千葉胤紹 肥前千葉氏

小城千葉氏

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千葉胤紹(????-1445)

千葉胤紹
胤紹花押

 小城千葉氏九代。六代千葉介胤基の三男。通称は弥次郎右京大夫。「千葉介」は称していないと思われる。

 兄・千葉介胤鎮の重臣の中村左衛門五郎胤宣(公廉)は、永享9(1437)年、胤鎮を廃して胤紹を家督につけるために挙兵し、胤鎮松尾城から追放し、胤紹は胤宣に押される形で千葉氏の家督を継いだ。その後、胤紹は大内氏の庇護を受けて幕府と繋がりを持ち、正式に小城郡司の地位を手に入れた。

 胤紹は家督についた直後から、大友氏や少弐氏との戦いに明け暮れていたようで、某年12月7日に「有浦殿」へ宛てた書状によれば、「豊後豊前筑前之敵方」「悉令退散候」と、大内方として肥前から豊前に攻め込み、大友氏との「豊州之合戦」「御方切勝」ったようである。また、胤紹「今明日之間中、肥前向へ可罷出候、此時御奔走可為肝要候」と有浦氏に頼んでいることから、少弐氏とも戦っていたことが推測される。

 このような中、文安2(1445)年8月に兄で先代当主・胤鎮は、旧臣の岩部氏・仁戸田氏らを率いて挙兵した。胤紹は挙兵の報告を受けるとただちに出兵するが、佐嘉郡川上村西山田胤鎮軍に大敗。国府城に逃れるものの、8月14日に落とされ、17日斬殺された。胤紹の嫡男・政胤もこのとき討たれている。法名は日紹

 胤紹の次男・胤朝大内教弘を頼り、文明元(1469)年6月、千葉介教胤の戦没後、当主の座を奪取している。もう一人の子・胤久も難を逃れ、その子・胤茂は名字を「飯篠」と改め、天文3(1534)年に大村家に仕官し、子孫は大村藩士として続いた。「飯篠」は肥前千葉氏(鍋島玄蕃家)の重臣にその名が見え、肥前千葉氏が下総国香取郡から同道した被官・飯篠氏の末裔と考えられる。胤茂がなぜ千葉家被官筋の「飯篠」を名字としたかは不明。


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