1.秩父氏の歴史
秩父氏は村岡五郎良文の子孫で、平忠頼の次男・平将恒を祖とする(『尊卑分脈』)。長元の乱を引き起こした上総権介平忠常の弟とされる。
平将恒の父である平忠頼は、寛和2(986)年7月以前に「陸奥介平忠頼、忠光等、移住武蔵国、引率伴類、運上際可致事煩之由、普告隣国連日不絶」(『続左丞抄』寛和三年正月廿四日条:『国史大系』)とあるように、系譜上従兄弟に当たる「散位従五位下平朝臣繁盛(平国香の子で陸奥守貞盛の弟)」の延暦寺への「以金泥奉写大般若経一部六百巻、為表丹誠、負之白馬、欲令運上天台、揚題名」の使者を武蔵国で妨害している。なお、忠頼と忠光の血縁関係は『続左丞抄』に記載はないが、平安時代末期成立の『掌中歴』『懐中歴』をベースとする『二中歴』によれば「陸奥介忠依、駿河介忠光忠依弟」とあり、兄弟であることがわかる。
平将恒は「武蔵権守」に任じられたともされ、信憑性はないものの治安3(1023)年4月、違勅の武蔵介藤原真枝を武蔵国豊嶋郡で討ち、恩賞として駿河国益頭郡・武蔵国豊嶋郡・上総国埴生郡・下総国葛西郡を賜ったという(『千葉大系図』)。
その子・太郎武基は秩父牧(官牧)の別当職に就任。その子・十郎武綱は「後三年の役」で源義家に従って奥州を転戦、白旗を賜り先陣を務めたという(『源平盛衰記』)。彼の子孫・畠山次郎重忠が頼朝の陣に降伏した際に持参した白旗はこのとき賜ったものであるといい、武綱の故事に倣い、重忠が鎌倉勢の先陣を承ることとなった。
秩父氏は武蔵国最大の勢力を持つ在庁官人であり、武綱の子・平重綱は国司の留守を預かる留守所の長官「留守所惣検校職」に就任し、検校職は大蔵郷に館を構えた次男・平重隆に継承された。
重隆の長男・太郎大夫重弘は畠山庄(大里郡川本町畠山)の荘官となって畠山氏を、三男・三郎重遠は高山郷(飯能市高山)に住んで高山氏を、四男・四郎重継は太日川河口付近の江戸郷(江戸川区)を領して江戸氏を称した。また、重綱の弟・平基家は武蔵国荏原郡(川崎市)に移り住み、多摩川の河口付近の低湿地を開発して河崎冠者と呼ばれ、開発した橘樹郡河崎郷を寄進して河崎庄を成立させてその荘官となった。
彼らの子孫は武蔵国各地に盤踞し、坂東に拠点を持った河内源氏の郎従となるが、平治の乱で河内源氏が壊滅すると、武蔵国の知行国主である平知盛(平清盛の子)の被官となっている。治承4(1180)年の源頼朝挙兵に際しても平家の有力方人として敵対したが、房総半島に逃れた頼朝が両総平氏の協力を得て武蔵国へ到来すると降伏。以降は鎌倉家(源頼朝)の有力郎従として、木曽義仲や平家との戦い、奥州藤原氏との戦いで活躍した。
しかし、留守所惣検校職の河越太郎重頼は、娘が源義経の妻だった関係から、義経に連座して誅殺され、その勢力は衰退した。また、河越重頼を継いで留守所惣検校職となった畠山重忠も北条氏によって討たれ畠山氏は滅亡。武蔵守をほぼ占有した北条氏の支配下に入り、室町時代には一時的に勢力を取り戻すも、関東公方に対する不満から「平一揆」を主導して滅亡を遂げた。
2.秩父氏の一族
●秩父氏略系図●
平良文―――忠頼―+―将恒――+―武基――武綱―+―重綱――+―重弘―――+―娘 +―重秀
(村岡五郎)(次郎)|(太郎) |(太郎)(十郎)|(留守所)|(太郎大夫)|(千葉介常胤妻) |(小次郎)
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| | | | +―畠山重能――+―重忠―――+―重保
| | | | |(畠山庄司) |(太郎大夫)|(六郎)
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| | | | | +―長野重清 +―重慶
| | | | | |(三郎) (阿闍梨)
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| | | | | +―渋江重宗
| | | | | (六郎)
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| | | | +―小山田有重―+―稲毛重成――――重政
| | | | (小山田別当)|(三郎) (太郎)
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| | | | +―榛谷重朝――+―重季
| | | | |(四郎) |(太郎)
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| | | | +―小山田行重 +―秀重
| | | | (五郎) (次郎)
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| | | +―重隆―――――葛貫能隆――――河越重頼――+―重房
| | | |(次郎大夫) (葛貫別当) (留守所) |(太郎)
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| | | +―高山重遠―――重久 +―重時
| | | |(三郎) |(次郎)
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| | | | +―重員
| | | | |(三郎)
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| | | | +―娘
| | | | |(源義経妻)
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| | | | +―娘
| | | | (下河辺政義妻)
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| | | +―江戸重継―+―重長―+―忠重
| | | (四郎) |(太郎)|(太郎)
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| | | +―朝重 +―親重
| | | (次郎)|(次郎)
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| | | +―重通
| | | |(四郎)
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| | | +―重宗
| | | |(七郎)
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| | | +―娘 +―光重
| | | (河野通有妻) |(渋谷庄司)
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| | +―小机基家――重家――――為重―――渋谷重国――――――+―高重
| | (河崎冠者)(平三大夫)(五郎) (渋谷庄司) |(太郎)
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| +―武常――豊嶋常家―康家――――清元――――葛西清重 +―時国
| |(次郎)(六郎) (太郎) (三郎) (三郎) |(四郎)
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| +―小山田常任 +―土肥実平―遠平―――惟平 +―重助
| (小山田大夫) |(次郎) (弥太郎)(先次郎) |(五郎)
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+―山辺頼尊――常遠―――――中村常宗―――宗平―――+―土屋宗遠―+―義清 +―娘
(悪禅師) (武蔵押領使)(笠間押領使)(中村庄司)|(三郎) |(次郎) (佐々木秀義妻)
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+―二宮友平 +―宗光
(四郎)
◎武蔵国惣検校職◎
●平安~鎌倉期までの武蔵国惣検校職歴代●
・平将恒→平武基→平武綱→◎平重綱→秩父重隆→河越重頼→畠山重忠→河越重員→河越重資―河越貞重(?)…
秩父氏は武蔵国最大の勢力を持つ在庁官人の家柄で、平重綱は、国司不在の武蔵国衙の留守を預かる「留守所惣検校職」に就任している。また、惣領は代々秩父牧という広大な勅旨牧を支配していた。
重綱の長男・重弘は畠山庄(大里郡川本町畠山)の荘官となって畠山氏を称したが、彼は長男であるにもかかわらず、惣検校職は二男・重隆に継承され、重隆の子孫・河越氏に継承されていくこととなる。三男・重遠は高山郷(飯能市高山)に住んで高山を称し、四男・重継は太日川河口付近の江戸郷(東京都江戸川区)に住んで江戸氏を称した。さらに分流には武蔵国と相模国の国境付近、多摩川沿いの相模国高座郡渋谷庄を領した渋谷氏がいた。
渋谷氏は秩父党ではあるが、相模国を本拠としていたことからか武蔵国北部を中心に領していた秩父党とは行動をともにしておらず、大庭氏などの鎌倉党と密接な関わりを持っていたことがわかる。
■秩父一族のリンク■
河越氏 | 秩父党の惣領家。代々、武蔵国惣検校職を世襲する家柄として続き、鎌倉時代から室町時代にかけて有力な豪族に成長する。 |
畠山氏 | 秩父党の長男の家柄。平安末期、惣領・河越氏とは対立関係にあったことが見受けられる。畠山重忠を輩出する。 |
高山氏 | 秩父党の一族で、ほかの一族とはやや離れた高山郷を本拠に発展。畠山重忠の子孫と伝わる浄法寺氏も実際はこの流れ。 |
江戸氏 | 秩父党の一族で武蔵国湾岸を治めていた一族。太日川(江戸川)の河口水運を支配し、河越・畠山氏と並ぶ有力な豪族だった。 |
渋谷氏 | 秩父党の中でも最も古い一族。武蔵と相模の境・渋谷庄の開発をし、佐々木氏や相模大庭氏との関わりを持っていた。 |
葛西氏 | 秩父党の分家・豊嶋氏の庶流に当たるが、本流の豊嶋氏をしのぐ勢力を持ち、のち奥州太守と呼ばれるほどの勢力を築く。 |
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