禄の役」で子・勝茂とともに朝鮮半島に渡って合戦中であったが、胤連の死を伝え聞くと、胤連から附けられた野辺田善兵衛の二男・野辺田善兵衛(円光寺元佶の弟)を国元へ差し遣わしてその菩提を弔っている。

 胤連の妻・龍造寺氏(心月妙鏡大禅定尼)は胤連に先立つこと十年前の天正10(1582)年9月に亡くなっている。また、その実子・胤信は鍋島家に仕えて「忠右衛門」を称し、その聟養子・常貞「鍋島玄蕃」を称して一門となり、寛永5(1628)年の分限帳では1560石を領し、寛永19年(1642)年では1640石、明暦2(1656)年では3000石の大身として佐賀藩に仕えた。

★龍造寺氏略系図★―四角で囲まれた人名は馬場頼周との抗争で暗殺(戦死)した人物―

★鍋島氏略系図★


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