三上藩遠藤家 ~古今伝授を伝える家~

郡上遠藤家 ~三上藩主遠藤家~

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●三上藩遠藤家とは

三上藩地図
三上藩陣屋地
 近江国野洲郡三上村に陣屋を置いた三上藩主・遠藤家は、千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を遠祖とするとされる美濃郡上郡の豪族である。
 遠藤家は鎌倉期・室町期を通じて郡上東氏の執事的な家として東氏に仕えた。しかし、室町後期に東氏と遠藤氏の間で確執が生まれ、遠藤盛数は義兄の東常堯を郡上郡から追放して東氏を滅ぼした。盛数は常堯の姉を正室としており、その子・遠藤慶隆が郡上東氏の遺領を継承。織田信長・豊臣秀吉に仕え、その後、慶長の役では美濃国で数少ない徳川方として活躍し、その功績によって美濃郡上藩主となった。遠藤氏は本姓藤氏ではあるが、江戸期の遠藤家は東氏を継承した立場を取っており、平姓となっている。また歌道を家業としており、代々「素」号を称する歌人大名でもあった。
 しかし、郡上藩五代藩主・遠藤常久が七歳で早世して無嗣断絶となり郡上藩は改易された。ただ、先祖の勲功を思った将軍徳川綱吉は、みずからの縁戚の旗本白須政休の子・数馬を戸田弾正氏成の養子分とし、戸田家から遠藤家へ入嗣することで家の断絶は免れ、数馬は遠藤胤親と称して新規取立として常陸・下野などで計一万石を与えられ大名となった。その後、近江国野洲郡三上村などに移封されて陣屋を構えて明治に至った。
 幕末の当主遠藤胤統は若年寄の要職にあり、その子・遠藤胤城は陸軍奉行並となるなど、幕閣と密接な関係を持った。明治に入り、子爵に叙爵された胤城は、勅許を得て「東」に復した。

●郡上藩・三上藩遠藤家

郡上藩・三上藩の概要 美濃郡上藩主 近江三上藩主 郡上遠藤家
木越遠藤家 乙原遠藤家 和良遠藤家  

●東氏の歴代

郡上東氏 郡上東氏の歴代 東氏惣領家 須賀川東家 森山東家

●江戸時代の遠藤家(東家)

土佐藩遠藤家 木曾遠藤家 田中藩遠藤家
苗木藩東家 小城藩東家 医官東家

●郡上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤慶隆 1550-1633 1601-1632 従五位下 但馬守 遠藤盛数 東常慶娘 乗性深心院
―― 遠藤慶勝 1588-1615 ―――― 従五位下 長門守 遠藤慶隆 三木良頼娘 対神院明心
2代 遠藤慶利 1609-1646 1632-1646 従五位下 但馬守 三木直綱 遠藤慶隆娘 至誠院乗雲
3代 遠藤常友 1628-1675 1646-1675 従五位下 備前守 遠藤慶利 板倉重宗娘 常敬院素信
4代 遠藤常春 1667-1689 1676-1689 従五位下 右衛門佐 遠藤常友 戸田氏信娘 恵正院素教
5代 遠藤常久 1686-1692 1689-1692 従五位下 ―――― 遠藤常春 側室某氏 本了院素導

●三上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤胤親 1683-1735 1692-1733 従五位下 但馬守 白須政休 小谷忠栄娘 宝地院素吟
2代 遠藤胤将 1712-1771 1733-1771 従五位下 備前守 遠藤胤親 久松氏娘 大心院素江
3代 遠藤胤忠 1732-1791 1771-1790 従五位下 下野守 遠藤胤親 田所氏娘 東覲院素秋
―― 遠藤胤寿 1760-1781 ―――― ―――― ――― 遠藤胤忠 青木氏娘 心開院素練
―― 遠藤胤相 1761-1814 ―――― ―――― ――― 酒井忠与 西村氏娘 霊信院素淳
4代 遠藤胤富 1761-1814 1790-1811 従五位下 左近将監 松平信復 小林氏娘 自得院素行
5代 遠藤胤統 1793-1870 1811-1863 従四位下 中務大輔 戸田氏教 猿田氏娘 敬武徳院素中
―― 遠藤胤昌 1804-1855 ―――― ―――― 式部少輔 松平義和 某氏娘 直諒院素温
6代 遠藤胤城 1838-1909 1863-1909
(藩知事含む)
従五位下
(贈正三位)
但馬守
(子爵)
遠藤胤統 小谷氏娘  

 
六代藩主

遠藤胤城(1838-1909)

<名前> 胤城(たねき)
<幼名> 廸若→廸吉
<通称>    
<正室> 堀石見守親義妹・雅(教子)
<父> 遠藤中務大輔胤統
<母> 小谷氏
<官位> 従五位下→正三位(明治四十年、勅命により追贈)
<官職> 美濃守→備前守→但馬守
<役職> 大坂城青屋口加番→講武所奉行→三上藩知事→和泉国吉見藩知事
<就任> 文久3(1863)年10月7日~明治42(1909)年11月9日
<法号>  
<菩提寺> 長敬寺

―遠藤胤城事歴―

 三上藩六代藩主。遠藤但馬守胤統の三男。母は小谷氏。妻は堀石見守親義の末妹・雅(『堀親広親族書控』:「伊那2003年11月号」)。天保9(1838)年6月5日、大坂城内玉造口定番屋敷にて誕生した。幼名は廸若、廸吉。

大坂城玉造口定番屋敷跡
大坂城玉造口定番屋敷跡
 天保3(1832)年5月2日、胤城が生まれたとき、すでに義兄の遠藤邦之丞胤昌(美濃高洲藩主・松平中務大輔義和の五男)が養嗣子と定められていたが、胤昌に子がいなかったことから、胤城がその養嗣子となった。兄に亀若がいたが、胤城が生まれる前の天保5(1834)年12月22日に玉造口定番下屋敷で亡くなっていた(天華院殿幼光芳雪大童子)。

 胤昌が安政3(1855)年10月23日に亡くなると、11月15日、胤城は父・胤統とともに江戸城西ノ丸に登城して十三代将軍・徳川家定に謁見し(『藤岡屋日記』)、12月16日に従五位下・美濃守に叙せられた。こののち、備前守、但馬守と改められている。

 文久3(1863)年10月7日、父・胤統は老齢を理由に隠居を願い出て許され、胤城が三上藩六代藩主に就任した。そして、大坂城青屋口加番を経て、築地の講武所奉行に就任した。慶応元(1865)年5月、長州征討のために将軍・徳川家茂みずから出陣し、胤城もこれに随って大坂城に入った。そして慶応2(1866)年7月、胤城は兵を率いて安芸国広島にむけて出陣。備後国三吉に至ったとき、大坂城で将軍・徳川家茂が脚気によって病死した報告と、全軍引き上げの命が下ったため、ただちに兵をまとめて大坂城に戻った。

 幕府軍が長州戦に勝利を収められず引き上げたことは、幕府の弱体化を知らしめることとなってしまう。慶応2(1866)年2月5日、京都二条城で十五代将軍に就任した徳川慶喜は、これまでの幕軍の旧い体制を改革すべきことを第一条とし、幕府の軍備をフランス軍制に改革。軍備の近代化を目指し、幕軍の再編成と近代的な訓練を重ねた。このため、幕軍は見る間に精鋭となっていく。11月25日、大坂から江戸に戻った胤城は翌26日、陸軍奉行並に就任し、幕府陸軍の事実上のトップとなった。胤城は同じく陸軍奉行並の常陸国下館藩主・石川若狭守総管と明治初期、勧学義塾という私塾を遠藤家上屋敷近くの芝に開校している。

 翌慶應3(1867)年3月1日、陸軍奉行並から奏者番へ移った。

 慶喜の果敢な幕府の建て直し政策は、倒幕を画策していた薩摩藩・長州藩、それと手を結んでいた岩倉具視は危機感を抱き、早々に倒幕の勅令を手に入れる必要にせまられて倒幕の勅令を偽造。慶応3(1867)年10月13日夜、岩倉具視は天皇の外祖父であった中山忠能が岩倉の指示の通り、玉璽を幼い天皇(明治天皇)の手に持たせ、中山が手を副えて「倒幕の勅令」の下書きに御印を押させて「倒幕の密勅」が作られたという。

 しかし、この岩倉・大久保らの水面下での陰謀をいち早く察していた慶喜は、これよりも早く、13日昼に二条城大広間に在京の藩の重臣を召集して大政奉還を表明。岩倉らが押し立てようとした「倒幕の密勅」は、幕府が消滅した後に発せられたものであるため、無効とされた。

会津藩邸跡
会津藩邸跡(皇居外苑)

 岩倉たちは倒幕の密勅が用に足らなくなるとさらに奸謀を企て、「徳川家は大政を奉還したのであるから、その所領もすべて朝廷に返還されるべきである」(徳川家の辞官納地)とし、京都守護職や所司代、幕臣たちが怒りのあまり暴発することを狙った。

 このときの京都守護職は松平肥後守容保(会津藩主)、京都所司代は松平越中守定敬(伊勢桑名藩主)であり、幕府を重んじる人々であった。薩摩藩や長州藩を敵視する幕臣や所司代の兵はすでに暴発寸前となり、松平容保や松平定敬ですら抑えることができなくなった。

 慶応3(1867)年12月25日、江戸芝の薩摩藩邸で倒幕の謀議が行われていることを知った幕府は、ついに庄内藩中老・石原倉右衛門成知に薩摩藩邸を攻撃する命を下し、焼き討ちした。

 慶応4(1868)年正月1日、会津藩・桑名藩を主力とした幕府軍は大坂に集結し、上洛すべしとの勅命を旗に京都に向けて徳川慶喜は上洛した。このとき、京都周辺の道々は幕府と敵対していた長州藩、幕府を裏切った薩摩藩が守っていて、正月3日、幕府軍先鋒の滝川具拳が薩摩藩士が守る道を押し通ろうとして口論となり、薩摩藩は幕府軍に向けて突如発砲。鳥羽・伏見の戦いが起こった。

 戦いは一進一退が続いたものの、武器の質に劣る幕府軍は圧され、幕府軍総督・大河内豊前守正質や竹中丹後守重固ら幕府軍首脳の指揮のまずさも手伝って、幕府軍は敗れた。薩長憎しの気運高まる幕府軍を抑えきれなくなった徳川慶喜、松平容保、松平定敬ら幕府軍首脳部は正月6日、大坂から船に乗って江戸に逃れた。これ以上戦線を拡大させないためともいわれているが不明。

 翌正月7日、徳川慶喜追討令が発せられ、10日には慶喜以下27名の主だった人物の官位官職が褫奪され、幕府領は朝廷直轄領とされた。

 胤城は長州征討から大坂城に帰ったあと、慶応2(1866)年11月に江戸に戻り、翌12月に陸軍奉行並に任じられた。しかし、鳥羽・伏見の戦い敗れた幕府軍は壊走。胤城も三上藩の去就を迫られ、慶応4(1868)年正月10日に降伏を決意。近江国野洲郡の三上藩陣屋の留守居役に降伏の旨を伝えた。そして正月25日、近江国愛知川宿に駐屯していた東山道鎮撫総督・岩倉具定から三上藩留守居役に出頭が命じられ、正式に降伏恭順の意を示した。

 しかし、正月27日、東山道鎮撫総督は三上藩領召し上げの通達を発した。これは胤城が長州征討戦における幕府陸軍主将の一人であった上、降伏するのが遅かった罪が咎められた結果であった。三上藩領は隣接する水口藩(加藤能登守明実)・西大路藩(市橋下総守長義)が管理することとなった。

 胤城自身もは3月、武蔵国蕨宿に進軍した東山道鎮撫総督府に出頭し帰順した。総督府は胤城に蕨宿での謹慎を命じたが、すぐに謹慎は解かれて総督府付とされ、旧藩士八十五名とともに武蔵国戸田川の渡船場警固を命じられた。そののち総督府とともに板橋宿へ移り、板橋宿並近在取締役を仰せつかった。下級公家であった岩倉家の子に謙り、政府閣僚が渡し守や警察署長のような立場に降格になったわけだが、遠祖の東氏以来、朝廷と関わりを持ちつづけた遠藤家としてはそれもやむなしとの気持ちもあったのかもしれない。

 5月29日、戦わずして恭順したことや勤務が実直であったことなどの評価を受け、旧三上藩領一万二千石が胤城に返還された。そして7月10日、江戸芝の将監橋角にあった三上藩下屋敷に入り、5月の彰義隊と朝廷軍との戦いで荒廃した上野寛永寺内の警衛役に就いた。

 8月14日、山内警衛役を免ぜられると、8月17日、奥羽鎮撫総督府の正親町公薫(白河口総督)に随って会津藩追討の軍勢に加わり、旅中会計方を命じられた。9月8日、会津から東京に凱旋したのち、10月15日、天皇(明治天皇)より招かれ、東京城(旧称江戸城)に登城してはじめて天顔を拝した。

役職    
藩知事 遠藤胤城  
大参事 粥川小十郎  
権大参事 神山雪江 塚本九一郎
少参事 水谷榮三郎  
権少参事 餌取 傳  
 明治2(1869)年6月17日、朝廷は、諸大名が統治していた土地(版)・人民(籍)を朝廷に返上する「版籍奉還」を推進し、胤城も三上藩を朝廷に奉還し、6月23日、三上藩知事に就任。同時に公家や旧大名家、維新に功績のあった人物が「華族」という身分に統合された。そして、明治3(1870)年4月14日、飛領の和泉国吉見(大阪府泉南郡田尻町)に三上藩庁を移転した。ここに三上藩は吉見藩となる。

 しかし、明治4(1871)年7月14日、東京在住の各知藩事が召集されて「廃藩置県」の詔勅が出された。廃藩置県とは、それまでの藩を廃して代わりに県を置いて県令がこれを支配することであり、胤城は、藩知事を免ぜられた。新たに県令が任じられ、胤城は政治に関わる一切の権力を失った。

 明治11(1878)年正月22日、胤城は「遠藤」を遠祖の「東(とう)」に複氏したい旨を奏上して許され、「遠藤胤城」を「東胤城」と改め、明治17(1884)年、子爵となった。

 明治38(1905)年2月9日、夫人の教子(老中・堀石見守親寚娘)が亡くなった。そして、その四年後の明治42(1909)年11月9日、72歳で亡くなった。この日、特旨をもって正三位を追贈され、家督は三男の陸軍歩兵中尉・東胤禄氏が継承した。


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