千葉氏流 粟飯原氏

粟飯原氏

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〇千葉氏流粟飯原氏

トップページ粟飯原氏 > 千葉氏流粟飯原氏> 栗原寛秀禅師


栗原寛秀(????-????)

 千葉介胤正の子。通称は四郎禅師。系譜では「寛秀」とあるが入道号である。法名は能光

 最も古い系統に属する千葉系図『徳嶋本千葉系図』によれば、彼は「栗原四郎」とあり、「粟飯原」ではなく、粟飯原氏とは関係のない人物である。

 建暦2(1212)年12月24日、法然一周忌に合わせて勢観房源智上人によって造立された阿弥陀如来像(信楽玉桂寺所蔵)に、全国各地の念仏信者からの結縁交名が納められたが、その中に父「平胤政」や兄「平常秀」「平成胤」、弟の「平胤忠(辺田胤忠)」、従兄弟の「平胤重(武石胤重)」とともに「寛秀」として名を連ねている(峰岸純夫『中世東国の浄土信仰』「玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書」)

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粟飯原常行(????-????)

 『千葉大系図』によれば、栗原四郎入道寛秀の子と伝わるが、寛秀は粟飯原氏ではなく「栗原」氏であり、常行が実在の人物であれば、粟飯原五郎家常の末裔であろう。官途は兵衛尉(『千葉大系図』)。モデルは鎌倉時代中期の岩部五郎兵衛尉常行か。

 

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粟飯原常実(????-????)

 粟飯原兵衛尉常行の子(『千葉大系図』)。官途は右衛門尉(『千葉大系図』)。その他の系譜には見えず、実在は不明。

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 鎌倉時代中期の千葉介頼胤の代に「粟飯原道光入道」という人物がおり、文永3(1266)年には道光入道の七回忌が行われている(『本土寺過去帳』)。この「粟飯原道光入道」の実名は不明だが、粟飯原五郎家常の末裔であろう。

 「粟飯原道光入道」は「曾谷弾正忠内方親父」とあり、八幡庄曾谷村(市川市曽谷)の曾谷氏と縁戚であったことがわかる(『本土寺過去帳』)。「曾谷弾正忠」については、「曾谷弾正忠直満」という人物が同じく『本土寺過去帳』内に見えるが、彼は室町時代中期の千葉介胤直に仕えた人物で、粟飯原道光娘と婚姻関係にあった「曾谷弾正忠」とは別人である。しかしながら「弾正忠」という通称から、おそらく曾谷弾正忠直満の先祖であろうと考えられる。

●曽谷氏略系図

 粟飯原道光入道―弾正内方 
        (=蓮華尼か)
          ∥
         (?) 
          ∥
+―大野政清―+―曽谷教信―――+―道崇 
|(1263)|(1294)  |(妙興寺開基)
|      |        |     
|      +―浄蓮     +―山城守
|      |(金原法橋)  |(日心)
|      |        |                              
|      +―大進房    +―日源         +―曽谷祐典――?―曽谷弾正忠?――+―曽谷左衛門尉直繁(秀典)
|      |(大進阿闍梨) |            |(1416)   ∥ ∥     |(1456)
|      |        |            |         ∥ ∥     |
|      +―三位房    +―伝浄――――曽谷典久―+―日福      ∥ 妙院尼   +―曽谷彈正忠直満(蓮宗)
|      |        |(1359)(1388)          ∥(1457) |(1456)
|      |        |                      ∥       |
|      |        +―日貞                   堯院尼     +―曽谷七郎将旨(典意)
|      |         (妙林院)                (1457)    (1456)
|      |          ∥
|      |          ∥―――?―千葉胤泰
|      |          ∥    (次郎)
|      | +―千葉宗胤―――千葉胤貞
|      | |(千田太郎) (大隅守)
|      | |
|      | |
|      | +―千葉介胤宗――千葉介貞胤
|      |  (千葉介)  (千葉介)
|      |          ∥
|      |          ∥―――――千葉介氏胤――千葉介満胤―――千葉介兼胤
|      |          ∥    (千葉介)  (千葉介)   (千葉介)
|      +―■■―――――――法頂尼
|                (曽谷教信姪

+―妙蓮―――――日蓮

 八幡庄(市川市)の曾谷弾正忠と千葉氏被官の粟飯原道光入道が縁戚となった理由は、粟飯原道光入道の主君である千葉介頼胤が八幡庄を含む下総国西部に進出したことにあるのだろう。頼胤は小金(松戸市小金)や馬橋(松戸市馬橋)に館を構え、太日川の港のあった市河(市川市真間)の守護所には曾谷氏富木氏(富木常忍)、大田氏(大田乗明)といった八幡庄所縁の人物出仕していたことがわかっている。曽谷弾正忠と粟飯原道光入道はこうした縁で接触したのだろう。

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粟飯原常久(????-????)

 粟飯原常実の子(『千葉大系図』)。官途は左衛門尉(『千葉大系図』)。実在は不明。

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 嘉元3(1305)年4月23日子の刻、北条左京権大夫時村と子息・親類は謀反の疑いにより、誅殺された。時村は北条義時の末男・北条政村の嫡男であり、有力な北条一族であった。北条家内の権力闘争が背景にあったと思われるが事件の詳細は不明である。しかし、時村の謀反の疑いは事実無根であることが発覚し、5月2日、幕府は時村殺害に加わった武士十二名のうち十一名を斬首(和田七郎茂明は逐電)した(『鎌倉年代記裏書』増補続史料大成51巻)。この与党の一人、井原四郎左衛門尉盛明掃部頭入道へ召預けとなったが、その際の使者に「粟飯原左衛門尉」があたっている(『鎌倉年代記裏書』増補続史料大成51巻)

 鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日)」の結番が徳治2(1307)年5月に定められたが、『相模円覚寺毎月四日大斎番文』「二番」「粟飯原左衛門尉」が、「五番」には「粟飯原後家」が、「十番」には「粟飯原右衛門四郎」が列している。この『大斎番文』に記された人物は「長崎」「諏訪」「尾藤」「塩飽」「安東」「五大院」など、北条得宗家の家臣(北条嫡流の家臣=御内人)が多く見え、粟飯原氏の中には身内人になった一族がいたようである。おそらくこの「粟飯原左衛門尉」は井原四郎左衛門を掃部頭入道へ預けた「粟飯原左衛門尉」と同一人物と考えられる。

 彼ら御内人となった粟飯原氏が千葉氏の系統の粟飯原氏か、横山党粟飯原氏かは即断することはできないが、元亨3(1323)年の『北条貞時十三年忌供養記』において、御内人の「禄役人」五人の一人として「粟飯原五郎左衛門尉常忠」の名が見える(『北条貞時十三年忌供養記』「鎌倉史」二所収)。諱に「常」字が用いられていることから、千葉氏系の粟飯原氏であると推測される。

●徳治2(1307)年5月『相模円覚寺毎月四日大斎番文』(『鎌倉遺文』)

     (花押:北条貞時)   円覚寺毎月四日大斎結番事
 一 番
         泉谷

  長崎左衛門尉(高綱)   長崎木工左衛門尉
  周防前司         嶋田民部大夫入道(行兼)
  安東四郎右衛門入道    足立源左衛門入道
  諏方六郎左衛門尉     合田四郎左衛門尉

 二 番

  工藤次郎右衛門尉(貞祐) 粟飯原左衛門尉
  葛山左衛門尉       大瀬三郎左衛門尉(惟時)
  本間太郎左衛門尉     合田五郎左衛門尉(遠貞)
  吉岡四郎左衛門尉     高柳三郎兵衛尉

 三 番

  大蔵五郎入道       長崎宮内左衛門尉
  越中局          大森右衛門入道
  広沢弾正左衛門尉     大瀬次郎左衛門尉
  葛山六郎兵衛尉      岡村五郎左衛門尉(資行)

 四 番

  伊具三郎左衛門入道    小笠原孫次郎(宗長)
  佐介殿          長崎三郎左衛門入道(思元)
  土肥三郎左衛門尉     下山刑部左衛門入道
  塩飽三郎兵衛尉      佐野左衛門入道

 五 番

  武田伊豆守(時綱)    万年馬入道
  武田七郎五郎       渋谷十郎入道(宗重)
  粟飯原後家        亘理四郎左衛門尉(亘理胤継)
  但馬新左衛門尉      斎藤図書左衛門尉

 六 番

  工藤三郎右衛門尉     桑原新左衛門尉(高近)
  讃岐局          渋谷六郎左衛門尉
  荻野源内左衛門入道    浅羽三郎左衛門尉
  蛭川四郎左衛門尉     千田木工左衛門尉

 七 番

  安東左衛門尉(高貞)  工藤右近将監
  佐介越前守(貞房)   南條中務丞
  小笠原四郎       曾我次郎左衛門尉
  工藤左近将監      千竃六郎

 八 番

  諏方左衛門尉      塩飽右近入道
  主税頭         諏方三郎左衛門尉
  安保五郎兵衛入道    五大院太郎右衛門尉(高繁)
  本間五郎左衛門尉    岡田十郎

 九 番

  尾藤左衛門尉        長崎四郎左衛門尉(泰光)
  神四郎入道(了義)     渋川次郎左衛門入道
  安東平内右衛門入道(道常) 工藤治部右衛門尉
  内嶋四郎左衛門尉      諸岡民部五郎

 十 番

  長崎左衛門尉      尾藤六郎左衛門尉
  長崎後家        権医博士
  狩野介         尾張権守
  矢野民部大夫      粟飯原右衛門四郎

 十一番

  南條左衛門尉      岡村太郎右衛門尉
  尾藤五郎左衛門尉    武藤後家
  中三中務入道      佐藤宮内左衛門尉
  万年新馬允       矢田四郎左衛門尉

 十二番

  工藤右衛門入道(景禅) 五大院左衛門入道
  出雲守         妙鑑房
  武田弥五郎       諏方兵衛尉
  内嶋後家        水原図書允

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
 
   徳治二年五月 日
 

 

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粟飯原常光(????-????)

 粟飯原常久の子(『千葉大系図』)。官途は左衛門尉(『千葉大系図』)。実在不詳。

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 元亨3(1323)年の『北条貞時十三年忌供養記』において、「禄役人」五人の一人として「粟飯原五郎左衛門尉常忠」の名が見える(『北条貞時十三年忌供養記』「鎌倉市史」二所収)。常忠以外の四名はいずれも得宗家の御内人であり、粟飯原氏も御内人となっていた様子がうかがわれる。

●『北条貞時十三年忌供養記』

禄役人
(大工・引頭への禄担当)
合田五郎左衛門尉遠貞 粟飯原五郎左衛門尉常忠 尾藤弾正左衛門尉資広
本間木工左衛門尉助茂 五大院右衛門太郎高繁  

 そして、この供養に列した公卿に対し、幕府より贈り物が渡されたが、「三条中納言(公雅)」へ馬一疋、銀、剣が贈られ、御家人の「石岡九郎」が進上している。このとき御使となったのが「粟飯原宮内左衛門尉」であった。御使となっている人物はいずれも「合田」「足立」「工藤」「本間」「尾藤」「諏訪」「塩飽」「五大院」など御内人であり、この粟飯原宮内左衛門尉も粟飯原五郎左衛門尉常忠と同族の粟飯原氏であろうと思われる。また、銀剣一、馬一疋(鞍置栗毛)を寄進した「粟飯原左衛門入道」もみえる(『北条貞時十三年忌供養記』「鎌倉史」二所収)

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粟飯原氏光(????-????)

 千葉介胤宗の子とされるが疑問。官途は下総守。九代鎌倉殿守邦親王に仕えたという(『千葉大系図』)下総守清胤と同一人物の可能性もある。千葉介胤宗の子としては、五郎胤重」「貞胤」のみ伝わっており(『徳島本千葉系図』)、五郎胤重は建武の新政で延元元(1336)年4月の武者所三番に見える「千葉上総介胤重」(『建武年間記』)か。

 鎌倉期、粟飯原氏は下総国香取郡小見郷の千葉氏被官、得宗被官、「上総国梅佐古」に所領を有した足利被官など幾流かに分かれているが、氏光に繋がる足利氏被官の粟飯原氏は上総介義兼以来の上総根本被官であろう。足利貞氏代に作成されたと考えられる『足利氏所領奉行人交名』には、足利家領の奉行衆として「粟飯原十郎」の名前が見える。

●『足利氏所領奉行人交名』(青森県『倉持文書』:『群馬県史』資料編所収)

    御領奉行事

   足利庄 賀美郡 田井庄 讃甘庄 廣澤郷 垪和東郷
   垪和西郷 大佐貫郷 久多大見 放光寺 黒田保

   南右衛門入道 駿河六郎二郎 横瀬五郎入道
   粟飯原十郎 醍醐三郎入道 堀松三郎二郎
   寺岡太郎左衛門尉

 一 上総国 市東西両郡 朝平郡
   愛田庄 宮津庄 友子庄
   秋月庄 稲岡南庄 公田上庄
   宮瀬村 賀治山村

   三戸八郎左衛門入道 寺岡左衛門入道
   彦部二郎左衛門尉 海老名七郎太郎
   有木中務丞六郎 源民部七郎 村上助房

 一 参河国 額田郡 設楽郡
   富永保 八田郷 宇甘郷
   漢部郷 大田郷 新野郷
   田中郷 田邑郷 戸栗重富
   阿土熊

   上椙三郎入道 倉持新左衛門尉
   設楽太郎兵衛入道 梶原太郎左衛門尉
   小嶋三郎 有富三郎
   明石二郎左衛門尉 大炊助

   右守此旨可令奉行之状如件

 彼のほかに見える人物名(南氏、三戸氏、上椙氏、寺岡氏など)は、いずれも足利家根本被官であり、粟飯原十郎も政所執事として活躍した粟飯原下総守清胤に繋がる足利家根本被官であろう。清胤の初見は暦応4(1341)年7月13日の天竜寺供養(「粟飯原刑部右衛門尉清胤」)であり、粟飯原十郎は清胤の二世代ほど前と考えられる。

 氏光と同世代の粟飯原氏の奉行人としては、「粟原左衛門入道慶意」(暦応三年五月十七日「田代房綱申状」『田代文書』/『大日本史料』第六)「粟飯原中務入道蓮胤」(建武四年七月三日「足利直義下文」『茂木文書』)が知られる。

 「粟原左衛門入道慶意」(暦応三年五月十七日「田代房綱申状」『田代文書』/『大日本史料』第六)は、田代左京助房綱が「伊豆国狩野庄内田代郷和泉国大鳥郷下條地頭職」の件で「祖父田代駿河権守実綱相共参御方之間、於駿河国令討死実綱之刻、住所炎上時、御下文已下証文等令紛失」の事につき、安堵を訴えた引付奉行である。田代房綱の祖父、駿河権守実綱が「元弘三年」に駿河において戦死したとき、田代家相伝の文書一切も焼失したため、その所領の正統性を認めてもらうために「粟原左衛門入道慶意」(暦応三年五月十七日「田代房綱申状」『田代文書』/『大日本史料』第六)に上申し、慶意は暦応2(1339)年7月から11月までの間に和泉国守護の「細河兵部少輔顕氏」以下、「澁谷孫三郎重茂、大多和太郎左衛門尉遠明、香河三郎太郎景清、甲斐沼四郎左衛門入道々明、小塩彦二郎兼長、山口余一入道明教、伊豆国守護代刑部備前阿闍梨祐禅等」から請文を召置き、その沙汰が下るとき、奉行人の慶意が亡くなっている。

 もう一人の「粟飯原中務入道蓮胤」(建武四年七月三日「足利直義下文」『茂木文書』)は、建武4(1337)年2月13日に「茂木越中権守知貞法師明阿」の地頭職について尋問する引付奉行人の一人として名が見える。いずれも、下総守氏光との関わりは不明。

 「粟飯原下総守氏光」の名は一次史料から見ることはできないが、『太平記』に一度登場する。建武の新政の崩壊で比叡山から北陸へ逃れた後醍醐天皇皇子である一宮尊良親王、皇太子恒良親王(後醍醐天皇から譲位され新帝でもあったが、歴代天皇には数えられない)、それを補佐する洞院左衛門督実世、新田左中将義貞らは、越前国敦賀の金ヶ崎城に籠城した。ここに建武4(1337)年、越前守護の足利尾張守高経らが率いる足利方が攻め寄せて金ヶ崎城は陥落。新田義貞は逃走するが、義貞の嫡子、新田越後守義顕尊良親王は自害し、皇太子恒良親王は捕らわれて京都に護送された。

 そして建武5(1338)年4月12日、「粟飯原下総守氏光」は足利直義から、花山院邸に捕らわれの身であった「春宮ハ、連枝ノ御兄弟将軍宮トテ、直義朝臣、先年鎌倉へ申下参セタリシ、先帝第七宮ト一所ニ押籠ラレテ御座アリケル」ところに、直義は「潜ニ鴆毒ヲ進ラセテ失ヒ奉レ」と「粟飯原下総守氏光ニソ下知」したという(『太平記』)。越前国杣山で足利尾張守高経、斯波伊予守家兼が新田義貞に敗れたのは、皇太子恒良親王の「此事ハ偏ヘニ春宮ノ彼等ヲ御扶ケアラン為ニ、金崎ニテ此等ハ腹ヲ切タリト宣シヲ誠ト心得テ、杣山ヘ遅ク討手ヲ差下サルニヨツテ也、此宮、是程当家ヲ失ハント思召ケルヲ知テ、若只置奉ラハ、何様不思議ノ御企モ有ヌト覚」(『太平記』)という理由であった。

 氏光は「薬ヲ一裏持テ」花山院邸を訪問し、「イツトナク加様ニ打籠テ御座候ヘハ、御病気ナトノ萌ス御事モヤ候ハンスラントテ、三条殿ヨリ御進セラレテ候、毎朝一七日聞召候ヘ」と、宮達の御前に差し置いて退邸した。

 氏光が去ったのち、将軍宮成良親王はこの薬を見て、

「病ノイマタ見ヘサルサキニ、兼テ療治ヲ加ル程ニ、我等ヲ思ハゝ、此一室ノ中ニ押籠テ朝暮物ヲ思ハスヘシヤ、是ハ定テ病ヲ治スル薬ニハアラシ、只命ヲ縮ル毒ナルヘシ」

と、庭に投げ捨てようとしたが、兄宮・恒良親王は包みを手に取ると、

 尊氏直義等、其程ニ情ナキ所存ヲ挿ム者ナラハ、縦ヒ此薬ヲ飲マストモ遁クヘキ命カハ、是元来所願成就也、此毒ヲ呑テ世ヲハヤ失セハヤトコソ存シ候ヘ、ソレ人間ノ習ヒ、一日一夜ヲ経ル間ニ八億四千ノ念アリ、一念悪ヲ発セハ一生ノ悪身ヲ得、十念悪ヲ発セハ十生悪身ヲ受ク、ナイシ千億ノ念モマタコレ也ト謂ヘリ、如是一日ノ悪念ノ報ヒ、受ケ尽ン事猶難シ、況一生ノ間ノ悪業ヲヤ、悲哉、未来無窮ノ生死出離イツレノ時ソ、富貴栄花ノ人ニ於テ、猶此苦ヲ遁ス、只我等籠鳥ノ雲ヲ恋ヒ、涸魚ノ水ヲ求ル如ニ成テ、聞クニ付ケ見ルニ随フ悲ノ中ニ待事モ無キ月日ヲ送リテ、日積モルヲ知ラス、悪念ニ犯サレンヨリモ、命ヲ鴆毒ノ為ニ縮メテ、後生善処ノ望ヲ達センニハシカシ」

と言って毒をあおり、翌13日暮れ方に亡くなったという。また、成良親王も20日、全身に黄疸が出て亡くなったという(『太平記』)。ただ、弟宮・成良親王については康永3(1344)年まで生きている事実があり、少なくとも成良親王の毒殺は誤伝である。

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粟飯原清胤(????-1353)

 粟飯原下総守氏光の子とされるが不明。官途は刑部右衛門尉山城権守下総守。足利家政所執事、引付奉行、御所奉行を歴任した。

 暦応4(1341)年7月13日、暦応寺地曳の際に足利尊氏・直義とともに名を連ねている(『天竜寺造営記』)ものを初出とする。このときの署名は「粟飯原刑部右衛門尉清胤」であり、足利兄弟の側近として活躍を始めたと思われる。

 この翌年の康永元(1342)年8月3日、天龍寺供養の際には、千葉介氏胤東中務丞常顕と並んで、「粟飯原山城権守」が供奉人として参加、さらに「山城権守清胤」「鞍馬一足」を曳いて奉納している。

 康永3(1344)年3月、幕府の引付結番(訴訟担当)が定められたが、その「三番」「粟飯原下総守」が定められた。おなじく五番に定められた人物に「東下総入道(東氏村)」の名が見える。

◆応永3(1344)年3月21日、幕府引付結番◆

三番

左衛門佐 長井前大膳大夫 長井縫殿頭 長井治部少輔 宇都宮三河守入道 波多野因幡入道
町野但馬民部大夫 中条大夫判官 粟飯原下総守清胤 斎藤左衛門尉 依田左衛門尉 斎藤主計四郎兵衛尉
佐藤次郎左衛門尉 斎藤五郎左衛門尉 薬師寺彦次郎 関左近大夫 下條十郎左衛門入道 松田七郎
雑賀掃部允          

五番

越後守 駿河守 長井丹後入道 伯耆入道 後藤壱岐入道 東下総入道氏村
島津豊後前司 後藤対馬守 雑賀隼人入道 豊前四郎左衛門入道 斎藤四郎兵衛入道 和田四郎入道
門真弾正忠入道 杉原左近将監 松田右近入道 青砥左衛門尉 佐藤九郎左衛門尉 中沢又四郎
帯刀中務丞          

 貞和元(1345)年8月の天龍寺供養では、千葉介氏胤東中務丞常顕粟飯原清胤ら千葉一族が参列している。その翌年の貞和2(1346)年3月21日、醍醐寺の三宝院賢俊のもとへ直義の使者として「粟飯」が派遣され、同年12月、直義が京都六条の八幡宮に鏡を奉納した際の使者として「粟飯原下総」が、翌貞和3(1347)年2月、足利直義の夫人・渋川貞頼女が懐妊した際の着帯之儀、御産之儀でも、「粟飯原下総守平清胤」が奉行となっている。当時、直義は行政・訴訟など、幕政の中枢を担当しており、粟飯原清胤は行政に関する実務官僚となっていたと思われる。

 天龍寺供養よりも前の康永3(1344)年10月8日、直義が霊夢を見たことで行われた歌会には粟飯原清胤が参加しており、「清胤 粟飯原」として一首載せられている。

ふりぬるにたちかへりつる道なれは さはらすはこふみつきものかな  清胤

 これら尊氏・直義の信頼を一身に受けた清胤は、貞和3(1347)年から2年間、幕府政所執事に抜擢されて幕政の中枢を担うこととなった。幕府財政の責任者である。さらに貞和4(1348)年2月1日、八坂祇園社に対して祇園神楽についての書状を発給しているが、肩書きは「御所奉行」となっており、幕府御所奉行でもあったことがわかる。

●粟飯原清胤の官途変遷

年月 名前 収録・役職
暦応4(1341)年7月13日 粟飯原刑部右衛門尉清胤 『天竜寺造営記録』(『大日本史料』第六編)
康永元(1342)年8月3日 粟飯原山城権守清胤
康永3(1344)年3月21日 粟飯原下総守 『結城文書』(『大日本史料』第六編)
〃  5月17日 『師守記』(『大日本史料』第六編)
〃  10月8日 清胤 粟飯原 『園太暦』(『大日本史料』)
貞和3(1347)年6月 8日 粟飯原下総守清胤 直義夫人の御産奉行
〃  6月 9日  前下総守 祇園社の御産祈願巻数を直義に披露したことを祇園社に奉る
〃  12月3日 粟飯原下総守 政所執事就任
〃  12月12日 前下総守 播磨清水寺に宛てて歳末の巻数を見せたことを奉る
貞和4(1348)年11月7日
下総前司清胤
直義が清胤の請いに任せ、近江国守山郷内長楽寺に祈願した
    〃  12月20日 前下総守 播磨清水寺に宛てて歳末の巻数を見せたことを奉る
文和2(1353)年    粟飯原下総守 政所執事就任
〃  6月 9日 粟飯原下総入道 京都神楽岡の戦いで、山名・楠木の軍勢に討たれる

 しかし貞和4(1349)年6月6日、清胤は何らかの罪で尊氏の勘気を蒙ってしまった。この前日の5日には出仕を停められた大高伊豫権守重成がおり、清胤とともに6日、出仕を留められている『園太暦』貞和4(1349)年6月7日条

■貞和4(1349)年6月6日(『園太暦』)

 日食の祈祷
 六月七日 天陰

 入夜増仁僧正入来謁之、其次語曰、大高伊豫権守重成蒙将軍勘気、
 一昨日評定有沙汰所領悉収公、止出仕、又、相原下総守、同勘気自昨日止出仕、 
 此間武家不静、心苦云々、

 貞和5(1349)年8月、高師直(足利家執事)と足利直義の間で派閥争いが起こり、高師直は在京の武士に呼びかけて兵を集めたて、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲した。軍事クーデターである。このとき、それまで直義の忠実な部下であったはずの清胤も師直勢に加わって尊氏邸を取り囲んだ。これは尊氏が師直と謀り、弟・直義の行政権を廃して鎌倉の足利義詮(尊氏嫡子)を京都に召還するための陰謀ともいわれており、結局、この「クーデター」は成功し、義詮は京都へ召還され、尊氏・義詮による政治が始まった。清胤は義詮の側近に配され、ふたたび行政担当者としての活動を始めた。一方、政治の表舞台から追放された直義は出家して「恵源」を称し、京都に隠棲することになる。

 貞和6(1350)年正月17日、翌日の義詮初参内について、正月17日夜、洞院公賢邸に「武家送使、相原下総守清胤云々、以光連問答、明日可参内共人以下事也」(『園太暦』)と、粟飯原下総守清胤が来訪し、家司の政所別当藤原光連が対応。翌18日の参内の供人についての打ち合わせが行われた。

 2月23日、祇園執行顕詮のもとに「矢部弾正来、粟飯原軽服事申了舎弟死去云々(『祇園執行日記』)といい、義詮の祇園社参詣に関して奉行を務めていたことがうかがえる。そして、清胤には「舎弟」がおり、貞和6(1350)年2月20日前後に亡くなっていたことがわかる。

 4月16日、「粟飯原、御厩別当如元、被仰之間、御馬自今日沙汰云々(『祇園執行日記』)と見え、粟飯原清胤は御厩別当についたことがわかる。義詮の祇園社参詣に際しては、義詮の使者として祇園社へ走り、「物忌」を注進するよう指示している。清胤と祇園執行顕詮はその後も頻繁に交流しており、公務とともに市井の情報や政務、社務のことなど様々に情報が交わされたと思われる。観応元(1350)年11月19日には、顕詮のもとに届いた「自下司許栗二俵」を、「四方田子息許へ一葛、粟飯原子息許へ一葛遣之」とあるように、清胤の子息に栗が与えられたことがわかる(『祇園執行日記』)

 観応元(1350)年には、九州における直冬勢力は拡大の一途を辿り、観応元(1350)年9月末から10月初旬、直冬は大規模な挙兵を行った。具体的な進軍経路等は不明だが、太宰少弐頼尚ばかりか大友氏泰までもが直冬に属し、「鎮西探題一色入道」は「肥前国草野城」に追い込まれて籠城するに至っている。

 この大規模挙兵の京都における異変は10月15日夜の「鎮西大友代官」の「逐電之由風聞」(『園太暦』)であった。この「九州蜂起、直冬靡九州之勢、大友、小弐以下無不帰之、随而大友京都代官二人逐電」ということに、尊氏は愕然としただろう。鎮西の雄大友氏泰は尊氏に忠節を尽くした大友一族の惣領家であり、かつ尊氏が猶子とし「氏」の一字を与えるほど優遇した人物である。このような人物までもが直冬に靡いて「蜂起」したのである。当然ながら直冬は尊氏追討を唱えたことはなく「為師直師泰以下与党輩誅伐」(観応元年七月廿七日「吉川実経軍忠状」『吉川家文書』)を目的とする挙兵であろう。少弐頼尚や大友氏泰も尊氏ではなく師直等執事家へ対する強い反発を以って直冬に加担したと考えられる。これに対して尊氏は「大友京都代官二人逐電之間、為征罰前大納言師直可発向」(『園太暦』)と、尊氏自ら出陣する九州征討へと舵を切ることとなる。直冬は血統上においては鎌倉殿義詮の兄、前執政の直義入道の養子、軍事面においても著しい成果を挙げるなど、カリスマ性は義詮を凌いでいたのであろう。秩序と規律で足利家政と政権を安定化させ、吉野方を降伏させることによって皇統・朝廷の統合ならびに戦乱の収束を図ろうとする尊氏や師直にとって、直冬叛乱は絶対に鎮定しなくてはならない案件だった。しかし、尊氏実子を討つにあたっては、一色らの一族被官層では役不足であり、尊氏自身の征西が必要だったと思われる(実戦経験が乏しく名声も直冬に及ばない義詮では意味がなかった)。尊氏は征西に当たり、戦に慣れた師直を同道するとともに「於義詮者為京都守護所進置也」(『園太暦』)と、京都守護として留守と定めた。

 10月17日、洞院公賢は仙洞御所へ混乱する世上を奏上すべく「欲早参仙洞」したが、このとき屋敷に賢俊僧正が訪れて「今日一色飛脚到来、大友小弐悉与同之條勿論也、一色相憑上松浦輩草野等、如形籠城、将軍為発向者、定無子細歟之旨申之、仍来廿五日進発必定之由、有其聞、委旨可参申」ことを報告している。公賢はこれを聞いたのち、参院して光厳院に伝えている(『園太暦』)。このときの一色状の内容はすぐに広まったようで、「鎮西兵衛佐殿直冬、被挙義兵、仍小弐大友与力之由、飛脚内々到来、小弐代官在京之處、一昨日逐電、又越中守護桃井刑部大輔子息兵庫介在京之處、一昨夜同逐電云々、就之来廿五日、将軍可有御発向之由、有其沙汰、鎮西探題一色入道籠于肥前国草野城云々」(『祇園執行日記』)と祇園社家の顕詮が記している。

 なお、直冬に関わる一連の動きは、決して直冬一人によって行われたわけではなく、引退した養父直義入道恵源が大きく関わっていた可能性が高いだろう。とくに大友氏泰の直冬方への転向は、太宰少弐頼尚が直冬方に参向したことが「自京都被仰下子細候之間、参佐殿御方候、御同心候者悦入候」(貞和五年九月廿八日「太宰少弐頼尚書状」『深堀記録証文』『松浦文書』)とあるように「自京都被仰下子細」があったのではなかろうか(「京都」は尊氏ではないため、直義を指すと考えられる)。直冬は在京の直義入道と密接にコンタクトを取りつつ、高一族を討つための挙兵を支えたのだろう。そしてその報告が齎される直前に、大友代官、少弐代官、そして以前から直義入道と関係の深かった桃井直常の子息が京都を脱出したのであろう。

 10月19日、祇園社執行の顕詮はこの九州直冬挙兵と尊氏下向について問い合わせるため、親交のある「行粟飯原許」している(『祇園執行日記』)。ただ、このとき粟飯原清胤邸には「客人来之間帰了」という。その後、「加古局以使聊申了」という。清胤が足利家女房の加古局(足利一家の加古氏出身の女性か)を使者として返答したということか。そして20日には雨の中、「粟飯原、大高殿、渋川ゝ、木良殿等」が顕詮の屋敷を訪問している(『祇園執行日記』)

、密かに京都を脱出した直義(入道恵源)は、翌年正月、尊氏・義詮が播磨国へ出陣した隙をついて、桃井直常(足利一族)を大将とした軍勢をもって京都を制圧した。これら尊氏・直義兄弟の一連の騒乱を「観応の擾乱」という。関東では高師冬(師直従弟)が直義党の上杉能憲に攻められて甲斐国須沢で自刃。その直後、直義は高師直・師泰兄弟を捕らえ、摂津国武庫川で暗殺した。尊氏・義詮は高一族という翼をもがれ、直義方の説得に応じて講和。政局は一旦落ち着きをみせた。しかし、尊氏は高師直兄弟の暗殺を実行した上杉能憲・畠山直宗を越前に流して殺したことから、両者はふたたび対立。ただ、今度の対立で直義に荷担するものは少なく、直義は各地で敗れて鎌倉へ逃れ、ついに囚われの身となった。彼はその直後に死亡していることから、尊氏によって暗殺されたと言われている。

 正平7(1352)年正月26日、「鎌倉殿年始神馬」を祇園社に奉納するにあたり、御所奉行「自粟飯原許引之」という(『祇園執行日記』)

 文和2(1353)年6月9日、南朝方の山名時氏楠木正儀の軍勢が京都奪還を目指して京都へ乱入したとき、清胤は義詮の側にあったが、あまりに急な攻撃に義詮は兵を集めきれずに、後光厳天皇を奉じて粟田口を抜けて京都を脱出し、美濃国小島へ土岐氏を頼ったが、「粟原下総入道」が粟田口のそば、京都神楽岡の戦いで討死しており、これが清胤と考えられる。また『太平記』には「…粟飯原下野守・匹田能登守も討死しつ」 とある(『太平記』)

■文和2(1353)年6月9日条(『常楽記』)

 六月九日 京都没落、粟原下総入道於神楽岡討死・・・

 清胤の弟・粟飯原彦五郎基胤は、鎌倉公方・足利基氏に仕えて「基」字の偏諱を受けていると思われる。基胤は武蔵国で起こった新田義宗義治の乱の追討に出陣し、笛吹峠に迎え撃って大功をあげている。

 阿波国に繁栄した粟飯原氏「太平記二十七巻ニ出ル、粟飯原下総守清胤之末葉也 千葉氏紋月星」とあり、子孫はいつのころか阿波に渡ったようである。

 また、系譜は不明だが、貞治6(1367)年3月29日、越中国新川郡の三条家領「高野庄」につき、「粟飯原次郎右衛門尉直胤」が「高野庄奉書案」を三条家政所に進上した。これは「彼直胤、申成奉書可知行之旨、日来申之故」(『後愚昧記』)であったためであるが、「契約未遣之」と三条家と直胤との間での契約がその後成立したかは不明である。

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粟飯原詮胤(????-????)

 粟飯原下総守清胤の嫡子。官途は弾正少弼左衛門尉。「詮胤」の「詮」はおそらく将軍・足利義詮より受けたと思われる。

 貞和5(1350)年正月6日、室町幕府の政務始である「評定始」が執り行われたが、その評定衆御荷用の一人として「粟飯原又次郎」の名が見える(『御評定着座次第』群書類従巻第五百十一)が、詮胤の可能性があろう。

●貞和五年正月六日御評定着座次第

御座 武蔵守師直 長井大膳大夫広秀 二階堂参河入道行諲 宇都宮遠江入道蓮智
上杉弾正少輔弼朝定 佐渡判官入道道誉 二階堂信濃入道行珍 問注所美作守顕行
御荷用 佐々木五郎左衛門尉 対馬四郎左衛門尉 参河三郎 粟飯原又次郎
外記七郎 信濃左近大夫 狩野三郎 海老名六郎

 延文3(1358)年12月3日の評定始に際して、御陪膳人衆八人のうちの一人に「粟飯原下総四郎」なる人物が見えるが、彼は粟飯原下総守清胤四男であると考えられ、詮胤または兄弟と考えられる(『御評定着座次第』群書類従巻第五百十一)

 粟飯原氏光――粟飯原清胤―+―粟飯原詮胤――?――粟飯原将胤
(下総守)  (下総守)  |(弾正少弼)    (九郎左衛門)
              |
              +―粟飯原下総四郎
              |
              ?
              +―粟飯原常善
               (但馬守)

 12月22日、足利義詮参内の供奉として、「粟飯原弾正少弼詮胤」随身十四騎の一騎として見える(『宝筐院殿将軍宣下記』群書類従巻第四百五)

●延文3(1358)年12月22日『宝筐院殿将軍宣下記』(『群書類従』所収)

 秋山佐渡守高重、松尾美作守堅信、陰山出羽守吉道、粟飯原弾正少弼詮胤
 本間左衛門佐茂景、嶋田土佐守是平、大原阿波守元種、海老名讃岐守詮秀、  
 宇都宮遠江守能重、風間右馬允信忠、多勢左馬助長利、久世対馬守正方、 
 甘富河内守縄家、高梨越後守光範

 貞治4(1365)年に千葉宗家の家督を継いだ千葉介満胤(八歳)の後見人となり、千葉一族代表として幕府に出仕している。

 貞治6(1367)年3月29日に行われた中殿和歌御会に参加した将軍・足利義詮の供奉として「粟飯原弾正左衛門尉詮胤」の名が記載されている(『貞治六年中御会記』:大日本史料第六編二十七所収、『太平記』)。詮胤のその日の装束は「地かりやすの直垂、白泥にて水を書き、黄泥にて楓を書き、腰黄薄、大帷香、白太刀」だったとある。

 詮胤の弟とされる粟飯原但馬守常善は応永5(1398)年、幕府から下総国大戸庄を安堵され、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」では千葉介満胤の軍中にあって幕府軍と戦ったという。

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粟飯原将胤(????-????)

 粟飯原弾正少弼詮胤の子か。通称は九郎左衛門

 応安7(1374)年9月27日の『鎌倉府執事奉書』が発給された一族の中に「粟飯原彦次郎」「粟飯原虎王」が見える。このうち「粟飯原彦次郎」については、下総国における『海夫注文』にも「小見川の津」が知行分である人物として記されている。彼らが満胤ら幕府内で活躍した粟飯原氏とどのような関係にあるのかは不明。

 明徳3(1392)年8月28日に行われた相国寺供養の際、先陣三番に「粟飯原九郎左衛門尉平将胤」と美濃国郡上郡の東下総守平師氏が並列で従っている(『相国寺供養記』)。粟飯原将胤の名は系譜に見えないが、相国寺供養に随った先陣番衆の人々はいずれも名門であり、将胤も政所執事・粟飯原下総守清胤の末裔と考えて差し支えはないだろう。世代的にみると清胤とは五十年ほどの差があることから、孫世代ということになり、粟飯原弾正少弼詮胤の子か。

 将胤の副添として「馬場九郎源秀経」「馬場源六経光」「中島三郎平定重」「白井小太郎藤原元光」が見えるが、馬場氏、中島氏については不明だが、白井氏は粟飯原氏の本拠地・小見川にほど近い香取郡白井村(香取市白井)の豪族だったのかもしれない。

―粟飯原将胤の副添人―

馬場九郎源秀経  
馬場源六経光  
中島三郎平定重  
白井小太郎藤原元光 香取市白井(旧小見川町白井)の豪族?

 同じく相国寺供養に「帯刀」として参列した人物に「粟飯原次郎左衛門尉平兼胤」が見える(『相国寺供養記』)。「粟飯原兼胤」なる人物は、粟飯原下総守清胤の弟に名を見ることができるが(『千葉大系図』)清胤の活躍時期とは三十年から四十年ずれていることなどを考えると、ここに参列した「次郎左衛門尉兼胤」清胤の弟とは考えにくく、九郎左衛門尉将胤の兄弟世代となろう。

●明徳3(1392)年8月28日「相国寺供養参仕人」要旨抜粋
(『相国寺供養記』:『国史大系』35「後鏡」所収)

  土御門有世(刑部卿)
御沓役 日野重光(頭右大弁)
御簾役 花山院通定(右大将)
先侍所 畠山右衛門佐源基国
畠山尾張守満家
戦陣郎従
三十騎
遊佐河内守国長 遊佐豊後守資国 斎藤次郎基則 隅田彦次郎家朝
遊佐孫太郎基光 古山次郎胤貞 神保宗三郎国久 飯尾善六清政
遊佐五郎家国 門真小三郎国康 三宅四郎家村 三宅次郎慶明
誉田孫次郎 酒向次郎国頼 斎藤彦五郎利久 斎藤四郎国家
槙島次郎左衛門尉光元 槙島三郎光貞 杉原五郎貞平 井口彦五郎泰忠
斎藤次郎左衛門尉利宗 佐脇孫五郎久隆 椎名次郎長胤 吹田孫太郎国道
斎藤孫左衛門利房 松田孫左衛門尉秀久 稲生平左衛門尉基宗 和田太郎正友
神保肥前守氏久 神保四郎左衛門尉国氏    
先陣一番 武田伊豆守源信在
福島山城五郎藤原在景 福島肥前彦七郎藤原在直 小笠原又七郎源信長  
小笠原兵庫助源長秀
山中三河守長泰 関太郎左衛門尉政氏    
二番 武田五郎源満信
坪井次郎左衛門尉平盛次 江戸平五秋氏    
伴次郎源長信
広沢掃部允実綱 武者六秀朝    
三番 東下総守平師氏
遠藤修理亮顕基 遠藤新左衛門尉顕保 遠藤郡左衛門大夫顕久 遠藤兵庫助氏遠
粟飯原九郎左衛門尉平将胤
馬場九郎源秀経 馬場源六経光 中島三郎平定重 白井小太郎藤原元光
四番 佐々木三郎左衛門尉高光
若宮新右衛門尉秀重 赤田肥前守高■ 日向太郎左衛門尉久長 箕浦修理亮高長
佐々木四郎左衛門尉高数
多賀兵庫助高信 神保掃部助秀氏 田中孫三郎詮氏 目賀田六郎左衛門尉頼景
五番 今川遠江守源貞秋
柴兵庫助藤原家秀 長瀬駿河守藤原泰貞 横地尾張守藤原長連 勢多修理亮藤原朝昌
寺嶋但馬守藤原泰行 加茂七郎藤原助頼    
今川左馬助源氏秋
佐竹安房守源秋吉 夷比信濃守小野氏信 井伊修理亮藤原朝藤 菅谷掃部助菅原秋政
粟生左京亮藤原氏広 富田八郎藤原言泰    
六番 左兵衛佐源俊氏
巨海弥六橘氏国 新左衛門尉高階満秋 高橋式部丞大宅光秀 三浦日向守平満有
右馬助高階氏業 富永六郎左衛門尉伴貞兼    
土佐守高階師秀
佐渡四郎兵衛尉高階盛直 大炊助高階師守 隅田藤三師親 香川三郎左衛門尉平景家
先駆 治部少輔惟宗行数 大膳権大夫高階敏経 前大膳権大夫大江俊重 前左京権大夫惟宗行冬
帯刀 赤松孫次郎源満則 赤松彦次郎源則康 佐々木大原五郎左衛門尉源満信 赤松近江守源則春
赤松信濃孫五郎則綱 佐々木越中守頼泰 佐々木田中太郎源頼兼 伊勢守平貞行
伊勢七郎左衛門尉平貞長 伊勢因幡八郎左衛門尉平盛久 伊勢因幡九郎左衛門尉平成秀 大内修理亮多々良満景
大内左京亮多々良満長 松田彦次郎藤原満重 松田次郎左衛門尉藤原詮秀 朝山出雲守大伴師綱
宮修理亮藤原満盛 海老名八郎左衛門尉源満秀 本間甲斐太郎源詮忠 粟飯原次郎左衛門尉平兼胤
和田九郎左衛門尉源満平 土肥六郎左衛門尉平直氏 小早川四郎次郎平基平 松田三郎藤原満朝
中條五郎 長佐渡次郎左衛門尉長谷部頼連 佐々木岩山四郎源秀定 市四郎坂上重明
山城三郎左衛門尉平忠泰 富樫介藤原満成 佐々木備中守源高数 佐々木六郎左衛門尉源信長
土岐小里余一源満信 土岐肥田源六満昌 赤松左馬助源頼則 赤松越後次郎源則貞
佐々木五郎左衛門尉満秀 佐々木左近将監源満高    
御車 足利義満
衛府長 下毛野武音
衛府侍 真下新左衛門尉源詮広 古山勘解由左衛門尉平満藤 伊勢十郎左衛門尉平貞清 本庄二郎左衛門尉藤原満宗
朝日三郎左衛門尉藤原満清 古山五郎左衛門尉藤原満景 朝日孫右衛門尉藤原満時 安東平次右衛門尉平満康
後陣一番 斯波治部大輔源義重
二宮余一源種氏 島田平次郎憲国 島田弥次郎重憲 甲斐八郎藤原将教
由宇新左衛門尉多々良氏英 氏家主計允藤原将光    
斯波民部少輔源満種
二宮与二源種泰 長田左近蔵人藤原将経 斎藤石見守藤原種用 岩井彦左衛門尉藤原教秀
安居孫五郎藤原種氏 二宮七郎藤原種隆    
二番 一色右馬頭源満範
小笠原三河三郎満房 小笠原左近将監光長 淵辺長門守兼秀 尾藤三郎左衛門尉種光
氏家近江守範守 佐野中務丞秀勝    
一色兵部少輔源範貞
小笠原修理亮幸長 石川八郎左衛門尉長貞 延永修理亮光信 岩田次郎左衛門尉範久
氏家三郎詮守 川崎肥前守光信    
三番 佐々木備中守源満高
楢崎太郎左衛門尉源高行 蒲生六郎左衛門尉藤原貞■ 儀峨左京亮藤原氏秀 多賀五郎左衛門尉平康貞
目賀田次郎左衛門尉源兼遠 伊庭六郎源高貞    
佐々木山内源三左衛門尉源義綱
高田太郎左衛門尉兼範 高田小次郎兼長 野田九郎左衛門尉信貞 宇佐美彦次郎祐光
赤佐弾正忠高家 赤佐孫三郎秀俊    
四番 赤松出羽守源義祐
浦上帯刀左衛門尉紀清景 浦上弾正左衛門尉紀景則 小寺次郎左衛門尉藤原則職 河匂伊賀七郎小野実秀
佐藤太郎左衛門尉藤原資頼 喜多野帯刀左衛門尉実勝    
赤松三河守源時則
上原弾正左衛門尉神貞祐 後藤弾正左衛門尉藤原則基 富田次郎平貞重 芝原五郎次郎源友久
工藤七郎左衛門尉藤原則久 富田弾正左衛門尉平貞経    
五番 土岐美濃守源頼益
小笠原兵庫助康政 揖斐民部丞貞近 渡辺太郎左衛門尉次久 市橋四郎左衛門尉益仲
土岐伊勢守源光兼
毛利余五美作守国世 毛利左京亮光世    
公卿 今出川左大将実直 花山院右大将通定 万里小路大納言嗣房 勘解由小路広橋大納言仲光
日野中納言資教 中山左衛門督親雅 近衛中納言中将良嗣 柳原別当資衡
殿上人 頭左大弁日野資藤 頭右大弁日野重光 高倉左兵衛権佐永行 飛鳥井中将雅縁
中御門松木中将宗量 日野左中弁資国 西園寺中将実永 勧修寺権右少弁経豊
万里小路右兵衛権佐重房         
管領 細川右京大夫源頼元
小笠原備後守成明 小笠原又太郎頼長 海部三郎経清 由木太郎之春
十河又四郎兼重 安富安芸又三郎盛衡 物部九郎成基 那伽三郎氏宗
内藤左衛門四郎秀綱 長塩兵衛五郎家次 長尾六郎高之 薦田新四郎頼尚
大西三郎貞広 香川五郎頼景 妻鳥但馬十郎清次 荘駿河四郎次郎頼資
松田彦次郎重秀 飯尾善六長尚 佐々木加地彦次郎朝包 粟野三郎範幸
三宅七郎氏村      

 その2年後の応永元(1394)年3月12日、将軍・義満が南都へ向かった際、興福寺一乗院へ宿を取ったが、このとき「粟飯原」が供奉十名の中に見える。この人物の具体的な諱はわからないが、同年9月11日に行われた将軍・義満の日枝神社参詣に供奉した人物に「粟飯原九郎右衛門」が見えるが(『日枝社室町殿御社参記』)「粟飯原九郎左衛門尉平将胤」と同一人物であると思われる。

●応永元(1394)年9月11日「将軍家日枝社参詣供奉人」要旨抜粋(『日枝社室町殿御社参記』:『国史大系』35「後鏡」所収)

将軍家
片庇四方輿、狩衣、直衣
合力十八人
足利義満(准三后従一位前左大臣征夷大将軍)
供奉公卿
四方輿
万里小路嗣房(大納言、惣奉行) 勘解由小路仲光(広橋大納言) 日野資教(東洞院大納言)
中山親雅(中納言) 烏丸重光(右大弁宰相)  
殿上人
狩衣、乗馬
日野資国(東洞院頭弁) 高倉永行(左兵衛佐) 飛鳥井雅縁(近衛中将)
中御門宗量(近衛中将) 中山満親(近衛中将) 山科教興(近衛中将)
四辻実茂(近衛中将) 大宮隆躬(近衛少将) 藤原定清(伯耆少将)
勧修寺経豊(権右中弁)    
衛府侍走衆
徒歩
伊勢貞長(七郎左衛門) 伊勢十郎左衛門 伊勢盛久(八郎左衛門)
曾我満康(平次右衛門) 本庄満宗(次郎左衛門) 粟飯原九郎右衛門
朝日満清(弥三郎右衛門) 松田満重(上野彦次郎) 小早川基平(四郎次郎)
松田満朝(備前三郎)    
  細川頼元(右京大夫) 畠山基国(右兵衛佐)  
京極高詮(治部少輔) 六角満高(備中守) 結城藤原満藤(勘解由左衛門尉)
奉行 飯尾貞之(美濃守)      
女中 紀良子(大方殿) 寝殿御方  
新御所 足利義持    

 永享年中(1429~41)の奉公衆、詰衆四番中に「粟飯原下総入道」「粟飯原三郎左衛門尉」の名が見える(『永享以来御番帳』)。「粟飯原三郎左衛門尉」は「粟飯原下総入道」の子か? 「下総入道」は「粟飯原下総守清胤(のち粟飯原下総入道)」の末裔と考えられ、九郎左衛門将胤の後身かもしれない。

 文明18(1486)年7月、足利義尚の「右大将」拝賀の際に「粟飯原下総前司胤元」が見える。時代的に永享年中の「粟飯原下総入道」の孫世代であろう。そして某年8月16日、奉公衆の「粟飯原三郎左衛門尉」「依困窮」って「餓死」しそうになり「遁世」したという(『吉見文書』)

 粟飯原三郎左衛門尉、依困窮及餓死之■、昨日十六日遁世仕候、
 対 上意申、更無別心緩怠通、以書状申入候由、相番中へ■申置候、
 以御憐愍、可然様被■食計候者、各忝可存候由、以御取合、御披露可畏入候、
 恐々謹言、
 
  八月十七日  下津屋与次郎
            信秀(花押)
           :
           : 
         東宮内少輔
            師胤(花押)
 
         大和佐渡入道
            永存(花押)
 
         ■■新蔵人佐
            資継(花押)

 この粟飯原三郎左衛門の出家遁世は、近江国守護職・佐々木高頼の幕命無視から引き起こされた、頼高による近江国内の奉公衆領押領にあった。幕命に背き続ける六角氏を追討すべく、長享元(1487)年9月12日、将軍・足利義煕(義尚)は頼高追討の兵を起こして親征。みずから近江国内で戦闘の指揮を執ったが、急な病に倒れ、長享3(1489)年3月26日に陣没した。享年二十五。

 文明18(1486)年7月に名が見える「粟飯原下総前司胤元」と翌年餓死の危機に瀕した「粟飯原三郎左衛門尉」がいかなる関係にあるかは不明だが、永享年中(1429~41)の詰衆四番中の「粟飯原下総入道」「粟飯原三郎左衛門尉」の関係からみると、近い親族と考えられる。

■千葉介竹壽丸後見人(一族)

名前 法名 実名
粟飯原弾正左衛門   粟飯原弾正左衛門尉詮胤
大隅次郎   千田義胤?大隈守の二男をあらわす。木内下総介胤康の義弟。
相馬上野次郎   相馬左衛門尉胤長
大須賀左馬助   大須賀左馬助憲宗
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
東次郎左衛門尉入道 沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀
木内七郎兵衛入道    
国分六郎兵衛入道   国分小六郎胤任?
国分与一   国分与一氏胤?
国分越前五郎   国分越前五郎時常
神崎左衛門五郎   神崎左衛門五郎秀尚(文和3年:1354の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?)
那智左衛門蔵人入道   ?(下総町の那智山に関係した大須賀・神崎・木内一族か?)

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』(『旧大禰宜家文書』)

 下総国香取社大禰宜長房申、当国津宮津以下浦々海夫事、注文一通遣之、度々被仰之處、
 不事行云々、甚不可然、所詮云知行分、云庶子等分、厳密可被致其沙汰、若猶及異議者、
 可有殊沙汰之由候也、仍執達如件、
   応安七年九月廿七日      智兼(花押)
                  道轍(花押)
    千葉介殿

国分三河入道、同余一、海上筑後八郎入道、木内七郎兵衛入道殿、東六郎、東次郎左衛門入道、神崎安芸次郎、多田左衛門五郎、粟飯原彦次郎、同虎王、以上十一通名所々付之外者、同文章

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』が発給された一族

名前 法名 実名
千葉介殿   千葉介満胤
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分与一   国分与一氏胤?
海上筑後八郎入道   海上筑後八郎入道公胤
木内七郎兵衛入道 沙弥誓阿 木内下総介胤康?
東六郎   東胤光?
東次郎左衛門入道   東次郎左衛門尉胤秀
神崎安芸次郎    
多田左衛門五郎   文和3(1354)年の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?
粟飯原彦次郎   粟飯原基胤の子?
粟飯原虎王   粟飯原彦次郎の子?

■『海夫注文』に見える、各氏族が支配した下総の海夫■

名前 実名 支配した津
飯沼   いひぬまかうやの津(飯沼:銚子市飯沼町)
海上筑後八郎入道 海上公胤入道 かき祢の津(垣根:銚子市垣根町)
野志りの津(野尻:銚子市野尻町)
志不可わの津(塩川:銚子市内)
森戸 森戸胤豊? も里との津(森戸:銚子市森戸町)
篠本   さゝもとの津(篠本:銚子市笹本町)
石出   いしての津(石出:香取郡東庄町石出)
今泉   いまいつミの津(今泉:香取郡東庄町東今泉)
東六郎 東胤光か? さつさ可わの津(笹川:香取郡東庄町笹川)
粟飯原彦次郎 粟飯原基胤の子? おみ可わの津(小見川:香取 市小見川)
大蔵(安富?)   たとかうやの津(??)
そ者多可の津(側高:香取郡小見川町脇鷹)
ゑちこうちの津(越後内?)
中村三郎左衛門尉   すくゐの津(須保居:香取市内)
不つ可わの津(布津川?)
内山中務(中沢)   不つ可わの津(布津川?)
よこす可の津(横須賀:香取市内)
中村式部 中村胤幹 つのミやの津(津宮:香取市津宮)
さわらの津(佐原:香取市佐原)
けつさわ   志の原津(篠原:香取市篠原)
国分与一 国分氏胤? せきとの津(関戸:香取市佐原イ)
木内 木内七郎兵衛入道 いわ可さきの津(岩ヶ崎:香取市岩ヶ崎台)
知行人不明   いとにわの津(井土庭:香取市内)
国分三河入道 国分胤詮 奈可すの津(中洲?)
神崎西■■ 神崎安芸次郎 かうさきの津(神崎:香取郡神崎町神崎本宿?)

■応永17(1410)年8月10日『香取社造営料足内納帳写』の簡単な内容

名前 知行 名前 知行
円城寺六郎兵衛   明石入道  
円城寺右衛門五郎 長峯郷(若葉区大宮町) 明石民部四郎  
円城寺源兵衛 須越 匝瑳勘解由入道(村山殿)  
円城寺四郎 飯田(佐倉市飯田台) 匝瑳二郎左衛門 高田
円城寺将監入道 高津原(多古町高津原)   匝瑳兵衛二郎  
佐野(多古町佐野)   中村三郎左衛門 土橋(多古町)
円城寺源内左衛門 椎名(緑区椎名崎町) 高房代民部  
牛尾(多古町牛尾) 平河新兵衛入道 篠塚
円城寺能登守 大和田(八千代市大和田) 平河左衛門四郎 篠塚
八幡庄内釈迦堂免(?) 平河中務 森田
風早たうちやう にしな(仁科?)
円城寺近江入道 谷当(千葉市内) 紀 弥次郎 高石神長小免田
円城寺掃部 河井(千葉市内) 粟飯原六郎 泉水
円城寺三郎左衛門 架臂(若葉区加曾利町) 椎名(緑区椎名崎町)
円城寺左衛門五郎 星茎(中央区星久喜町) 荻迫
円城寺兵庫入道 矢作(中央区矢作町) 粟飯原三郎
円城寺勘解由 大針 粟飯原五郎  
原 越前入道 原郷(多古町原) 泉水与三兵衛入道 泉水
長峯郷(若葉区大宮町) 泉水太郎二郎入道 泉水
椎名郷(緑区椎名崎町) 泉水兵庫入道 泉水
小栗原 木内五郎左衛門入道 大原(多古町大原)
牛尾(多古町牛尾) 寺山
高篠 八代
原将監 高崎 六崎新兵衛 六崎
三谷蔵人   六崎新左衛門 六崎
三谷兵庫 中沢(印旛郡富里町中沢) 六崎将監入道 大谷口(松戸市大谷口)
おとろかうや(富里町高野?) 高千代民部 大谷口
楯跡 村越九郎左衛門入道 高崎
苅荒野 宍倉七郎左衛門入道 篠塚
三谷又四郎 若宮戸 椎名(緑区椎名崎町)
ひちかや(八街市文違) 寺山新兵衛入道 寺山
三谷孫六 亀崎(八日市場市亀崎) 寺山五郎左衛門 寺山
牛尾(多古町牛尾) 芝原四郎左衛門  
三谷弾正 大原郷内篠塚 麻生入道  
三谷平七 蒲萱 橋間掃部 花薗
椎名九郎 椎名(緑区椎名崎町) 又二郎入道  
はたの六郎   平新左衛門 高篠
風早たうちやうより  
竹元六郎 竹元(多古町笹本?)       

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