千葉胤治 (1486-1510)
西千葉氏二代目。千葉肥前守胤資の嫡男(養子か)。母は尼日光(千葉介胤朝娘)か。没年齢から逆算すると文明18(1486)年生まれ。
明応6(1497)年4月19日、大内勢に居城・小城郡晴気城を攻められた父・胤資は、正室千葉氏(尼日光)を城から落として自刃した。胤治もこのとき、母とともに城から逃れたと思われるが、父・胤資が千葉家に養子に入ったのが文明18(1486)年12月であることから、胤治は胤資の実子ではないことになる。
大内氏が大友氏討伐戦に失敗して、豊前から山口に引き揚げるのを見届けると、母・尼日光、胤治らは晴気城の南東、小城郡甕調郷(小城市)の高田城に入った。
しかし、翌明応7(1498)年2月24日、大内方につく筑紫満門・東尚盛らが高田城に攻め寄せたため、尼日光、胤治らはふたたび城を捨てて佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。尼日光、胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに対して援けを求めた。そして、これに応じた龍造寺豊前守胤家は、援兵に反対する弟の龍造寺家和を振り切り、夜陰に紛れて成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らを語らって高田城へ急行し、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、敵対する小城牛頭山城の千葉介興常(大内方)が筑紫・東の援軍として駆けつけてきたため、千葉・龍造寺勢は敗れ、尼日光、胤治らは龍造寺胤家とともに筑前国へ逃亡。大内義興は興常を肥前国守護代とした。
★肥前関係図14★―明応7(1498)年ー
少弐氏 | 大内氏 |
少弐氏は滅亡していて当主なし | 大内義興 |
千葉介胤繁→興常に敗れて筑前へ逃亡 | 千葉介興常 |
龍造寺胤家(康家嫡男)→筑前へ逃亡 | 陶興房(大内氏家宰) |
成富胤秀(少弐氏旧臣) | 筑紫満門(少弐一族) |
木塚直喜(少弐氏旧臣) | 東尚盛(少弐一族) |
筑前へ逃れた龍造寺胤家は、外戚の小鳥居信元(大宰府官吏)のもとで肥前帰国を図っていたが、永正元(1504)年、三根郡西島(三養基郡みやき町)城主・横岳資貞に養育されていた少弐政資の遺児・少弐資元が大友頼治の後援を得て大内氏に反旗を翻した。この騒動の中で、胤家は肥前に戻り、弟・家和に迎えられて大財端城に入城した。胤治たちも高田城に帰ったのだろう。
少弐資元は勢いに乗じて大内家に味方する肥前国神埼郡の勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を攻めて追放。さらに千葉氏と龍造寺氏の力を借りて九州探題・渋川尹繁を白虎山城に攻めて、尹繁を筑後へ放逐した。その後、資元は白虎山城に重臣・馬場頼経を入れて守らせ、胤治らは高田城へ戻った。
★肥前関係図15★―永正元(1504)年ー
少弐氏 | 大内氏 |
少弐資元(少弐氏の再興が認められる) | 大内義興 |
千葉胤治 | 千葉介興常 |
馬場頼経(少弐氏家宰) | 陶興房(大内氏家宰) |
龍造寺家和(胤家弟) | 筑紫満門(少弐一族) |
龍造寺胤家(前家督) | 東尚盛(少弐一族) |
江上興種(資元に追放される) | |
渋川尹繁(九州探題。筑後へ追放される) |
しかし、永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らがふたたび高田城に攻め寄せてきたため、胤治らは再び城を捨てて龍造寺氏を頼った。
翌永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することになり、義興は義尹の命を受けて少弐資元と和睦した。さらに資元は肥前守となり、尼日光、胤治らも晴気への帰還が許されたという。こうして、後顧の憂いを発った義興は、永正5(1508)年6月、足利義尹を奉じて上洛の途につき、少弐氏からは横岳資誠、龍造寺家和らが将軍家の供奉として従った。この前将軍・義尹の上洛によって、現将軍・足利義澄は近江国に逃れ、足利義尹はふたたび将軍に返り咲いた。義尹はその後、名を義稙と改める。
こうした中、永正7(1510)年3月13日、胤治は高田城で討死を遂げた。享年二十五。当時、大内氏と少弐氏は和睦中であり、胤治の討死は大内氏との戦闘によるものではないと思われることから、義弟・胤繁との戦闘での討死の可能性もあろう。法名は妙春寺殿、日治。