原胤栄 原胤義 原胤信の三代

原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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原 胤栄(1551-1589)

 原上総介胤貞の嫡男。母は高城氏女。通称は十郎。官途は従五位下・式部大輔。天文20(1551)年誕生。読みは「タネヨシ」で「胤義」とも。

●遠山氏系図(『浅羽本遠山系図』より作成)

⇒明智景保――遠山直景―+―綱景―――+―政景――――――直景
(左衛門尉)(紀伊守) |(丹波守) |(甲斐守)   (右衛門大夫)
            |      |
            +―康光   +―女
             (左衛門尉)|(法性院日昭) 【1578-1642】  【水戸藩主】
                   |  ∥――――――於勝======徳川頼房―+―光圀
                   | 太田康資   (英勝院)   (権中納言)|
                   |(新六郎)     ∥       ↑   |   
                   |         徳川家康――――徳川頼房 +―頼利――女
                   |        (征夷大将軍) (権中納言)      ∥
                   |                            ∥   
                   +―女―――――――遠山直次               ∥
                   |(大道寺政繁妻)(長右衛門)              ∥
                   |                            ∥
                   +―女                          ∥
                   | ∥―――――――女【住下総、原氏妻】         ∥
                   | 高城胤辰                       ∥
                   |(下野守)          【水戸藩家老】      ∥
                   |                白井伊信        ∥
                   +―女             (忠左衛門)       ∥
                     ∥―――――――滝野      ∥―――――――――白井信胤
                    舎人源太左衛門  ∥―――――――女        (忠左衛門)
                             ∥
                           倉橋庄兵衛

 胤栄は原一族の惣領として、千葉宗家とまったく同じ形式で『官途状』『受領状』『元服状』を発給しており、原氏が千葉宗家と肩を並べるほど権力を持っていたことがうかがえる。天正6(1578)年11月15日、一族の原某「兵部少輔」の官途名を授け『原胤栄官途状』、天正14(1586)年11月13日には、原胤重「志摩守」の受領名『原胤栄受領状』を、おそらく原志摩守の子と思われる原孫八郎「胤」字を授けて元服させている『原胤栄元服状』

 某年6月11日には、胤栄は一族の「孫三郎」「志摩守」へ宛てて、小田原への参府をねぎらった上で、小田原へ差し出した作事人足について「尾州(松田憲秀)」からの申し達しがあり、人足たちが奉行人に対して慮外な振る舞いがあったことにつき、次に送る人足たちがもし慮外な行為をしたならば容赦なく五人でも十人でも成敗せよと命じている。

 このように原胤栄は一族の庶家をみずからの支配下に置くことによって、大きな勢力を作り上げていたことがうかがえる。原氏の支配した「臼井領」の領域については、天正5(1577)年3月16日付けの、千葉氏と高野山蓮華王院(千葉氏の宿坊)との関係を約した『原豊前守胤長文書』(『内藤家文書』)によると、「臼井領」は臼井庄を中心に南は千葉庄までを、西は高城氏領の船橋郷・吉橋郷・栗原六郷に接する地点までとされる。他にも小弓郷なども領していたと推測される。周辺の弥富・小西、相馬郡手賀にも一族を配した。

 原氏が支配していた臼井衆については、永禄8(1565)年に北条氏政酒井胤治(土気城主)を攻撃した際に、胤治勢は臼井衆の「原弥太郎、渡辺孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎、鈴木始五十餘人討取候」(『河田文書』)とあり、土気酒井氏の家臣・河田氏が大功を挙げたことが記されている。また、臼井衆には西上総の国人「宍倉兵庫助」もあり(『宍倉文書』)、臼井原氏の影響力は下総を越えて西上総にまで及んでいたことがわかる。いずれも小弓城の周辺である事から、西上総の在地領主を支配下に取り込んでいったと考えられる。

●臼井衆の諸氏たち

渡辺 渡之辺氏・渡辺氏が室町期に千葉氏の重臣として、円城寺氏とともに署名していたことがあり、その末裔か。
大畑  
大厩 上総国市原郡大厩村(市原市大厩)
宍倉 上総国武射郡木原郷(山武郡山武町)
齋藤  
仁戸名 千葉庄仁戸名郷(千葉市中央区仁戸名)
菊間 上総国市原郡菊間村(市原市菊間)
酒井  
金親 千葉庄金親郷(千葉市若葉区金親町)
秋山 八幡庄秋山村(松戸市秋山)
佐久間  

 また、天正7(1579)年4月3日、弟といわれる原胤親(筑前守)が治める相馬郡手賀城(柏市手賀)に攻め寄せたが、相馬郡の武士たちの反撃にあって壊滅し、命からがら臼井に逃れたという伝承が手賀地方に伝えられているが、これはおそらく虚構であろう。

 天正13(1585)年、千葉氏は北条氏の支配下に入り、同じく胤栄も北条氏に従属することとなり、臼井衆の筆頭に位置づけられた。

 天正17(1589)年12月5日に亡くなった(『本土寺過去帳』)。享年三十九。戒名は龍雲院殿弘岳大宗大居士。天正18(1590)年に野田十文字原で、徳川家の酒井家次と合戦して討死した伝は誤り。慶長5(1600)年10月1日に亡くなったという「原胤義(大賢院殿震嶽道雄大居士)」とは同一人物であろう。

天正6(1578)年11月15日『原胤栄官途状』

   官途

 天正
  十一月十五日  胤栄(花押)
 六年

   原兵部少輔殿

天正14(1586)年11月13日『原胤栄受領状』

   受領

  天正  
   拾一月十三日  胤栄(花押)
  十四年

   原志磨守殿

天正14(1586)年11月13日『原胤栄元服状』

     元服
 
     胤

  天正十四年
   拾一月十三日  胤栄(花押)
 
   原孫八郎殿

某年5月17日『原胤栄書状』(『大須賀文書』:『千葉県史料 中世篇』所収)

 其以来者、依無指題目不申過候之處、預御書中候、如蒙仰候、
 先日上総口ニ手切之郷御座候ニ付而、不時ニ人数被相遺、於彼村敵衆廿四人討取候、
 定而為可御満足候、殊更於当口珍物両種送給候、誠ニ賞翫申達候、何様自是御礼之儀可申述候、
 恐々謹言、

               原式
     五月十七日     胤栄(花押)
 
     大孫
         御報

某年6月11日『原胤栄文書』(『宍倉文書』:『千葉県史料 中世篇』所収)

 急度申越候、此度之参府大儀不及申候、仍二番普請之人足指越候、奉行人之事、自尾州如承候由、
 証人替八人早々候間、被衆奉行ニ可然之由作事ニ候、尤ニ存候、大儀候得共、何も同意候而、
 能々可被申付候、此以前之人足共、奉行衆へ慮外申候由聞及候、無是非次第与候、
 今度之人足若々慮外之儀も候者、此方へ不及断、於其元五人も十人も可有成敗候、
 少も不可有遠慮候、恐々謹言、

                  式部大夫
    六月十一日           胤栄
 
    孫三郎殿
    志磨守殿

  

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原 胤信(1587-1623)

 原式部大夫胤栄の嫡男。幼名は吉丸。通称は左五右衛門、のち主水助

 天正17(1589)年、父の胤栄が三十九歳の若さで亡くなり、数え三歳で家督を継承。臼井城には一族の原大炊助邦房が入り、その保護のもとで暮らしていた。しかし、翌天正18(1590)年に勃発した小田原合戦の余波で、徳川勢によって居城臼井城を囲まれて降伏。5月19日に小弓大厳寺の住持・安誉虎角から酒井左衛門尉忠次へ宛てた書状中に「就其当時檀那ニ候原吉丸幼少ニ候得共、臼井為者主在城処、従 関白殿御下知故、無是非出城之分候」と見え、胤信は開城時には臼井城内にあって、秀吉の指示によって城を追われていたことがうかがえる。おそらく所縁のある寺社に身を寄せていたのだろう。

 その後、原氏の重臣は大厳寺に詣でて安誉とその後の対応を相談し、安誉から酒井忠次へ「於当国下総之内、如前々自家康様蒙御扶持候者、至身之事者不及申、至愚僧迄生前之大慶不可過之候」と、下総国内の諸侍が徳川家に仕えることを願い出、千葉家の旧臣は相当数召抱えられた。胤信は幼いながらも家康に召抱えられ、その側近となる。また、上総国東金城の旧城主・酒井政辰(左衛門尉)とその子・酒井政成(金三郎)もまた召し出されていた。

 慶長5(1600)、胤信は大坂に於いて、イエズス会神父ペドロ・モレホンより洗礼を受け、ヨハネの洗礼名を授かった。どういった経緯で神父と出会ったかは定かではない。

 慶長6(1601)年の伏見城再建時だと思われるが、原吉丸と酒井金三郎は、伏見城の造営巡検の徳川家康の小姓として従ったが、この突然の家康の巡検に吉丸は裸足のまま家康のくつを持って付き従ってしまった。当時は炎天の盛りであり、石が焼けるように暑くなっていて、吉丸は焼け石の上で爪先立ちで暑さと戦っていた。このとき吉丸とともに家康に従っていた同僚の酒井金三郎は、吉丸の苦しげな姿を見てみずからの履を脱いで吉丸に履かせた。これを見た同僚たちは「二人は親友とはいえ、衆人の見ている前で同僚に履を履かすことなどありえようか」と口々に言い立てたので、目付も捨ておけなくなり、家康にこのことを告げた。

 家康もこの話は別のところで聞いていたようで、酒井金三郎を呼び出して問い質したところ、金三郎は「それがし唯今吉丸と同列に侍れども、そのはじめをいはゞ、彼は主家にて侍れば、其が熱石の上にたゝずむを見るにしのびず、草履履かせしまでにて、深き故あるにも侍らず」と答えた。つまり、酒井家は「千葉に原、原に高城、両酒井」とあるように原氏の重臣の一人であった。家康はこの金三郎の言葉に「金三郎、若年ながら旧主を思ひ本を忘れざるは、武士の道にかなひ神妙のことなり」とほめた上で、「その心ならば、家康が恩をも恩と思ふべし、末頼もしき侍かな」と言い、金三郎は加増されたという(『徳川御実紀』)

 吉丸は若くして信濃国高遠に四百石の知行を受け、鉄砲組頭に就任した。しかし慶長5(1600)年、キリスト教に密かに入信し、洗礼を受けてヨハネと改称している。

 その後、徳川家が政権をとってのちもキリスト教禁教令は引き継がれていくこととなり、旗本のキリシタン詮議が行われるに及んで胤信は転教を拒否し、当時在勤していた駿府を出奔。高力右近忠房の城下町、武蔵国岩槻にいた親類の粟飯原氏を頼った。しかし、慶長19(1614)8月、「かねて原主水と姦通」していた「駿城後閤の女房」が、原主水の追放を恨んで「大逆を企し事顕はれ」て処断され、さらにその兄の野尻彦太郎も押し込めとなった。その後、捕えられた胤信は駿府に護送されて額に十字の焼印を押された上、安倍川河畔に曳きだされて、両手足の指と両足の腱を切られて放置された。その後、助けられた胤信は、駿府郊外の耕雲寺の住職に匿われて生活を送ることとなった。

 その後、傷もふさがったため、胤信は江戸浅草にのぼり、キリシタンとの交流および布教をおこなったため、ふたたび捕縛されて小伝馬町の牢屋敷へ送られ、元和9(1623)年10月13日、芝高輪において五十一人のキリシタンや神父とともに火刑に処された。享年三十七。これを「元和の殉教」という。

 彼の行動に感銘を受けた幕末の江戸南町奉行所組与力・原胤昭(手賀原氏の末裔で、原胤信の子孫ではない)は明治6(1873)年のキリスト教解禁とともにキリスト教に入信し、翌年に洗礼を受けた。その後、日本初の監獄教誨師となって身寄りのない囚人たちの世話をする一方、囚人労働の改善や出所後の生活のために奔走した。

原嫡流一族

●参考資料●

『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者―  浜名敏夫氏
『新発見の小弓・臼井原氏関係文書について』 黒田基樹氏


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