澁谷氏

 

澁谷氏

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 秩父氏は武蔵秩父党に属する一族で、もともと武蔵国荏原郡の多摩川河口付近の肥沃な土地を開発して河崎を称し、その後、相模国高座郡吉田庄(渋谷庄)に移り住んで渋谷庄司を称した。鎌倉時代には薩摩国に知行を与えられて移り、秩父党を形成した。

 

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河崎基家(????-????)

 秩父武者十郎武綱の次男。通称は河崎冠者小机六郎。秩父党の中でも豊嶋氏と並びもっとも早く武蔵国東部地域へ勢力を拡げた人物。

 はじめ鶴見川を望む武蔵国橘樹郡小机郷(都筑区小机)を開発し、その後、鶴見川河口と多摩川河口部に広がる肥沃なデルタ地帯(河口を「河崎」という)を開発して「河崎」を称したと思われる。現在の川崎市川崎区である。

 その後、平安時代末期頃には、小山田庄の荘官で官牧の別当であった小山田別当有重の勢力が次第に河崎氏領を西南北で囲むように進出してくる。そのほか、江戸氏や古くに秩父党から分かれて豊島郡へ進出した豊島氏、さらに下総国葛西庄の荘官となった葛西氏がみられる。

 平将常―+―秩父武基――――秩父武綱―――+―秩父重綱―+―秩父重弘―+―畠山重能――――畠山重忠
(六郎) |(秩父別当大夫)(秩父武者十郎)|(出羽権守)|(太郎大夫)|(畠山庄司)  (次郎)
     |                |      |      |
     |                |      |      +―小山田有重―+―稲毛重成
     |                |      |       (小山田別当)|(三郎)
     |                |      |              |
     |                |      |              +―榛谷重朝
     |                |      |              |(四郎)
     |                |      |              |
     |                |      |              +―森行重
     |                |      |              |(五郎)
     |                |      |              |
     |                |      |              +―田奈有朝
     |                |      |              |(七郎)
     |                |      |              |
     |                |      |              +―小山田有親
     |                |      |               (八郎)
     |                |      |
     |                |      +―秩父重隆―――葛貫能隆――――河越重頼
     |                |      |(次郎大夫) (葛貫別当)  (太郎)
     |                |      |
     |                |      +―高山重遠
     |                |      |(三郎)
     |                |      |
     |                |      +―江戸重継―――江戸重長
     |                |       (四郎)   (太郎)
     |                |
     |                +―河崎基家―――河崎重家―+―中山重実
     |                 (六郎)   (平三大夫)|(次郎)
     |                              |
     |                              +―渋谷重国
     |                               (渋谷庄司)
     |
     +―平武常――――豊島常家――――――豊島康家―――豊島清元―――葛西清重
      (次郎)   (傔仗)      (三郎)   (三郎)   (三郎)

 

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河崎重家(????-????)

 河崎冠者基家の嫡男。通称は平三大夫。本拠は橘樹郡河崎郷(川崎市川崎区)に置いていたとみられるが、子の中山次郎重実は中山郷(緑区中山)一帯を支配して中山を称しており、河崎氏は中山郷から鶴見川沿いを私領化していたと思われる。

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渋谷重国(????-????)

浜田屋敷跡
浜田歴史公園(推定渋谷氏屋敷跡)

 河崎平三重家の子。相模国高座郡吉田(渋谷)庄に住んで渋谷庄司を称する。屋敷地は「渋谷曾司郷(綾瀬市早川祖師谷)」か。南北朝期の武家館跡が発掘されており(浜田歴史公園)、渋谷重国の館を引き継いだ相模渋谷一族の館跡の可能性が高い。

  浜田は古代には浜田駅が置かれた東海道の要衝であることから、重国はこの地を拠点と定めたのであろう。武家館跡は舌状台地の東端に位置し、眼下に永池川による侵食谷を経て、対岸の東段丘上に渋谷氏の廟所がある崇福山長泉寺(もとは祖師山菩提寺)が建立されている。重国の孫にあたる澁谷五郎房定心は法体の法名のみが伝わり、またその所領は長泉寺一帯の澁谷曾司郷であることから、定心は幼少から菩提寺に入り、僧俗を兼ねた存在であったのかもしれない。

渋谷氏菩提寺長泉寺
崇福山長泉寺

 重国の兄・中山次郎重実は河崎庄に繋がる鶴見川沿いに私領を有して中山氏を起こしているが、重実が河崎氏の惣領となって鶴見川沿いに開発を進めたとみられる。中山次郎重実の子・五郎為重娘(川崎五郎平為重女)は佐々木左衛門尉信綱の妻となり、佐々木左衛門尉泰綱を産んだとあるが(『尊卑分脈』)、中山五郎為重は比企判官能員の女婿であったことから比企氏の乱で討死。泰綱の生誕はその十年後のため、おそらく泰綱の母は比企氏の乱後に信綱が娶った北条義時の娘であろう。『尊卑分脈』の記述は転記時の誤謬であり、中山為重女を母としたのは信綱の長男・太郎左衛門尉重綱で、その「重」は為重の偏諱であろう。重綱はその後、惣領嫡子の地位を泰綱に奪われており、その原因は比企氏の乱にあったと推測できる。

 比企能員――――娘
(検非違使判官) ∥
         ∥―――?―――娘     【大原氏祖】
 中山重実――――中山為重    ∥――――――佐々木重綱
(次郎)    (五郎)     ∥     (左衛門尉)
                 ∥
 佐々木秀義―――佐々木定綱―――佐々木信綱
(三郎)    (太郎左衛門尉)(左衛門尉)
                 ∥     【六角氏祖】
                 ∥――――――佐々木泰綱
 北条時政――――北条義時――?―娘     (左衛門尉)
(四郎)    (四郎)

 重国は河崎庄内に私領を持たず、何らかの事情で武蔵秩父党の勢力圏外である相模国高座郡吉田(渋谷)(大和市、綾瀬市、海老名市東端)へ移り住んだ。同様に秩父党勢力圏外である下総国葛西庄の荘官となった葛西三郎清重がいるが、彼の出身である秩父党豊嶋氏は葛西庄に西隣する豊嶋郡の在郷領主であることから、勢力延伸による葛西庄の開発とみることができる。ところが渋谷氏は出身氏族である河崎氏の勢力圏とは小山田別当一族の勢力圏で分断されていることから、どういった理由で高座郡吉田庄へと移り住んだかは不明である。

 なお、のちの渋谷氏の譲状には「吉田上庄号渋谷内寺尾村」「渋谷上庄寺尾村」と見えるように「吉田庄」と「渋谷庄」は同意であったことがわかる。吉田(渋谷)庄は東西7km、南北6kmあまりの広大な荘園で、相模国最大の荘園である大庭御厨とは南部で接しており、大庭三郎景親とは非常に懇意であった。大庭氏は東海道を押さえる澁谷氏との関係を深めようと交流を持ったと思われる。吉田(渋谷)庄は平安時代末期には園城寺圓満院が領家となっており(『吾妻鏡』建久三年十二月廿日条)、重国は吉田(渋谷)庄の庄司となって渋谷庄司と号したものである。

 平治元(1159)年12月に勃発した平治の乱では、「候左典厩御方、於戦場竭兵略」した近江国の住人・佐々木源三秀義が、義朝の「不奉忘旧好兮、不諛平家権勢之故、得替相伝地佐々木庄」されて「相率子息等」「姨母夫」である奥州平泉の藤原秀衡を頼って「赴奥州至相摸国」ったとき、「澁谷庄司重國」「感秀義勇敢之余、令之留置」いた。佐々木秀義は重国の館近くを通っていた古東海道を東へ進んでいたと思われるが、重国はよほど秀義を気に入ったのか女婿とし、治承4(1180)年に至るまで「住当国、既送二十年畢」と二十年にわたって秀義を渋谷庄に住まわせ続けている(『吾妻鏡』治承四年八月九日条)

      +―中山重実―――+―中山重政―――中山行重
      |(次郎)    |(四郎)   (太郎)
      |        |
      |        +―中山為重―――――――――――娘
      |         (五郎)            ∥
      |                         ∥
      |        +―渋谷光重           ∥―――――佐々木重綱
      |        |(太郎)            ∥    (左衛門尉)
      |        |                ∥
 河崎重家―+―渋谷重国―――+―娘              ∥
(平三)    (渋谷庄司)   ∥              ∥
                 ∥――――――佐々木義清   ∥
                 ∥     (五郎)     ∥
                 佐々木秀義          ∥
                (源三)            ∥
                 ∥――――+―佐々木定綱―――佐々木信綱
                 ∥    |(太郎)    (左衛門尉)
                 ∥    |
                 ∥    +―佐々木経高
                 ∥    |(次郎)
                 ∥    |
                 ∥    +―佐々木盛綱
                 ∥    |(三郎)
                 ∥    |
        源為義――?―+―娘    +―佐々木高綱
       (左衛門大尉) |       (四郎)
               |
               +―源義朝――――源頼朝
                (下野守)  (右兵衛権佐)

 治承4(1180)年8月13日、頼朝は佐々木秀義から遣わされた佐々木太郎定綱に、伊豆目代・前検非違使判官平兼隆を討って兵を挙げるため、「被遣御書於澁谷庄司重國」(『吾妻鏡』治承四年八月十三日条)。定綱を通じて渋谷重国にも参加を求めたものであった。佐々木定綱ら佐々木兄弟には8月16日に伊豆へ必ず参着すべきことを指示していたが、いざ16日になってみると佐々木兄弟が伊豆の配所に来ることはなく、頼朝は「澁谷庄司重國、当時為恩仕平家、佐々木与澁谷、亦同意也」と佐々木定綱に機微を洩らしてしまったのは不覚であったとひどく後悔しており、この頃の佐々木氏は渋谷氏と同一の行動規範の一族と見られていたことが伺える。

 ところが8月17日未の刻、佐々木太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱の四兄弟が頼朝の田方郡蛭嶋の配所に参着する。定綱、経高はくたびれた馬に乗り、盛綱・高綱は徒歩で現れるという状態であった。降り続く雨に行方を遮られての遅参であったが、頼朝は涙を浮かべて喜んだ(『吾妻鏡』治承四年八月十七日条)

 8月17日、頼朝は伊豆国田方郡山木の目代屋敷に攻め入って、目代の平兼隆を討ち取る。平家に対して顕然たる挙兵であったが、その兵力は乏しかった。このような中、5月に京都で起こった源頼政の乱の余波で「近曾為追討仲綱息素住関東云々、遣武士等」(『玉葉』治承四年九月十一日条)のために平清盛禅門の命で帰国していた大庭三郎景親が頼朝追捕の任に当たることとなり、重国も親交深い景親の要請に応じて、外孫の佐々木五郎義清を伴って出陣する。そして、8月23日、相模国土肥郷の石橋山中の合戦で、大庭景親の軍勢は頼朝勢を大敗させ、筥根山中に追い落とすことになる。筥根山中から逃れた頼朝は、土肥郷の真鶴から房総半島へと舟で逃れた。

 また、畠山次郎重忠は三浦党を討つべく、秩父党の惣領・河越太朗重頼に、武蔵国の党々を相具して参会するよう依頼。この重忠の要請に江戸郷の江戸太郎重長、中山郷の重国の兄・中山次郎重実も組みした。そして8月26日、相模国の三浦党居城・衣笠城に河越重頼に率いられた武蔵国の諸党、秩父一族が集結。三浦氏はこれを防戦するもついに敗れ、城を落ちて相模湾から房総半島へと向かった(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)

 同日、景親は重国のもとに参じ、

「佐々木太郎定綱兄弟四人、属武衛、奉射平家畢、其科不足宥、然者尋出彼身之程、於妻子等者、可為囚人者」と、佐々木兄弟の捕縛を命じた。これに重国は激しく反発し、

「件輩者、依有年来芳約加扶持訖、而今重旧好而参源家事、無拠于加制禁歟、重國就貴殿之催、相具外孫佐々木五郎義清、向石橋之處、不思其功、可召禁定綱已下妻子之由蒙命、今更所非本懐也者」と景親を詰った。

 これには景親は言葉もなく退去せざるを得なかった。その夜、定綱、盛綱、高綱の三人は筥根山中で頼朝の異母弟・醍醐禅師全成(乙若)と出会い、ともに重国の館に戻ってきた。重国は喜んでこれを迎えるも、今朝も景親が訪れたようにまだ油断できる状況にはなかった、重国は庫倉の中に全成を招き入れると、膳と酒を提供している。定綱、盛綱、高綱もこれに同席しており、重国は次男の経高の姿がないことに、

「二郎経高者、被討取歟」と問うている。定綱は、

「令誘引之處、称有存念、不伴来者」と語った。重国は、

「存子息之儀已年久、去比参武衛之間、重國、一旦雖加制、不叙用之、遂令参畢、合戦敗績之今、耻重國心中、不来歟」としみじみ語ると、郎従に命じて経高の行方を追わせた。この重国の情けのある対応に、聞くもの皆感じ入ったという(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)

 その後、大庭景親らは勢力を増して相模に戻ってきた頼朝勢になす術なく降伏。景親は梟首され、そのほか石橋合戦で頼朝と対立した人々も囚人となった。しかし、石橋合戦で大庭勢に加担したにもかかわらず、重国は咎めを受けることはなかった。その上、養和元(1181)年8月27日には、

「澁谷庄司重國、次男高重竭無弐忠節之上、依令感心操之隠便、彼当知行渋谷下郷、所済乃貢等所被免除也」

と、重国と次男の次郎高重「無弐忠節」を褒めた上で、「当知行渋谷下郷」「所済乃貢等」を免除した(『吾妻鏡』養和元年八月廿七日条)。頼朝が信頼を寄せた佐々木四兄弟を撫育し、異母弟の醍醐禅師全成を庇護した功績もあったと思われるが、頼朝の重国に対する信頼はおそらく配流時代からの交流等もあったと推測される。

 その後、重国らの記述はしばらく見えなくなるが、頼朝が関東の支配を進めていた頃、信濃国木曾で反平氏の兵を挙げた木曾義仲(頼朝の従弟)が北陸から京都へ進軍。平家の軍勢を京都から追い落として京都に駐屯した。しかし、義仲の京都での軍政は評判は芳しくなく、頼朝とも対立関係となり、頼朝は義仲追討の兵を上洛させた。大手の蒲冠者範頼(頼朝の弟)は近江国勢田から、搦手の九郎義経(頼朝の弟)は大和国宇治から京都へ進軍。範頼勢は美濃守義廣、今井四郎兼平の軍勢を打ち破り、寿永3(1184)年正月20日、木曾義仲は近江国粟津の合戦で討死を遂げた。享年三十一。入洛した範頼と義経は「河越太郎重頼、同小太郎重房、佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、澁谷庄司重國、梶原源太景季等」を相具して六條殿へ馳せ向かい、後白河院の御所を警衛した。重国はのちの九州転戦の配置を見るに、範頼の大手勢に加わっていたとみられる。

 正月28日には「小山四郎朝政、土肥次郎實平、澁谷庄司重國已下」の御家人の使者が鎌倉に参着し、「各所賀申合戰無為之由」を報告した。

 2月2日、木曾義仲の腹心で、武蔵兒玉党の説得に応じて降伏した樋口次郎兼光が梟首される事となり、重国がその命を受けた。おそらく重国が囚人として預かっていたものと見られる。兼光は兒玉党に属する人物の女婿であり、兒玉党の人々は「彼等募勲功之賞、可賜兼光命之旨」を聞いた源九郎義経が朝廷に奏聞するが、「依罪科不軽、遂以無有免許」となっていた(『吾妻鏡』元暦元年二月二日条)。重国は郎従の平太に斬首を命じるが斬り損じたため、重国の次男・高重がそこに割って入り、「片手打」で兼光の首を落とした。片手打になったのは、戦闘で負傷していたためである。

 木曾義仲追捕の後の平家との戦いにも参河守範頼に従って参戦。元暦2(1185)年正月26日、豊後国の雄族、臼杵庄司惟隆・緒方三郎惟栄らが八十二艘の兵船を範頼に提供し、周防国宇佐郡の木上七遠隆が兵糧米を提供したことで、範頼の軍勢は渡海して豊後国へと渡った。このときも重国は次郎高重とともに豊後国へと渡っている。

●豊後国渡海の御家人(『吾妻鏡』元暦二年正月廿六日条)

北條小四郎義時
足利蔵人義兼 小山兵衛尉朝政 小山五郎宗政 小山七郎朝光
武田兵衛尉有義 齋院次官中原親能 千葉介常胤 千葉平次常秀 下河辺庄司行平
下河辺四郎政能 浅沼四郎廣綱 三浦介義澄
(周防国留守居)
三浦平六義村
(周防国留守居)
八田武者知家
八田太郎知重
葛西三郎清重 澁谷庄司重国 澁谷二郎高重 比企藤内朝宗
比企藤四郎能員 和田小太郎義盛 和田三郎宗實 和田四郎義胤 大多和三郎義成
安西三郎景益 安西太郎明景 大河戸太郎廣行 大河戸三郎 中條藤次家長
加藤次景廉 工藤一臈祐経 工藤三郎祐茂 天野藤内遠景 一品房昌寛
土佐房昌俊 小野寺太郎道綱      

 2月1日、豊後に渡海した範頼勢は、北條小四郎義時、下河辺庄司行平、渋谷庄司重国、品川三郎らを先登に、芦屋浦で豊後最大の平家党である原田党の太宰少弐原田種直、その子・賀摩兵衛尉種益美気三郎敦種らと戦った。行平、重国らは種直の軍勢を騎射し、重国は大将の原田種直、賀摩兵衛尉種益を射殺。下河辺行平は美気三郎敦種を討った(『吾妻鏡』元暦二年二月一日条、五月五日条)

 重国はさっそくこの武勲を鎌倉に報告すべく使者を立て、3月1日夜、鎌倉に参着した。この使者はよほど目立ったのか、平家との合戦の状況報告と推察した在鎌倉の御家人らが御所へ馳せ参じている(『吾妻鏡』元暦二年三月一日条)。翌日、この使者が「澁谷庄司重國」の使者であったことが知らされ、豊後最大の平家与党の大将・太宰少弐種直を討ったことが報じられた(『吾妻鏡』元暦二年三月二日条)

 そして3月24日、長門国赤間関壇ノ浦の海上で源平の船戦が行われ、午の刻、ついに平家は敗戦。二品禅尼は宝剣を、按察大納言局は安徳上皇(八歳)を抱き奉って入水した。上皇の御母・建礼門院も入水するが、これは渡邊源五右馬允番に絡め取られた(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)

●壇ノ浦合戦の平家一門(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日、四月十一日条)

先帝(安徳上皇) 按察大納言局に抱かれて入水(浮かばず)
若宮(先帝弟) 救助
二品禅尼 宝剣とともに入水(浮かばず)
建礼門院 入水後、渡邊源五右馬允番に助けられ、出家。
按察大納言局 入水後、助けられる。
師典侍(先帝御乳母)  生捕。
大納言典侍(重衡卿妻) 生捕。
師の局(二品妹) 生捕。
前門脇中納言教盛 生捕。
前参議経盛 いったん上陸して出家ののち入水(浮かばず)
新三位中将資盛 入水(浮かばず)
前少将有盛 入水(浮かばず)
前内大臣宗盛 入水後、伊勢三郎義盛が生け捕る。のち斬首。
右衛門督清宗 入水後、伊勢三郎義盛が生け捕る。のち斬首。
副将丸 生捕。宗盛子息(六歳)。のち斬首。
左馬頭行盛 入水(浮かばず)
平大納言時忠 御船賢所を守衛。乱入する軍士に制止をかけて退去させる。
左中将時實(負傷) 生捕。
前内蔵頭信基(負傷)        生捕。
兵部少輔尹明 生捕。
美濃前司則清 生捕。
民部大夫成良 生捕。阿波国在庁。
源大夫判官季貞 生捕。
摂津判官盛澄 生捕。
飛騨左衛門尉経景 生捕。
後藤内左衛門尉信康 生捕。
右馬允家村 生捕。
僧都全眞 生捕。
律師忠快 生捕。
法眼能圓 生捕。
法眼行明(熊野別当) 生捕。

 4月4日、検非違使判官義経より平家討滅の一報が京都に届けられ、さらに源兵衛尉広綱からも傷死生捕の交名が院に奉じられた。そして4月11日には、鎌倉南御堂(勝長寿院)の柱立の儀に列していた頼朝のもとに義経からの平家討滅の飛脚が届けられている。

 平家討滅が鎌倉に報じられた直後の4月15日、頼朝は義経とともに頼朝の「内挙」を経ずに「衛府所司等」の官を拝任した御家人について、「可令停止下向本国、各在京、勤仕陣直公役事」を命じた。これは「若違、令下向墨俣以東者、且各改召本領、且又可令申行斬罪」に処するという峻烈なものであった(『吾妻鏡』元暦二年四月十五日条)

兵衛尉義廉 名字不詳 鎌倉殿ハ悪主也、木曽ハ吉主也ト申シテ、始父相具親昵等、令参木曽殿ト申テ、鎌倉殿祗候セバ、終ニハ落人ト被處ナントテ候シハ、何令忘却歟、希有悪兵衛尉哉
兵衛尉忠信 佐藤忠信 秀衡之郎等、令拝任衛府事、自徃昔未有、計涯分、被坐ヨカシ、其気ニテヤラン、是ハイタチニヲツル
兵衛尉重經 師岡重経 御勘当ハ粗被免ニキ、然者可令帰府本領之處、今ハ本領ニハ、不被付申之
澁谷馬允 澁谷重助 父在国也、而付平家令経廻之間、木曽以大勢攻入之時、付木曽留、又判官殿御入京之時、又落参、度々合戦ニ心ハ甲ニテ有バ、免前々御勘当、可被召仕之處、衛府シテ、被斬頚ズルハ、イカニ能用意頸ニ語加治テ、頚玉ニ、厚ク可巻金也
小河馬允   少々御勘当免テ、可有御糸惜之由思食之處、色様不吉、何様任官ヤラン
兵衛尉基清 後藤基清 目ハ鼠ノ眼ニテ、只可候之處、任官希有也
馬允有經 豊島有経 少々奴、木曽殿有御勘当之處、令免給タラバ只可候ニ、五位ノ馬允、未曽有事也
刑部丞友景 梶原朝景 音樣、シワガレテ、後鬢サマデ、刑部ガラナシ
兵衛尉景貞 梶原景貞 合戦之時、心甲ニテ有由聞食、仍可有御糸惜之由、思食之處、任官希有也
兵衛尉景高 梶原景高 悪気色シテ、本自白者ト御覧ゼシニ、任官、誠ニ見苦シ
馬允時經 中村時経 大虚言計ヲ能トシテ、エシラヌ官好シテ、松双庄云不知、アハレ水駅ノ人哉、悪馬細工シテ有カシ
兵衛尉季綱 海老名季綱 御勘当、スコシ免レテ有ベキ處、無由任官哉
馬允能忠 海老名能忠 御勘当、スコシ免レテ有ベキ處、無由任官哉 
豐田兵衛尉 豊田義幹 色ハ白ラカニシテ、顔ハ不覚気ナルモノゝ、只可候ニ、任官希有也、父ハ於下総、度々有召ニ、不参シテ、東国平ラゲラレテ後参、不覚歟
兵衛尉政綱    
兵衛尉忠綱   本領少々可返給之處、任官シテ、今ハ不相叶、嗚呼人哉
馬允有長 平子有長  
右衛門尉季重 平山季重 久目源三郎、顔ハフワフワトシテ、希有之任官哉
左衛門尉景季 梶原景季  
縫殿助    
宮内烝舒國   於大井渡、声様憶病気ニテ、任官見苦事歟
刑部烝經俊 山内首藤経俊 官好、無其要用事歟、アワレ無益事哉
右衛門尉友家 八田知家 下向鎮西之時、於京令拝任事、如駘馬之道草食、同以不可下向之状如件
兵衛尉朝政 小山朝政 下向鎮西之時、於京令拝任事、如駘馬之道草食、同以不可下向之状如件

 この状に載せられているほかにも該当する御家人が多数あり、いずれも東国への帰国を許されない事態となった。実際にはこの文書は御家人に強烈な戒めを与るための措置で、ここで譴責を受けた御家人たちは赦され、朝廷からの官職もほぼそのまま継承されているが、重国の子・右馬允重助は5月9日、その召名を止められた。これは、父・重国が寛恕されたのちも重助は平家に属して、たびたびの召喚にも応じなかったこと、平家が都落ちをした後は木曾義仲に付き、さらにその後は九郎義経に属して自由任官するという変節ぶりを見せたことなどが頼朝の不興を買ったことが原因で、さらに豊前での原田党との戦いでは重国勢の先頭に立って功を見せるも、大将である参河守範頼に先立って上洛して更なる不興を買った。このため、他の譴責を受けた人々が寛恕されているにもかかわらず、重助は罷免されるという事態になった(『吾妻鏡』元暦二年五月九日条)。しかし、重助は放逐されたわけではなく、伊勢国安清名地頭職に名が見える(『吾妻鏡』文治三年四月廿九日条)

 その後、9月になって豊前国に在陣して残務処理を行っていた範頼が京都へ向けて出立し、9月26日上洛。重国もここに加わっていたとみられる。さらに重国は京を発って鎌倉へ帰還。10月24日に挙行された南御堂(勝長寿院)供養に随兵として「澁谷庄司重国」が見える。

 その後しばらく重国の名は見えなくなるが、文治5(1189)年11月17日、頼朝は鷹場を見るために大庭まで出向き、興が乗ってきたため澁谷庄に入った。その夜は重国の館で贅を尽くした酒宴が行われた。そして11月18日、重国は鎌倉に帰還した頼朝に「御馬一疋、鷲羽、桑之脇息一脚等」を引出物として進めた(『吾妻鏡』文治五年十一月十七日条)

 建久2(1191)年3月4日、丑の刻、小町大路の辺りから出た火災が延焼して鎌倉北部の大火となった。この火災によって、小町大路の北端に位置する北条義時から南に燃え広がった炎は、佐貫四郎亭あたりまで延々数十宇の人家を焼き尽くした。さらに余炎は鶴岡八幡宮寺の馬場本の塔婆に燃え移り、鶴岡八幡宮寺の若宮、回廊、経所もことごとく灰燼に帰した。幕府も被災したため、頼朝は寅の刻、源家別邸の扱いにあったとみられる甘縄の藤九郎盛長亭に避難している(『吾妻鏡』建久二年三月四日条)。この火災を受けて、幕府は近国で帰国している御家人らに参集を命じ、翌5日には渋谷庄司重国と毛呂豊後守が真っ先に駆けつけた(『吾妻鏡』建久二年三月五日条)。その後、ただちに鶴岡八幡宮寺、御所の再建が開始され、7月28日には寝殿・対屋・御厩等の造営も終わり、頼朝は甘縄邸から移った。この八幡宮や幕府造営の担当交名は伝わっていないが、渋谷重国も積極的に関わっているのだろう。

 重国には太郎光重から七郎重親まで少なくとも七名の男子がいたが、おもに平家との戦いなど重国とともに活動しているのは次男・次郎高重であった。長男の太郎光重はおそらく頼朝の挙兵以前にすでに亡くなっており、その子・平太重直がまだ若年であったことから、次男・高重が重んじられたのであろう。重国はその後も姿を見せるものの、幕府の行事に列するのは主に次郎高重であること、頼朝からの覚えもめでたい高重が重国の後継者であったと思われる。

 建久3(1192)年12月、「澁谷輩」は勇敢で頼朝の信任厚かったことから、頼朝は彼らの公事軽減のために、吉田庄(澁谷庄)の地頭請について、特別な計らいをもって領家の園城寺圓満院に申請し、「御倉納物、所被贖其乃貢」とすることとして政所に指示した。これを受けた「前右大将家政所」は12月20日、御所の貢倉に納められていた貢物から肩代わり分の布などを圓満院へ届けさせている(『吾妻鏡』建久三年十二月廿日条)。すでに十年前の養和元(1181)年8月27日に「彼当知行渋谷下郷、所済乃貢等所被免除」をされている上の優遇措置であった。こうした個の御家人へ対する頼朝の「贖」は『吾妻鏡』からは他に見られず(記載されていないだけかもしれないが)、とくに澁谷庄司重国、次郎高重に対する信頼の高さを見てとれる。

 建久4(1193)年5月8日、頼朝は富士野・藍沢の夏狩りを見るために駿河国へと出立した。このときの供奉中に「澁谷庄司」と見える(『吾妻鏡』建久四年五月八日条)。弓術に長けた御家人が多く列しているが、重国もかつて豊前国の平家与党である原田党との合戦で太宰少弐原田種直、賀摩兵衛尉種益を射落としており、老いても弓馬に優れた武人であったと推測される。

 建久5(1194)年2月22日、南御堂(勝長寿院)の裏山に三浦介義澄や渋谷庄司重国から提供された竹数十本を植栽した(『吾妻鏡』建久五年二月二十二日条)

 8月8日、頼朝が相模国日向山にある行基建立の薬師如来霊場の参詣に向かい、重国は先陣の随兵の一人に列せられた(『吾妻鏡』建久五年八月八日条)

 12月15日、永福寺内に新造された薬師堂供養のための導師・前権僧正勝賢が近日鎌倉へ入るとの先使が来たため、導師の迎えのため、御家人を派遣することと定め、さらに伝馬を相模国の有力御家人に割り当てた(『吾妻鏡』建久五年十二月十五日条)

●伝馬割当(『吾妻鏡』建久五年十二月十五日条)

三浦介義澄 五疋 相模国三浦郡矢部郷
和田左衛門尉義盛 四疋 相模国三浦郡和田村
梶原平三景時 二疋 相模国鎌倉郡梶原郷
中村庄司宗平 五疋 相模国餘綾郡中村庄
小早河彌太郎遠平 五疋 相模国足柄下郡土肥郷
澁谷庄司重国 五疋 相模国高座郡渋谷庄
曽我太郎祐助信 二疋 相模国足柄上郡曾我村
原宗三郎宗房 一疋 相模国足柄下郡原村

 この記述を最後に、重国は『吾妻鏡』から見えなくなるが、この当時すでに重国は七十歳を超えており、次男の次郎高重に惣領を譲ったのだろう。没年不詳。

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渋谷光重(????-????)

 渋谷庄司重国の長男。通称は太郎(『入来院家所蔵平氏系図について』上)。主だった活躍は見られず、おそらく頼朝の挙兵以前にすでに没していたと考えられる。

 承久3(1221)年の承久の乱には、子息や孫、甥が参戦している。

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渋谷重直(????-????)

 渋谷太郎光重の長男。通称は平太。

 重直自身の活躍はみられないが、平家との戦いのころには重直も二十歳前後となっていることから、従軍していたと考えられる。これは建久3(1192)年12月に「澁谷輩者、偏備勇敢、尤相叶御意之間…」とあることから、渋谷庄司重国の惣領支配のもとで一族が結束して戦っていた様子からも推測できる(『吾妻鏡』建久三年十二月廿日条)

 横山孝兼―+―横山時広――+―横山時兼
      |(横山権守) |(太郎)
      |       |
      |       +―娘
      |       | ∥
      |       | 渋谷高重
      |       |(次郎)
      |       |
      +―娘     +―娘
      | ∥       ∥
      | 和田義盛――――和田常盛
      |(左衛門尉)  (兵衛尉)
      |
      +―娘
      | ∥―――――+―畠山重能
      | ∥     |(畠山庄司)
      | ∥     |
      | 秩父重弘  +―小山田有重
      |(秩父大夫)  (小山田別当)
      |
      +―娘
      | ∥―――――――梶原景時
      | ∥      (平三)
      | 梶原某
      |
      +―小山経隆――――小山四郎
       (次郎)

 すでに重直の父・太郎光重が亡くなっているなかで、叔父の次郎高重は武蔵横山党を率いる横山権守時広の女婿となる。横山氏は武蔵国の強大な武士団を統率し、侍所別当を歴任した和田義盛や梶原景時とも縁戚であった。

 また、渋谷庄の北で所領(榛谷御厨)が接する小山田氏も横山氏の血を引いており、高重と横山時広女との婚姻はおなじ秩父党に属する小山田氏と澁谷氏との間のバランスにも影響を与えていると思われる。とくに幕府宿老であった和田左衛門尉義盛との縁続きは、渋谷氏の地位を固める上で大きな経緯となったと思われ、高重は正治2(1200)年11月には土肥氏の惣領・土肥先次郎惟光(のち土肥先次郎左衛門尉惟平)とともに近江国柏原庄の柏原弥三郎の幕府追捕使節として出兵し、「相模国所領」に立ち寄ってからの進発が命じられている。惟光が土肥氏惣領であったことを考えると、高重も重直を差し置いて渋谷氏惣領となっていたと考えられよう。

 しかし、建暦3(1213)年5月、高重は和田義盛と北条義時との間で勃発した乱「和田合戦」において、一族の中山四郎重政、太郎行重らとともに和田義盛に加担。5月3日の合戦で一族八人とともに討死を遂げる。小山四郎は建久6(1195)年3月10日の頼朝東大寺供養に供奉した随兵「相模小山四郎」と同一人物で、相模国高座郡小山村(町田市小山町)を本拠とした横山党小山氏の当主だろう。「澁谷人々」として澁谷氏の範疇にあることから、澁谷高重と近い人物か。

●建暦三年五月二日三日の合戦で「澁谷人々」討死(『吾妻鏡』建暦三年五月六日条)

渋谷せんざの次郎
(渋谷次郎高重)
三郎
(渋谷三郎重氏)
五郎
(渋谷五郎重村)
小次郎
(渋谷次郎重広か)
小三郎
(渋谷小三郎範重か)
小山四郎 太郎 次郎    

 5月5日、幕府は和田義盛、横山時兼以下の乱に加担した御家人の所領ならびに、美作国(和田義盛の守護国)、淡路国(横山時兼の守護国)を収公し、幕府方の人々の勲功の賞として与えられることとなった(『吾妻鏡』建暦三年五月五日条)。澁谷氏も惣領高重とその子息二人、親類数名が和田方として討死を遂げるなど、叛逆の謗りを免れず、「渋谷庄(和田方に加わった澁谷氏の領所のみであろう)」も収公され、5月7日に「勲功」として「女房因幡局」へ与えられることとなった(『吾妻鏡』建暦三年五月七日条)。なお、この幕府女官「因幡局」がいかなる人物かは不明。女性のためおそらく一期分と推測され、その死後は北条氏領に組み込まれたと考えられる。

 高重の叛乱加担によって渋谷氏の勢力は急速に衰え、一族をまとめる強権的な惣領家も不在になったとみられ、その後の渋谷庶子家の独立へと繋がっていったと考えられる。

 承久元(1219)年7月19日、四代将軍となる藤原三寅(九條左大臣道家子)が午の刻に鎌倉の北条義時の大倉亭郭内南の新造御所に入るが、この三寅の供奉として「澁谷太郎」が御輿の左右の随兵に加わっている。

 しかし、その後重直の活躍を見ることはなく、承久3(1221)年6月の承久の乱では、子の「渋谷又太郎」「渋谷平太三郎」が6月14日の宇治合戦で奮戦している。

●承久の乱の宇治合戦交名(『吾妻鏡』承久三年六月十八日条)

敵を討つ 渋谷三郎 渋谷三郎重保(祁答院) 渋谷太郎光重の三男 二人手討ち
(一人萩野三郎)
渋谷権守太郎 渋谷権守太郎忠重 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子 二人
(内一人手打、一人生取)
渋谷又太郎 実名不明 渋谷太郎光重の長男、平太重直の長男か 一人手打ち
(出雲国神西庄司太郎)
渋谷六郎 渋谷六郎重貞(高城) 渋谷太郎光重の六男 一人郎等これを討つ
負傷 渋谷平太三郎 実名不明 渋谷太郎光重の長男、平太重直の三男  
渋谷権守六郎 実名不明 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子  
渋谷権守七郎 実名不明 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子  
討死 渋谷四郎 渋谷四郎重茂(大谷) 渋谷太郎光重の四男。鶴田氏の祖。 討死
渋谷権守五郎 実名不明 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子 討死

●渋谷氏略系譜

 渋谷重国―+―渋谷光重―+―渋谷重直―+―渋谷某  +―渋谷惟重―+―渋谷将重
(渋谷庄司)|(太郎)  |(平太)  |(又太郎) |(太郎)  |(孫二郎)
      |      |      |      |      |
      |      |      |      |      +―渋谷重光――渋谷政春
      |      |      |      |             (彦次郎)
      |      |      |      |
      |      |      +―渋谷重尚―+―渋谷重松―――渋谷行重
      |      |      |(次郎)   (又二郎)  (平二郎)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷某         +―渋谷時重【離念】
      |      |      |(平太三郎)       |(大夫)
      |      |      |             |
      |      |      +―渋谷朝重―――渋谷経景―+―渋谷定重
      |      |       (五郎)
      |      |
      |      +―渋谷実重―+―渋谷忠重
      |      |(安芸権守)|(太郎)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷重廣
      |      |      |(次郎)
      |      |      |        
      |      |      +―渋谷重頼―――渋谷重村
      |      |      |(三郎)   (三郎太郎)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷某
      |      |      |(五郎)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷某
      |      |      |(六郎)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷某
      |      |       (七郎)
      |      |【祁答院祖】         
      |      +―渋谷重保―+―渋谷重門―+―渋谷経重
      |      |(三郎)  |(太郎)  |(太郎)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―渋谷重文
      |      |      |       (次郎)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷師重―+―渋谷武重
      |      |       (次郎)  |(太郎左衛門尉)
      |      |             |
      |      |             +―渋谷胤重―――――渋谷重将
      |      |              (左衛門尉)   (六郎左衛門尉)
      |      |
      |      |【鶴田祖】
      |      +―渋谷重茂―+―渋谷重行―――渋谷頼重
      |      |(四郎)  |(左衛門尉) (五郎左衛門尉)
      |      |      |
      |      |      +―渋谷為重
      |      |       (左衛門尉)
      |      |
      |      |【入来院祖】
      |      +―渋谷定心―――渋谷明重
      |      |(五郎入道) (三郎)
      |      |
      |      |【高城祖】
      |      +―渋谷重貞
      |       (六郎)
      |
      +―渋谷高重―+―渋谷重氏
      |(次郎)  |(三郎)
      |      |
      |      +―渋谷重村
      |       (五郎)
      |
      +―渋谷時国
      |(四郎)
      |       【奥州渋谷氏】
      +―渋谷重資―――渋谷長重
      |(五郎)   (次郎)
      |
      +―渋谷重近【澁谷七郎入道道遍:法然上人弟子】
       (七郎)

浜田屋敷跡
浜田歴史公園(推定渋谷氏屋敷跡)

 平太重直は父・光重以来継承した相模国渋谷庄内の浜田屋形周辺を含む本領(高重らの所領は除く)を支配し、弟の次郎実重は屋形の東・渋谷早川郷(綾瀬市早川)、三郎重保は屋形の南・渋谷吉岡郷(綾瀬市吉岡)、四郎重茂は屋形の西・渋谷大谷郷、五郎房定心は菩提寺周辺の渋谷曾司郷、六郎重貞は大庭御厨に接する渋谷落合郷、七郎重近は渋谷石川郷(藤沢市石川)を本拠にそれぞれ支配した。なお、五郎房定心は曾司郷周辺を支配していることから、菩提寺管主を兼任していたのかもしれない。また七郎重近は念仏に傾倒し、出家してからは法然上人の直弟子として宇都宮頼綱入道、東六郎大夫胤頼入道らとともに京都に住んでいた。

 そのほか次郎実重以下の弟の系統は、宝治元(1247)年6月の宝治合戦の恩賞として、上総権介秀胤の薩摩国の没官領が与えられた。これは寛元4(1246)年の段階では薩摩国の所領は見られず、建長3(1251)年の段階では薩摩国に所領を有していることから、宝治合戦の恩賞であろうと推測される。ただし、本領は相模国渋谷庄内であり、鎌倉にもそれぞれ屋地を持っていた。実際に彼らが薩摩国へと下向したのは、おそらく元寇による西国御家人の催促によるものであろう。

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渋谷重保(????-????)

 渋谷太郎光重の三男。通称は三郎。官途は左衛門尉。法名は重巖。相模国澁谷庄吉岡郷(綾瀬市吉岡)を領した。薩摩祁答院氏の祖である。

 重保は光重の三男であるが、澁谷惣領家となっている。長兄の平太重直が早くに亡くなり、その子等はまだ若く一族の指揮を執るには力不足であったこと、次兄・実重が他家からの猶子(重國外孫)であったことから、重保が澁谷氏の惣領となったと思われる。ただし、長兄・重直の次男・次郎重尚を養嗣子としたとみられ、重尚が薩摩祁答院澁谷氏の祖となる。

 承久3(1221)年6月の承久の乱で活躍。二名を討ち取る軍功を立てた。

●承久の乱の宇治合戦交名(『吾妻鏡』承久三年六月十八日条)

敵を討つ 渋谷三郎 渋谷三郎重保(祁答院) 渋谷太郎光重の三男 二人手討ち
(一人萩野三郎)
渋谷権守太郎 渋谷権守太郎忠重 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子 二人
(内一人手打、一人生取)
渋谷又太郎 実名不明 渋谷太郎光重の長男、平太重直の長男か 一人手打ち
(出雲国神西庄司太郎)
渋谷六郎 渋谷六郎重貞(高城) 渋谷太郎光重の六男 一人郎等これを討つ
負傷 渋谷平太三郎 実名不明 渋谷太郎光重の長男、平太重直の三男  
渋谷権守六郎 実名不明 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子  
渋谷権守七郎 実名不明 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子  
討死 渋谷四郎 渋谷四郎重茂(大谷) 渋谷太郎光重の四男。鶴田氏の祖。 討死
渋谷権守五郎 実名不明 渋谷太郎光重の次男、安芸権守実重の子 討死

 安貞3(1229)年正月15日、御弓始に澁谷六郎が射手として抜擢されているが、この射手を見ると、得宗被官人(御内人)となっている御家人が多く選任されており、澁谷六郎も得宗被官であったと推測される。六郎の実名については、建長6(1254)年正月16日の御的始から澁谷六郎盛重であったことがわかる。系譜上の位置については不明。

 仁治元(1240)年8月2日、将軍・藤原頼経の二所参詣につき、その御駕の左右に伺候した。澁谷氏のこの車駕伺候は左衛門尉任官前の澁谷惣領家の先例となっている。

●仁治元年八月二日条供奉行列交名(『吾妻鏡』仁治元年八月二日条)

先陣
(十二騎)
佐原四郎左衛門尉 佐原六郎兵衛尉
葛西四郎左衛門尉 豊嶋小太郎
江戸太郎 小林三郎
和泉新左衛門尉 和泉五郎左衛門尉
千葉八郎 海上五郎
下河辺左衛門尉 太胡左衛門尉
駕籠 藤原頼経  
駕籠左右
(徒歩)
狩野五郎左衛門尉 武小次郎兵衛尉
平賀三郎兵衛尉 長兵衛三郎
渋谷三郎 俣野弥太郎
山城次郎兵衛尉 飯富源内
小河左衛門尉 加治左衛門尉

 仁治4(1243)年正月10日の御弓始では澁谷六郎(盛重)が射手となっている。

 寛元4(1246)年3月23日、執権の北条修理亮経時が病のために執権亭で「深秘御沙汰」があり、弟・左近将監時頼に執権職を譲ったが、閏4月1日の経時卒去に伴い、北条一族の名門・名越越後守光時(北条義時の孫)が時頼の執権就任に反対して密かに徒党を擁した。これに5月24日、「澁谷一族等、左親衛令警固中下馬橋」とあり、渋谷氏は頼経側近の御家人である一方で、得宗被官(御内人)であったことがわかる。この措置はすぐ北にある宇津宮御所の頼経入道に加担するものをここで取り押さえようということか。すると、御所に馳せ参じようとする狩野大宰少弐為佐がこの澁谷一族の警固に行く手を阻まれ、北条殿の味方となるならばお通ししようという言葉に激昂。乱闘騒ぎになっている。その後、名越光時ら一派は帰順。光時は伊豆へと流され、大御所頼経入道は京都へ送還されることとなった。これら一連の騒動を「寛元政変」という。

 澁谷重保はこの「寛元政変」の功績によるものと思われるが、寛元4(1246)年12月9日に伊勢国甲賀山の地頭職を得た。このとき重保はすでに出家して「澁谷三郎重保法師重嚴」と称し、伊勢国甲賀山に住していた(『入来院文書』)

 そして、この政変を引き金に、翌宝治元(1247)年、頼経入道と近い三浦氏と、三浦氏と対立関係にあった安達氏の間で紛争が勃発。北条時頼らが安達氏に肩入れしたことから頼朝挙兵以来の大族・三浦惣領家は滅亡する。これを宝治合戦という。澁谷氏は宝治合戦でも北条時頼の被官人として活躍をしたようで、おもに薩摩国西部に新恩を給わる事となる。重保自身の参戦があったかは不明だが、重保も祁答院を給わり、子孫は祁答院氏として薩摩国に発展する。

 建長元(1249)年2月1日の閑院内裏の焼亡につき、幕府は4月4日に得宗以下諸司、御家人ら幕府の負担での閑院内裏再建を奏上した。そして、 建長2(1250)年3月1日、京都に提出する造閑院殿雑掌についての注進書類が完成した(『吾妻鏡』建長二年三月一日条)。そのなかで、裏築地百九十二本のうち押小路に面する二十本の築地につき、二本を「澁谷三郎入道(重保)」が差配している。

 重保の六男は出家し重仏と称しているが(『桓武平氏諸流系図』中条文書「越後国奥山庄史料集」)、重仏(二郎入道)の娘は渋谷次郎重方に嫁し、鶴岡八幡宮寺の蓮華坊主となった円重大夫阿闍梨法印を生んでいる。円重は乾元2(1303)年5月18日、長尾三郎左衛門尉光景の子で蓮華坊(当時は西尊坊と改称されていた)主だった兵部阿闍梨円景の跡を継いで両界壇所供僧となり、嘉元4(1306)年9月4日、譲状に外題安堵を賜った(『鶴岡両界壇供僧次第』)

 正和4(1315)年11月14日、足利左馬助高義(足利家当主。足利尊氏の異母兄)から両界壇所供僧の安堵状を発給されている(『鶴岡両界壇供僧次第』)。両界壇所は足利上総介義兼の御願によって鶴岡八幡宮寺の上宮東廻廊に造営された両界曼荼羅を供養する施設で、足利家当主が代々供僧職を安堵していた。元弘3(1333)年6月10日、幕府滅亡を直前に帰寂した。六十一歳(『鶴岡両界壇供僧次第』)

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渋谷師重(????-????)

 渋谷吉岡三郎重保(入道重巌)の次男。通称は二郎。

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渋谷武重(????-????)

 渋谷次郎師重の長男。通称は太郎。官途は左衛門尉。法名は妙行(『入来院文書』七六)

 寛元元(1243)年7月17日、将軍家が突然御出することになった際に、供奉すべき御家人が対応できずに遅刻することがままあり、奉行人の煩いの基となっていた。そのためこの日、月の上旬・中旬・下旬で予め御家人を当番で割り当てておくこととした。その上旬の担当に「澁谷二郎大郎(武重)」が見える(『吾妻鏡』寛元元年七月十七日)

 寛元2(1244)年8月15日の鶴岡八幡宮寺の放生会では、御車の左右に直垂帯剣の装束の十一人が伺候したが、その中に「渋谷十郎経重」が見える。この御車左右伺候人は、澁谷三郎重保が抜擢されてから、澁谷氏においては澁谷惣領家に近い人物が選ばれる先例があることから、十郎経重も惣領家に近い人物であったことがうかがえる。また、宝治2(1248)年正月3日の埦飯供奉人の記述「帯剣直垂六位十人…以上候御車左右」から、六位の人物であったこともわかる。十郎経重は系譜に見られずいかなる人物かは不明だが、宝治2年正月の供奉では武重も「渋谷次郎太郎」としてこれに列しており、経重と武重は同様に将軍の側近であったと思われる。

 寛元4(1246)年3月、執権の北条修理亮経時が病のために弟・左近将監時頼に執権職を譲ったが、閏4月1日の経時卒去に伴い、北条一族の名門・名越越後守光時(北条義時の孫)が時頼の執権就任に反対して密かに徒党を擁した。これに5月24日、「澁谷一族等、左親衛令警固中下馬橋」とあり、渋谷氏は頼経側近の御家人である一方で、得宗被官(御内人)であったことがわかる。この措置はすぐ北にある宇津宮御所の頼経入道に加担するものをここで取り押さえようということか。すると、御所に馳せ参じようとする狩野大宰少弐為佐がこの澁谷一族の警固に行く手を阻まれ、北条殿の味方となるならばお通ししようという言葉に激昂。乱闘騒ぎになっている。このように、御所へ向かおうとする御家人、時頼に加担しようとする御家人が巷にあふれて大騒動となっていた。

 翌25日も、時頼は屋敷を御家人たちに固めさせて、御所との対立は頂点に達していた。ここに、御所から頼経入道側近の但馬前司定員が使者として時頼に面会を申し込んだ。しかし時頼は、屋敷へ入ることを拒絶し、御内人の諏訪兵衛入道尾藤太平三郎左衛門尉に対応させて追い払った。このような対立の中で、御所にあった越後守光時は家人の呼び出しに名越邸へ戻ると、にわかに剃髪。時頼に髪を提出して逆心のないことを訴えた。また、弟の尾張守時章、備前守時長、右近大夫将監時兼もそれぞれ時頼に謝罪し、事なきを得る。また、遠江修理亮時幸は病と称して出家を遂げている。そして、その断罪の対象は頼経入道の身辺にも及び、頼経入道の京都以来の側近・但馬前司定員は出家させられ、その子・兵衛大夫定範も同類として処罰された。

 5月26日、時頼の屋敷に右馬権頭政村、陸奥掃部助実時、秋田城介義景が呼び出され、内々に決せられることがあった。その詳細は伝わっていないが、おそらく挙兵を企てた名越光時の追放と、前将軍家の京都への追放について話し合われたと思われる。

 三浦義村―+―三浦泰村
(駿河前司)|(若狭前司)
      |
      +―三浦家村
      |(式部大夫)
      |
      +―娘
        ∥
       上総権介秀胤
      (上総権介)

 6月6日深夜、泰村の弟・駿河四郎式部大夫家村がひそかに時頼の側近・諏訪兵衛入道蓮佛のもとを訪れ、なにやら相談事をしたという。諏訪蓮佛は家村を屋敷に残して時頼邸を訪れ、この相談事を伝えているが、この往復は三度にも及んだという。明け方になって家村は諏訪邸をあとにした。家村の相談事は不明だが、頼経入道とは縁の深い三浦氏は、今回の騒動にはとくに加わっていないという弁明をしていたのかもしれない。また、今回の反乱に加担したとされている上総権介秀胤の妻は泰村・家村とは姉妹に当たるため、それについての弁解もあったと思われる。

 翌7日、時頼は、今回の騒動に頼経入道・名越光時方として加わった後藤佐渡前司基綱、狩野前大宰少弐為佐、上総権介秀胤、町野加賀前司康持評定衆から除く決定を下す。町野康持はさらに問注所執事の職も剥奪されている。これら一連の事件を「寛元政変」という。

 ただし、公家の葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、寛元4(1246)年6月6日、京都に関東からの飛脚が到来し、

六日癸巳、晴、…

今日関東飛脚到来、入道将軍御所警固之後、近習者定員被召籠、越後守光時出家配伊豆国、其舎弟修理亮ハ自害、又秀種追遣本国、其外香請降之輩、或召籠云々、是等時頼沙汰歟、衆口嗷々、天下紛々、夜闌参東山殿

 と伝えており(『葉黄記』寛元四年六月六日条)、これは『吾妻鏡』が伝える秀胤が評定衆を外された6月7日の前日となることから、実際に秀胤らが解職されたのは6月6日以前となり、『吾妻鏡』の記述は誤りとなる。

 一連の事件で、前将軍・藤原頼経入道京都へ送還されることが決し、頼経の実父・九条道家入道行慧(源頼朝の姪子)へは6月10日にはすでに伝えられているが、頼経送還の理由については「不知其由来」とあり、同意もしていない。また、「修調伏法、被呪詛武州経時」ともあることについても、頼経は一切行なっていないと弁明している(『九条家文書』)

義時法華堂
伝義時法華堂址(おそらく頼朝法華堂)

 ところが、この政変が落ち着いた直後の、宝治元(1247)年には、御家人筆頭の三浦一族と源家家人筆頭の安達一族との間での対立が表面化。6月5日、安達景盛入道は三浦泰村に対する兵を挙げる。この戦いは執権時頼すら開戦後に一報が伝えられるほど突然起こったもので、報告を得た時頼はただちに御所を守る手はずを整えて陸奥掃部助実時を派遣し、北条六郎時定を大手の大将軍として三浦党攻めに向かわせた。本来中立であった時頼が安達氏を是としたのは、景盛入道が外戚であったということと、三浦氏の勢力の大きさを警戒してのものだろう。執権が三浦氏追討に動いたことで御家人も次々に時頼のもとに参じ、泰村以下三浦一族は、御所北隣の頼朝の廟所である法華堂で自刃した。

 この翌日の6月6日には、三浦泰村の義兄弟・上総権介秀胤一族も上総国で幕府勢に攻められ、秀胤は猛火の中で自害した。この猛火は建物などに油を撒いて自ら放火した火災によるもので、火災旋風が巻き上がるほどの熱が周囲を覆い、寄手も数町引き上げるほどであったという。

 この宝治合戦の恩賞として、澁谷一族には上総権介秀胤領であった薩摩国の没官領のうちから恩賞が宛がわれ、薩摩澁谷党発展の礎となる。

  建長元(1249)年2月1日の閑院内裏の焼亡につき、幕府は4月4日に得宗以下諸司、御家人ら幕府の負担での閑院内裏再建を奏上した。そして、 建長2(1250)年3月1日、京都に提出する造閑院殿雑掌についての注進書類が完成した(『吾妻鏡』建長二年三月一日条)。そのなかで、裏築地百九十二本のうち押小路に面する二十本の築地につき、二本を「澁谷三郎入道」が差配することとなった。この「澁谷三郎入道」は寛元4(1246)年12月9日に寛元政変の恩賞で伊勢国甲賀山の地頭職を得た澁谷三郎重保法師(重嚴)であろう(『入来院文書』)

 12月27日、近習結番が定められ、六番(巳亥の担当)十六名の一人に「澁谷次郎太郎(武重)」が抜擢された(『吾妻鏡』建長二年十二月廿七日条)

 建長3(1251)年正月20日の将軍家二所詣に際し、御籠の左右に伺候した「澁谷二郎太郎武重」が見える。

 建長4(1252)年4月14日の三品宗尊親王(後嵯峨天皇子)の鶴岡八幡宮寺の参詣に際し、御籠の左右に伺候する直垂帯刀の士の一人として「澁谷二郎太郎武重」が見える。四か月後の8月1日、将軍宗尊親王の鶴岡八幡宮寺拝賀は中止となったが、予定供奉人の散状は作成され、そこに「澁谷左衛門尉」として記録されていることから、このときまでに左衛門尉に任官したことがわかる。

 9月25日、将軍家の鶴岡八幡宮寺の仁王会に際し、供奉人として「澁谷左衛門尉武重」が見える。11月11日の新御所移渉に際しては、御車の左右に伺候した。そして翌12日、将軍への申次を行う問見参結番が定められ、武重は二番(辰戌の担当)に選ばれた。12月17日の鶴岡八幡宮寺の参詣でも御車の左右に伺候するが、翌建長5(1253)年正月16日に定められた21日の鶴岡八幡宮寺参詣供奉人については、車後につく「布衣」の御家人中に「澁谷左衛門尉武重」が選ばれており、地位の上昇が見られる。さらに、8月15日の鶴岡八幡宮寺放生会の際の供奉では「先陣随兵」に抜擢されている。

 建長6(1254)年正月16日に行われる御的始の射手の選任に当たっては、「一番」に「澁谷六郎(盛重)」の名が見える(『吾妻鏡』建長六年正月四日条)。彼は安貞3(1229)年正月15日の御弓始、仁治4(1243)年正月10日の御弓始にも射手として選任されており、弓の手として名高い人物だったことが伺える。

 閏5月1日の御所における相撲では、三番手に「澁谷太郎左衛門尉」と「検牧(検仗)中務三郎」の取組が行われ、両者引かずに引き分けとなった。

 6月15日夕刻から始まった理由のわからない鎌倉中の騒動に際しては、御家人らが次々に御所へ集まり始めた。臨時の群参であったが、着到状に氏名が書かれることとなり、着到には「澁谷次郎左衛門尉」の名が記された。武重の弟か

 また、建長8(1257)年正月4日早朝、執権相模守時頼は御的始の射手として指名し、領状を申した交名を見た。ここに見える多くが御内人であるが「澁谷三郎左衛門太郎(朝重)」がここに列している。

 この交名だけでは決め難かった時頼は、1月9日に改めて御的の射手を選ぶため、選抜した十八人を由比ガ浜に集め、射手の技能会を行った。この八番手として列した「澁谷左衛門太郎」は御内人として時頼に伺候していたことから、時頼のめがねに適っていたのだろう。翌10日、時頼亭における評定始で御的始を13日と決定し、射手十人を選抜。十三日卯刻以前に御所東御門の陣屋に参上することが定められた。朝重は四番の射手としてこれに列する栄誉を受けた。

●建長八年御的始射手十名(『吾妻鏡』建長八年正月十三日条)

一番 早河次郎太郎祐泰 平嶋彌五郎助経
二番 横溝七郎五郎忠光 多賀谷彌五郎景茂
三番 河野五郎兵衛尉行眞 工藤八郎四郎朝高
四番 藤澤左近将監時親 澁谷左衛門太郎朝重
五番 海野矢四郎資氏 岡本新兵衛尉重方

 建長8(1256)年8月15日の放生会では「澁谷左衛門尉武重」は後陣随兵に加えられた。

 康元2(1257)年2月2日の鶴岡八幡宮寺参詣に際しては、「六位十三人」の随兵として澁谷左衛門尉武重が見える。8月16日の放生会に伴う競馬においては、一族の「澁谷右衛門三郎」が選ばれ、秦種久と競うこととなった。ただしこの「競馬」は疾走する馬上で組み合う力比べであり、澁谷三郎は先を走る秦種久を追い、種久を捉えて脇に挟んだ。ところが種久はわざと馬から離れるや澁谷三郎の腰を取って馬から引きずり落とすという荒業を為した。種久の業は故実にあるもののようで、観覧する人々はこの勝負に大いに沸いた(『吾妻鏡』康元二年八月十六日条)

 正嘉2(1258)年正月1日の時頼禅門が沙汰の埦飯では、幕府の上級御家人が寝殿南庭に東西に分かれて居並ぶが、「澁谷太郎左衛門尉(武重)」はそのうち西座に加えられた。ほかに澁谷氏は列しておらず、この頃の澁谷氏惣領家は武重であったことは明白である。正月6日には、御的始の射手として「澁谷左衛門太郎(朝重)」がノミネートされている。

 3月1日の将軍宗尊親王の二所詣にあたっては、御駕脇の左右の帯刀として「澁谷太郎兵衛尉」が見える。彼の続柄は不明ながら、初期の武重と同様に駕篭脇に伺候していることから、武重の嫡男か。

 正元2(1260)年正月12日に由比ガ浜で行われた御的射手の選別では、十三人が選抜され「澁谷左衛門太郎(朝重)」は十射中八矢を的中させている。その結果、朝重は正式に射手に選ばれ、14日の御的始では十射二回のうち、両回ともに七矢を的中させている。

 正月20日には、御所に置かれる昼番衆の結番が定められた。これは「歌道・蹴鞠・管弦・右筆・弓馬・郢曲」のうち一芸に秀でた御家人をつねに御所内に配置しておくもので、突然の御要の際にその道に秀でた人物がいないという事態を防ぐ目的であった。「澁谷左衛門太郎朝重」は一番(子午の担当)に抜擢されてており、彼の一芸はいうまでもなく弓術であったろう。

 また、同様に六番には「澁谷三郎太郎重村」が加えられている。彼は澁谷次郎実重の三男・三郎重頼の嫡男で、武重の又従兄弟にあたる人物であるが、彼がとくに期待された技能は不明。

 澁谷重国――澁谷光重―+―澁谷実重―――澁谷重頼―――澁谷重村
(澁谷庄司)(太郎)  |(次郎)   (三郎)   (太郎)
            |
            +―澁谷重保―+―澁谷師重―+―澁谷武重
            |(三郎)  |(次郎)  |(太郎左衛門尉)
            |      |      |
            |      |      +―澁谷胤重――――澁谷重将
            |      |       (左衛門尉)  (六郎左衛門尉)
            |      |
            |      +―澁谷範重―+―澁谷重綱
            |       (小三郎) |(次郎)
            |             |
            |             +―澁谷重長
            |              (五郎)
            |
            +―澁谷重茂―+―澁谷重行―――澁谷頼重
             (四郎)  |(左衛門尉) (五郎左衛門尉)
                   |
                   +―澁谷為重
                    (左衛門尉)

 文応2(1261)年正月9日、御的始射手の試射が由比ガ浜で行われ、「澁谷新左衛門尉(朝重)」が射手として列した。正月14日の御的始では五番射手として「澁谷新左衛門尉朝重」が抜擢された。朝重は文応元(1260)年後半から文応2(1261)年正月までの間に「左衛門尉」に任官したことがわかる。なお、鎌倉時代の澁谷氏は「左衛門尉」に任官できる家は決まっていた様子で(『入来院系図』)、祁答院氏の祖・澁谷三郎重保の直系である次郎師重の子孫と、重保の次弟で鶴田澁谷氏祖・澁谷四郎重茂(承久の乱で討死)の子孫が該当する。

 弘長元(1261)年5月13日、昼番のため広御所(大御所か)に詰めていた武重は、佐々木壱岐前司泰綱との間で口論となった。原因は泰綱が武重に言った「為大名」という一言であった。泰綱と武重の間にもともと遺恨があったのかは不明。泰綱にしてみれば先祖が世話になったことに対する軽口だったのかも知れないが、武重はこの発言を皮肉と捉えた。武重は、

「已 亘嘲哢之詞也、於当時全非大名、先祖重國号澁谷庄司者、誠相摸国大名内也、然間貴辺先祖佐々木 判官定綱于時号太郎、牢篭之当初者、到重國之門、寄得其扶持、子孫今為大名歟」

と、泰綱の祖・佐々木定綱が武重の祖・澁谷庄司重國の庇護あってこそ、泰綱は今大名の地位となることができたのだと反論した。これに対して泰綱は、

「東国大少名并澁谷庄司重國等、皆官平氏、莫不蒙彼恩、顧当 家独不諛其権勢、棄譜代相伝佐々木庄、偏運志於源家、遷住相摸國、尋知音之好、得重國以下之助成、継身命、奉逢于右大将軍草創御代、抽度々之勲功、兄弟五人之間、令補十七ヵ国守護職、剩面々所令任受領検非違使也、昔窂籠更非恥辱、還可謂面目之、始重國以秀義為聟之間、令生隠岐守義淸訖、被用聟之上者、非馬牛之類、為人倫之條勿論歟、此上今過言頗荒凉事歟」

とまくし立てた。列座の御家人たちもこの口論を眺めながらも、口出しするものはなかった。ただ、泰綱は武重の言い分に対して的確な返答をしていない

 武重は泰綱の祖・定綱を澁谷重國が庇護したからこそ、佐々木氏の今の地位にあるのだぞと釘を刺しているのみであるにも関わらず、泰綱は、佐々木氏は重國も仕えた平氏の権勢に一人反駁して佐々木庄を捨てて相模国に移住し、重國らの助成をもって命をつなぎ、頼朝挙兵以降は数々の戦いで軍功を挙げたために大名となったのだ。昔の窂籠など却って面目である。秀義は重國の聟となったのであれば、もはや重國の家子郎等でもない。と若干的外れな反駁を行っている。泰綱は自身が持つ澁谷氏に対する負目を指摘されたことで、ここまで自家を賞賛する反駁を行ってしまったのかもしれない。

 その後、武重に関する記述はみられず、代わって澁谷太郎左衛門尉朝重が主に幕府の行事に列することとなる。

 正安3(1302)年12月24日、「澁谷次郎太郎入道妙行」が「鎮西」から下知状を受けて、薩摩国入来院との堺、一野、河床、中木庭村の知行を受けている(『入来院文書』七六)。このころ武重はすでに入道して薩摩国へ下っていたことがわかる。また、その子、孫は伝わらないが、曾孫に「平重利」がおり、薩摩国祁答院の一分地頭となっていたことが窺える。

 澁谷重國――澁谷重保――澁谷師重――澁谷武重――■■――■■――澁谷重利
(澁谷庄司)(三郎)  (次郎)  (次郎太郎)

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澁谷朝重(????-????)

 澁谷三郎左衛門尉(胤重か)の子。通称は太郎。官途は左衛門尉

 澁谷師重―+―澁谷武重
(次郎)  |(太郎左衛門尉)
      |
      +―澁谷某
      |(次郎左衛門尉)
      |
      +―澁谷胤重――――+?―澁谷朝重
      |(三郎左衛門尉?)| (太郎左衛門尉)
      |         |
      +―澁谷重行    +――澁谷将重
       (五郎)       (六郎左衛門尉)
               

 父の澁谷三郎左衛門尉の実名は不明だが、建長8(1257)年当時にはすでに左衛門尉に任官している。おそらく太郎左衛門尉武重の弟に当たる人物と推測される。系譜上では、武重の弟には左衛門尉胤重、五郎重行がみられるが(『入来院文書』)、この胤重が左衛門尉に任官しており、彼が三郎の可能性があろう。

 なお、随兵や供奉等には太郎左衛門尉武重のみで三郎左衛門尉はみられないこと、三郎左衛門尉を差し置いて朝重が出現していることから、朝重の父・澁谷三郎左衛門尉(胤重?)は建長4(1252)年から建長8(1257)年の間に卒去した可能性が高い。

 武重に嫡子がいなかったためか、朝重は早くから幕府に出仕しており、建長8(1257)年正月4日早朝、執権相模守時頼が御的始の射手を領状した御家人の交名を見た。ここに見える多くが御内人であるが「澁谷三郎左衛門太郎(朝重)」もおそらく御内人であったろう。この交名だけでは決めかねた時頼は、正月9日に改めて御的の射手を選ぶため、選抜した十八人を由比ガ浜に集め、射手の技能会を行った。この八番となった「澁谷左衛門太郎(朝重)」は、十人の射手に選ばれ、13日の御的始に四番の射手として列する栄誉を受けた。

●建長八年御的始射手十名(『吾妻鏡』建長八年正月十三日条)

一番 早河次郎太郎祐泰 平嶋彌五郎助経
二番 横溝七郎五郎忠光 多賀谷彌五郎景茂
三番 河野五郎兵衛尉行眞 工藤八郎四郎朝高
四番 藤澤左近将監時親 澁谷左衛門太郎朝重
五番 海野矢四郎資氏 岡本新兵衛尉重方

 正嘉2(1258)年正月6日には、御的始の射手として「澁谷左衛門太郎(朝重)」が選ばれている。

 正元2(1260)年正月12日に由比ガ浜で行われた御的射手の選別では、十三人が選抜され「澁谷左衛門太郎(朝重)」は十射中八矢を的中させている。その結果、朝重は正式に射手に選ばれ、14日の御的始では十射二回のうち、両回ともに七矢を的中させている。

 正月20日には、御所に置かれる昼番衆の結番が定められた。これは「歌道・蹴鞠・管弦・右筆・弓馬・郢曲」のうち一芸に秀でた御家人をつねに御所内に配置しておくもので、突然の御要の際にその道に秀でた人物がいないという事態を防ぐ目的であった。「澁谷左衛門太郎朝重」は一番(子午の担当)に抜擢されてており、彼の一芸はいうまでもなく弓術であったろう。

 文応2(1261)年正月9日、御的始射手の試射が由比ガ浜で行われ、「澁谷新左衛門尉(朝重)」が射手として列した。正月14日の御的始では五番射手として「澁谷新左衛門尉朝重」が抜擢された。朝重は文応元(1260)年後半から文応2(1261)年正月までの間に「左衛門尉」に任官したことがわかる。なお、鎌倉時代の澁谷氏は「左衛門尉」に任官できる家は決まっていた様子で(『入来院系図』)、祁答院氏の祖・澁谷三郎重保の直系である次郎師重の子孫と、重保の次弟で鶴田澁谷氏祖・澁谷四郎重茂(承久の乱で討死)の子孫が該当する。

  弘長3(1263)年正月8日に由比ガ浜で行われた御的始の選抜会に二番の「澁谷新左衛門尉(朝重)」と並んで、六番「澁谷左衛門四郎(清重)」が名を連ねた。両者ともに御的始の射手に選ばれており、清重もまた澁谷氏伝来の弓術に長けた人物だったことがわかる。

●弘長三年御的始射手試射十八名(『吾妻鏡』弘長三年正月八日条)

一番 山城三郎左衛門尉 早河次郎太郎
二番 渋谷新左衛門尉 横地左衛門次郎
三番 伊東與一 富士三郎五郎
四番 松岡左衛門四郎 平島彌五郎
五番 伊東新左衛門尉 小沼五郎兵衛尉
六番 小嶋彌五郎 渋谷左衛門四郎
七番 栢間左衛門次郎     本間対馬次郎兵衛尉
八番 落合四郎左衛門尉 神林兵衛三郎
九番 早河六郎 下山兵衛太郎

●弘長三年正月十二日御的始射手十二名(『吾妻鏡』弘長三年正月十日条)

一番 山城三郎左衛門尉親忠 早河次郎太郎祐泰
二番 横地左衛門次郎師重 対馬次郎兵衛尉忠泰
三番 澁谷右衛門四郎清重 伊東与一祐頼
四番 小沼五郎兵衛尉孝幸 早河六郎祐頼
五番 松岡左衛門四郎時家 富士三郎五郎員時
六番 澁谷新左衛門尉朝重 平嶋弥五郎助経

  文永2(1265)年正月12日、文永3(1266)年正月11日の御的始にも朝重は列しているが、その後『吾妻鏡』は記述がなく、その後の朝重の活動は不明である。ただし、「澁谷左衛門次郎清重(左衛門四郎、右衛門四郎ともあり記述に混乱があるが、左衛門四郎であろう)」は将軍宗尊親王に近侍し、文永3(1266)年7月の宗尊親王の執権時宗排斥の計画が発覚して、鎌倉に御家人らが大挙して押し寄せた騒擾(鎌倉騒動)の中、前月にはすでに情報を掴み、宗尊親王更迭を決定していた時宗ら幕閣首脳の迅速な対応で、7月3日、将軍宗尊親王は御所から執権亭へ移った。ところが、その際には「可然人々参営中、奉守護之歟」と、近習たちは将軍に近侍すべきであるのに、今回は「朝馴暮老近臣之類、皆出」と、御所を退出してしまったことで人々は訝しんだ。これはもちろん執権時宗の指示であるが、中には気骨のある近習もおり、周防判官忠景、信濃三郎左衛門尉行章、伊東刑部左衛門尉祐頼、鎌田次郎左衛門尉行俊、渋谷左衛門次郎清重が御所に残ったという。これを見ると、清重は御内人ではなく将軍家近臣であったと思われることから、御内人の朝重との直接的な血縁関係はないと見られる。

 こうして宗尊親王によるクーデタは失敗に終わり、戌の刻には宗尊親王以下の公家、女房衆らは越後入道勝円の佐助亭に移され、7月8日に上洛させられた。事実上の鎌倉追放であった。この騒擾では、7月4日に名越中務権大輔教時が数十騎を率いて薬師堂谷亭から塔辻宿所へ移ったために人々がさらに騒ぎたて、執権時宗は東郷八郎入道(澁谷八郎入道)を派遣してこれを叱責するという椿事も起きている。

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澁谷恒重(????-????)

 通称は十郎。相模国澁谷庄の澁谷惣領家で得宗被官人(御内人)「澁谷小馬十郎」と称し、相模国澁谷庄内恩馬郷に本拠を持っていたと思われる。恩馬郷は三郎重保入道の系に伝えられていたようで、澁谷太郎左衛門尉武重の系統と推測される。

 文永8(1271)年には時宗領国(得宗御分国)である若狭国の「御代官(守護代)」に任じられた。ただし、恒重は在倉であったため、代官として「一門八郎太郎重尚」を派遣してこれを支配している。重尚の次の代は「小馬政家」、さらにその子「三栖三郎家継」が任じられている。小馬政家は澁谷庄恩馬郷の澁谷氏被官と思われる。

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澁谷宗重(????-????)

 通称は十郎。相模国澁谷庄の澁谷惣領家で得宗被官人(御内人)。得宗時宗の偏諱を受けて「宗重」を名乗っていると思われる。

 嘉元3(1307)年から延慶2(1309)年の二年間、陸奥守宣時(このときはすでに出家)の分国となっていたようで、宗重が御代官となっている。ただし宗重は在倉であったので、おそらく代官が派遣されていたと思われる。宗重が若狭国御代官に任じられた同年の嘉元3(1307)年5月、鎌倉で北条時宗の忌日である四日に行われる大斎の結番(得宗被官人)が定められており、この五番に「澁谷十郎入道」が見えるが、おそらく宗重であろう。六番に見える「澁谷六郎左衛門尉」も得宗被官の澁谷一族である。

●徳治2(1307)年5月『相模円覚寺毎月四日大斎番文』(『鎌倉遺文』)

     (花押:北条貞時)   円覚寺毎月四日大斎結番事
 一 番
         泉谷

  長崎左衛門尉(高綱)   長崎木工左衛門尉
  周防前司         嶋田民部大夫入道(行兼)
  安東四郎右衛門入道    足立源左衛門入道
  諏方六郎左衛門尉     合田四郎左衛門尉

 二 番

  工藤次郎右衛門尉(貞祐) 粟飯原左衛門尉
  葛山左衛門尉       大瀬三郎左衛門尉(惟時)
  本間太郎左衛門尉     合田五郎左衛門尉(遠貞)
  吉岡四郎左衛門尉     高柳三郎兵衛尉

 三 番

  大蔵五郎入道       長崎宮内左衛門尉
  越中局          大森右衛門入道
  広沢弾正左衛門尉     大瀬次郎左衛門尉
  葛山六郎兵衛尉      岡村五郎左衛門尉(資行)

 四 番

  伊具三郎左衛門入道    小笠原孫次郎(宗長)
  佐介殿          長崎三郎左衛門入道(思元)
  土肥三郎左衛門尉     下山刑部左衛門入道
  塩飽三郎兵衛尉      佐野左衛門入道

 五 番

  武田伊豆守(時綱)    万年馬入道
  武田七郎五郎       渋谷十郎入道
  粟飯原後家        亘理四郎左衛門尉(亘理胤継)
  但馬新左衛門尉      斎藤図書左衛門尉

 六 番

  工藤三郎右衛門尉     桑原新左衛門尉(高近)
  讃岐局          渋谷六郎左衛門尉
  荻野源内左衛門入道    浅羽三郎左衛門尉
  蛭川四郎左衛門尉     千田木工左衛門尉

 七 番

  安東左衛門尉(高貞)  工藤右近将監
  佐介越前守(貞房)   南條中務丞
  小笠原四郎       曾我次郎左衛門尉
  工藤左近将監      千竃六郎

 八 番

  諏方左衛門尉      塩飽右近入道
  主税頭         諏方三郎左衛門尉
  安保五郎兵衛入道    五大院太郎右衛門尉(高繁)
  本間五郎左衛門尉    岡田十郎

 九 番

  尾藤左衛門尉        長崎四郎左衛門尉(泰光)
  神四郎入道(了義)     渋川次郎左衛門入道
  安東平内右衛門入道(道常) 工藤治部右衛門尉
  内嶋四郎左衛門尉      諸岡民部五郎

 十 番

  長崎左衛門尉      尾藤六郎左衛門尉
  長崎後家        権医博士
  狩野介         尾張権守
  矢野民部大夫      粟飯原右衛門四郎

 十一番

  南條左衛門尉      岡村太郎右衛門尉
  尾藤五郎左衛門尉    武藤後家
  中三中務入道      佐藤宮内左衛門尉
  万年新馬允       矢田四郎左衛門尉

 十二番

  工藤右衛門入道(景禅) 五大院左衛門入道
  出雲守         妙鑑房
  武田弥五郎       諏方兵衛尉
  内嶋後家        水原図書允

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
 
   徳治二年五月 日

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澁谷重光(????-????)

 通称は三郎か。官途は遠江権守(遠江守)。相模国澁谷庄の澁谷惣領家で得宗被官人(御内人)

  元亨4(1324)年8月から北条高時領国(得宗御分国)の若狭国御代官(守護代)に任じられた人物に「小馬三郎」がおり、その代官として「和久二郎頼基」が任じられた。また、「小馬三郎」が御代官に任じられた翌月の9月2日から「澁谷遠江守重光」若狭国今富領主となり、代官も守護代の代「和久刑部左衛門尉頼基」であった。さらに、若狭国御代官の澁谷氏は相模国澁谷庄恩馬郷の地頭職の人物であるが、重光も恩馬郷と重なる河内郷の地頭であることから、「小馬三郎」は重光であると考えられる。

 元弘元(1331)年8月、後醍醐天皇の討幕計画発覚による笠置山(京都府相楽郡笠置町)行幸と、六波羅探題による笠置山攻めが起こった。このような中で河内国の楠木兵衛尉正成(得宗被官人と推測されている)が御所方を称して赤坂山に砦を構えて立て籠もった。六波羅探題は放置できない状況と判断し、鎌倉に援軍を依頼。これを受けた得宗高時入道は承久の先例に従い直ちに軍勢を派遣すべしとて、9月20日に公称「二十万八千六百余騎」の大軍が鎌倉を出立した。その中に「澁谷遠江権守」がおり、一手の大将として参戦していたことがわかる。

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

 
     楠木城
   一手東 自宇治至于大和道

  陸奥守(大佛貞直)
  小山判官(小山秀朝)
  佐々木備中前司     
  武田三郎(武田政義)
  諏訪祝         
  島津上総入道(島津貞久)
  大和弥六左衛門尉    
  加地左衛門入道(加地安綱)
  
 
 
 
 
  河越参河入道(河越貞重)
  佐々木近江入道
  千葉太郎(胤貞)
  小笠原彦五郎
  高坂出羽権守
  長崎四郎左衛門尉(長崎高重)
  安保左衛門入道
  吉野執行
   一手北 自八幡于佐良□路

  武蔵右馬助(金沢貞冬)
  千葉介(千葉介貞胤)     
  小田人々        
  伊東大和入道      
  薩摩常陸前司      
  湯浅人々
 

 
  駿河八郎(北条時邦?)
  長沼駿河権守(長沼秀行)
  佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀)
  宇佐美摂津前司
  □野二郎左衛門尉
  和泉国軍勢
 
   一手南西 自山崎至天王寺大路

  江馬越前入道(江馬時見か?)
  武田伊豆守
  渋谷遠江権守
  狩野介入道

 
  遠江前司(名越貞家)
  三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明)
  狩野彦七左衛門尉
  信濃国軍勢
 
   一手 伊賀路

  足利治部大夫(足利高氏)
  加藤丹後入道
  勝間田彦太郎入道
  尾張軍勢
 

  結城七郎左衛門尉
  加藤左衛門尉
  美濃軍勢
 
 
   同十五日
 
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参    同十六日
 
  中村弥二郎 自関東帰参
 

 

 この叛乱は幕府勢によって鎮圧され、12月27日には幕府によって後醍醐上皇の隠岐国配流がに奏請され、元弘2(1332)年3月7日、後醍醐上皇は隠岐国へと流された。

 しかし、畿内にくすぶる後醍醐上皇方の勢力は、これまで名の知られていないような地方豪族を中心に広まり、8月には播磨国佐用庄赤松次郎入道円心が兵を挙げ、西国からの道を塞いだ。これらの蜂起が関東に報ぜられると、高時入道はふたたび追討軍の派遣を決し、北条一門はもとより関東の諸大名のうちから然るべき者を大将として遣わすことを指示。公称三十万七千五百余騎という大軍が派遣され、9月20日に鎌倉を発した。このときにも「澁谷遠江権守」が一族を率い「大将軍」の一人として京都へ向かっている。

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

 
     大将軍
 
  陸奥守(大佛貞直) 遠江国
  遠江守(名越宗教) 尾張国
  駿河左近大夫将監(北条時邦) 讃岐国
  足利上総三郎(吉良満義)
  長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国
  佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀) 備前国
  越衆御手 信濃国
  小田尾張権守 一族
  武田三郎(武田政義) 一族并甲斐国
  伊東大和入道 一族
  薩摩常陸前司 一族
  渋谷遠江権守 一族
  三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明)
  佐々木隠岐前司 一族
  千葉太郎(千葉胤貞)
 
    勢多橋警護
 
  佐々木近江前司(佐々木貞清)
 
 
 
 
  武蔵右馬助(金沢貞冬) 伊勢国
  武蔵左近大夫将監(金沢時顕) 美濃国
  足利宮内大輔(足利高氏?) 三河国
  千葉介(千葉介貞胤)  一族并伊賀国
  宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国
  小笠原五郎 阿波国
  小山大夫判官(小山秀朝) 一族
  結城七郎左衛門尉 一族
  小笠原信濃入道 一族
  宇佐美摂津前司 一族
  安保左衛門入道 一族
  河越参河入道(河越貞重) 一族
  高坂出羽権守
  同備中前司
 
 
 
 
  同佐渡大夫判官入道(佐々木高氏)
 

 しかし、元弘3(1333)年閏2月下旬、後醍醐上皇が隠岐国を脱出したことにより情勢は一変し、各地の上皇方が勢いづいた。これに幕府は名越越後守高家大手大将軍足利治部大輔高氏搦手大将軍として派遣する。ところが、名越高家は久我畷で討死、足利高氏も丹波国篠村で反旗を翻したことで六波羅勢は浮き足立ち、六波羅探題の北条左近将監時益北条越後守仲時は探題屋敷に火を放ち、花園天皇以下皇族を奉って東へ向かった。しかし、時益は六波羅で討死。仲時は近江国まで遁れたものの、頼りの近江守護・佐々木判官時信が寝返ったことで東下を断念。伊吹山近く番場宿にあった法華寺で仲時一行四百三十二人は自害して果てた。

 澁谷遠江権守重光がこの一連の合戦にどのように加わっていたのかは定かではないが、最後まで幕府側に立って殉じたとみられ、重光の領であった澁谷庄河内郷は収公され、建武元(1334)年4月10日、三浦介時継入道道海へと与えられた。

●建武元(1334)年4月10日『足利直義宛行状』(『宇都宮文書』)

  可令三浦介時継法師法名道海、領知武蔵国大谷郷下野右近大夫将監跡
  相模国河内郷渋谷遠江権守跡、地頭職事
 
 右、為勲功賞所宛行也者、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件、
 
  建武元年四月十日
                  左馬頭源朝臣(直義花押)

 これ以降の相模国澁谷庄における澁谷氏の活動は見られず、その後の動向は不明である。


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