遠藤氏の家紋
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| 十曜 | 三割亀甲 | 月星 | 亀甲 |
(????-????)
美濃遠藤氏初代。通称は八左衛門尉。系譜上では東下野守常縁の末子、または「東下野守元胤御舎弟」(『遠藤家旧記』)とされているが、盛胤の名は常縁や常庵龍宗(常縁の子)、宗祇、三条西実隆など常縁と所縁のある人物の文書にも現れないため出自は不明。子は「遠藤新兵衛胤好」が伝わる。
遠藤家は東氏初代・東六郎大夫胤頼の舅・遠藤左近将監持遠を祖とするとされ、持遠の子・遠藤武者所盛遠はのちの高尾の文覚上人で、東六郎大夫胤頼とも旧知の間柄であった。伝承によれば、文覚の子・遠藤左近将監盛広は鎌倉幕府御家人となり、その子・遠藤兵庫頭盛正は頼朝の死後、祖父・土岐美濃守光衡の所領がある美濃国に移り住み、土岐判官代光行の幕下に加わりったという。そしてその子・遠藤太郎右衛門尉治盛は、美濃国厚見郡に移り、その子・遠藤小太郎盛勝は土岐光定・頼貞に仕え、暦応3(1340)年5月3日に亡くなったという。その子孫・遠藤胤任は土岐頼芸に仕えていたが、斎藤道三によって討たれたため浪人。その後、斎藤義龍に仕えたという。この遠藤氏と東氏重臣遠藤家との関係は不明(『美濃明細記』)。
東氏と遠藤氏の関係が具体的な文書で見ることができるのは、公家の勘解由小路兼仲の日記である『勘仲記』の記載である。弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会(五月延引)で七番の流鏑馬が行われた。その五番手を「東六郎左衛門尉平行氏法師」が務め、射手として「遠藤左衛門三郎盛氏」が務めている。この遠藤氏は東氏の根本被官であり、以降も代々東家に重臣として仕え、江戸時代の郡上藩主・遠藤家に繋がっていくと考えられる。
●弘安7(1284)年12月9日新日吉小五月会流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)
| 射手 | 的立 | ||
| 一番 | 武蔵守平時村 | 伊賀右衛門六郎藤原光綱 | 福田寺太郎兵衛尉藤原行實 |
| 二番 | 備後民部大夫三善政康 | 牧右衛門四郎藤原政能 | |
| 三番 | 葛西三郎平宗清 | 富澤三郎平秀行 | |
| 四番 | 肥後民部大夫平行定法師 法名寂圓 | 宮地彦四郎清原行房 | |
| 五番 | 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 | 遠藤左衛門三郎盛氏 | |
| 六番 | 頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観 | 奥野二郎太郎源景忠 | |
| 七番 | 後藤筑後前司基頼法師 法名寂基 | 舎弟壱岐十郎基長 |
正応4(1291)年5月9日、新日吉の小五月会で行われた流鏑馬でも「東六郎左衛門尉平行氏法師」が列しており、射手として「遠藤五郎左衛門尉泰氏」が務めている。泰氏の諱から、六年半前に行われた弘安7(1284)年12月9日の小五月会に見える遠藤左衛門三郎盛氏の親族と考えられる(『実躬卿記』正応四年五月九日条)。
●正応4(1291)年5月9日新日吉小五月会流鏑馬交名(『実躬卿記』大日本古記録)
| 射手 | 的立 | ||
| 一番 | 越後守平兼時 | 安東太郎左衛門尉平忠朝 | 粟生田五郎左衛門尉有道行能 |
| 二番 | 大井次郎源朝氏 法名朝蓮 | 小笠原三郎太郎源長定 | |
| 三番 | 因幡三郎左衛門尉藤原行時 | 于電二郎平家時 | |
| 四番 | 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 | 遠藤五郎左衛門尉泰氏 | |
| 五番 | 下総三郎左衛門尉藤原貞綱 | ■名弥次郎源胤景 | |
| 六番 | 畠山上野彦三郎宗茂 | 和田四郎太郎平秀村 | |
| 七番 | 丹後守平成房 | 大瀬次郎兵衛尉藤原泰貞 |
それからおよそ百年後の室町時代中期では、明徳3(1392)年8月25日に行われた相国寺供養で東氏と遠藤氏の関係を見ることができる。参列した武士の三番手に連なったのが東下総守師氏だが、彼の介添として遠藤修理亮顕基・遠藤新左衛門尉顕保・遠藤郡左衛門大夫顕久・遠藤兵庫助氏遠の名がある。「顕基」「顕保」「顕久」の三名は、東下総守常顕から偏諱を受けた人物と思われ、「氏遠」は東下総守師氏からの偏諱であると考えられ、東氏に仕えて重きをなしていたことがうかがえる。
●明徳3(1392)年8月25日相国寺供養先陣随兵(『相国寺供養記』)
| 番 | 随兵 | 直垂文 | 掻副等 |
| 一番 | 武田伊豆守源信在 | 違菱 | 福島山城五郎藤原在景 福島肥前彦七郎藤原在直 小笠原又次郎源信長 |
| 小笠原兵庫助源長秀 | 松皮 | 山中参河守長泰 関太郎左衛門尉政氏 |
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| 二番 | 武田五郎源満信 | ― | 坪井次郎左衛門尉平盛次 江戸平五秋氏 |
| 供野次郎源長信 | ― | 廣澤掃部允実綱 武者六秀朝 |
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| 三番 | 東下総守平師氏 | 竹丸 | 遠藤修理亮顕基 遠藤新左衛門尉顕保 遠藤郡左衛門大夫顕久 遠藤兵庫助氏遠 |
| 粟飯原九郎左衛門尉平将胤 | 根篠丸 | 馬場九郎源秀経 馬場源六経光 中島三郎平定重 白井小太郎藤原元光 |
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| 四番 | 佐々木三郎左衛門尉高光 | 四目結 | 若宮新右衛門尉秀重 赤田肥前守高 日向太郎左衛門尉久長 箕浦修理亮高長 |
| 佐々木四郎左衛門尉高数 | 四目結 | 多賀兵庫助高信 神保掃部助秀氏 田中弥三郎詮氏 目賀田六郎左衛門尉頼景 |
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| 五番 | 今川遠江守源貞秋 | 金銀二引 | 柴兵庫助藤原家秀 長瀬駿河守藤原泰貞 横地尾張守藤原長連 勢多修理亮藤原朝昌 寺島但馬守藤原泰行 賀茂七郎藤原助頼 |
| 今川左馬助源氏秋 | ― | 佐竹安房守源秋古 英比信濃守小野氏信 井伊修理亮藤原朝藤 菅谷掃部助菅原秋政 栗生右京亮藤原氏広 富田八郎藤原言泰 |
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| 六番 | 左兵衛佐源俊氏 | ― | 新左衛門尉高階満秋 高橋式部丞大宅光秀 三浦日向守平満有 右馬助高階氏業 富永六郎左衛門尉伴貞兼 |
| 土佐守高階師英 | 輪違 | 佐渡四郎兵衛尉守直 佐渡大炊助師守 隅田藤三師親 香河三郎左衛門尉平景家 |
東下野守常縁の被官に「遠藤越中守基保」があり、太田道灌が心敬法印、木戸孝範ほか都人らを招いて行った江戸の天照大神社千句(文明6(1474)年の江戸歌会?)において、短冊の上下の向きについて誰も見分けることのできなかったことを指摘するなど(『会席作法』部分:『中世歌壇史の研究 第四章』)、遠藤家にも歌道に長じた人物があったことがうかがえる。この遠藤基保は「基」という一字から勘考して明徳3(1392)年8月25日の相国寺供養に参列した「遠藤修理亮顕基」の子孫か。
そこから十五年ほどのちの延徳3(1491)年8月6日、「東中務被官」の「遠藤但馬守」以下四名が「中務」の命により京都四条で討ちとられているが(『蔭涼軒日録』)、盛胤が常縁の子とすれば、時代的に整合する。
なお、江戸期の史料である『美濃明細記』には、遠藤盛胤について「遠藤左馬助盛隆」の子「遠藤小太郎盛胤」がみえる。
⇒高棟王―<七代>―遠藤持遠――盛遠―――盛広――――平盛正―+―盛勝―――隆盛―――+―隆常
(大納言) (袒) (武者所)(左近将監)(兵庫頭)|(小太郎)(新兵衛尉)|(大隅守)
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+―娘 +―盛行――+
(竹中重実妻) (信濃守)|
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―遠藤持盛――+―盛隆――――――――――――――――――――――――盛胤――――+―基常
遠藤小太郎 | 遠藤小太郎 遠藤小太郎 | 遠藤小次郎
但馬守 | 左馬助 但馬守 |
號周勝伯 | 號周栄 號素山 +―盛長――――――+
| 持氏生害後、父子共流浪、宝徳元年、仕将軍義政、 遠藤新左衛門尉 |
| 賜濃州之領地、享徳、康正年中有軍功、文明元年、 左近太夫 |
| 於九州有軍功、後仕義尚、同九年皈濃州、同年卒、 號忠山 |
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+―盛重 |
(内匠助) |
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| 東常慶――――――――――――娘
| (下野守) ∥―――――――慶隆
| ∥ ∥ 但馬守
| ∥――?――――東常堯 +―盛数
+―盛直――――――――盛好――――――好任――――+―娘 (七郎) | 六郎左衛門尉
遠藤六郎左衛門尉 遠藤新八郎 遠藤小八郎 | |
號常巌 太郎左衛門尉 新兵衛尉 +―胤任――――――胤好―――+―胤縁――――――胤基
但馬守 太郎左衛門尉 小八郎 八兵衛 大隅守
「但馬守盛胤」の父「左馬助盛隆」とその父「但馬守持盛」は鎌倉公方・足利持氏に仕え、「持盛」の「持」は足利持氏よりの偏諱か。持氏は永享11(1439)年に関東管領・上杉憲実の命を奉じた上杉持朝・千葉介胤直によって討たれた際に、遠藤持盛・盛隆は流浪し、宝徳元(1449)年に将軍・足利義政(当時は義成)に仕えて美濃国に所領を得たとされる。ただし、遠藤氏で「盛」字を有する人物は郡上東氏初代の行氏入道の家人としてみえることから、『美濃明細記』の所伝の信憑性には強い疑義が生じる。「享徳、康正年中有軍功」とは、幕府(上杉家)と足利成氏との戦いに下向した東常縁に随ったということを意味しているのだろう。「文明元年、於九州有軍功」とは文明元(1469)年5月に足利義視・細川勝元に呼応して挙兵した大友親繁・少弐頼忠と戦ったということを指すものか。文明9(1477)年、盛隆は「皈濃州(美濃に帰る)」、美濃で亡くなったとされる。
そしてその子・但馬守盛胤は、『東氏系図』で東常縁の子とする遠藤八左衛門盛胤と同時代の人物となるため、延徳3(1491)年8月6日に京都四條で「東中務」の命により討たれた「東中務被官」の「遠藤但馬守」(『蔭涼軒日録』)と同一人物として『美濃明細記』に掲載されたものか。しかし、『美濃明細記』では盛胤の次男、遠藤左近太夫盛長から遠藤六郎左衛門尉盛数まで六代を数えるため世代的に整合しない。さらに、盛長の孫にあたる遠藤新兵衛好任は土岐美濃守盛頼に仕え、好任の母は「竹中遠江守重元娘」とされ、天文13(1544)年生まれの竹中半兵衛重治の姉妹となる。「竹中重元」はその父「竹中重氏」の誤記かもしれないが、その遠藤新兵衛好任の娘が「東下野守常慶室」とあることから世代が逆転している。『美濃明細記』は江戸中期の元文3(1738)年に成立した近世文書で史料の蒐集による成立であるため、信憑性には強い疑義がある。
■遠藤盛胤の周辺系図■
三木自頼――――+―三木自綱――+―――――――三木直綱
(右兵衛督) |(大納言) | (右近大夫)
| | ∥―――――――――遠藤慶利
+―娘 +―娘 +―智勝院 +―娘 (但馬守)
|(猪俣五平次妻) ∥ ∥ | ∥
| ∥ ∥ | ∥
+―娘 ∥ ∥ +―娘 板倉重宗女
|(内ヶ嶋意休妻) ∥ ∥ |(粥川孫左衛門妻)
| ∥ ∥ |
+―娘 ∥ ∥―――+―遠藤慶勝
|(石徹白彦右衛門妻) ∥ ∥ (長門守)
| ∥ ∥
+―娘 +―慶 隆
|(鷲見忠左衛門妻)|(左馬助)
| | ∥
+―娘 | ∥―――――――――――娘
|(鷲見竹本坊妻) | 安藤守就娘 (金森可重妻)
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+―娘 +―遠藤慶胤
|(餌取太兵衛妻) |(美濃助)
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+―娘 +―遠藤慶直
|(松井喜右衛門妻)|(久三郎)
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東常縁―+―東常和―――――東常慶――――+―東常堯 +―娘
(下野守)|(下野守) (下野守) |(七郎) |(遠藤彦右衛門胤重妻)
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+―常庵龍崇 +―友順尼 +―娘
|(建仁寺住持) ∥ |(遠藤大隅守胤基妻)
| ∥ |
+―東胤氏 ∥―――――――+―娘
(最勝院素純) ∥ (山内対馬守一豊妻)
∥
…―遠藤盛胤―――遠藤胤好――――+―遠藤盛数
(八左衛門尉)(新兵衛) |(六郎左衛門尉)
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+―遠藤胤縁――――――+―遠藤胤俊―――――+―娘
(新兵衛) |(大隅守) |(遠藤助次郎慶胤妻)
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+―遠藤胤基 +=遠藤胤基――――遠藤胤直
|(大隅守) (大隅守) (小八郎)
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+―遠藤胤重―――――+―遠藤加兵衛
|(彦右衛門) |
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+―遠藤胤安 +―遠藤五郎
(吉左衛門)
●『千葉大系図』
⇒遠藤胤好―+―盛数
(新兵衛) |(太郎左衛門尉)
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+―胤縁―――――胤俊―――胤基―――胤直
|(新兵衛尉) (大隅守)(大隅守)(小八郎)
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+―胤繁―――+―胤慶
(宗兵衛) |(宗兵衛)
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+―胤勝
|(加賀守)
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+―胤春
|(吉兵衛)
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+―娘
(遠藤太郎兵衛)
●『小駄良遠藤系図』
⇒+―遠藤惣兵衛―+―惣兵衛 +―等覚坊澄栄
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| +―遠藤太郎兵衛妻 +―遠藤太郎兵衛
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| +―加賀守―――――+―福寿坊澄嘉―――等覚坊実賢――福寿坊秀賢――等覚坊栄賢
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| +―石神吉兵衛 +―娘
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| +―奥之坊―――――――遠藤勝吉――+―河合吉兵衛
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+―遠藤善兵衛―――太郎兵衛――――+―松山八蔵――+―佐助
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+―小兵衛 +―伝十郎
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+―甚左衛門
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+―某
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+―清兵衛
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+―六右衛門