木曾遠藤家 田中藩遠藤家

郡上遠藤家 ~木越遠藤家~

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木曾遠藤家

 木曾代官山村家の家中に遠藤家があるが、郡上遠藤家の末裔と伝えられている(『信州木曽谷の剣豪 遠藤五平太』)。ただし、木曽遠藤家の祖である「遠藤小八郎正■」と郡上遠藤家「遠藤小八郎胤直」が同一人物かは不明。木曽遠藤家祖・遠藤小八郎正■の嫡子の与四郎は遠藤を改めて「原田」を称した。その子・原田五助正忠はのちに五兵衛と改めた。この正忠は「遠藤小八郎正■」の孫となるが、慶長8(1603)年の誕生とされており、慶長5(1600)年9月の時点でまだ二十代前半ほどであったと思われる遠藤小八郎胤直の孫とはなり得ない。 ただ、木曽遠藤家が郡上遠藤家末裔との伝承を受け継いでいることから、「正」を通字とする郡上遠藤一族である和良遠藤家の出身なのかもしれない。

 正忠の嫡子・弥左衛門正勝は名字を「原田」から「遠藤」に復し、子孫は代々木曽代官山村家に仕えている。文化年中、木曽代官家の武術師範に遠藤彦作が見える。彦作は九代当主・遠藤彦作正芳のことで、七代当主・遠藤弥左衛門正行の次男で、兄の八代当主・遠藤蔀正常の養嗣子となって遠藤家の家督を継いだ。

 安政6(1859)年の山村家『御家中分限帳』(『木曽福島町史』)には御関所番として遠藤五平太が見える。遠藤五平太正贇は遠藤彦作正芳の嫡子で特に剣術に秀でていた人物である。また、剣術御師範には正贇の嫡子・遠藤磯太郎正儔、御次間勤番に遠藤且助が見える。

 御関所番・遠藤五平太正贇は文化5(1808)年8月16日、木曽福島門前にて誕生した。文政5(1822)年10月9日、木曾御代官・山村良熙の小姓として出仕した。翌文政6(1823)年9月、家伝の武術の修行のために江戸への留学を願い出て、年一両二分の支給で江戸へ発った。おそらく江戸の小野派一刀流中西道場(中西忠兵衛子正)で紹介を受けて、下総国松戸宿の浅利又四郎義信の門に入り、同じく兄弟子の千葉周作成政からも手ほどきを受ける。

 文政10(1827)年6月24日、主君・山村氏より江戸屋敷留守居役を命じられたため江戸屋敷に詰めるが、翌文政11(1828)年5月14日、御役御免になると、二年間の武芸研鑽の命を受けて房総半島へ旅立った。ここで武芸を磨くと文政12(1829)年江戸に戻ると、9月17日、師である浅利又四郎から小野派一刀流兵法目録が授与された。

 天保元(1830)年1月5日、故郷の木曽福島で道場を開き、7月9日、木曽代官山村家の師範となった。その後も山村家の剣術師範として出仕していたが、安政4(1857)年、師範を辞して木曽郡西野村の開発に乗り出し、灌漑工事を成功に導いた。現在でも遠藤五平太を称える「経王塔」が建立されている。

 明治元(1868)年11月8日、尾張藩校明倫堂の師範役補助を拝命。物頭格として尾張藩に出仕することとなり、翌明治2(1869)年8月29日、明倫堂の師範に抜擢された。その後、廃藩置県によって辞職したと思われる。嫡子・遠藤磯太郎正儔は将来を嘱望された天賦の才を持つ剣士だったが若くして亡くなっており、孫の遠藤彦作が跡を継いだ。彦作は立憲自由党の長野県議会議員となっている。遠藤五平太は明治21(1888)年7月14日、81歳で亡くなった。法名は大円院一嶽徹心居士(『信州木曽谷の剣豪 遠藤五平太』)

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田中藩遠藤家

  駿河国田中藩の筆頭家老になった遠藤家がある。遠藤家の伝えによれば、祖は三浦介某。子孫は代々近江国に住み、藪谷宗広の代に織田信長に仕えたという。慶長7(1602)年10月、徳川家康の謀臣・本多正信(佐渡守)の弟である本多正重(三弥左衛門)が近江国額田郡に千石を知行したとき、藪谷宗広の子・遠藤宗継と子の遠藤宗成(甚蔵)とともに召し出されて、元和2(1616)年7月、正重が下総国相馬郡などに一万石を与えられた際に、宗成は家老に任じられ、三百石を与えられた。

 本多遠藤家が、どうして藪谷氏から氏を変えたのかは不明。通字が「胤」であるところや、分家が「俊」を通字と変わっているところから、慶長の役(関が原の戦い)で東軍から西軍に寝返って浪々の身となった美濃木越遠藤家と所縁があるのかもしれない。ただ、木越遠藤家は関が原の戦い後、木曾代官山村氏のもとで活躍している。

 宗成の子・遠藤宗忠(十郎右衛門)は宗成の跡を継いで家老職に就任。その長男・遠藤貞国(万右衛門)は千石に加増され、延宝5(1677)年7月、家老職に就任した。元禄9(1696)年、主君・本多正永(伯耆守)が若年寄となり、元禄16(1703)年、上野国沼田城主となると、貞国もこれに随って沼田に入る。宝永7(1710)年に家老職を辞し、正徳3(1713)年7月、70歳で亡くなった。一方、弟・遠藤俊信(嘉兵衛)は別家を立てて五百石を知行し、宝永元(1704)年11月に家老職に就任した。この俊信は一竿流兵学という兵学をひらいた兵法者としても知られている。

 俊信ののち家老職を継いだのは、遠藤本家ではなく俊信の子・遠藤俊弥(嘉兵衛)であった。享保14(1729)年12月に家老を継いだ俊弥は、享保15(1730)年、藩主・本多正矩(豊前守)が沼田より駿河国田中に移ったときに走り回り、享保16(1731)年8月に辞した。俊弥の跡は遠藤本家の遠藤貞胤(甚蔵)が継いだ。貞胤の弟・利貞(帯刀)はもともとの藪谷氏を称し、天明2(1782)年9月から家老職を務めている。

  貞胤が延享元(1744)年8月5日に45歳の若さで亡くなると、その子・遠藤胤封(十郎右衛門)が家督を継ぎ、宝暦6(1756)年5月、家老職に就任した。胤封には跡継ぎの男子がなかったため、先々代藩主・本多正武(遠江守)の娘・照姫を養女に迎えて、婿養子をとろうと考えたが、照姫は若くして亡くなってしまった。そのため、藩公・本多正供(紀伊守)の姪を養女に迎え、出羽国新庄藩主・戸澤正諶(上総介)の子を婿養子として遠藤胤忠(百右衛門)を名乗らせた。胤忠は寛政6(1794)年11月から文政13(1830)年4月までの実に37年間にわたって筆頭家老職を務め、天保9(1838)年9月10日に亡くなった。

 胤忠の筆頭家老在任中、遠藤家のうちでは分家の遠藤俊見(百右衛門)やその子・遠藤俊規(嘉兵衛)、胤忠の子・遠藤胤典(十郎右衛門)が家老に就任している。遠藤胤典は藩公・本多正意(遠江守)の弟・本多正福の娘を娶り、藩公一族として活躍した。また、自ら所領巡検のため、相馬郡内を巡検していることが記録に残されている。胤典は弘化5(1848)年2月9日、61歳で亡くなっている。

 胤典の子・遠藤胤富(十郎右衛門)は天保14(1843)年4月、家老職に就任。家禄は九百石。安政4(1857)年1月7日に48歳で亡くなった。嘉永3(1850)年1月、俊規の子・遠藤俊臣(甚八郎)が家老職に就任。文久元(1861)年に53歳で隠居して家老職を辞した。しかし、徳川慶喜の大政奉還と江戸開城、慶喜の謹慎などで、田安徳川家出身の徳川亀之助に徳川宗家相続が許されて、駿府藩の立藩が認められた。それに伴い、駿府周辺の藩は転封になることとなり、慶応4(1868)年9月、最後の藩主・本多正訥(紀伊守)は安房国長尾に長尾藩を立藩。家老に遠藤俊臣(甚八郎)が再び選ばれ、遠藤本家からは遠藤胤孝(十郎右衛門)が同じく家老に抜擢され、明治4(1871)年7月の廃藩置県までの数年、混乱する藩政を支えた(『藤枝市史』)

●田中藩遠藤氏略系図

藪谷宗広―遠藤宗継―宗成――宗忠――――+―貞国―――+―貞胤――胤封――――+=照姫     
         (甚蔵)(十郎右衛門)|(万右衛門)|(甚蔵)(十郎右衛門)|(本多正武娘)
                    |      |           |
                    |      +―藪谷利貞      +=本多氏
                    |       (帯刀)          ∥―――――胤典
                    |           【出羽新庄藩主】  ∥    (十郎右衛門)
                    |            戸沢正諶――+―遠藤胤忠   ∥
                    |           (上総介)  |(百右衛門)  ∥
                    |                  |        ∥
                    |                  +―戸沢正産   ∥―+―胤富―――――胤孝
                    |                   (上総介)   ∥ |(十郎右衛門)(十郎右衛門)
                    |                           ∥ |
                    |          本多正温――――+―本多正福―――娘 +―胤志
                    |         (伯耆守)    |
                    |                  |
                    |                  +―本多正意―+―本多正寛
                    |                   (遠江守) |(遠江守)
                    |                         |
                    |                         +―本多正訥
                    |                          (紀伊守)
                    |                           
                    +―俊信―――+―俊弥――俊房――――――俊見―――――俊規―――俊臣
                     (嘉兵衛) |(嘉兵衛)       (百右衛門) (嘉兵衛)(甚八郎)
                           |
                           +―甚八郎


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