武蔵国留守所惣検校職
平良文 (????-????) |
平忠頼 (????-????) |
平将恒 (????-????) |
平武基 (????-????) |
秩父武綱 (????-????) |
秩父重綱 (????-????) |
秩父重弘 (????-????) |
畠山重能 (????-????) |
畠山重忠 (1164-1205) |
畠山重秀 (1183-1205) |
畠山重保 (1190-1205) |
重慶阿闍梨 (????-1213) |
●秩父一族周辺略系図●
【重綱養子】
+―秩父行重――――――――――秩父行弘―――秩父行俊====蓬莱経重
|(平太) (武者所) (武者太郎) (三郎)
|
|【重綱養子】
+―秩父行高――――――――――小幡行頼
|(平四郎) (平太郎)
|
兒玉経行―+―女子
(別当大夫) (乳母御前)
∥
平致幹――――∥―――女子 +―八田知家
(多気権守) ∥ ∥ |(四郎)
∥ ∥ |
∥ ∥―――――――+―女子 +―小山朝政
∥ 八田宗綱 (寒河尼) |(小四郎)
∥ (八田権守) ∥ |
∥ ∥―――――宇都宮朝綱 ∥――+―長沼宗政
∥ ∥ (三郎) ∥ |(五郎)
∥ ∥ ∥ |
+―小野成任――∥―――女子 +――――小山政光 +―結城朝光
|(野三太夫) ∥ (近衛局) | (下野大掾) (七郎)
| ∥ |
| ∥ +―横山孝兼――――――女子 +―法橋厳耀 +―畠山重秀
| ∥ |(横山大夫)| ∥ |(慈光寺別当) |(小太郎)
| ∥ | | ∥ | |
横山資隆―+―横山経兼――∥―+―女子 | ∥――――+―畠山重能 +―畠山重光 +―畠山重保
(野三別当) (次郎大夫) ∥ ∥ | ∥ (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
∥ ∥ | ∥ ∥ | |
∥ ∥―――――――――秩父重弘 ∥―――――+―畠山重忠――+―阿闍梨重慶
∥ ∥ | (太郎大夫) ∥ (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
∥ ∥ | ∥ |
∥ ∥ | +―江戸重継―+―女子 +―円耀
∥ ∥ | |(四郎) | |(慈光寺別当)
∥ ∥ | | | |
∥ ∥ | +―高山重遠 +―江戸重長 +―女子
∥ ∥ | |(三郎) (太郎) | ∥
∥ ∥ | | | ∥
∥ ∥ | +―女子 +―大田行広 | 島津忠久
∥ ∥ | | ∥ |(太郎) |(左兵衛尉)
∥ ∥ | | ∥ | |
∥ ∥ | | ∥――――+―大河戸行方 +―女子
∥ ∥ | | ∥ (下野権守) ∥
∥ ∥ | | ∥ ∥
∥ ∥ +――|―藤原行光 足利義純
∥ ∥ |(四郎) (上野介)
∥ ∥ |
秩父武綱―+―秩 父 重 綱―――――+―秩父重隆―――葛貫能隆――+―河越重頼――+―河越重房
(十郎) |(秩 父 権 守) (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎) |(小太郎)
| ∥ | |
+―女子 ∥ +―妹 +―河越重員
∥―――――――――――+―秩父行重 ∥ (三郎)
∥ ∥ |(平太) ∥
∥ ∥ | ∥
有道遠峯―+―兒玉経行――女子 +―秩父行高 ∥―――――+=小代俊平
(有貫主) |(別当大夫)(乳母御前) (平四郎) ∥ |(二郎)
| ∥ |
+―兒玉弘行――――――――――入西資行―――小代遠広――――小代行平 +―小代弘家
(有大夫) (三郎大夫) (二郎大夫) (右馬允)
(????-1213)
畠山次郎重忠の末子。通称は大夫阿闍梨。なお、号は恵空のち証性(『系図纂要』)とされるが、証性は重慶とは別人の重忠遺児とみられる。
建仁3(1203)年9月2日の比企能員殺害及び比企谷合戦、小御所合戦によって、比企能員の強い影響を受けていたと思われる武蔵国御家人が時政に対して不穏な動きを見せた。これにより10月27日、「武蔵国諸家之輩、対遠州、不可存弐之旨、殊被仰含之」ことを鎌倉家当主たる将軍実朝の命として、侍別当の左衛門尉義盛をして行わせている(『吾妻鏡』建仁三年十月廿七日条)。
比企谷合戦には畠山重忠も加わっているが、畠山重忠はもともと比企氏の旧監官筋であり、畠山重忠と比企能員の間には親交があったと推測される。さらに重忠は「就中雖候于金吾将軍御方」(『吾妻鏡』元久二年六月廿一日条)とあるように、将軍頼家に近い人物であったという。しかし、小御所合戦には畠山重忠も北條氏方として加わっているのは「能員合戦之時、参御方抽其忠、是併重御父子礼之故也」(『吾妻鏡』元久二年六月廿一日条)という理由であったとしている。
ところが、建仁4(1204)年正月28日、藤原定家のもとに「自京下人等来云、関東乱違、時政為庄司次郎被敗逃山中、広元已伏誅」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)という風聞が届いている。これは事実ではなかったが、畠山重忠が鎌倉家家宰である北条時政、中原広元を敵視することも当然だという人々の思いが為した事と思われ、それは比企氏追捕以外には考えにくい。
その後、重忠の名は『吾妻鏡』から姿を消す。そして、元久2(1205)年6月22日、畠山重忠は謀叛の疑いをかけられ、追討の対象とされた。一方で、鎌倉に招聘されていた重忠は、百三十騎ばかりの兵を率いて、6月19日に居館の武蔵国男衾郡菅谷館を出立して鎌倉道を南下していた。そして二俣川の付近に至ると、北条義時率いる鎌倉勢が重忠追捕のためにすすんでおり、ここで畠山重忠と衝突した。そして戦いは、畠山重忠勢の敗北とその討死で幕を閉じる。
畠山重忠追討後、重忠は無実であったことを北条義時が父・北条時政に報告する。ただし、重忠追討自体は正統なものとされ、その遺領は御家人に分配されている。これは重忠の嫡子の小次郎重秀、二男の六郎重保はいずれも死去しており、残っていた阿闍梨重慶も日光山に居住する僧侶であって後継者が不在であったことも一因か。そして重慶は咎めを受けることはなかった。
畠山合戦の直後、時政後妻の牧の方が、女婿で京都守護であった平賀右衛門佐朝雅(源頼朝猶子)を源実朝に替えて鎌倉家家督に据えようと画策し、時政も牧の方に与力する形で参画したことで、実子の尼御台及び義時によって責任を問われ、伊豆国田方郡北条へ追放された。
しかし、畠山合戦から八年も経過した建暦3(1213)年9月19日未剋、「日光山別当法眼弁覚」の使いが鎌倉にもたらされた。その一方は「故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶、籠居当山之麓、招聚牢人又祈祷有砕肝胆事、是企謀叛之條、無異儀歟」(『吾妻鏡』建暦三年九月十九日条) というものであった。「日光山別当法眼弁覚」は長沼宗政の父・小山四郎政光の従兄弟に当たる人物で、法印大僧都まで進んだ高僧である。
秩父重綱―+―秩父重弘――――畠山重弘――――畠山重忠――――重慶
(秩父権守)|(太郎大夫) (畠山庄司) (庄司次郎) (慈光寺別当)
|
+―秩父重隆――――河越重頼――――河越重房
|(次郎大夫) (太郎) (小太郎)
|
+―女子 +―大田行広
∥ |(太郎)
∥ |
∥―――――+―大河戸行方 +―小山朝政
∥ (下野権守) |(左衛門尉)
∥ |
藤原頼行―――大田行隆―+―大田行光 +―長沼宗政
(鎮守府将軍)(別当大夫)|(四郎) |(五郎)
| |
+―大田行政――+―小山政光――+―結城朝光
|(二郎) |(四郎) (七郎)
| |
| +―下河辺行義―+―下河辺行平
| (五郎) |(下河辺庄司)
| |
+―大方政家――+―関俊平 +―下河辺政義
|(五郎) |(二郎) (四郎)
| |
+―阿闍梨快実 +―大方政平
(慈光寺別当)|(四郎)
|
+―大方政直
|(五郎)
|
+―法橋隆宣
|(日光山長吏)
|
+―関政綱―――――+―関政泰
|(左衛門尉) |(左衛門尉)
| |
+―大方隆家 +―女子
|(与次) ∥
| ∥
+―法印弁覚 三浦泰村
|(日光山別当) (駿河次郎)
|
+―阿闍梨性覚
(日光山別当)
この報告を受けた源実朝は、座にあった長沼五郎宗政に「可生虜重慶之趣」を命じた。荒武者として知られる宗政は鎌倉中の屋敷に戻ることなく、供の家子一人、雑色八人のみ引き連れて営中から直に下野国に急行した。これを伝え聞いた鎌倉長沼邸の宗政郎従はあわててその後を追ったことで、鎌倉は騒然としたという(『吾妻鏡』建暦三年九月十九日条) 。
宗政はおそらく途中の本領、下野国芳賀郡長沼村の屋敷に立ち寄って手勢を集めたのだろう。その後、日光に急行して、阿闍梨重慶の首を取った。享年は伝わっていない。
源実朝の命は阿闍梨重慶の生捕であったが、宗政は彼を殺害してしまった。何かしらの手違いがあった可能性はあるが、宗政はこれを正当化しようとする。
9月26日、重慶の首を持った宗政が実朝に結果を報告するため。御所を訪れた。ところが、実朝は宗政に会おうとせず、側近の源仲兼を宗政のもとに遣わして「重忠本自無過而蒙誅、其末子法師縦雖挿陰謀有何事哉、随而任被仰下之旨、先令生虜其身具参之、就犯否左右可有沙汰之處加戮誅、楚忽之議為罪業因之由、太御歎息」(『吾妻鏡』建暦三年九月廿六日条) と伝えている。明らかな実朝の不満であろう。
これを聞いた宗政は眼を怒らせ、「於件法師者叛逆之企無其疑、又生虜條雖在掌内直令具参之者、就諸女性比丘尼等申状、定有宥沙汰歟之由兼以推量之間、如斯加誅罸者也、於向後者誰輩可抽忠節乎、是将軍家御不可也、凡右大将家御時、可厚恩賞之趣、頻以雖有厳命、宗政不諾申、只望給御引目、於海道十五ヶ国中、可糺行民間無礼之由、令啓之間、被重武備之故、忝給一御引目、于今為蓬屋重宝、当代者以哥鞠為業、武芸似廃、以女性為宗勇士如無之、又没収之地者不被充勲功之族、多以賜青女等、所謂榛谷四郎重朝遺跡給五條局、以中山四郎重政跡賜下総局云々、此外過言不可勝計」(『吾妻鏡』建暦三年九月廿六日条) とこれまでたまりにたまっていた実朝に対する鬱憤を吐き出した。
この宗政の発言に仲兼は怒りを隠さず閉口して座を起ち、宗政も御所を退出した。この一件で宗政は出仕を止められたが、閏9月16日、兄の小山左衛門尉朝政の陳情により出仕が許されている。なお、長沼五郎宗政は阿闍梨重慶の祖父・畠山庄司重能の又従弟に当たる。
伝によれば、阿闍梨重慶の二人の遺児のうち、長男・太郎重基は陸奥国二戸郡浄法寺郷に逃れ、子孫は「浄法寺」を名字として在地の豪族となったと伝え、室町時代中期の応永年中、南部守行に召し出されてその家臣となった。ただし、浄法寺氏の名字地・浄法寺(藤岡市浄法寺)は畠山氏の勢力圏内ではなく、同族高山氏の勢力範囲に含まれる。高山氏の名字地(藤岡市高山)とは隣接し、神流川を望む肥沃な平地である。高山氏の祖・高山三郎重遠(畠山重忠の大叔父)の子・栗須四郎有重は栗須(藤岡市中栗須)を領し、その子・小林次郎重兼、小林三郎重清兄弟は神流川と笹川に囲まれた小林郷(藤岡市小林)へ移り、その孫・弥二郎重行入道行蓮が浄法寺を領して浄法寺氏の祖となる(『熊野那智大社文書』)。奥州へ移り住んだのは、この浄法寺氏の末裔と思われ、実際は阿闍梨重慶の子孫ではない。
また、別説には、重慶ははじめ「栂尾の明恵上人」に従って建久6(1195)年4月に出家し、恵空と号した。そして承元4(1210)年12月2日、親鸞聖人に属して証性と改めたという(『系図纂要』)。その後は親鸞の弟子として活動し、文永2(1265)年4月25日に、七十七歳で入滅したという(『系図纂要』)。また、下野国塩谷郷狗飼の房舎で八十四歳で入滅とも(『親鸞聖人真伝』巻下)。彼は小次郎重秀の後身とされるが(『親鸞聖人真伝』巻下)、時代的に合わず、重忠子という伝が正しいとするならば、重秀とは別人の子という事になろう。
(????-????)
畠山庄司重能の三男。通称は三郎。「中根三郎」とも。畠山二郎重忠の弟。
兄・重忠に随って各地を転戦。奥州藤原氏との戦いにも従軍した。そして、元久2(1205)年6月22日の二俣川の戦いで兄・重忠が討たれた際には信濃国の畠山家領の管理に出向いていて難を逃れている。
(????-????)
元久2(1205)年6月22日の二俣川の戦いで兄・重忠が討たれた際には、畠山家が地頭を務める陸奥国葛岡郡の代官として派遣されていたため難を逃れている。
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