●郡上藩・三上藩遠藤家
| 郡上藩・三上藩の概要 | 美濃郡上藩主 | 近江三上藩主 | 郡上遠藤家 |
| 木越遠藤家 | 乙原遠藤家 | 和良遠藤家 |
●東氏の歴代
| 郡上東氏 | 郡上東氏歴代 | 東氏惣領家 | 須賀川東家 | 森山東家 |
| 土佐藩遠藤家 | 木曾遠藤家 | 田中藩遠藤家 |
| 苗木藩東家 | 小城藩東家 | 医官東家 |
●郡上藩歴代藩主
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 | 法名 |
| 初代 | 遠藤慶隆 | 1550-1633 | 1601-1632 | 従五位下 | 但馬守 | 遠藤盛数 | 東常慶娘 | 乗性深心院 |
| ―― | 遠藤慶勝 | 1588-1615 | ―――― | 従五位下 | 長門守 | 遠藤慶隆 | 三木良頼娘 | 明心大神院 |
| 2代 | 遠藤慶利 | 1609-1646 | 1632-1646 | 従五位下 | 但馬守 | 三木直綱 | 遠藤慶隆娘 | 至誠院乗雲 |
| 3代 | 遠藤常友 | 1628-1675 | 1646-1675 | 従五位下 | 備前守 | 遠藤慶利 | 板倉重宗娘 | 常敬院素信 |
| 4代 | 遠藤常春 | 1667-1689 | 1676-1689 | 従五位下 | 右衛門佐 | 遠藤常友 | 戸田氏信娘 | 恵正院素教 |
| 5代 | 遠藤常久 | 1686-1692 | 1689-1692 | 従五位下 | ―――― | 遠藤常春 | 側室某氏 | 本了院素道 |
●三上藩歴代藩主
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 | 法名 |
| 初代 | 遠藤胤親 | 1683-1735 | 1692-1733 | 従五位下 | 但馬守 | 白須政休 | 小谷忠栄娘 | 宝地院素吟 |
| 2代 | 遠藤胤将 | 1712-1771 | 1733-1771 | 従五位下 | 備前守 | 遠藤胤親 | 久松氏娘 | 大心院素江 |
| 3代 | 遠藤胤忠 | 1732-1791 | 1771-1790 | 従五位下 | 下野守 | 遠藤胤親 | 田所氏娘 | 東覲院素秋 |
| ―― | 遠藤胤寿 | 1760-1781 | ―――― | ―――― | ――― | 遠藤胤忠 | 青木氏娘 | 心開院素練 |
| ―― | 遠藤胤相 | 1761-1814 | ―――― | ―――― | ――― | 酒井忠与 | 西村氏娘 | 霊信院素淳 |
| 4代 | 遠藤胤富 | 1761-1814 | 1790-1811 | 従五位下 | 左近将監 | 松平信復 | 小林氏娘 | 自得院素行 |
| 5代 | 遠藤胤統 | 1793-1870 | 1811-1863 | 従四位下 | 中務大輔 | 戸田氏教 | 猿田氏娘 | 敬武徳院素中 |
| ―― | 遠藤胤昌 | 1804-1855 | ―――― | ―――― | 式部少輔 | 松平義和 | 某氏娘 | 直諒院素温 |
| 6代 | 遠藤胤城 | 1838-1909 | 1863-1909 (藩知事含む) |
従五位下 (贈正三位) |
但馬守 (子爵) |
遠藤胤統 | 小谷氏娘 |
| 四代藩主 |
(1667-1689)
| <名前> | 常信→常春 |
| <通称> | 外記 |
| <正室> | 松平日向守源信女 |
| <正室2> | 牧野因幡守富成女 |
| <父> | 遠藤備前守常友 |
| <母> | 戸田采女正氏信女 |
| <官位> | 従五位下 |
| <官職> | 右衛門佐 |
| <就任> | 延宝4(1676)年6月30日~元禄2(1689)年3月24日 |
| <法名> | 恵正院素教 |
| <墓所> | 郡上市美並町白山の深心院乗性寺 |
―遠藤常春事歴―
郡上藩四代藩主。父は遠藤備前守常友。母は戸田采女正氏信の娘。妻は松平日向守源信女、のち牧野因幡守富成女。寛文7(1667)年江戸に誕生した。
遠藤常友
(備前守)
∥――――――遠藤常春======遠藤胤親
戸田氏信――+―娘 (右衛門佐) (但馬守)
(采女正) |
+―戸田氏西―――戸田氏成 白須政休
(肥後守) (淡路守) (甲斐守)
∥ ∥
∥ ∥――――――遠藤胤親
小谷守栄―+―娘 +―娘 (但馬守)
|(牧野成貞養女) |
| |
+―小谷忠栄 +―娘
(将監) |(陽春院)
∥ |
∥―――――――+―於伝の方 +―徳松
鶴牧信幹―――娘 (瑞春院) |
(茂右衛門) (高覚院) ∥ |
∥――――+―鶴姫
徳川家康――+―徳川秀忠―――徳川家光――――――徳川綱吉 ∥
(初代将軍) |(二代将軍) (三代将軍) (五代将軍) ∥
| ∥
+―徳川頼宣―――徳川光貞――――+――――――――徳川綱教
(和歌山藩主)(和歌山藩主) | (和歌山藩主)
|
+―徳川吉宗
(八代将軍)
延宝3(1675)年2月28日、四代将軍徳川家綱に初御目見した。ときに九歳。ところが翌延宝4(1676)年5月4日、父・備前守常友が急逝したため、6月30日に十歳の幼さで郡上藩の継承が認められ、外記常信と称する。7月11日には父の形見である保昌五郎の太刀一振りを将軍家に献上した。家督相続に当たり、家職を定めているが、池田庄兵衛、遠藤十兵衛が「両人二而御後見」を命じられている(『遠藤外記様家中騒動記』)。
| 御後見 | 池田庄兵衛 | 遠藤十兵衛 | ||
| 国家老職 | 遠藤新左衛門尉 | 遠藤十郎右衛門 | 遠藤杢之助 | 畑佐兵左衛門 |
| 御仕置家老 | 松井縫之助 | |||
| 鉄炮足軽大将両人 | 野田覚右衛門 | 石井文右衛門 | ||
| 同役 | 遠藤市右衛門 | 沢部丈助 | ||
| 同役 | 村山三右衛門 | |||
| 御用人四人 | 餌取六郎右衛門 | |||
| 御分地二千石 | 遠藤新六郎 | 遠藤治部右衛門(付) | ||
| 豊田覚右衛門(付) | ||||
| 御分地千石 | 遠藤源五郎 | 鷲見庄右衛門(付) | ||
| 郡奉行 徒士頭 |
遠藤金左衛門 | |||
| 寺社奉行 | 垣見伊右衛門 | 武光市左衛門 | ||
| 聞番 | 村瀬忠治郎 |
延宝7(1679)年正月、郡上にて騒擾が起こった。
この騒擾のきっかけは、藩主外記常信が「御幼稚にて郡中之政務等一向家老任セに仕置」したため、新役が増えて多くの金がかかり「殿様御台所御不如意ニ被為成候」ために様々な加役が増やされたことで「被召上百姓困窮仕」り、「百姓方堪忍難成候」として延宝5(1677)年、「郡中百姓寄合一同に申合致徒党」し、五名の頭取が百姓を率いて大勢を以て「加役(臨時負担)御訴訟」のために江戸の郡上藩邸に罷り下り、「右御宥免之御訴訟達而奉願候」したことに端を発する。
藩主の外記常信は当時十一歳で「何のわきまへも無之候」であったため、百姓らの対応は「御家門様方御寄合被遊御評議ニ而、対戸田左門様、板倉周防守様、石川様、遠藤新六郎様、同源五郎様被遊御相談」た上で、国家老の「郡上御家老之内遠藤杢之助を御召下し、郡上の様子とくと御聞可被遊由、御評定相究」った。これを請けて郡上から家老遠藤杢之助が江戸表へ参着。御家門らは杢之助に「逐一に郡上の様子御尋被遊」た。杢之助は「郡上之義者、極山中故地形不宜、少シ高免ニも相見へ、諸役多、殊更以近年申付候口米之義者三分之義ニ候へ共、四分之口米例も不承及候、万一御評定江郡上之百姓御願出申候てハ、当家の御為メ如何奉存候間、御免合少シ御引下ケ、過役等も御免被遊可然様ニ奉存候(郡上の状況については、極めて山深い場所であるため地形が悪く、収穫量が少ないにも拘わらず年貢の率が少し高いと見受けられます。その上、諸役も多く、とりわけ近年申し付けられた「口米」の率は通常石別三升のところ、郡上は四升と高率で他に聞いたことがありません。万が一、郡上の百姓たちが評定所へ直訴に及べば、当家にとってどれほど重大な事態になるかと考えますので、税率を少し引き下げ、百姓の負担となっている諸役も免除されることが望ましいと考えます)」と現状をありのまま申上げた。これに「御一家様方」も「御尤と被思召」され、訴訟に出た百姓には「御一門様」より「訴訟之趣、被聞召分相叶候而、惣百姓江被仰付候」という。具体的には「高に七分、残り米四分御定免、共外過役の品々減少被仰付」た上で、これらを公的に認めた「御墨付頂戴仕」が五名の百姓に与えられた。こうして百姓らの負担は軽減されることとなったが、「外記様御領分にて、御年貢米弐千石余相減シ、其外諸役等大分ち減少仕候」という藩収入の大幅な減少を招くこととなった。「御納戸方、まへ方とハ夥敷相違にて有之」という状況に、「御家中御減シ被成候より外、御分別茂無ク相見へ、家中之面々其の代替として「家中江上下共ニ去冬六分一減米ニ仰付」という措置が取られたのであった。
この状況に「家中、彼是と談合有之」の結果、「難題七拾ヶ条、目安ニ書立、家中連判弐百壱人内弐拾六人目安ニ連判被致」して、延宝6(1678)年7月11日に杢之助を藩侯常信の後見人・戸田左門氏西(大垣藩主)へ告発するため「戸田左門様江指上申筈ニ究候て為持遣」した。その使者は「大垣領新月村ニ而、俄ニ作病を起し、夫より日傭を頼候而、大垣之家老中へ差遣申候」という。この使者の「作病之故」は「此連判之頭人知レ不申義、気之毒ニ存る之義と申」ためであり、そのため氏西への披見が遅れ「大垣家老中より左門様へいまだ御披見ニ不入」という状態のまま氏西は「俄ニ江戸より御召ニ付、左門様ハ江戸表ヘ御下向被遊候」とあるように、連判状を披見することなく江戸へ発ってしまった。
一方、郡上では11月14日に初めて「連判之内両三人」が「伺之御用」でもなく「江戸より差図」で江戸に召されることになり、11月15日に出立した。この三人が召されたのは「杢之助悪名をハ聞届被下候様ニと兼而申入置候由」という根回しによるものといい、三名は「御聞書相添」えて江戸へ上った。そのころ杢之助側ではこれらの動きを全く知らず、その間に自分たちに近い親類等が次々江戸に呼び出されている事実を知り、不審を感じていた。
江戸へ出た「連判之内両三人」は「御聞書」を戸田左門へ渡し、それについて「一々御吟味被遊」された。その後、「左門様より御横目両人」がこの「御聞書」を添えて郡上藩邸に派遣され、「外記様(遠藤常信)」が「目安」に記された條々を見た。ただ、このとき常信はわずかに十歳であり七十条にも及ぶ「条目之品、莫大数ヶ条なる故、御合点難被成由」であった。そのため「連判之内両三人」は「即座にて数をへらし候而十二ヶ条ニ相つゝめ指上」た。すると、大垣藩邸からの両目付は「此度之条目連判之頭人ハ何レ両三人にて可有」と尋ねるが「右三人之衆、有無之返答無」という。今回の連判衆は頭人を知られたくないために様々に工作を行っており、当然ここに召された三人衆もそれを答えることに躊躇したとみられる。
結局、この十二ヶ条を議論した結果、藩内の騒擾を鎮めるために「杢之助を大垣ヘ被召寄、切腹為致候に相極候」と決したため、「大垣之御家人山田又左衛門に被仰付、大垣ヘ被参候」という。また、郡上藩側も江戸藩邸から「極月廿六日に杢之助義、大垣へ被越候様御状」を国元へ急ぎ遣わし、12月26日に杢之助は大垣へ赴くようにとの指示をしている。ところが、この件について「大垣より申合之使者、不参候故、手筈相違」ったため、杢之助は「大垣へも日限相延候」となってしまう。なぜ大垣から郡上へ申合の使者が遣わされたなかったのかは定かではないが、大垣に隠居していた老公戸田一閑の指図によるものかもしれない。
結局、杢之助を近々に合法的に殺害することが不可能となった「連判之衆」は過激派と化してしまう。彼らは「連判之衆中談合有之」して「兎角正月元日ニ御城ニ而杢之助を闇討ちニ可仕」と決定し、連判衆側の頭人とみられる家老「(遠藤)新左衛門」邸に「連判之衆四、五拾人打寄候」したが、その連判衆のうち「鷲見八右衛門、角庄右衛門、垣見伊右衛門、太田助左衛門、伊藤三左衛門」の五名が過激な言説に反発して離脱。12月28日午刻、「江戸御一門中様方」に宛てて「爰元連判之様子不埒故、拙者共ハ立退申候」ことを飛脚を飛ばして報告した。同日、なぜか「杢之助方へも何方より歟、廿八日ニ聞へ申し候」ことがあった。おそらくこの離脱した五名からの密告であろう。ここで正月元日の暗殺計画を知った杢之助は「存念之段、書状被相認、江戸御一門様方へ廿八日夜九時ニ手前中間に為持、為飛脚被遣候」という。ただし、この飛脚が江戸へ着したのは翌延宝7(1679)年正月2日のことであった。
その後、杢之助方への情報漏洩を知ったか、「連判方も最早杢之助を朔日ニハ討れ申間敷」ことを悟り、「二日之日に御城にて御弓初ニ討申筈」へと計画を変更した。この計画の「正月二日ハ遠藤市右衛門当番にて登城被致候」といい、連判衆の頭目の一人である「遠藤市右衛門」が当日の当番家老であった。遠藤杢之助は「極月廿日頃、気分悪敷候ヘ共、御公用一義、彼是取沙汰有之候故、年内無滞御勤」と、12月20日頃より体調が悪化していたものの、公務こそ第一であると考え、周りで様々な噂や沙汰が飛び交っているが、年内の勤めを何とか滞りなく勤め上げた。さらに杢之助は「元日ニハ、若党草履取斗にて家中へ年始之礼ニ被出候」と、正月元日はほとんど供を連れずに登城し「年始之礼」を執り行った。その場で「委敷義、御存候通り、去冬より気分悪敷候得共、連判衆闇打ニ可致候由承候故、無理ニ今日まで相勤申候、明日より引込養生可致候」と、連判衆の存在と自らの暗殺計画を暴露し、元日の務めも無事に行ったので明日よりは屋敷に籠って養生する旨を宣言した。藩士らからも異存は出ることなく遠藤杢之助の二日の登城がなくなったため、正月2日、遠藤忠右衛門、遠藤治部右衛門の両家老は鎖帷子などを着すことなく登城した。
一方、領内の百姓たちは「杢之助殿事、去々年御訴訟之節、腰をおし被申候由にて今宵闇討ニ可被成被相究候由、然レ共杢之助殿義、こしを御押候義毛頭無覚候義、其上左様之やミ打騒動御座候而ハ、第一殿様御為不宜候間、片時も早く八幡御城下へ罷出申立仕候様ニ」と決し、百姓たちは「鹿威之鉄砲鑓にても持出候様」と言い合って城下に駆け付け、「右之余内五六十人、杢之助殿江押込候」と、城下に駆け付けた百姓らのうち五、六十名ほどが遠藤杢之助邸に入った。このとき杢之助は体調を崩していたため寝所にいたが、百姓らを寝所に招いて話を聞いた。ここで「百姓共申」ことは、
「去々年御訴訟之節、貴公様百姓之腰を御押被遊候由にて御家中より今夜御つぶし可被成候由承候、此段百姓毛頭覚無御座候、其上騒動御座候而ハ第一殿様御為不宜候間、中立ニ罷出候、是非御屋敷ニ相詰堅メ可申と存知候、若先様より御手出御座候は、中立可仕候覚悟に相極申候」
と言う。つまり、遠藤杢之助を無実の罪状で討ち取ろうとする遠藤新左衛門を頭人とする連判衆から警衛したいとの申出であった。これに杢之助は、
「左様之儀致し候而、何程の事か可有候哉、兎角御為不宜候間、早々所へ引申候様に」
と再三に亘って百姓らを説得した。これに百姓らもやむなく「御屋敷の外構へ罷出」て杢之助屋敷の警衛を行った。ただ、その後も諸方村々より追々に百姓らが馳せつけてくるに及び、杢之助も当番の家老衆に、
「今宵騒動御座候由にて百姓大勢罷出候由申候、兎角御為不宜候間、村々江引込申候様ニ御しづめ可被成」
と、帰村するよう説得すべきと伝えている。しかし、これに対して新左衛門側からは、
「今晩百姓共罷出候ハ、杢之助逆心」
と、今回の百姓の城下結集は杢之助の逆心によるものであるとの返答があったという。ここで杢之助の使者は新左衛門の家来に向い、
「さりとては逆心の御返事心得かたく候、御連判衆中こそ逆心にて御座候」
と言い捨てて城から罷り帰った。
遠藤新左衛門は「連判衆、浪人四、五十人相集罷在、今後与相究被居候」と、連判衆らを屋敷に集めて杢之助を処罰せんと企てていたものの、予想外に杢之助を守るべく百姓らが結集して騒動となったことから、新左衛門は「石井藤右衛門、高屋権太夫、郡奉行、町奉行」へ使者を遣わして参上を命じた。ここで新左衛門は「今宵百姓共罷出候段、ひとへに杢之助逆心」と申し述べたが、参集した人々は「逆心之儀ハ双方不存候故、合点不参候ヘ共、杢之助殿百姓共存意聞届可申ノ由にて罷立」と返答して、その「逆心」を否定する。
こうした中、「連判衆中ハ鎖帷子或ハ具足にて登城被致候」と、新左衛門を頭人とする連判衆は武装して登城していた。これは「市右衛門殿、治部右衛門殿、忠右衛門殿、此人々を討て、其引足に杢之助へ押入、討留可申体」という計画であったという。そのため連判衆は城内で「鑓のさやを外し」て、遠藤市右衛門のもとへ向かったが、市右衛門は「其ものを礑とにらみ、それは何としたる体ぞ」と一喝すると、一同は委縮して静まり返った。この武装蜂起の様子を見た遠藤治部右衛門は「杢之助事、今夜に相究申候様子に相見へ申し候」と感じ、「杢之助方江内談可有」として、城から下り。城内の出来事を杢之助へ伝えた。これを聞いた杢之助は、「市右衛門ハもはや城にて被討可申と無念千万也、はや今夜限り」として、武装したうえで子息三人とともに門外へ出た。「其容貌、扨々感入申さぬ者なし」という。
こうした所に、遠藤新左衛門から派遣された「石井藤左衛門、高屋権大夫、郡奉行両人」が杢之助屋敷に参上した。高屋権大夫は「今宵百姓共罷出申義ハ貴様御逆心之義と新左衛門被申候、逆心之義ニ候ハ、只今切腹可被成候、又御心入之趣御座候ハ、我々に可被仰聞候」と杢之助に伝えると、杢之助は「扨々無念千万也、申分ニハ御座候、先刻使を以、申時も新左衛門左様に申越候、其時も家来江申遣罷帰候、各ハ我等か働、御存知無之哉」と段々に道理を申し述べた。これに奉行衆は「いかにも慥ニ聞届申候上ハ、左様ニ被成候而ハ、御為不宜候侭、先に御内へ御入被成候ヘハ、達而被申候」と返答したため、杢之助もその通りと感じ「手に持し弓を捨」てた上で、「先、治部右衛門ハ登城被致候様に」と申し述べて、屋敷内へと引返した。治部右衛門は杢之助の弟である。
次に石井藤左衛門らは杢之助邸を警衛していた百姓にも事の次第を尋ねたところ、彼らは「私共罷出候ハ、去々年之御訴訟に付、杢之助百姓之腰を御押被遊候と御家中衆より被談候て御潰し被成候由承候、然ハ第一殿様御為不宜候、是のみ奉存候て罷出申候」と、とくに「無別意委細ニ申候」たため、石井藤左衛門ら奉行衆はこれを聞き届た上で帰城し、新左衛門へ事の次第を報告した。ここで高屋権太夫は「今宵百姓出申候事、杢之助逆心之様被仰候故、段々杢之助殿口上、百姓之存念、悉承届候処、聊左様にて無之候、弥左様ニ思召候哉、是非ニ逆心ニ相究候ハ、何れも罷越、直ニふミ潰し可被申」と、高屋権太夫が新左衛門に高勢に詰め寄ったため、「いや逆心とハ不申候」と言葉を濁して返答したため、遠藤治部右衛門と奉行石井藤左衛門らは城を下がった。このとき、治部右衛門らは登城する野田覚右衛門と出会った。このとき覚右衛門の供侍は昨夜来の武装に鉄炮、覚左衛門は采配を持つといういでたちであった。治部左衛門は覚左衛門を見咎めると「扨々珍敷御装束哉、合点不参候」と詰め寄ったため、覚右衛門はやむなく屋敷へ戻り、普段の装束に着替えて再登城した。このような中で、百姓らは次々に城下に集まり、正月4日の朝までに六、七十人程となった。城中も諸役人も中立となり、連判衆からも手出しはなかった。
また、遠藤運平は今回の騒擾は遠藤新左衛門が不忠であると聞いていたため、遠藤杢之助に加勢して杢之助の屋敷に毎夜詰めていたが、正月4日、宮ヶ瀬橋で遠藤新左衛門と出会った際にその杖を掴むと「さりとは此度家中之米ほしがり共一味に成、杢之助を闇討ニ可致由、扨々世に新敷事を御企、笑止千万、可申様も無之(それにしても此度の家中の「米欲しがりども」の一味となって杢之助を闇討ちに致そうとのこと、実に珍しい事を御企て、笑止千万、申す言葉もない)」と大声で罵った上で「乍去、家中之米ほしがり共、何十人御座候共、我等が片手にもたらすと思ハれやうに参可(たとえ家中の「米欲しがりども」が何十人御座候とも、我が片手でひねり潰してくれると思われるように参るべし)」と述べて立ち別れた。
その晩には百姓らがさらに大勢馳せ寄ったことから、物頭衆、郡奉行、町奉行が辻まで出向き、「斯様に大勢にて罷出候事、誠に百姓之一揆之様に相見へ、殿様御為不宜候間、先五町村迄引申候様(このように大勢で罷り出ることは、誠に百姓一揆のように見えて殿様のためによろしくないので、まずは五町村まで引きなさい)」ことを百姓達に伝えたが、百姓らは引かず「一命をかけて中人ニ罷出候段々聞届ケ帰不申候(一命をかけて仲裁に罷り出たのであるから、このまま帰るわけにはいきません)」と返答している。そして「此度、御為第一之旨一々申上、最早何茂様御越之上ハ百姓引取可申、去々年御加役之段、惣々御詮議被仰付、誠に誠に難有奉存候、御先代之通り杢之助殿御仕置之由承、弥百姓共之願之尽ニ被仰付候、杢之助殿去々年百姓御訴訟之腰を御押被成候由にて御家中御潰し可被成旨承候、杢之助殿義、此儀毛頭御存念無之候処ニ御難題を以杢之助殿御潰ふし被成候而ハ、第一殿様御為如何と奉存候、片時も早々御城下へ罷出、中立可仕と覚悟にて御座候処、一揆と被仰候段、心得がたく候、杢之助殿に不限、新左衛門殿も御身の上にても斯様之義御座候得ハ、罷出可申候、乍然去々年の前、此事出来仕候ハ、壱人も罷出申間敷候御厚恩之為、殿様へ一命をなげ捨罷出候義、偏に殿様御為と一々申上ル(今度の行動は、もはや何よりも「殿様のためを思ってのこと」であると一々申し上げます。御老中の遠藤十兵衛、永井右衛門の両様がお越しになられた以上、百姓は引き上げます。一昨年、加役の件について細かくご取り調べいただき、誠に有難く存じます。御先代様の時と同じく、杢之助様がご処罰(ご仕置)をお進めになるとお聞きし、いよいよ私たち百姓の願いが聞き届けられたのだと受け止めております。しかしながら、杢之助様が一昨年の百姓らの訴訟(越訴・直訴)を裏で後押ししたという理由で、そのお家柄(御家中)を断絶(お潰し)にされるとお聞きいたしました。杢之助様ご自身には、そのようなお考えは毛頭ございませんでしたのに、理不尽な言いがかり(御難題)によって杢之助様のお家が潰されてしまっては、第一に殿様のためにもよろしくないと存じます。私たちは、一刻も早く城下へ罷り出て、(過ちを正す)仲裁(中立)をしようという覚悟でおりましたところ、「一揆である」とお咎めを受けましたことは、誠に納得がいきません。これは杢之助様に限った話ではなく、仮に新左衛門様の身の上にこのような理不尽なことが起きたとしても、私たちは罷り出たことでございましょう。とはいえ、一昨年より前の出来事であれば、一人として城下へ出ることなどなかったはずです。これまでの多大なご恩に報い、殿様のために命を投げ打って罷り出ましたのは、ひとえに殿様のためを思ってのことでございますと、一々申し上げます。)」と存念を伝えた。
兎角御老中遠藤十兵衛殿、永井右衛門ハ、両人ニ被仰付候ヘハ罷出、此度御為第一之旨一々申上、最早何茂様御越之上ハ百姓引取可申、去々年御加役之段、惣々御詮議被仰付、誠に誠に難有奉存候、御先代之通り杢之助殿御仕置之由承、弥百姓共之願之尽ニ被仰付候、杢之助殿去々年百姓御訴訟之腰を御押被成候由にて御家中御潰し可被成旨承候、杢之助殿義、此儀毛頭御存念無之候処ニ御難題を以杢之助殿御潰ふし被成候而ハ、第一殿様御為如何と奉存候、片時も早々御城下へ罷出、中立可仕と覚悟にて御座候処、一揆と被仰候段、心得がたく候、杢之助殿に不限、新左衛門殿も御身の上にても斯様之義御座候得ハ、罷出可申候、乍然去々年の前、此事出来仕候ハ、壱人も罷出申間敷候御厚恩之為、殿様へ一命をなげ捨罷出候義、偏に殿様御為と一々申上ル、
老中 遠藤十兵衛様、永井右衛門様へ
新左衛門が申されるには、「一々の様子や申分を聞き届けた。この上は何事もあるまじき候。各自、所々へ引き上げるように」と申されたため、百姓どもは「誠に有り難きお言葉」として罷り帰ろうとしたところに、正月2日(※文脈上4日と思われる)、町村の五郎左衛門が罷り出て、「仰せの趣は畏まり奉る。しかしながら先ほど申し上げた通り、殿様第一に聞き届けられ、また連判方も此度は(お家を思っての)思い付きであり、お家のためであるとの件、この段をまず聞き届けました。しからば、いずれもがお家のためを違えることがあろうかと(連判側を)お思いの旨、此度ご相談があるべきです。我らが江戸へ罷り下り、首尾よく事を運んで成し遂げたとしても、ぜひとも現地(国元)で相勤めたく存じます」と道理を説き、神文(誓紙)を以て申されたため、覚右衛門は一々これを聞き届け、「我らも只今、十兵衛殿のところまで罷り出る。あなた様もお出でになられますように」と仰せられたため、早々に権大夫もお出でになられてご相談の上で、高屋権大夫は江戸へ罷り下られた。
大垣へは餌取六右衛門、松井弥五左衛門が赴き、様子を申し上げた。さて大垣より目付の辻只右衛門が郡上へ1月6日に到着し、町宿を取って商人に紛れて様子を聞き合わせて帰られた。大垣の一閑(戸田氏信)様へは山田又左衛門、永井右衛門の両人が遣わされた。百姓どもが罷り出て、「此度は(お家を思っての)専一の行動である」と申し上げ、「最早、誰も彼もお越しになった上は、百姓は引き取るべし」との旨を断って(約束して)引き下がった。その間、庄屋や組頭はお留め置きなされた。
同9日、家中上下ともに、左門(戸田氏鉄)様や一閑様より仰せ付けられて、証文(誓紙)を提出すべき旨の下書きが遣わされた。その文言には「此度、一家中の風説に付いて百姓が騒動仕ったところ、大垣の一閑様より御使者が遣わされ、お静めなされて有り難く存じ奉る。以後、この騒動について異議を申し立てるまじき旨の手形(証文)を提出すべし」と仰せ付けられたものの、(百姓たちは)一切合点がいかず、「私どもが罷り出ましたのは、御家中のお出入り(紛争)があって、騒動になされては第一に殿様のためによろしくない故、仲人(仲裁)として罷り出たのであり、一件は静まりました。風説(噂)だけでは罷り出ません」と申したため、さて右の大垣の使者への書状の件をお断り申し上げたところ、御使者が申すには、「一閑様からはそのような手形の件は仰せ付けられていない」と申されたため、手形の件は沙汰なし(白紙)となった。
同10日に遠藤運平が大垣の御使者へ見舞いに参り、御使者への挨拶として「我らは大敵を引き受けて罷り在ったため、失礼ながら御免下されたい」と言い、長い大小(刀)を差し渡して、一々に郡上の様子を物語られた。御使者は11日に帰られた。
さて13日、尾張(徳川)様より御国奉行の両人、物頭老人の星野勘左衛門、そのほか代官衆など上下多くが御国境の須原までお越しになり、須原村の兵左衛門が郡上の案内(状況)を聞き届け、残らず(尾張藩へ)報告した。「大垣より御使者が遣わされ、いよいよ相静まった趣」を委細承って罷り帰り、御奉行へ申し上げたとのことである。同15日に奉行衆はいずれも御帰りなされた。また15日に大垣より「いよいよ相静まったか」と侍2人がお越しになり、杢之助殿、十兵衛殿へお見舞いとのことで、これも17日に帰られた。小笠原土佐守様より常葉茂左衛門が16日に杢之助殿まで御使者として遣わされ、これも17日に帰られた。また尾張様より金山口から郡上の様子を聞くために町宿を取り、忍んで聞き繕い(内偵)をなされたものの、「いよいよ百姓どもは殿様のために罷り出たのである」との子細を聞いて帰られた。上有知(こうずち)村に居られた代官衆も名古屋へ引き上げられた。
また2月13日に辻佐左衛門、喜左衛門の両人が大垣より遣わされ、郡上家中双方ともに(二度と)手出しを仕るまじき旨の神文(誓紙)を仰せ付けられたところ、異議なく差し上げられたため、いよいよ事は静まり申した。
さて3月27日、江戸より沢部治部左衛門に仰せ付けられた趣旨は、「一昨年の百姓訴訟(直訴)について、杢之助は腰を押さなかった(味方しなかった)か。第二に、当春の騒動において百姓が大勢罷り出たことは、杢之助方からの内通は無かったか。第一に当春、百姓がよく聞き届け、別意(野心)のない旨の神文を提出させるよう、命をかけて罷り出た杢之助が、百姓がよく聞き届け別意のない旨の神文を提出させるように」と仰せ付けられて、神文が提出された。百姓は「兼ねてよりこちらから望むところに御座候間、如何様にも仰せの通りに仕ります」として、神文を400人ほど提出した。神文は4月(卯月)2日に仰せ付けられたため、すなわちその日に提出した。また4月9日に大垣より下横目が遣わされ、郡上家中・町方の屋敷絵図を仰せ付けられて相印し(確認し)、また杢之助へも遣わされた。
同8月に杢之助、市右衛門の方から江戸の御一門様方へ、隠居の願いのために足軽を遣わしたことは相違なく計らわれ、右の両人は隠居となり、跡式(家督)や知行ともに子息たちへ仰せ付けられた。また11月に御一門中様より「諸家中、仲良く成さるべき」との御状が遣わされたため、異議なくお受け申されたので、目出度く治まり申した。
また申(さる)の年のお仕置(藩政)は松井縫殿介へ仰せ付けられ、同4月27日に大垣より辻佐左衛門が十兵衛のもとへ遣わされ、同28日の朝に帰られた。酉(とり)の年のお仕置は遠藤十兵衛殿へ仰せ付けられた。戌(いぬ)の年のお仕置は池田六左衛門へ仰せ付けられた。
また同2月朔日(1日)に百姓が一味となり、頭百姓5人が江戸へ罷り下った。御訴訟(直訴)の趣旨は、「先年の(正月の)一乱の以後、御家中の中が悪く、そのため百姓への借り合成(資金調達や支援)が調わず、迷惑いたしております」との旨を申し上げた。御一門様方がお聞き合わせになられ、3月上旬に足軽両人が遣わされ、家中上下残らず神文を提出して江戸へ遣わした。その文言には、「今度、百姓がそちらへ罷り下り、先年の一乱の義を申し上げましたところ、お聞き届けになられ、殿様のために大事と思し召されたとのこと。この上は下し置かれた知行を取り上げなされても、または如何様のお仕置をなされても、殿様への恨みは御座なく候」として、神文等を差し上げた。
2月19日、遠藤三郎左衛門元安が(処刑のために)切られ申した。すなわち20日の朝に切腹がなされた。
3月14日に松井縫殿介を御一門様方への御使いとして郡上へ来させ、同15日に左門様より辻佐左衛門、一村六左衛門の両人が遣わされ、17日に帰られた。4月12日に左門様より御使者として一村六左衛門、龍木治太夫の両人に奉行衆5人が遣わされ、杢之助、市右衛門、新左衛門、六左衛門の右4人へ「暇(免職・追放)」が下されたため、杢之助、市右衛門も同年に御暇を申請し、翌朝六ツ前(午前6時前)に出足(出発)された。治部右衛門も同夜に(用事を)仕舞われ、両人と一緒に立ち出られた。新左衛門、六左衛門の両人も14日に立ち出られた。大垣の使者と奉行たちも同日に御帰りなされた。
同20日に左門様より御使者両人が遣わされ、新左衛門の内室(妻)および子息の唯右衛門の内方(妻)に対し、いずれも早々に郡上を立ち退くべき旨が仰せ渡された。その上、諸所をお見舞い(見回り)しただけで21日に帰られた。
5月6日の朝、飛脚が大垣へ到来して、豊嶋弥左衛門、池戸求馬、村山三右衛門、石神太兵衛、粥川小十郎、松井勘右衛門、松井角兵衛、豊田源五兵衛、遠藤弥市右衛門、大田助右衛門の右10人に御暇が出たため、いずれも10日の日までに郡上を立ち退かれた。同15日に粥川半兵衛が江戸にて御暇が出され、妻子は25日に郡上を立ち退いた。当春の初めに江戸へ下っていた百姓4人も、同29日に郡上へ帰った。
6月7日に足軽に御状が遣わされ、「遠藤七郎右衛門の身の振り方は大罪の者であるため、追放に処すべし」と仰せ遣わされたため、すなわち石井藤右衛門、遠藤久右衛門、御横目の豊田茂左衛門、石井久右衛門が当村(七郎右衛門の居所)へ赴き、昼夜ともに警護(番)をして、明くる8日の朝、七郎右衛門は徒歩にて郡上を立ち退いた。右の4人の衆も郡上境の木尾口(きおぐち)まで送り届けて帰られた。
7月23日に御飛脚が参り、川尻彦兵衛父子、井戸茂右衛門、和田半太夫、粥川小平太、星野文太夫、村山甚五兵衛、都竹甚平、池田弥右衛門の右面々に暇が遣わされた。そのうち川尻彦兵衛父子は追放を仰せ付けられた。木尾口の御番所を勤めていた治太夫、庄九郎の両人も追放を仰せ付けられた。これは(追放された)浪人衆の仲間に入った罪によるものとのことである。同25日に高久助、林束右衛門、吉田瀬左衛門、高垣両的、川口七兵衛の右5人に暇が出た。また江戸御屋敷において、餌取源五右衛門、鷲見右衛門八、三浦四郎助、吉田八助、可児傅兵衛の右5人に暇が出た。
8月13日に廣瀬忠四郎に郡上御構(領内立ち入り禁止)が下り、すなわち14日に立ち出られた。同又太夫、八兵衛の両人は町御構(町内立ち入り禁止)につき、中之保(なかのほ)へ立ち退いた。
同6日に御飛脚が到来して、土川市郎右衛門に御暇が出た。同12月(極月)に松井縫殿介へ100石の御加増が仰せ付けられた。住庄右衛門に10人扶持の加増があった。同27日、殿様は江戸において「右衛門佐(常久)」様と御名をお改めになられた。
明年閏5月10日、殿様が御入部(国入り)あそばされた。それについて郡上の惣百姓の中から名代として20人ほどが当国の関まで御迎えに罷り出で、金子240両を差し上げた。中小姓の内田忠左衛門は江戸において御暇が出され、郡上を立ち退かれた。
同25日に水谷新七父子に御暇が出た。吉田作左衛門へ5人扶持の加増があった。7月17日、粥川孫左衛門、遠藤久右衛門、遠藤善右衛門、鷲見、そのうちこの衆に暇が出た。同18日に桑原五兵衛、酒井庄左衛門、徒歩にて西村善五郎、春木加右衛門、加藤長兵衛、中川四郎兵衛、以上6人に暇が出た。市村平右衛門、野治三郎右衛門の両人が郡上を立ち退かれた。池田幸右衛門の知行100石が召し上げられた。武光吉右衛門、小池孫右衛門、豊田茂左衛門、伊藤三磧、今井権右衛門、伊藤関三郎の右6人の知行が50石ずつ召し上げられた。
8月上旬、遠藤治部右衛門が帰参し、100石に10人扶持を下され、弓大将に仰せ付けられた。惣百姓中より「杢之助殿、市右衛門殿の両人衆を帰参仰せ付けられますように」と秋の間に御訴訟申し上げたため、江戸の御一門中様方へ右の趣旨を御伺いするため、高屋権大夫が10月3日に出発し、同28日に国元へ帰った。
子(ね)の年7月17日に御飛脚が参り、高屋権大夫が閉門となった。その子細は、「杢之助の帰参の件は叶わないため、その趣旨を百姓どもへ申し付けるべし」と(江戸から)仰せ越された。それなのに権大夫が右の沙汰(百姓への伝達)をしなかったためか、閉門を仰せ付けられた。同9月21日に江戸より御飛脚が参り、高屋権大夫に御暇が出た。(権大夫は)22日の朝六ツ前に立ち退かれた。10月21日に代官の小川利左衛門、宇野茂左衛門、種村弥一兵衛、同弥次右衛門に御暇が出た。すなわち郡上から罷り出た。
丑(うし)の年5月13日に殿様が江戸より御上り(帰国)あそばされ、同年7月25日に大坂番へと御立ち(出動)あそばされた。
卯(うさぎ)の年5月朔日(1日)に遠藤十兵衛殿が閉門となり、吉田作衛門に御暇が出た。2日の朝に立ち退かれた。この両人は大坂御番の時に越度(落ち度・不調法)があったためとのことである。松井弥五左衛門、伊藤三左衛門の両人には50石ずつ御加増が下され、桜井権左衛門に7人扶持、餌取権右衛門へ50石が下され、松井左兵衛に20人扶持、豊田小右衛門に3人扶持が出た。卯年の6月26日、殿様が江戸へ御下り(出発)になられ、野田覚左衛門に御家老役を仰せ付けられた。
辰(たつ)の年5月、殿様が江戸より御上り(帰国)になられたが、すでに2月下旬より御煩(ご病気)あそばされ、3月24日に御遠行(ご逝去)あそばされた。御年23歳であられた。御死骸は苅安村の乗性寺に奉納(埋葬)いたしました。4月5日、長敬寺において御葬礼の儀式がこれ有り、同4月25日の已の刻、岩松様が江戸へ御発駕(ご出立)あそばされ、すなわち苅安村にて御一宿(お泊まり)になられた。
当時、国家老の遠藤杢之助(五百石)が国元で諸政を担当していたが、その仕置きは見事で百姓も安寧に暮らしていたという。ところが、「御家中之内侍三十人余、申合杢之助悪事有之段、訴状相認江戸江訟」しようと企てた。この藩士らは正月2日の「謡初(うたいぞめ)」で登城するはずの遠藤杢之助をそこで討ち果たそうと談合して手筈も整ったところに、「在々之百姓」らがこの暗殺計画を聞き及んで激怒し、杢之助を守るために「杢之助屋敷を稠敷かこひ、鉄砲鑓等持参」して集結したという。
この異常事態に、内侍派に属していない藩士十一名が間に入って「色々扱」を試みるが、事態は収拾することはなかった。杢之助と同薬の遠藤国元の三名の家老は、正月5日に物頭二名を使者として大垣藩へ派遣し、この一部始終の危機的状況を、藩侯常信の外祖父にあたる大垣藩老公戸田一閑(戸田氏信)へ報告した。
報告を受けた戸田一閑は正月12日、大垣から「大目付山田又左衛門、郡代市村六左衛門」の両人を使者として藩士五、六十人を付して郡上へ遣わした。ここで両使は内侍と百姓両名に対して「一閑様御意之趣申渡」として「首尾好無事ニ罷成、百姓共村々へ引取、三十人余り之侍共一札致」させ、正月17日に「両使大垣ヘ罷帰候」という。
天和元(1681)年11月25日、上野国沼田藩主・真田伊賀守信利が悪政を行った結果、政事不行届として改易され、信利の次男・武藤源三郎信秋を幕命によって預かっている。
天和2(1682)年12月27日、従五位下・右衛門佐に叙され、十六歳の若さで大夫の地位にのぼった。そして元禄元(1688)年5月3日、はじめて郡上への下向が認められたが、翌元禄2(1689)年3月24日、郡上で急逝した。享年二十三。号は素教恵正院。
弟の遠藤内記慶紀は和良郷二千石を給わり、家老職に付いた。慶紀は東家の系譜をまとめており、元禄12(1699)年9月5日、その系譜が写された。
●遠藤常春の家臣●
| 家老 | 遠藤十兵衛 松井縫殿助 |