郡上遠藤家 ~土佐遠藤家~

郡上遠藤家 ~土佐遠藤家~

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 江戸時代の土佐藩に美濃遠藤家の一族がいた。土佐藩祖・山内対馬守一豊の正室で、賢女として知られる見性院殿は、通説では近江の国人・若宮喜助友興の娘とされているが、『寛政重修諸家譜』や土佐藩士の由緒書『御侍中先祖書系図牒』などをもとにした最近の研究によると、郡上城主・遠藤慶隆の妹である説が浮上している。見性院殿が元和3(1617)年末に亡くなった翌年、「御由緒を以」って江戸で遠藤安右衛門亮胤が召し出された。この亮胤は郡上藩主・遠藤但馬守慶隆の弟、遠藤助二郎慶胤の末子である。

遠藤慶胤(????-????)


<名前> 慶勝(?)→慶胤
<通称> 美濃助→助二郎(助治郎)
<正室> 佐藤六左衛門秀方娘、のち遠藤大隈守胤基娘
<父> 遠藤六郎左衛門盛数
<母> 東下野守常慶女
<官位> 不明
<官職> 不明
<法号> 不明
<墓所> 不明

―遠藤慶胤事歴―

 父は遠藤六郎左衛門尉盛数遠藤但馬守慶隆の実弟。母は東下野守常慶娘(照用院友順)。

 織田信長に仕え、天正3(1575)年5月の長篠の合戦では、兄・遠藤慶隆の名代として出陣。鳶巣山の戦いで奮戦して戦功を挙げた。さらに翌年の天正4(1576)年の伊勢攻めでも遠藤勢を率いて従軍した。

 天正10(1582)年6月2日、織田信長が明智光秀によって本能寺で討たれると、織田家宿老である柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉らによって織田家の所領分配が尾張国清洲城にて話し合われ、美濃の領主となったのは信長の三男・神戸信孝(侍従)であった。しかし、織田家の家督は、信孝の亡兄・織田信忠(左近衛中将)の嫡子・織田三法師が継ぐこととなり、信孝は三法師の後見人に指名されてはいたが、三法師を実質的に手の内に入れていたのは羽柴秀吉であった。おもしろくない信孝は、秀吉とは犬猿の仲であり、信孝の烏帽子親でもあった宿老・柴田勝家(修理亮)と手を組んで、叔母の於市を勝家に嫁がせて後ろ盾とした。

 美濃は信孝の本拠地となり、遠藤大隈守胤基遠藤但馬守慶隆の両遠藤家も信孝に属したが、美濃国内でも武儀郡坂取城の長屋信濃守景重をはじめとする武儀郡の国人たちが密かに秀吉に気脈を通じはじめていた。信孝は長屋氏の離反を知ると、遠藤家に長屋氏追討を命じ、11月、慶隆は慶胤ら遠藤勢を率いて内ヶ谷の山道を通って坂取城を攻め落とし、長屋景重を降伏させた。さらに、慶隆は慶胤に命じて、信孝がみずから攻めている山県郡太郎丸城の深尾和泉守攻めの援軍に向かわせ、奮戦した慶胤は負傷して帰陣。11月19日、信孝は慶胤へ「無油断養生専一」にするよう書状を与えている。なお、この深尾和泉守の子と思われる深尾和泉重良は、山内一豊の妹・通(法雲院妙栄)の娘を娶り、土佐藩家老の家柄(佐川領主)となる。

 深尾重盛―?―深尾和泉守―?―+
(和泉守)           |
       +――――――――+
+―安東守就 |【佐川領主】
|(伊賀守) +―深尾重良
|       (山内和泉)
+―安東郷氏    ∥
 (太郎左衛門)  ∥======重昌――――重照―――重方――繁峯――――茂澄――――繁寛
  ∥    +――娘     (出羽)  (因幡) (若狭)(平右衛門)(因幡)  (平右衛門)
  ∥    |
  ∥    |【宿毛領主】
  ∥――――+―山内可氏――+―定氏―――+―節氏――倫氏――晴氏――――氏興――――氏篤――保氏――氏睦
  ∥     (左衛門佐) |(左衛門佐)|(源蔵)(蔵人)(靫負)  (半左衛門)(源蔵)(兵衛)(左衛門佐)
  ∥            |      |
+―通姫           +―よめ   +―郷定
|(法雲院妙栄)         ∥     (伊束)
|                ∥
|                ∥――――――市
|                ∥      ∥
| +―野中氏――――――――野中直継     ∥
| |           (玄蕃)      ∥
| |                     ∥
| +―野中氏                 ∥
|    ∥―――――――――野中良明―――――良継:野中兼山
+――――娘                 (伝右衛門)
|        
|         
+―――山内一豊
     ∥――――+―与祢姫
     ∥    |
   +―娘    +=大通院湘南
   |(見性院)  (妙心寺百十四世)
   |
   +―遠藤慶隆
    (左馬助)

●天正10(1582)年11月19日カ『織田信孝書状』(『遠藤旧記』:『大和村史』所収)

 今度其方の手柄無申計候、依而郡上衆定めて別条有間敷候、我々無如有之通り、行々聞可申候、無油断養生専一に候、猶彦太郎可申候、恐慌謹言
 
    十九日         信孝(御判)
     遠藤助治郎殿(慶胤)

 天正17(1589)年、豊臣秀吉は美濃国の検地を行い、翌天正18(1590)年、兄・遠藤慶隆は、一族の遠藤胤基とともに郡上郡から加茂郡内に移封されることとなり、慶隆は加茂郡小原に、胤基は加茂郡犬地へそれぞれ入った。両地とも小規模な城地で、郡上八幡城と比べると小さく、遠藤家へ対して、かつて織田信孝に随って秀吉と戦ったことに対する懲罰的な意味合いが含まれていたと思われる。

●東美濃にての知行

石高 氏名
千石 遠藤内記
五百石 遠藤助二郎・遠藤新左衛門
四百石 遠藤長助・鷲見忠左衛門殿・池戸内記・鷲見安三郎・松井縫殿助・遠藤作右衛門
三百五十石 松井勘右衛門
三百石 各務主水・三木三郎・餌取半右衛門・粥川小十郎・粥川左兵衛・辻 兵衛・湯浅五郎左衛門・中島嘉右衛門・大江六左衛門・堀治太夫
水野角兵衛・垣見権右衛門・佐々重兵衛・三島内膳
二百五十石 石川藤左衛門・小池孫右衛門・村山三右衛門・吉田孫作・原右衛門作・橋本小左衛門・高屋権太夫・仙石伊兵衛・高田長兵衛
松村四郎兵衛・西脇太左衛門・佐藤治兵衛・早野伝右衛門・加藤忠左衛門・河合武右衛門
二百石 粥川半兵衛・稲垣九兵衛・東五郎作・服部半右衛門・佐藤平左衛門・豊田小右衛門・山斎太郎兵衛・武光養右衛門・武光伝右衛門
武光小太夫・納戸茂兵衛・豊前勘兵衛
百石 伊藤宗喜・豊前徳久・佐藤兵左衛門・牧口六兵衛・餌取作助・餌取長左衛門
馬廻衆 遠藤左門・遠藤孫十郎・池戸蔵人・池戸七郎兵衛・池戸十蔵・遠藤勘平・吉田孫四郎・内ヶ島弥太郎・石井中務丞
三島最次郎・松井伝右衛門・松井与右衛門・中島嘉右衛門・松井重助・餌取八兵衛・納戸源吾
七十石 酒井新左衛門・遠藤四郎右衛門・土川六郎右衛門・堀内五左衛門

 慶胤は八千五百石の遠藤家知行地のうち、五百石を知行して兄を支えている。

     斎藤道三―――娘
    (山城入道)  ∥   
            ∥
     三木良頼―+―姉小路自綱―――直綱
    (右兵衛督)|(侍従)    (右近大夫)
          |         ∥―――――遠藤慶利
          +―智勝院   +―清洲   (但馬守)
            ∥     |
            ∥     | 遠藤胤直
            ∥     |(小八郎)
            ∥     | ∥
            ∥―――――+―娘
            ∥     |
            遠藤慶隆  +―慶勝
           (但馬守)   (長門守)
             ∥
             ∥―――――娘
       安藤守就――娘     ∥
      (伊賀守)        ∥
                   ∥
 土岐定頼――金森定近――長近==+―可重
            (兵部卿)|(出雲守)
                 |
       長屋景重―――?――+
      (信濃守)

 慶長5(1600)年の石田三成挙兵の際には、織田、伊藤、稲葉といった美濃諸大名が石田三成に荷担する中、慶隆は犬地城の遠藤胤直(遠藤胤基嫡子で慶隆・慶胤の甥)とともに徳川家康に加担した。これは、秀吉による郡上郡没収に対して反感の心があったからかもしれない。慶隆は徳川家重臣・榊原式部少輔康政を仲介して徳川家に忠功を尽くすことを約し、慶隆は居城が要害ではなかった為、飛騨高山城主・金森長近法印素玄に金山家の持城から城をひとつ借り受けたい旨の使者を金森家に発した。このとき、金森長近入道と養嗣子・金森可重(長屋景重の子とされる)は家康とともに上杉家討伐に向かっていたが、遠藤家と金森家は格別親密であったことから、金森家重臣の独断で城が貸し渡された。

 しかし、犬地城主の遠藤胤直が突如、石田三成方に寝返ってしまったため、慶隆は弟・慶胤と、一族の石神吉兵衛胤春、遠藤彦右衛門胤重らとともに金森家の城に籠ると、家臣・村山市蔵を金森可重のもとへ遣わして、胤直の寝返りと郡上八幡城主・稲葉右京亮貞通を攻めることを家康に言上してくれるよう依頼した。

 その後、家康からは郡上郡は遠藤家の旧領であることを認める書状が届けられ、遠藤勢は金森勢とともに稲葉勢の籠もる郡上八幡城を攻めたが、9月3日、城主・稲葉貞通の策にはまり、一族郎党多数の犠牲者を出して敗退。この戦いでは、慶胤の長男・遠藤長助慶重が奮戦のすえ討死を遂げている。

 その後、稲葉貞通から和睦の申し出があり、遠藤家・金森家と稲葉家は和睦した。こうして後顧の憂いのなくなった慶隆は、東美濃の上根城に籠もる遠藤小八郎胤直を攻めて降伏させた。

 9月14日、慶胤は兄の慶隆とともに美濃大垣の家康の本陣に参上して家康に謁見。翌15日の関が原の戦いでは、家康の旗本として身辺の警護が命じられ、兄の慶隆が郡上八幡藩主となるとその家臣となった。子は男女合わせて十一名が伝わっている(『東家遠藤家記録』慈恩禅寺蔵:「一豊の妻見性院出自の謎を追う」)

 長男・遠藤長助は佐藤六左衛門秀方の娘を母として誕生。慶長5(1600)年9月3日の郡上八幡の戦いで討死を遂げた。長女は一族・野田五右衛門の妻。次女は遠藤新左衛門の妻。三女は佐藤清兵衛の妻。四女は餌取半右衛門の妻。次男・遠藤内記は一門筆頭として尊重された人物。母は遠藤惣領家の遠藤大隈守胤基の娘であるため、兄・遠藤長助よりも上位に位置づけられ、内記が慶胤の嫡男として認められていたものか。三男・遠藤七左衛門は遠藤慶隆の家臣となり、二百石の知行を与えられている。四男・遠藤長兵衛(彦八郎)については伝わっていないが、遠藤家の家臣になったのだろう。五女は伊藤尚政の妻、六女は松原伊右衛門の妻、五男・遠藤三十郎亮胤もおそらく遠藤家に仕えていたか。元和4(1618)年、土佐藩祖・山内一豊の妻(見性院殿)の「御由緒」によって、江戸で土佐藩士として召し出され、子孫は土佐藩士として幕末を迎える。

 慶胤の実名「慶胤」について、遠藤家が東美濃にいたころに張られた唐紙障子四本に貼り込まれていた古反故が、江戸時代の明暦2(1656)年4月に張り直しされた。その際、助二郎の手紙二通が見つかったが、その名乗りは「慶勝」であった。「慶勝」は慶隆の嫡男・松蔵(長門守慶勝)が元服して名乗った名でもあり、松蔵慶勝が元服する前に助二郎慶勝は改名して「慶胤」を称したのかもしれない。

遠藤亮胤(????-1658)


 土佐遠藤氏初代。遠藤助治郎慶胤の末子。母は遠藤大隈守胤俊娘。郡上藩遠藤家一門の遠藤内記の実弟。幼名は三十郎、のち安右衛門。山内一豊の妻(見性院)の甥にあたり、子孫も土佐藩士として活躍。

 山内一豊の甥で二代土佐藩主・山内忠豊(土佐守)の代、元和4(1618)年に江戸にて「御由緒」によって側役として召抱えられた。正月、藩公・山内康豊(修理亮)が一門家臣三百余人の連署で、名簿を高野山正學院に納めているが、その中に「遠藤三十郎」の名が見えている(『第二代忠義公紀』)。

 翌元和5(1619)年には知行二百石が下された。「御由緒」とは、一豊の妻(見性院)の実家(近江の若宮氏とあるのは誤りか)という意味合いと思われる。

 明暦4(1658)年正月28日に亡くなった。

遠藤亮胤(????-1667)


 土佐遠藤氏二代。初代・遠藤安右衛門亮胤の嫡男。実名は不詳。通称は「弥五丞」ともいわれるが、遠藤家の末裔・遠藤三作胤直が藩に提出した由緒書きによれば「弥左丞」。

 万治元(1658)年、父・亮胤の跡目を継いで三代藩主・山内対馬守忠豊に仕えた。役職などの詳細は不明。弟に茂左衛門常弘、十太夫の二人があり、次弟・常弘は弥左丞の養子となり、土佐遠藤氏三代を継いだ。

 三弟・十太夫は明暦元(1655)年、二代藩主・山内土佐守忠義の代に末子並として召し出され、三人扶持切米七石を下された。

 寛文7(1667)年10月3日、江戸で亡くなった。

遠藤亮胤(????-1705)


 土佐遠藤氏三代。遠藤安右衛門亮胤の次男。通称は弥五太夫。のち茂左衛門。兄・遠藤弥左丞の跡目を継いだ。

 三代藩主・山内対馬守忠豊の代、寛文7(1667)年、養父・弥左丞の跡を継ぎ、遠藤家二百石のうち百五十石が下し置かれ、御馬廻に就いた。さらに、四代藩主・山内土佐守豊昌の代、延宝4(1676)年、豊昌の奥方付となり、役高として五十石が新たに差し下された。延宝6(1678)年、豊昌の奥方が亡くなると国許の土佐に移り住んだ。

 宝永2(1705)年正月30日、亡くなった。

遠藤亮胤(????-1711)


 土佐遠藤氏四代。遠藤弥左丞の長男。叔父の遠藤茂左衛門常弘が父の跡目を継いだため次男とされた。通称は弥左丞。のち茂左衛門。叔父の遠藤茂左衛門常弘の養嗣子となる。

 五代藩主・山内土佐守豊房の代、宝永2(1705)年、養父・茂左衛門常弘の跡目を継いで百石を給わり、御馬廻に就いた。

 宝永8(1711)年6月27日、亡くなった。 

遠藤亮胤(????-1746)


 土佐遠藤氏五代。遠藤茂左衛門常弘の三男。通称は国八。

 四代藩主・山内土佐守豊昌の代、叔父で先代の遠藤弥左丞真好の跡を継いだ。兄・遠藤三十郎は他家へ仕えている。

 寛保4(1746)年正月14日、亡くなった。 

遠藤亮胤(????-????)


 土佐遠藤氏六代。遠藤国八常壽の嫡子。母は不明。通称は文治、のち安左衛門。

遠藤亮胤(????-1780)


 土佐遠藤氏七代。遠藤国八常壽の次男。母は不明。通称は忠吾。

 安永9(1780)年12月29日に亡くなった。

遠藤亮胤(????-1799)


 土佐遠藤氏八代。遠藤忠吾胤幸の養子。実父は遠藤家の親戚にあたる斎藤文吾繁政。通称は小文次。

 寛政11(1799)年9月10日に亡くなった。

遠藤亮胤(????-1821)


 土佐遠藤氏九代。遠藤小文次胤盛の養子。実父は遠藤家の親戚にあたる斎藤文吾繁政で、先代・遠藤胤盛の実弟である。通称は文八。

 文政4(1821)年8月11日、亡くなった。

遠藤亮胤(????-1857)


 土佐遠藤氏十代。遠藤文八胤章の養子。実父は遠藤家の親戚筋にあたる近藤弥五兵衛賀章。通称は伴吾。初名は晴章。妻は先代の遠藤文八胤章娘。

 嘉永4(1857)年8月2日に亡くなった。

遠藤亮胤(????-1855)


 土佐遠藤氏十一代。遠藤伴吾胤晴の養嗣子。実父は遠藤家の遠縁にあたる斎藤孫左衛門繁長。

 安政3(1855)年10月17日に亡くなった。

~遠藤慶胤の一族~

遠藤慶直(????-1585)


 遠藤氏重臣。父は遠藤六郎左衛門尉盛数。母は東下野守常慶娘(照用院友順)。通称は久三郎。遠藤但馬守慶隆遠藤助次郎慶胤の実弟。

 天正13(1585)年、飛騨国にて三木自綱(飛騨守)との戦いで討死した。

遠藤内記(????-????)


 遠藤氏重臣。父は遠藤助次郎慶胤。母は遠藤大隈守胤俊娘。幼名は右近。

 遠藤家中の一門筆頭に位置し、東美濃での知行は千石。分限帳にも「殿」という敬称で呼ばれている。異母兄に遠藤長助慶重がいたが、彼の母は武儀郡鉈尾山城主・佐藤六左衛門清信の娘であったため、遠藤惣領家の遠藤大隈守胤俊娘を母とする内記が慶胤の嫡子とされていたのかもしれない。

 子孫は「池渡内記」を号したという。また、三代藩主・遠藤備前守常友の五男に「遠藤内記慶紀」という人物が見え、「遠藤内記殿」の子として「遠藤十兵衛」があり、宝暦の郡上一揆の責任を取って藩を去っている。

        佐藤清信――+―佐藤方秀―――佐藤方政
       (六左衛門尉)|(六左衛門尉)(才次郎)
              |       
              +―娘     
                ∥――――――遠藤慶重
                ∥     (長助)
                ∥
 遠藤胤好―+―遠藤盛数―――遠  藤  慶  胤
(新兵衛) |(左馬助)  (助治郎)    ∥
      |                ∥―――+―遠藤内記
      |                ∥   |   
      |                ∥   |
      +―遠藤胤縁―――遠藤胤俊――+―娘   +―遠藤亮胤
       (新兵衛)  (大隈守)  |      (三十郎)
                     |
                     +―遠藤胤基
                      (大隈守)
                       ∥―――――遠藤胤直
               遠藤慶隆――+―娘    (小八郎)
              (但馬守)  |
                     +―遠藤慶勝              
                     |(但馬守)              +―遠藤常春―――遠藤常久
                     |                   |(右衛門佐) (岩松)
                     +―清洲                |
                       ∥―――――遠藤慶利―――遠藤常友―+―遠藤慶紀―――遠藤十兵衛
                       ∥    (但馬守)  (備前守)  (内記
                       三木直綱
                      (右近太夫)

【情報提供】
●遠藤佐左衛門様

遠藤慶重(????-1600)


 遠藤氏重臣。父は遠藤助次郎慶胤。母は佐藤六左衛門(清信か)の娘。妻は木越遠藤彦左衛門胤重娘。通称は長助。遠藤内記の異母兄。東美濃での知行は四百石。遠藤内記と同様に「殿」という敬称がつけられる人物。彼の二人の娘は、それぞれ遠藤家重臣の粥川小十郎と内ヶ島勘左衛門に嫁いだ。

 慶長5(1600)年、石田三成と徳川家康との間が険悪となり、石田三成が徳川家康追討の軍勢を発した。当時の美濃郡上八幡城主は知将・稲葉右京亮貞通で石田三成に味方していたが、このとき貞通は嫡子・稲葉典通とともに尾張犬山城に詰めていたため、三男の稲葉修理亮通孝が留守居をしていた。八幡城はすでに遠藤慶隆・金森可重の軍勢によって取り囲まれており、9月2日、遠藤・金森の猛攻を支えきれないとみた通孝は、遠藤家とも親しい安養寺福寿坊を和議の使者として慶隆のもとに遣わし、家老・稲葉土佐の子・稲葉与一郎を人質として差し出すこと、遠藤家の捕虜を一人返すことを約束した。慶隆はさっそく金森可重の陣を訪れてこの和議について相談し、稲葉家の申し出をのんで八幡城の囲みを解いて、遠藤勢は八幡城から吉田川をはさんだ南にある愛宕山に、金森勢は八幡城北裏にある瀧山にそれぞれ退いた。

●八幡城の稲葉家配置(『遠藤旧記』:『大和村史』所収)

本丸 稲葉土佐
二ノ丸 片桐知法・求軒権蔵主(町奉行・城番)
二ノ曲輪 林惣右衛門・渋谷弥十郎・遠藤勝吉・村瀬番右衛門・佐口嘉右衛門・柴崎甚右衛門・片岡長右衛門・三木長兵衛・渡辺十兵衛
中村太郎右衛門・稲葉藤左衛門・稲葉八郎・石神養兵衛・堀九助・寺沢十左衛門・宇野兵内・伊藤又左衛門
桜町枡形 岡部大膳・稲葉九兵衛
沓部口 箕浦源助・川尻権平
鷲見口 鷲見喜平太
坂本口 大口市左衛門・後藤勘左衛門・加納長助・高田半兵衛・渡辺源太郎

 9月2日、犬山城に詰めていた稲葉貞通のもとに、八幡城が遠藤・金森勢に襲撃されていることがもたらされたため、稲葉忠次郎以下わずか三十二騎を率いて犬山城を発した。その後の道中で嫡子・稲葉典通率いる五百人が追いつき、八幡の手前、千虎(郡上市千虎)に至って闇に包まれ、未明に八幡城下に入った。すると、八幡城を囲むように遠藤・金森勢が陣を張っており、貞通の側近は戦いの不利を訴えたが、貞通は「縦ひ款を送るも目前の敵と戦はざるは武名を汚さん。之を撃退して城に入り、而して後和を講ずる亦未だ晩しとせず」として、わずかな兵を率い、ひたひたと遠藤勢に忍び寄った。

 9月3日早朝、慶重の家臣が濃霧の中、水を求めて吉田川に下りた。彼は川辺に至り水を汲んでいると、眼前の森の中から騎馬勢が群雲のように出現した。彼は驚いて陣中に駆け戻り慶隆に伝えたが、智将で名の知られた慶隆も、まさか稲葉勢がやってきているとは思わず、確かめに向かおうとしたとき、鯨波の声が愛宕山の西麓から湧き上がった。

 早朝の稲葉勢の突然の斬り込みに遠藤勢は驚きあわて大混乱となり、重臣・粥川小十郎は慶隆を馬に乗せて逃れさせ、自ら陣頭に立って太刀を振るい、敵兵五人を唐竹割りに両断した。さらに、遠藤長助慶重、鷲見忠左衛門、粥川五郎左衛門、松井忠兵衛ら重臣たちが手勢を率いて稲葉勢に斬りこんで縦横に斬り回った。粥川小十郎は稲葉家重臣・稲葉秀方に肉迫して、その側近・日比野吉右衛門を斬り落とし、秀方に切先が触れようとしたとき、秀方の臣・狩野与十郎が背後から小十郎の背中に槍を突き通し、小十郎は討死を遂げた。慶重も稲葉勢に取り囲まれ、奮戦ののち討たれた。享年不明。他の三名の侍大将も次々に討死を遂げた。

 大将の慶隆は彼らの活躍によって虎口を逃れ、無事に金森可重の陣にたどり着くことができた。

 郡上市の愛宕公園には、郡上藩三代藩主・遠藤右衛門佐常友が遠藤長助慶重、鷲見忠左衛門、粥川五郎左衛門、松井忠兵衛の五人の冥福を祈るための供養塔「五人塚」を建立している。

【情報提供】
●遠藤佐左衛門様


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東氏惣領家沼闕東氏上代東氏郡上東氏諸国の東氏

郡上藩主遠藤家三上藩主遠藤家旗本乙原遠藤家旗本和良遠藤家

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