原式部少輔胤清

手賀沼 原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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原胤清(????-????)

 原宮内太輔胤隆の子。通称は弥五郎、孫次郎。官途は式部少輔。法名は超岳(『千学集抜粋』)

  胤清ははじめ、一族の有力被官・牛尾左衛門胤重兄弟が小金城にて討死したため、その名跡を継いで「牛尾弥五郎」を称していた(『千学集抜粋』)

小弓城
小弓城址

 永正14(1517)年10月14日、「武田真里谷三河入道」は小弓城に攻め寄せ、小弓城を攻め落とした。このとき「小弓城主」「原二郎」と老職の「高城越前守父子」「滅亡」し、「同下野守」「逐電」したとされる(『快元僧都記』)が、この記録は『快元僧都記』の初期写本(『鶴岡平氏綱再興記』)にはなく、後世の加筆と考えられている。ただ、真里谷三河入道は翌永正15(1518)年7月、「南之上様」こと足利義明(古河公方足利政氏の子。元鶴岡八幡宮寺若宮別当)を下総国高柳(久喜市高柳)の御所から小弓館へ迎えており(滝川恒昭『中世房総』6号「小弓公方家臣逸見氏について」)、小弓落城は事実であることから、その城を守っていた原氏一党の滅亡もおそらく事実であろう。

 『快元僧都記』の「原二郎」については、この頃の当主・原胤隆は天文5(1536)年7月まで生存していることから(『本土寺過去帳』)胤隆の長子と思われる孫次郎基胤ではなかろうか。そして、基胤が討死を遂げた後、牛尾家を相続していた胤隆庶子の牛尾弥五郎胤清が原家へ戻り、通称を「孫次郎」と改めて原家の嫡子になったと思われる。当時、父の胤隆がどこにいたのかは不明だが、永正18(1521)年8月28日、小弓公方方と思われる上総国市東の「道遠 市東」「臼井布佐葛西小弓者共」とともに「金ヨリ市河ニテ追テ打死」しており(『本土寺過去帳』)、小金から小弓公方勢を追討する一勢があったことが知られる。小金は原宗家の重職であった高城氏の勢力圏であることから、胤隆はこの小金城に在館していた可能性もあろう。小弓公方勢は胤隆の籠もる小金城を攻めたものの、敗れて追撃を受けたものと思われる。また臼井氏は当時、小弓公方方だった様子もみられる。胤清の足取りもその後しばらく見られず、父・胤隆のもとにあったのかもしれない。

 次に胤清の姿がみられるのは、古河公方足利高基から軍勢催促を受けた父「原宮内太輔入道殿」が病のため、代理として「中途令参上」した「長子孫次郎」の記述で(『足利高基感状』(「戦国遺文」古河公方編五九三)、某年7月12日のことである。高基は胤隆の病状については「朝胤」から聞き取っているが、朝胤胤隆の弟で、胤隆の養子になったともされる人物である(『本土寺過去帳』)

 「原宮内太輔入道」こと胤隆は、天文5(1536)年7月11日に「府河ニテ」没しているが(『本土寺過去帳』)、高基から胤隆へ宛てた感状の日付は7月12日であることから、高基感状が天文5年のものとすれば、まだ胤隆の病死が伝わらない中で高基が認めた感状ということになる。

 ところが父・胤隆の死後、惣領家となった胤清には古河公方高基と敵対する弟・小弓公方義明からの強い圧力がかかっていたようで、胤清は数度にわたって「不可顕不忠由」を誓紙に認めて義明へ奉じている(『足利義明書状写』(「戦国遺文」房総編六五四))。これは事実上義明への従属を意味するが、胤清は心からの従属などしていなかった。天文5(1536)年と思われる11月22日夜、誓紙を反故にして「顕色」した。

 胤清から誓詞を幾度も提出されていた義明はすっかり油断していたが、胤清顕色を聞いて「井田刑部太輔」に「原孫二郎」「顕色」したので「椎崎」と相談して対処すべきことを12月11日付で命じている(『足利義明書状写』(「戦国遺文」房総編六五四))。上総国武射郡の「椎崎(千葉介勝胤の子・椎崎勝住か)」とその寄騎・井田刑部太輔(胤光)が胤清の対処を命じられていることから、当時、胤清は東総小西城(大網白里町小西)の小西原氏を頼っていた可能性があろう。

 実は胤清は「顕色」する一月ほど前の閏10月23日、「井田刑部太輔」へ宛てて、「覚書」を送っている(『原胤清覚書』(「千葉県史料」中世篇諸家文書二〇五))。内容は、まず「自向雖被申越候、相払候事」と、「向(義明)」から何らかの接触があっても無視することとし、「一度申合候上、御疑心有間敷事」と、井田が胤清といったん申し合わせをした上は、疑念を懐かないよう諭した上で、人質の意味か、「弥五郎(牛尾胤直)」を佐倉へ出仕させたことを伝えている。そして、井田胤光の「御覚悟推量申」すとしつつも「彼家中可被引分御稼之事」と、古河公方からの「引分(寝返り)」を求め、今後の事は「於何事も、無隔心可有御意見事」とし、最後に「胤清覚悟、御うたかひあるましき事」と、胤清自身の決意をも伝えている。この決意の結果が胤清の「顕色」であろう。胤清は小弓方に属していた井田胤光にも、千葉方への寝返りを勧めていたのである。

 そして12月11日に小弓公方義明から胤清への対処を命じられていた井田胤光も12月20日、胤清との約定の通り「昌胤所へ出頭之儀、被仰出候之処、速奉応上意候之条、神妙之至候」と、古河公方足利晴氏の上意を奉じて千葉介昌胤のもとへ参じたのであった(『足利晴氏感状』(「戦国遺文」房総編七八五))。その後、井田氏は府馬、鏑木、木内、山室、三谷、椎名氏らと並ぶ千葉宗家の有力被官となるが、のちに三谷、椎名氏を寄騎とすることが認められ、地方領主として一勢力を築くこととなった。

国府台
国府台の戦い

 天文7(1538)年10月6日、関宿をうかがって兵を進発させた小弓公方足利義明に対し、古河公方方に加担する北条氏や千葉介昌胤・原胤清らが兵を進め、江戸川の東側にそびえる高台、国府台で合戦となった(第一次国府台合戦)。『小弓御所様御討死軍物語』によれば、国府台合戦の頃、胤清は「近年月は武蔵国へ打越し、氏綱を頼みて、浅草に在宿」していたとあり、浅草にも拠点を持ちつつ氏綱との連携を図っていた可能性も伝えられている。

 翌10月7日、氏綱は弟の宗哲(のちの北条幻庵)らとともに小弓方の砦であった相模台(松戸駅東口の高台)を攻略。あわてて北上した足利義明率いる軍勢と矢切台で激戦となり、「小弓衆打負、御曹司様、上様、御舎弟基頼御討死」と、足利義明(上様)・基頼(御舎弟)・頼純(御曹司様)ら主だった人物たちが討死を遂げた。社家奉公衆として鎌倉雪ノ下より義明に従ってきた逸見山城入道祥仙ら主だった重臣も討死を遂げた。

 この合戦の結果、10月9日に小弓城は小田原勢によって接収され、「只今小弓へ本位するこそ奇特なれ」と、小弓城は「本主」たる胤清へ返還されたという(『小弓御所様御討死軍物語』)。これが事実であれば原氏は二十年ぶりの本領復帰となる。

弘法寺
真間山弘法寺山門

 小弓合戦から半年後の天文8(1539)年4月20日、小田原北条氏の重臣遠山綱景八幡庄弘法寺門前の寺領安堵状を出し、その八日後の4月28日、胤清が「従遠山方寄進候」と追認する安堵状を出した(『原胤清寄進状』(「千葉県史料」中世篇諸家文書二〇四))。この弘法寺領は享徳5(1456)年6月20日に祖の原越後守胤房が安堵した場所と同じ地であり、原氏が代々支配してきた様子がうかがえる。その後、小弓公方によって支配権を奪取され、その奉行人であった逸見山城入道祥仙から弘法寺へ安堵されるが、義明討死の後、北条氏経由で遠山綱景が安堵し、八幡庄周辺の実質的支配者であった原氏がそれを追認した形となったのだろう。これらのことからこの当時、原氏は遠山氏の影響下にあったと考えられる。

 天文13(1544)年7月21日、胤清の名で千葉妙見社の神職・左衛門大夫の「大夫司職」の安堵をしている。この前年の天文12(1543)年1月25日、十二代金剛授寺座主・権少僧都範覺が佐倉城内で没しているが、彼は胤清の弟である。

 天文15(1546)年正月、千葉介昌胤が五十二歳で没すると、その嫡男・利胤が千葉宗家の家督を継承するが、九月十二日、利胤は上総国の「武田式部太夫殿」「向臼井成調議候処、左衛門五郎為合力、人数被相立候、簡要候」と臼井城攻略のための出陣を指示する文書を送っている(『千葉介利胤書状』(「戦国遺文」房総編七八八))。当時の臼井氏当主は利胤の弟・臼井四郎胤寿(たねより)と思われるが、昌胤が亡くなって僅か数か月で兄弟の抗争が発生し、敗れた胤寿は臼井から姿を消すことになる。

 そして、翌天文16(1547)年3月、利胤は千葉妙見宮の修造を執り行うこととした。妙見社は宝徳3(1451)年の円城寺氏と原氏の争いで延焼し、享徳5(1455)年には千葉城下が原胤房の攻撃にあって焼失。妙見像は住持の覚実法印によって移されて無事であったが、再建されることはなかった。その後、神官や庶民などが嘆き、再建が建白されたことから、焼失から約百年を経て再建されることとなった。

 このとき胤清が再建担当した「西のくうりやう」の用材は「うなやの山」で伐採されているが(『千学集抜粋』)、この「うなやの山」とは、臼井庄「宇那谷(千葉市花見川区)」であり、臼井氏放逐直後に胤清が臼井庄内に所領を得ていた可能性を物語る。

千葉神社
千葉神社(金剛授寺尊光院)

 そして、天文19(1550)年11月23日、妙見社遷宮式が行われた。このときにはすでに利胤は亡くなっており、幼少の弟・千葉新介親胤が祭主として、「原式部太夫胤清」を筆頭とする被官層、千葉六党、御一家衆を従えて儀式を行った(『千学集抜粋』)。奉行は本庄伊豆守胤村が担当し、従う者は本庄伊豆守胤村・原大蔵丞胤安・馬場又四郎胤平・本庄新六郎胤里・粟飯原源公入道・海上山城守胤秀・原九郎右衛門尉胤行・金親兵庫政能・鏑木長門守胤義・牛尾左京亮胤道・牛尾孫二郎胤貞・小川外記政俊・原隼人祐胤次・斎藤源太左衛門尉清家らであった。

 このとき胤清は、六党や御一家、一族を差し置いて親胤の次座にあった。これは従来からの原氏と妙見との伝統的関与も影響しているであろうが、幼少の親胤のもとで胤清の権威が急激に高まった様子もうかがえる。

 遷宮翌月の12月24日、「原孫次郎(胤貞)」「米根井」から臼井へと移った(『海上年代記抜粋』(「海上町史」資料編Ⅰ))、これが原氏と臼井との具体的な初接点となる。「米根井」の具体的な場所は「原孫次郎背東ヲ米根井ヨリ臼井移ル」とあるので臼井の東側にあると思われるが、木内氏の拠点である香取郡「米野井」の可能性があるが、これ以前に原氏と米野井の関わりはみられないため、不明。

 天文20(1551)年2月15日、愛染山金光院延命寺(千葉市若葉区金親)への寺領安堵状を最後に胤清の発給文書はなくなるが、嫡子の孫次郎胤貞へ家督が譲られたのはその頃であろう。

 当時、胤清は千葉近郊に在館していたようで、天文21(1552)年に、子の牛尾弥五郎胤直妙見座主覚胤と揉めた際には弥五郎の肩を持ち、覚胤は「臼井」にいた胤清嫡子・胤貞と千葉に在館していた親胤にとりなしを求めている(『千学集抜粋』)

 連絡を受けた胤貞はすぐさま臼井から千葉へ出向し、親胤の直臣「円城寺右衛門、原大蔵」とともに胤清を「当家はしめの守護神、ことに屋形様千葉におはせし時ならむにハ、いかてかようの事申さるへきや」と強く嗜めて落着させている。胤清も嫡子・胤貞の怒りを込めた指摘には従ったようで、覚胤は礼として、父・勝胤の形見であった「鎌倉九郎二郎にて大きりはの脇差」を胤貞へ献じた(『千学集抜粋』)

 晩年の胤清の千葉宗家内における権勢は大きなものとなっており、やはり利胤の早世と幼少の親胤の当主就任が大きな原因であったろう。これを象徴するかのように、飯香岡八幡神社へ寄進した大般若経の奥書には「総州太守原式部大夫平胤清」と記している(『飯香岡八幡神社大般若経奥書』(「戦国遺文」房総編 九三四))

 その後の胤清の動向は不明だが、四年後の天文24(1555)年6月23日には、嫡子の胤貞が八幡庄中山法華経寺へ寺領安堵状を発給しており、この時点では胤清はすでに亡くなったか、隠居していると思われる。法号は超岳(『千学集抜粋』)

●天文8(1540)年4月28日「原胤清書状」(『弘法寺文書』)

 真間山弘法寺敷地手作之事、従遠山方寄進旨、簡要候、令得其意候、恐々謹言、 
 
  四月廿八日  原式部大夫
             胤清(花押)
 
  弘法寺
     参

天文19年の妙見宮御遷宮列席者●【■:原一族

名 前 説 明  
千葉新介親胤 千葉介利胤の嫡男。7歳で千葉新介。弘治元(1555)年12月23日、15歳で千葉介。
原式部大夫胤清 下総国千葉郷小弓城主。筆頭家老。
馬場又四郎胤平 千葉親胤の馬を曳いて奉納する。千葉介胤宗の子・馬場胤重(五郎)の子孫。
原大蔵丞胤安 千葉親胤の太刀を奉納する。小西原氏当主。子孫は千葉氏の直臣となる。
原九郎右衛門尉胤行 原胤清の馬を曳いて奉納する。弥富原氏当主。
牛尾左京亮胤道 原胤清の太刀を奉納する。原氏の一門。
牛尾孫二郎胤貞 原胤清の嫡男・原孫二郎胤貞。
原隼人祐胤次 牛尾胤貞の馬を曳いて奉納する。原氏の一門。
斎藤源太左衛門尉清家 牛尾胤貞の太刀を奉納する。原氏の一族。
本庄新六郎胤里 妙見宮に控え、親胤の馬を請け取る。本庄胤村の嫡男。
金親兵庫政能 妙見宮に控え、胤清の馬を請け取る。千葉郷金親村を本貫とする親胤の近臣。
小川外記政俊 妙見宮に控え、胤貞の馬を請け取る。
本庄伊豆守胤村 この祭礼の総奉行を司った。千葉介孝胤の曾孫である。
小河大膳 椎崎五郎勝信(千葉介勝胤の子)の馬を奉納する。
宍倉与三郎 椎崎五郎勝信(千葉介勝胤の子)の太刀を奉納する。宍倉氏の所領・小原郷周辺は椎崎氏の所領。
三谷下野守 成東八郎胤定(千葉介勝胤の子)の馬を奉納する。
小河新蔵 成東八郎胤定(千葉介勝胤の子)の太刀を奉納する。
円城寺源五郎 公津平内信胤(千葉介勝胤の孫)の馬を奉納する。
湯浅源三郎 公津平内信胤(千葉介勝胤の孫)の太刀を奉納する。
高千代大膳亮 寺台城主(海保氏か?)の馬を奉納する。
瀬里惣九郎 寺台城主(海保氏か?)の太刀を奉納する。
三谷右馬助 鹿島大与次胤重(千葉介勝胤の子)の馬を奉納する。
宍倉惣次郎 鹿島大与次胤重(千葉介勝胤の子)の太刀を奉納する。
牛尾平右衛門 牛尾右近大夫の馬を奉納する。
牛尾兵部大輔 牛尾右近大夫の太刀を奉納する。
鏑木長門守胤義 鏑木城主。馬と太刀を奉納する。ほかに、鏑木三郎大夫義兼・鏑木源左衛門義助が参列。

●妙見宮御遷宮に神馬を寄進した一族●

大須賀 大須賀尾張守常安か。  
助崎 大須賀伊豆守胤朝か。
小見川 粟飯原胤次入道源公。
海上殿 海上山城守胤秀?
相馬殿 相馬因幡守胤広か。
府馬
鏑木 鏑木長門守胤義。
米井 木内壱岐守胤寛か。東胤頼の子孫で、山室氏を支配下に置く大豪族。
井田 井田刑部大輔光胤。千葉介昌胤の直臣。
山室 山室治部少輔勝信。飯櫃城を中心に強大な軍団を作り上げていた。
三谷 三谷大膳亮信慈入道か。弘治元(1555)年10月18日、井田友胤に討たれる。
椎名 椎名伊勢守顕時か。のち井田友胤の支配下に入る。
神崎殿 神崎上総介朝秀。千葉介胤正の子・遠山方師胤の子孫
野手 椎名一族の野手氏か?下の押田氏も野手を領しており、押田一族とも考えられる。
押田 押田近江守昌定。千葉介昌胤から偏諱か。千葉介輔胤の子孫。
神能

●参考資料● 

『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者―  浜名敏夫著


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