小城千葉氏の惣領 -祇園千葉氏(東千葉家)-

肥前千葉氏

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千葉介胤盛(????-1497?)

 小城千葉氏十二代。千葉右京大夫胤紹の三男。通称は千葉介河上社大宮司。小城郡祇園山城主となった祇園千葉氏」の祖

 文安2(1445)年8月、父の千葉右京大夫胤紹が兄で前惣領・千葉胤鎮との川上村西山田(佐賀市大和町)の戦いで大敗し、国府城(佐賀市大和町尼寺)で長男の千葉政胤とともに討死した。その後、胤鎮が再度惣領となり、小城の北・祇園山(祇園山)に新城を築いて本城とした。このとき、次男・胤朝、三男・胤盛は国府から脱出し、大内氏を頼ったものと思われる。四男は妙法院の稚児になっていたのか、のちに妙法院の住僧となっている。

 千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)
       |       |
       |       +―千葉介教胤
       |        (千葉介)
       |
       +―千葉胤紹――+―千葉政胤
        (右京大夫) |
               |
               +―千葉介胤朝
               |(千葉介)
               |       【祇園千葉家】
               +―千葉胤盛―――千葉介興常
               |(千葉介)  (千葉介)
               |       
               +―千葉胤将
                (妙法院僧侶)

 寛正5(1464)年10月、惣領家・千葉介元胤胤鎮嫡子)が急死。元胤の弟・教胤が十四歳で跡を継ぐも家中は混乱しており、兄の胤朝大内政弘を通じて九州探題・渋川右衛門佐教直と結んで教胤の追い落としを図った。胤盛がそれに従ったかは史料に遺されていないが、行動はともにしていたと思われる。

 ところが、その後おこった応仁の乱で、大内政弘は西軍(山名宗全)方の主力として上洛し、代わって対馬に逃れていた少弐頼忠(政尚、政資)が、対馬の宗貞国に擁立されて筑前へ入り、大宰府を占拠した。大内勢は劣勢で、少弐政尚はその勢力を広げていく。そして大内家に一貫して従う兄・胤朝に対して、胤盛は現在優勢な少弐氏と協力すべきとの立場にあったと思われる。そして、文明4(1473)年から文明8(1776)年までの間に、胤盛胤朝から惣領家の本城である祇園山城を奪った。おそらく胤朝へ少弐氏からの圧力があったものと思われるが、胤朝は祇園山城を明け渡すと、千葉家旧城の晴気城へと退いたと思われる。

 こうした背景の中、文明8(1476)年2月、兄の「千葉介胤朝」は内田某を藤津郡に派遣して、有尾城に大村家親を破って追放するなど(『九州治乱記』)胤朝の勢力拡大が見られる一方、「平胤盛」も同年2月3日、高木兵部少輔が河上社領の佐嘉郡高木内の神野仏性料田に違乱をしたことから、兵部少輔に「高木名字」を禁じる命を下している(『実相院文書』)胤盛が佐嘉郡内および河上社に所縁の深い高木氏に関して影響力を持ち、胤盛が胤泰以来の河上社の大宮司職として国務・社務・社領に関する決定権者であったことがわかる。

 翌文明9(1477)年10月7日、河上社宝殿に「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納めており(『河上社宝殿棟札写』)、祇園山城に在城して千葉惣領家を自認していたとみられる。

千葉介胤盛の降伏と千葉介胤朝の惣領復帰

 ところが、文明9(1477)年10月3日、応仁の乱の収束に伴い、大内政弘は将軍家より周防国、長門国、豊前国、筑前国の守護職に任じられ、11月、周防国山口へ帰陣。翌文明10(1478)年8月には、守護職を務める豊前国へ少弐氏追討のため自ら出陣した。そして9月25日、少弐政資を太宰府から放逐してふたたび占拠する。

 その後、政弘は肥前へ出立し、仁保平左衛門頼重「小城春日城(晴気城)」に遣わし、胤朝と折衝している。このとき、「探題御心中依御同心」として、探題・渋川教直が政弘と同心の意思であること、弟の胤盛と下松浦仁は「遅参云々」であることを語っている。胤盛が大内政弘から参陣を促されていたことと、それを事実上拒絶していることがわかる(『正任記』)

 また、胤盛は探題・渋川教直の指示にも従っておらず、10月6日、探題・渋川教直が派遣した使者・万年寺明範が政弘の陣所を訪れた際、「千葉胤盛事」について、政弘の「御内儀」のとおり、「先小城之城事、可去渡之由、被仰遣候処、難叶云々、於和与之儀者、無子細候由也」と、「小城之城」を明け渡すよう命じるも胤盛は拒否し、「和与」には応じると返答したことを伝えている。これにより、政弘は同道していた重臣・陶弘護、杉重道の言上によって胤盛追討を決定。また、万年寺明範「於以後被任御当方之儀、可有御合力胤朝由」と、探題・渋川教直は胤朝に合力し、胤盛にはいささかも協力しないことを約束している(『正任記』)

 政弘は胤朝の祇園山城復帰の戦いに合力することを書状にしたためて胤朝へ遣わすとともに、探題へは胤盛の事は追討することとなったことを伝えた。さらに、上下松浦党にも胤朝へ味方するよう指示している。翌7日、胤朝に合力するよう江口余三郎忠郷を秋月太郎種朝、千手越前入道道吽のもとへ遣わした。さらに翌8日、政弘のもとに「松浦弾正少弼入道皎達、同肥前源二郎少弼甥云々」からの「源次郎御一字望」の書状が届き、政弘はその返信に「先為胤朝合力、可出陣、追而可有言上」すべきことを指示した(『正任記』)。また、松浦党内部においての「対同名丹後守可及弓矢云々」「小城対治之間、可相待候」とし、まずは小城郡での胤盛追討を優先する指示を出している。9日には、胤朝に合力するべく、波多下野守泰、白石左衛門大夫通顕が下多久を進発、それに加えて松浦後藤兵庫頭、渋江右馬頭が波多・白石勢と合流、さらに少弐勢を駆逐中の探題・渋川教直も五百の兵を胤朝合力のために派遣している(『正任記』)

少弐方大内方
少弐政尚(逐電中) 大内政弘
 渋川教直(探題)
千葉胤盛(祇園山城) 千葉胤朝(晴気城)
 大友政親(政弘妹婿)
 宗貞国(対馬島主)

 そして20日前後に、祇園山にて合戦が行われたと思われる。しかし、結果としては城は落ちず、21日には小城攻めに参戦している秋月太郎種朝、千手越前入道道吽両人の使者が政弘のもとを訪れて「小城之時宜条々言上」している。22日には「依千葉両家落居之儀延引、落人等神埼辺少々出張之由」が報告されている(但し、「不実之由風聞」とも)。23日、「佐賀郡春日山(府中尼寺の北山)に在陣していた胤朝の使者・菊泉坊玄忠が政弘のもとに参じ、「時宜同篇由」を言上した(『正任記』)胤朝が小城を離れて「府中」館近くまで出張っていた理由は不明ながら、府中辺りに探題が在陣していた可能性もあるか。

 その後、探題・渋川教直は「千葉両家和与事」胤朝胤盛の両者へ提案したところ、胤朝は「不可叶候由申切了」と強硬に拒絶する一方、胤盛は「可任御意之由」と和睦については探題に一任するという柔軟な姿勢を見せている(『正任記』)。教直は万年寺を使者として29日に政弘へこれを伝えている。その結果、胤朝胤盛は和解したようで大内氏に降伏したのだろう。文明12(1480)年6月29日には、胤朝胤盛兄弟はともに河上社の「後座主宰将公殿」へ「肥前国佐嘉郡之内山田三十町」を安堵している。胤朝も河上社へ対して社領安堵状を発給していること、胤朝「知行不可有相違之状」とある一方で、胤盛「御知行不可有相違之状」とあり、胤朝胤盛に代わって河上社の大宮司職に就いた可能性もあろう。文明18(1486)年4月5日、「平胤盛」が河上山実相院に佐嘉郡内に寺領を安堵している。

 そのような中で、同年10月3日の夜、兄・胤朝胤将によって「国府(祇園山か)」において暗殺された。享年五十一。胤朝急死の報を受けた少弐政資は騒乱を惹起した「彼悪党次郎胤将以下の輩誅罰すべし」と激怒する。しかし、胤将や同類はすでに逐電し、胤将与党は散々に消えていた。少弐政資はこの千葉家断絶を嘆き、12月3日に自分の弟を胤朝の娘と娶わせ、千葉肥前守胤資と名乗らせて跡を継がせた(『九州治乱記』)

 胤盛は「兄よりいと早く死去しぬ」とあり、胤朝の死去以前に亡くなったとされているが、明応6(1497)年正月23日、「平胤盛」「河上山唯真坊律師」に対して「河上社座主職」と「往古神領」である佐嘉郡内の社領を安堵していることから、胤朝の死後も生存し、胤朝の死後は少弐政資による千葉家介入に反発し、「兄討死之後赴于中国頼大内介」と、子・胤棟(興常)とともに大内家を頼っている。そして、胤盛が安堵状を出した明応6(1497)年正月は、大内義興が筑前に攻め入って少弐勢を駆逐した月であることから、胤盛・興常は大内義興に同陣し、少弐政資・高経親子が肥前へ逃れたのを追って、千葉家の再興を図り、河上社の大宮司職にふたたび就いたのだろう。

 没年は不明。法名は日盛


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千葉介興常(????-1540)

 小城千葉氏十四代。東千葉氏初代千葉介胤盛の子。千葉介胤朝の養子。初名は「胤棟」。興常より始まる「東千葉家」にに千葉家系図妙見像妙見太刀三種の家宝が伝わっていることから、東千葉家が小城千葉氏の惣領家といえる。

 文明10(1478)年10月3日、惣領家の伯父・千葉介胤朝が、対立していた叔父・千葉次郎胤将によって「国府(祇園山か)」で暗殺されると、少弐政資はわずか二か月後の12月3日には自分の弟を胤朝の娘と娶わせ、千葉肥前守胤資と名乗らせて跡を継がせた(『九州治乱記』)

 興常の父・胤盛胤朝より早くに没したとされるが、実は胤朝以降も活動が見られることから、子の胤棟とともに大内家を頼ったとみられる。そして胤棟は元服時に太守・大内義興から一字を賜り、「興常」と改めた。

 その後、大内家の小城郡攻略の礎として小城に派遣され、小城郡赤自館(小城市三日月町織敷赤司)に拠点を置いて、延徳3(1491)年に千葉胤資と合戦している。

晴気千葉家を放逐し惣領家へ

 明応6(1497)年正月、大内義興率いる大内勢は幕命を以て筑前国に攻め込み、陶興房が筥崎を占領。高祖城(糸島市高祖)に籠っていた少弐政資高経親子は、それぞれ岩門城と勝尾城へ移るが、大内勢に攻められて陥落。政資は晴気城の弟・千葉胤資を頼って小城に逃れ、高経は勢福寺城に拠った。しかし、勢福寺城も大内勢の猛攻の末に落ち、高経は父や叔父を頼って小城へと落ちていった。

        少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経 +―少弐冬尚
       (大宰少弐)|(大宰少弐)|      |(大宰少弐)
             |      |      |
             +―千葉胤資 +―少弐資元―+―千葉胤頼
              (肥前守)  (大宰少弐)|(千葉介)
               ∥           |
 千葉胤紹―+―千葉胤朝―――尼日光         +―少弐元盛
(右京大夫)|(千葉介)                
      |
      +―千葉胤盛―――千葉興常
              (千葉介)

 正月23日、「平胤盛」「河上山唯真坊律師」に対して佐嘉郡内の河上社領を安堵しており、胤盛興常は大内義興の軍に呼応したとみられる(胤盛興常がこのとき小城郡赤自館にいたかは不明)。なお、胤盛「兄よりいと早く死去しぬ」とあり、胤朝の死去以前に亡くなったとされているが、この年までは胤盛の活動が確認できる。おそらくその後、興常祇園山城(千葉惣領家の本城)を乗っ取り、祇園山城が小城郡の東にあったことから興常の子孫は「東千葉」、または居城に勧請されていた「牛頭天王(祇園)」に因んで「祗園千葉」と呼ばれた。

 そして4月13日、大内勢に加わる千葉興常が大内軍の将として晴気へ攻め入ると、兄・少弐政資の身を案じた千葉胤資は、政資に多久藤兵衛宗時(政資舅)の居城・梶峯城へ移るよう勧め、18日未明に政資を晴気から逃れさせている。しかし、翌19日には大内義興は政資逐電の報を得て軍勢を梶峯城へ派遣している。この大内勢の大軍を前に多久宗時も万策尽きて政資に自刃を勧め、これに応じた政資は多久泉称寺で自刃して果てた。また、子の高経は晴気から父・政資とは別行動をとっていたが、21日に市ノ川の山中で自害した。

 政資・高経は辞世の句を残したという(『北肥戦誌』)

 政資、打額きながら、一首の辞世に斯く計り、

 花ぞ散る 思へば風の科ならず 時至りぬ春の夕暮れ

と打ち吟みて、静かに腹をぞ切られける。

 高経、今は遁がれぬ所よと、同廿一日、市川山中にて、とある木陰に立ち寄り、懐中より矢立を取り出し、辞世とおぼしくて、

 風吹けば 落椎拾ふ松の下 あらぬ方にて身をば捨てけり

と、一首の歌を書き付け、鎧脱ぎ捨て、腹掻き破って臥せけり

 千葉胤資亡き後、西千葉氏(晴気城)の勢力は大きく後退、興常が名実ともに小城千葉氏の惣領となる。

 一方、晴気城を逃れていた胤資室・尼日光胤治らは晴気城の南東、小城郡甕調郷(小城市三日月町)の高田城に入ったが、翌明応7(1498)年2月24日、少弐一族ながら大内方に降伏していた筑紫満門東尚盛らが高田城に攻め寄せたため、尼日光胤治らはふたたび城を捨てて佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。尼日光胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに対して援けを求め、これに応じた龍造寺豊前守胤家が、反対する弟・龍造寺家和を振り切って成富胤秀木塚直喜太田和泉守らとともに高田城へ攻め寄せ、川副郷太田筑紫・東勢を打ち破った

 しかし、千葉介興常が筑紫・東を救うべく出陣して龍造寺勢に攻めかかったため、龍造寺勢は大敗。尼日光胤治らは龍造寺胤家とともに筑前国へ逃亡して、大内義興は興常肥前国守護代とした。

大内・少弐の和睦と晴気千葉家の復興

 永正元(1504)年、肥前国三根郡西島(佐賀県三養基郡みやき町)の横岳資貞に養育されていた少弐資元(少弐政資の遺児)が、大友頼治の後援を得て挙兵した。少弐資元は大内方の肥前国神埼郡勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を攻めて追放。さらに九州探題・渋川尹繁白虎山城に攻めて筑後へ放逐し、少弐氏を復興。白虎山城は重臣の馬場頼経に守らせた。この少弐氏の復権によって、晴気千葉氏の千葉胤治らは高田城へ帰還することとなるが、二年後の永正3(1506)年10月、筑紫満門東尚盛らによって胤治らは再び高田城を追われ、龍造寺党を頼ることとなる。

 こうした中、翌年の永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することとなったため、義興は足利義尹の命であるとして、少弐資元に和睦を持ち掛け、大内家と少弐家は和睦することとなる。これにより資元は肥前守に任官し、尼日光胤治らは、本来の居城である晴気城へ帰還が認められた。ただし、同年6月14日、千葉胤繁「持永大蔵丞」に対して「舊地今河領小城郡大楊、乙牟礼廿四町」「今度差戻」ので、ますます忠貞を尽くすべきとの書状を与えており、この帰還に当たっては、胤治は隠居して高田館へ移り、胤繁が家督を継承したと思われる。「持永大蔵丞」は持永大蔵丞秋景のことであるが、秋景の伯父・今川伊予守胤秋が応仁元(1467)年6月に千葉介教胤に反抗して討たれ、所領を収公されており、胤繁はそのときに奪った旧今川領を秋景に戻したことになる。

 少弐氏との和睦が成ると、大内方の将として小城郡を縦横に活躍した千葉介興常「屋形」号を許可された。屋形号は国主クラスに与えられる名誉ある称号であり、興常が小城千葉氏の惣領家であることの証明でもあった。

 こうして、後顧の憂いのなくなった義興は、永正5(1508)年6月、足利義尹を奉じて上洛の途につき、少弐氏からも横岳資誠龍造寺家和らが義尹の供奉衆として従軍する。この義尹の上洛によって、現将軍・足利義澄近江国に逃れ、足利義尹は将軍職に返り咲き、名を義稙と改める。

 こうした中、永正7(1510)年3月13日、胤治高田城で討死を遂げた。享年二十五。当時、大内氏と少弐氏は和睦中であり、胤治の討死は大内氏との戦闘によるものではないと思われることから、義弟・胤繁との戦闘での討死の可能性もあろう。さらに翌永正8(1511)年9月には、胤繁もまた十八歳の若さで卒している。その後、尼日光(胤朝娘、胤資室)は横岳兵庫頭資貞の子・満童丸胤勝)を養子に迎え、晴気千葉家はこの胤勝を当主として続くことになる。

 この晴気千葉家の家督相続については、惣領家である祇園山千葉家の興常や重臣層と相談なく進められたもののようで、「本千葉殿御若輩ニ而候故、誰とかや申人之校量ニ而、横武ト云人之子ヲ千葉ニ可取立と被仕候」とされ(『右馬允殿千葉之事』神代家文書)、三十代半ばの興常を差し置き、「誰とかや申人(興常の伯母・尼日光を指すか)」が本宗家を無視して他家より養子を迎えたため、「原、円城寺、中村、白井、平田なと申者共、本千葉ヲ奉捨、横武ヲ千葉ト不可仰と随不申候(『右馬允殿千葉之事』神代家文書)という事態を招いたと思われる。

少弐家の衰退と晴気千葉家との和睦

 永正10(1513)年12月15日、興常は中村主馬允「肥前国杵島郡山口八十町」のうち、「浪打今里弐拾五町」についての知行安堵状を発給し、翌永正11(1514)年8月10日と11月2日の二度にわたって中村三河守知行安堵状を発給した。そして、大永3(1523)年3月、千葉氏代々の祈願寺である松尾山光勝寺「肥前国杵嶋郡之内水尻分弐十四町」を寄進した。

 一方で、晴気千葉家の千葉介胤勝も勢力を拡大しつつあった。永正11(1513)年3月15日、肥前国佐嘉郡の龍造寺家和の嫡男・龍造寺新次郎「胤」字を授け「胤久」の名乗りを与えたのを皮切りに、4月には、龍造寺勢とともに東尚盛を攻めて肥前上松浦郡に放逐。占領した東館には重臣の鑰尼胤光を置いて守らせ、少弐資元や龍造寺氏と連携して勢力を拡大していった。大永6(1526)年9月24日、胤勝三浦右衛門大夫「肥前国佐賀郡之内寄人七拾五町豊益弐拾九町」の宛行状を発給している。胤勝の勢力は佐嘉郡内にまで広がっていたことがうかがえる。

 永正14(1517)年、少弐資元は正式に大宰少弐に任じられると、亨禄元(1528)年には嫡男・松法師丸(冬尚)に家督を譲り、資元は大宰府を奪還する。大宰府を手放して以来二十年ぶりの少弐家の大宰府奪還であった。大内義興は大宰府陥落の報告を聞くと、危機感を募らせて将軍・足利義稙へ少弐家討伐を請うたが許されず、さらに中国地方では出雲守護代・尼子経久が領国を侵略しつつあり、その対応に追われて九州戦線へ深く介入することができないまま、12月20日に病死してしまった。跡を継いだのは嫡男の大内義隆で、九州の覇権を取り戻すべく積極的に動き出した。

 亨禄3(1530)年3月、大内義隆は将軍・足利義晴から少弐氏討伐の許しを得ると、ただちに筑前守護代・杉興連に少弐資元追討を命じ、肥前へ大軍を送り込んだ。資元は多久梶峰城へ拠点を移し、これに対抗するが、杉興連は肥前国基肄・養父・神埼郡へ攻め入り、少弐一族の朝日頼貫、筑紫尚門、横岳資貞らはたまらず降伏。父・資貞の説得があったか、晴気千葉家の千葉介胤勝も大内家に下った。大内勢は勢いを増して各所に侵攻するが、8月15日、勢福寺城に程近い神埼郡田手において、少弐方の龍造寺家兼率いる龍造寺党ほか少弐一族が迎え撃ち、龍造寺勢の鍋島清久・清正・清房ら鍋島一族が赤熊の甲冑を着し、杉興連勢の横合いに突撃したため、大内勢は大混乱に陥り、横岳資貞、筑紫尚門が討死を遂げた。これにはたまらず、杉興連も大宰府まで退却せざるを得なかった。

 享禄4(1531) 年閏5月20日、興常は「龍造寺民部大輔(龍造寺胤久)」へ宛てて、千葉家や龍造寺党のために働くよう命じているが、「其方之儀無心元存之候」とある。胤久は本来、龍造寺一族の惣領であるが、後見人の叔父・龍造寺家兼が実権を握っており、前年の大内氏と少弐氏の戦いにも見られるとおり、少弐氏の有力支持者として活躍をしており、胤久の烏帽子親である千葉介胤勝も大内勢に加担している状況の中で、龍造寺党を大内方に加担させる狙いがあった可能性もあろう。

 天文元(1532)年11月、大内義隆の命を受けた名将・陶興房入道道麟は筑前に攻め入り、さらに肥前へと軍を進めた。これに少弐資元は龍造寺家兼の支援のもと、子の松法師丸とともに勢福寺城へと入った。翌天文2(1533)年10月17日、千葉介興常は千葉介胤勝とともに川上実相院に祈祷料についての文書を発給しており(『実相院文書』)両千葉家はともに大内方に属していた様子がうかがえる。

 翌天文3(1534)年2月15日には同じく実相院に千葉介興常千葉介胤勝が連署で禁制を与えており(『河上神社文書』)、さらに2月29日には、興房入道自身が実相院へ「諸軍勢甲乙人等、乱妨狼藉」を禁じる禁制を与えており(『河上神社文書』)、このころ興房入道は龍造寺党の本拠・水ケ江に程近い佐賀まで侵攻し、陶軍には両千葉家が加わっていたことがわかる。陶興房は5月16日、水ケ江館に襲いかかるが、堅い守りに阻まれて退却。さらに7月15日には龍造寺家兼勢に不意を突かれて基肄郡まで潰走した。

少弐資元自害

 少弐勢の抵抗を聞いた大内義隆は、10月、自ら渡海して肥前に乗り込み、勢福寺城を包囲した。義隆は陣中の千葉介興常と子・千葉喜胤を招くと、龍造寺家兼から少弐資元へ和睦を勧めさせるよう指示し、家兼の陣中へ遣わした。もともと龍造寺党は千葉氏の影響力を強く受けてきた一族であり、家兼も承知して資元に和睦を勧めた。結局、資元も説得に応じて、勢福寺城を義隆に明け渡すことになる。義隆は和睦に満足して山口へと引き上げ、陶興房は大宰府に在陣した。

 しかし、大内義隆は少弐氏を完全に屈服させることを目標としており、翌天文4(1535)年10月、陶興房に命じて三根郡、神埼郡、佐賀郡内の少弐氏領を悉く没収した。これに反抗した少弐資元は12月29日、多久梶嶺に走った。大内義隆の少弐氏攻略の執拗さは、天文5(1536)年5月16日、「大宰大弐」の官職を得たことでもわかる。官職上でも義隆は少弐氏の上官となった。

 千葉介興常は陶興房や肥前諸豪族とともに、9月、少弐資元の籠もる多久梶嶺城を包囲する。もはや手勢もない資元には抵抗する術はなく、9月4日、多久専称寺に入って自害した。

 天文5(1536)年3月5日、興常は「後藤殿」「肥前国杵嶋郡内山口八拾町、小城郡内原分弐拾四町」の知行宛行状を発給した。後藤氏は少弐氏攻めに功あり、その恩賞であろう。興常が小城郡のみならず、杵島郡の支配も任される存在だったことがわかる。

 天文9(1540)年6月4日に卒した(『神代本千葉系図』)。法名は本光寺殿日慶。日蓮宗本光院に葬られた。


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千葉喜胤(1507-1542)

 小城千葉氏十五代。東千葉氏二代。東千葉初代・千葉介興常の次男。官途は丹波守。娘は千葉介胤頼

 目立った活躍は伝えられていないが、天文9(1540)年、父・興常が亡くなると家督を継承した。

 天文10(1541)年には島原半島高来郡の有馬賢純が武威を張り、彼杵郡から小城郡、佐賀郡をうかがった。当時、晴気城の千葉介胤勝とその子・千葉胤連は対立しており、有馬賢純はこれに乗じたものであった。胤勝はこれまでの経緯から、おそらく大内方であったろう。対して子の胤連は少弐方の心底であったのかもしれない。

 しかし、有馬賢純の侵攻に危機感を強めた少弐方の龍造寺三郎右衛門家門は、おそらく少弐冬尚の指示のもと大内方の祇園山・千葉喜胤、晴気・千葉介胤勝千葉胤連を説得し、少弐氏との同盟を結ばせることに成功する。少弐冬尚は実弟に喜胤の娘を娶らせて喜胤の婿養子(千葉胤頼)とし、祇園山千葉氏の平井館へ入った。また、千葉胤連の養子として龍造寺党の鍋島清房の子・彦法師丸を入れて、千葉氏、少弐氏、龍造寺氏の連携を強めた。この連携を察した有馬賢純は侵攻を断念し、軍を退く。

 しかし、喜胤はこのころ悪疾に冒されており、天文11(1542)年閏3月29日、三十四歳の若さで自害した。


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千葉胤頼(1532-1559)

 小城千葉氏十六代。東千葉氏三代。千葉丹波守喜胤の婿養子。少弐資元の三男。通称は千葉新介。天文元(1532)年、筑前国に生まれた。屋形号を号した。

 天文10(1541)年、有馬氏の小城・佐賀郡への侵攻を警戒した龍造寺三郎右衛門家門の説得に応じた晴気千葉介胤勝千葉胤連祇園山千葉喜胤は、少弐冬尚と同盟を結ぶことを受け入れ、晴氣千葉家には、龍造寺党の鍋島清房の子・彦法師丸が養子に入り、祇園山千葉家には、少弐冬尚の十歳になる弟が喜胤の婿養子として入り、「千葉胤頼」と名を改めた。祇園山千葉家はその祖・千葉介興常より代々大内家の影響下にあったが、ここに至って祇園山・晴気の両千葉家は少弐氏のもとに参じたことになる。

 少弐貞頼――+―少弐満貞―――少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経 +―少弐冬尚
       |(大宰少弐) (大宰少弐)|(大宰少弐)|      |(大宰少弐)
       |             |      |      |
       |             +―千葉胤資 +―少弐資元―+―千葉胤頼――千葉胤誠――娘(千葉姉様)
       |              (肥前守)  (大宰少弐) (千葉介)
       |               ∥             ∥
       | 千葉胤紹―+―千葉胤朝―――尼日光           ∥
       |(右京大夫)|(千葉介)                 ∥    
       |      |                      ∥
       |      +―千葉胤盛―――千葉興常―――千葉喜胤―――娘
       |              (千葉介)  (丹波守)
       |                  
       +―横岳頼房―――横岳資貞―+―横岳資誠
               (兵庫頭) |(讃岐守)
                     |
                     +―千葉胤勝―――千葉胤連===千葉胤安【鍋島直茂】
                      (千葉介)  (千葉介)  (彦法師丸)

 天文11(1542)年閏3月29日、養父・千葉喜胤が病を苦に自害すると、十一歳で家督を継承する。当時、祇園山・晴氣の両千葉家はともに少弐氏に属しており、抗争は起こっていない。ところが天文13(1544)年、少弐冬尚は、有力な支持者であった龍造寺剛忠入道(家兼)率いる龍造寺党が大内氏に通じているという重臣・馬場頼周の言葉を信じ、龍造寺党の討伐を画策した。馬場頼周は龍造寺党の勢力拡大への危機感と、かつて少弐資元が大内勢に討たれた際に、龍造寺党が積極的に少弐勢を援護しなかったことに怒りを感じていたとされる。

 少弐冬尚は上松浦郡の波多氏や、島原の有馬氏に龍造寺党を攻めるよう依頼する一方で、龍造寺剛忠入道へは、有馬勢の侵攻を食い止めるよう指示する。11月21日、剛忠は一族の将士を出陣させるが、翌天文14(1545)年正月、龍造寺党は一族の武士を多く喪うという敗北を喫し、水ヶ江へと退いた。この包囲の中には少弐勢も含まれていたようで、剛忠はようやく冬尚の謀略と悟ったのだろう。その後、馬場頼周ら少弐氏の重臣が剛忠に水ヶ江館を明け渡して、冬尚の赦しを請うよう説得し、正月22日、剛忠は水ヶ江を出た。そして、一族の龍造寺周家、家泰、頼純を冬尚のもとに派遣するが、馬場頼周・神代勝利の手勢によって悉く討ち取られ、さらに別に動いていた剛忠の嫡男・龍造寺家純、次男の家門、純家も馬場頼周の子・馬場政員によって殺害されたという。

 剛忠入道はからくも大友家の重臣である蒲池鑑盛を頼って筑後国柳川へと逃れた。佐賀郡の龍造寺党はここに崩壊、所領は少弐冬尚によって家臣たちに与えられ、水ヶ江館は少弐勢の小田政光が入ることとなった。

 この佐賀郡周辺の戦乱は、両千葉氏をも二分したようで、馬場頼周・江上元種・千葉胤頼は龍造寺家と親密な千葉介胤連を討つべく2月27日に晴気城下に乱入し、29日の戦いで胤連を晴気城から追った。その後、胤連杵島郡白石郷杵島郡白石町)へ逃れている。その後、晴気城には胤頼が入り、祇園山城は、改修の上で少弐冬尚の居城とするべく城普請が開始された。また、馬場頼周は少弐家の本拠であった勢福寺城に入ることとなった。

 ところが、龍造寺剛忠入道の反撃は素早く、龍造寺党の一人・鍋島清久鹿江兼明、南里国有らを語らって剛忠を迎え、3月24日、佐賀郡川副郷無量寺にて挙兵。たちまち水ヶ江館を攻め落とした。さらに、千葉介胤連も配下の将士を糾合してそれに合流し、4月2日、馬場頼周が城普請を行っていた祇園山城に攻め寄せた。この城普請を行っていた民衆も馬場頼周に反抗したため、頼周は為す術なく城を脱出する。しかし、川上まで逃れたところで捕縛され、斬首された。少弐冬尚は勢福寺城へと逃れていく。

 龍造寺党の本家筋である村中龍造寺胤栄も少弐冬尚に追われて筑前国へと逃れていたが、天文15(1546)年、佐賀郡への帰還を模索し、大内義隆と通じた。大内義隆も3月2日、重臣の杉隆満を遣わして協力を約束。4月には少弐氏を破って佐賀郡への帰還を果たした。これにより大内義隆より佐賀郡、神埼郡、三根郡、坊所に所領をあてがわれ賞された。このころ、龍造寺胤栄とともに行動していたのが、千葉介胤連の偏諱を受けて還俗し、水ヶ江龍造寺家を継いだ龍造寺胤信であった。

 天文16(1547)年閏7月、龍造寺胤信は千葉介胤連や大内家の杉隆満らとともに勢福寺城に攻め寄せ、千葉胤頼や宗本盛入道ら少弐勢はこれを防ぐが、8月、神埼郡において宗本盛入道が討死を遂げ、10月16日、少弐冬尚はついに勢福寺城から逐電した。

 天文22(1553)年10月13日、光勝寺に「小城郡久遠壽寺敷地弐町」を守護不入の寺領として永代寄進した。

 永禄2(1559)年正月11日、胤頼千葉介胤連に晴気城を攻められ、晴気城東方の山中における戦闘で戦死した。享年二十八。戒名は天受本龍大禅定門。法号は日頼。遺体は千葉家代々の菩提寺であった臨済宗三間山円通寺に葬られた。


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千葉胤誠(????-1593)

 小城千葉氏十七代。東千葉氏四代。千葉介胤頼の嫡男。別名は胤政。号は千葉屋形千葉介

 永禄2(1559)年、父・胤頼が討死を遂げると、胤頼の家臣たちに護られて城を脱出し、川久保領主・神代大和守勝利を頼って落ち延びた。その後の目立った活躍はなく、神代大炊助家良の代まで川久保に在住し、文禄2(1593)年9月13日、川久保で亡くなった。法名は日儀。川久保領北部の帯隈山山裾にある皿山(屋形山)に葬られた。

 胤誠には男子はなかったが姫一人がいて、神代大炊助家良の「養子仕召置」いた。この姫は鍋島直茂の命によって佐野右京亮茂美方に「合宿」したが、子ができないうちに元和5(1619)年5月28日に茂美が死去。「彼姫右京方へ縁深之儀」を察した藩侯・鍋島勝茂の命により、十三歳で佐野家名跡を継承した「佐野右衛門(茂久。鍋島和泉守忠茂三男)方内儀」となった。しかし十五歳以上の年の差があったためか「煩差出候」につき離別。神代伯耆守常親が引き取って、常親の母(神代長良娘)と同居させ、常親は姫を「姉分」として敬っている(『神代家文書』)。常親との年の差は七~八歳程度と推測される。

 「千葉姉様」は寛文元(1661)年7月に亡くなり、父・胤誠と同じ屋形山に葬られた。法名は眞如院殿妙光日住大姉。「姉様」に仕えていた平田左馬助胤家ら千葉家旧臣たちはそのまま川久保神代家の家臣となっている。

千葉家家宝の系図、妙見絵像、妙見太刀のその後

 胤誠はもはや千葉家再興は叶わないと見たのか、神代勝利の跡を継いだ神代長良に家宝として伝わってきた「系図」「妙見大菩薩之絵像」「妙見太刀」を譲り渡している。長良はこの譲られた千葉家の宝物を「俗家ニ召置候事如何」として小城岩蔵寺へ預け置いた。

 寛永18(1641)年5月18日、江戸でこの系譜の存在を聞いた藩侯・鍋島勝茂は、中野数馬佐政利、出雲監物貞恒の両名に、神代伯耆守常親「神代之系図」を江戸まで送るよう指示した。勝茂自身もこの系譜を「大事之物ニ可有御座候条、常之飛脚にては如何と被思召上候」として、佐賀藩抱の飛脚または常親自身が仕立てた者を用いるようにとの格別の指示を出している。

 6月3日夜、手紙を受け取った神代常親は、翌4日には「神代系図」を飛脚を担当していた諸岡彦右衛門尉に託した。しかし常親は、この系譜の末尾に「神代勝利、長良、大炊助、拙者」の実名が記入されていることに不安を感じたのか、さらに追加で一筆認め、この末尾の神代家四代は十年以上前に記入されたものであると弁明している。

 江戸で書状を披見した勝茂は「妙見太刀、并妙見大菩薩之絵像」も観たいとして、7月2日、常親へこの両宝の江戸搬送を指示している。これを受けて7月20日、常親は妙見絵像と妙見太刀を江戸へ搬送した。この妙見絵像については問題なかったようであるが、妙見太刀は長い間岩蔵寺に預けられており、錆びついていた上に漆までつけられ「当分見苦敷御座候」という有様であった。ただ、常親の方で錆を落とすなど、勝茂拝見以前に確認することはいかがとして、錆びついたままの太刀を送っている。

 また、「千葉姉様」は父の胤誠から、神代家から「千葉胤頼御屋形様」へ宛てられた起請文ほか所領等にかかわる文書十四通を受け継いでおり、「千葉姉様」を保育した小柳自鑑が預かり、子孫と思われる「小柳源次兵衛」まで受け継がれていたようである。元禄4(1691)年4月25日、神代直利は小柳源次兵衛にこれらの文書を陣内神兵衛に受け取るよう命じ、中島二右衛門へ納めている。

 神代家は実質的に小城千葉宗家を継承したこととなり、平姓九曜を用い、千葉家の通字のひとつ「常」を諱に用いることとした。

 鍋島直茂――――鍋島忠茂―――佐野茂久
(加賀守)   (和泉守)  (右衛門)
         ∥      ∥
       +―娘      ∥
       |        ∥
       | 千葉胤誠―――娘(千葉姉様)
       |(千葉介)   ∥
 江上武種――+        ∥
(左馬大輔)=+―江上家種―――佐野茂美===佐野茂久
       |(武蔵守)  (右京亮)  (右衛門)
       |
 龍造寺隆信―+―龍造寺政家――佐野雅義
(山城守)   (肥前守)  (源四郎)


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神代勝利(1511-1565)

 父は神代利久入道宗元。母は千葉氏支配下の豪族・陣内大和守(佐賀郡千布領主)女。妻は、副島近江守信吉女千布兵庫頭入道淨貞女。通称は新次郎。官途は部少輔、大和守。肥前に名を轟かす兵法の達人として知られた。

 勝利は幼いころに千葉介興常に養われ、武術家としての名を高め、神埼郡三瀬城主・野田宗利がまねいて山内城主となった。天文14(1545)年12月、豊姫神社の灯油料を免除し、天文17(1548)年12月には佐賀郡の所領を寄進しており、佐賀郡内にも所領があったことがわかる。

 佐賀郡に本拠を持つ龍造寺隆信は、この神代勝利の存在がうるさく、弘治元(1555)年9月5日、勝利の谷田城(富士町)に攻め寄せた。勝利は筑前へ逃れて原田了栄を頼り、伊都郡長野に陣を張って龍造寺勢に備えた。一方、隆信は勝利を追放できたことで安心したのか、自らは水ヶ江城に引き揚げたため、勝利はひそかに山内へ戻ると熊川の代官を討ち取って、本城・神埼郡三瀬城に戻った。

 永禄2(1559)年正月、千葉胤誠は父・胤頼千葉介胤連(西千葉)に晴気城を攻められて戦死すると、神代勝利を頼って川久保へ逃れた。これ以降、胤誠は文禄2(1593)年9月13日に亡くなるまで川久保で庇護された。

 その後も勝利と龍造寺隆信との戦いは続くが、永禄5(1562)年に隆信から勝利へ和議の申し込みがあり、永禄7(1564)年、勝利の孫娘と隆信の三男・鶴仁王丸の婚約が成立して和議が成った。その直後、勝利は嫡男・長良に家督を譲って隠居し、三瀬城から佐賀郡畑瀬城へと移ったのち、永禄8(1565)年3月15日、五十五歳で没した。法名は覚譽賢利


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神代長良(1537-1581)

 神代大和守勝利の嫡男。母は副島近江守信吉女。妻は鹿江遠江守兼明女。官途名は刑部大輔。初名は勝良。最後の小城千葉家当主・千葉屋形胤誠の姫を養女として庇護した。

 天文6(1537)年、神代勝利の嫡子として誕生した。姉は江上左衛門大夫長種の妻となり、長種の死後は、高木長門守胤利に嫁いでいる。

 永禄7(1564)年、父・神代勝利が隠居したことにより神代家を継承し、土生島城(金立町)を守った。翌永禄8(1565)年3月15日、父・勝利が没すると、4月23日に親族でもある隆信から弔問の使者が送られ、これまで通り違心のない旨の誓紙が渡された。これを信用した長良は隆信に対する警戒心を解いていたが、わずか数刻後の24日明方、隆信の命を受けた納富信景土生島城を攻められ、命辛々、筑前の大都留宗秀を頼って逃れた。

 長良は龍造寺勢の奇襲を怒り、すぐさま同盟関係にあった肥前の豪族たちと連携。8月20日、土生島城を奇襲で取り戻すと、神代家代々の居城・三瀬城に戻って各地に要塞を築いて龍造寺氏に備えた。

 永禄9(1566)年に干ばつが起こると、長良は仇敵である納富信景の所領・千布などへの水流を密かにせき止めた。水が来ないことを不審に思った信景に命じられ、その嫡男・納富信純が水路の巡検に現れたが、長良はあらかじめ水路に兵を伏せており、容易くその首を挙げる。信純が討たれた報告を受けた信景が兵を出すも、待ち構えていた長良勢はこれを破り、納富勢を佐賀に追い落とした。長良はさらに南下して龍造寺家の勢力圏内に攻め入ると、佐賀郡北村・五領・高木・渕・藤木・三溝郷を侵略した。

 しかし、元亀2(1571)年に龍造寺隆信に降伏。天正7(1579)年、龍造寺家の一門から婿養子を所望し、老臣・三瀬大蔵を佐嘉の隆信のもとへ遣わした。これは父・神代勝利の「長良事、我に劣らぬ大将なれども、龍造寺の威勢追日強大になり候へば、始終家を抱へ候事成り難かるべく候、我が死後に龍造寺に合体して龍氏の子を養ひて家を相続すべき」という遺言によるものだった(『葉隠』)

 ただ当時、龍造寺家に年頃の男子はなく、鍋島飛騨守信生(直茂)には男子が多いということから、隆信は信生へその旨を伝えた。信生はこれを辞退するが、長良の願いは強く、さらに隆信も説得に加わり、信生はこれを承諾。ただ、信生には男子がまだなく、弟の小川武蔵守信貫(信俊)の三男で七歳になる小川犬法師丸(小川喜平次)を養子に出し、鍋島家より武藤喜兵衛、田中善右衛門、石井孫兵衛、太田源助、馬郡孫右衛門、木下小兵衛、久納八助、矢作小右衛門の八名を付随させた。こうして犬法師丸は長良の娘を娶り、神代家の家督を継承。のち神代大炊助家良となる(『九州治乱記巻之廿四』)

 天正9(1581)年5月28日、四十五歳で亡くなった。法名は梁山宗異

●鍋島・神代氏系図●

神代利久    副島信吉娘                                   
 ∥      ∥――――神代長良                  中院通純――娘
 ∥      ∥   (刑部大夫)                (大納言)  ∥
 ∥      ∥     |                          ∥
 ∥      ∥     |                          ∥      【鍋島吉茂】
 ∥――――――神代勝利  |                          ∥―――――――神代直利
陣内大和守女 (大和守)  |                  +―鍋島忠直――鍋島光茂   (弾正)
              |                  |(肥前守) (丹後守)    ∥
              |                  |               ∥
              ↓             鍋島勝茂―+―神代直長          ∥
            【川久保領主】        (信濃守)  (大和守)          ∥
 千葉胤頼――千葉胤誠==神代長良==+―神代家良          ∥             ∥
                   |(大炊助)          ∥―――――――――――+―娘      
                   | ∥――――――神代常親 +―娘           |        
                   | ∥     (伯耆守) |             |
                   | ∥      ∥    |             |        
           +―小川信俊――+―娘      ∥――――+―神代常利        +―娘    +―鍋島直愈
           |(武蔵守)           ∥     (采女正)          ∥    |(左京)
           |                ∥      ∥             ∥    |
           |         龍造寺信明――娘      ∥――――神代常宣     ∥――――+―娘
           |        (下総守)          ∥   (長門守)     鍋島直堯   ∥
           |                       ∥            (左京)    ∥――――+―神代直恭―――神代直贇    
      鍋島清房―+―鍋島直茂         +――――――――伊勢菊                  ∥    |(左京)   (伯耆)
            (加賀守)         |                             ∥    |
             ∥            |                    +――――――――神代直方 +=神代直贇―――神代直興
             ∥            |                    |       (対馬)   (伯耆)   (秀太郎)
             ∥            |                    |
             ∥―――――――鍋島勝茂―+―神代直長   執行氏―――娘     |【鍋島宗茂】
      石井忠常―――娘      (信濃守)  (大和守)         ∥―――――+―神代直堅―+―鍋島宗教
     (兵部少輔)          ∥                   ∥      (主膳)  |(丹後守)
                     ∥―――――――――――――鍋島忠直  ∥            |      
             徳川家康――+=菊姫           (肥前守)  ∥ 中院氏  【鍋島吉茂】+―鍋島重茂
            (征夷大将軍)|(高源院)          ∥     ∥ ∥―――――神代直利 |(信濃守)    
                   |               ∥     ∥ ∥    (弾正)  |
                   +―亀姫            ∥―――――鍋島光茂         +―鍋島治茂―+―鍋島斉直―+―鍋島直正
                    (盛徳院)          ∥    (丹後守)          (肥前守) |(肥前守) |(信濃守)
                     ∥             ∥     ∥                   |      |      
                     ∥――――――松平忠明―――娘     ∥―――――――鍋島綱茂        +―神代直珍 +―鍋島賢在
                     ∥     (下総守)         ∥      (信濃守)         (弾正)   (弾馬)
                     奥平信昌          上杉定勝――娘
                    (美作守)                


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肥前千葉氏の一族下総原氏下総高城氏

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