畠山氏・小山田氏


■畠山氏■

◎畠山・小山田氏略系図◎
 
           足立遠元―――娘
          (右衛門尉)  ∥
                  ∥――――重秀(小次郎)
                  ∥   
畠山重弘―+―畠山重能―+――――畠山重忠――重慶(阿闍梨)
     |(畠山庄司)|   (次郎)
     |      |     ∥――――重保(六郎)
     |      |北条時政―娘   
     |      |
     |      +―長野重清
     |      |(三郎)
     |      |
     |      +―畠山重宗
     |       (六郎)
     |
     +―小山田有重―――――+―――――稲毛重成 
     |(小山田別当)    |    (三郎)  
     |           |      ∥―――小沢重政
     +―娘(千葉介常胤妻) |北条時政――娘  (次郎)
                 |
                 +―榛谷重朝―――+―重季
                 |(四郎)    |(太郎)
                 |        |
                 +―小山田行重  +―秀重
                  (五郎)     (次郎)

秩父重弘(????-????)


 秩父重綱の長男。義母は兒玉行経の娘。妻は武蔵七党の横山孝兼の娘。通称は太郎大夫。

 武蔵国大里郡畠山庄(埼玉県大里郡川本町畠山)に住んで畠山氏の祖となりました。彼は秩父氏の長男でありながら、家督は弟・重隆に継承されたようで、彼の子・重能は重隆を討ち取った源義平の軍勢に参加していました。

 彼の娘2人は千葉介常胤と豊島常清に嫁ぎ、常胤との間には、千葉胤正・相馬師常・武石胤盛・大須賀胤信・国分胤通・東胤頼の6人が生まれています。また、常清との間には葛西清重が生まれています。

畠山重能(????-????)


 秩父重弘の嫡男。通称は畠山庄司。母は横山孝兼の娘。

 武蔵国男衾郡畠山庄(埼玉県大里郡川本町畠山)の庄司で、秩父氏の長男の系統でありながら家督を継げなかったため、惣領の秩父重隆に敵意を抱いていたようです。重隆は源為義の次男・源義賢(前帯刀先生)を娘婿として推戴し、義賢も秩父氏を後ろ盾として比企郡大倉郷に館を構えて北関東に勢力を拡大していきました。これを苦々しく見ていたのが、義賢の異母兄・源義朝の長男で、相模国鎌倉に住んでいた源義平でした。

 久寿2(1155)年、義平は義賢の追討を計画し、兵を集めて比企郡に攻め入りました。このとき、重能も義平の軍勢に加わって大倉館に攻め入り、義賢・重隆を討ち果たしました。しかし、そのころには家督は河越庄に住んでいた嫡男・河越重頼に継承されていたようで、結局、重能は武蔵国留守所惣検校職に就任することはできませんでした。

 平治元(1159)年12月の「平治の乱」で源義朝が敗れて討たれ、翌永暦元(1160)年に平知盛が武蔵国の知行国守となると、重能・有重兄弟は積極的に平知盛に仕えていったようで、天台座主・慈円大僧正(九条兼実の弟)が記した『愚管抄』には、

「平家世ヲ知リテ久シクナリケレバ、東国ニモ郎等多カリケル中ニ、畠山荘司、小山田別当ト云フ者、兄弟ニテアリケリ。」

と記されており、京都では惣領である河越重頼よりも重能・有重兄弟が平家の郎党として知られていました。このころ重能は、平知盛の力を背景として実質的な武蔵国の武士団の棟梁的な立場にあったと考えられます。また、同族の江戸重長も、平家の郎党として武蔵国南部に勢力を広げていたようで、『吾妻鏡』の治承4(1180)年9月28日の項に、

「御使を遣はして、江戸太郎重長を召さる。景親が催しによつて、石橋合戦を遂ぐること、その謂れありといへども、令旨を守りて相従ひたてまつるべし。重能・有重は折節在京す。武蔵国においては、当時汝すでに棟梁たり。専らたのみ思しめさるるの上は、便宜の勇士等を催し具して、余参すべきの由と云々」

とあり、重能がいないから重長が棟梁である、つまり、頼朝は重能・有重が武蔵国の棟梁であったと考えていたことがわかります。

 治承4(1180)年7月、大番役のために弟・有重とともに上洛しましたが、京都についた直後、伊豆で源頼朝が挙兵しました。さらに信州木曽で挙兵した木曽義仲も北陸に攻め入って越後の国府を占領し、加賀にまで攻めてきたため、在京中であった重能・有重兄弟と宇都宮朝綱は内大臣・平宗盛の命に従って今井兼平の軍勢と合戦しています。『平家物語』によれば、

「木曽殿の方より、今井四郎兼平、先づ五百余騎にて馳せ向かう。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これらは大番役にて、折節在京したりけるを、大臣殿『汝等は故い者なり。軍の様をも掟てよ』とて、今度北陸へ向けられたり。彼等兄弟三百余騎で打向ふ。」

とあり、戦いは今井・畠山両軍に相当の死傷者が出た結果、畠山側が軍をまとめて引き揚げています。

 寿永2(1183)年、平家一門の都落ちの際には、武蔵で秩父一族が頼朝に荷担したことを知った宗盛によって斬首されそうになりましたが、彼らの主である知盛が、

「かれら百人千人が頚を斬らせ給ひて候とも、御運尽きさせ給ひなば、御世を保たせ給はん事有り難し。故郷に候妻子所従等、如何ばかり歎き悲しみ候らん。ただ理をまげて下させ給へ。もし運命開けて、都へ帰り上らせ給ふ事も候はば、有り難き御情けこそ候はんずれ」

と宗盛を諌めたため、宗盛もこれを許しました。これを聞いていた重能・有重、宇都宮朝綱は知盛の恩義を手を合わせて感謝し、

「何処までも御供仕り候はん」

と訴えましたが、知盛は、

「汝等が魂はみな東国にこそあるべきに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべき様なし。ただとう下れ」

と諭されたため、弟・有重とともに武蔵国へと戻っていきました。その後の重能の動向は不明です。

畠山重忠(1164-1205)


 畠山重能の二男。通称は畠山庄司次郎。母は三浦大介義明の娘。

 武蔵国男衾郡畠山庄(埼玉県大里郡川本町畠山)の庄司・畠山重能の二男で、相模国の有力在庁・三浦義明の孫にあたります。なお、重忠の兄にあたる重光(庄司太郎)については、『桓武平氏諸流系図』にのみ名を見せる人物であり、詳細な伝記は不明。

 治承4(1180)年、源頼朝が伊豆で挙兵した際には、大庭景親の要請をうけたものか、平家方の武将としてわずか17歳の若さで畠山一党を率いて三浦氏を追撃。鎌倉で和田義盛と激戦を繰り広げました。しかし義盛との間で和議が調い、鎌倉小坪坂で休息をとっていると、和議が成立したことを知らない和田義茂の奇襲によって畠山軍は壊滅。重忠はわずかな郎党を率いて退却し、惣領の河越重頼の援兵を求めて、それに応えて大軍を引き連れてきた重頼とともに三浦氏の本拠地・衣笠城(横須賀市衣笠町)に猛攻をかけました。三浦氏の惣領は、重忠には実の祖父となる三浦大介義明でしたが、この攻撃によって義明は戦死。三浦義澄・和田義盛らは相模湾に逃れて、おなじく海上にあった頼朝一党と合流して安房へと上陸しました。

 その後、ふたたび武蔵国に戻りましたが、頼朝が房総の大軍を率いて武蔵に上陸してきたことを知ると、治承4(1180)年10月4日、先祖・秩父武綱が義家から賜ったという源氏の白旗をかかげて頼朝の陣中に帰参、おなじく河越重頼・江戸重長も帰参しました。頼朝が秩父氏の惣領と目していた江戸重長に帰参の勧告をしたのが9月29日で、重長はその直後に河越重頼・畠山重忠に使いを遣って、帰参を決定したとも考えられます。

 重忠は帰参した際に、頼朝から持参の白旗の謂れを問いただされ、祖の秩父武綱が後三年の役の際に義家から賜って、先陣をつとめたという故事を話すと、その故事にならって重忠は鎌倉入りの先陣を命じられ、その後も源氏軍の先陣をまかされ、奥州藤原氏との戦い、頼朝の上京までも畠山重忠が先陣をつとめる慣例ができあがりました。

 『平家物語』の治承4(1180)年10月4日の項には

「畠山次郎重忠、長井の渡に参会す。河越太郎重頼、江戸太郎重長また参上す。この輩、三浦介義明を討ちし者なり。しかるに義澄以下の子息門葉、多くもつて御供に候じ、武功を励む。重長等は源家を射たてまつるといへども、有勢の輩を抽賞せられずんば、こと成がたからんか。忠直を存ずる者は、更に憤りをのこすべからずの旨、兼ねて以て三浦一党に仰せ含めらる。彼ら異心無きの趣を申す。よって各々相互に合眼して列座する者なり」

と、頼朝はやはり重長を惣領として認知しており、さらに秩父党は「有勢の輩」であり、頼朝は彼らが頼朝以下の源氏軍ならびに三浦氏を攻め滅ぼしたとはいえ、こういった地方豪族の棟梁たちを味方につけなければ「(平家を討つ)こと成りがたし」と考えていたことがわかります。そのためには自分の軍勢の中核にあった三浦氏とのいさかいは避けなければならず、「忠直を存ずる者は、更に憤りをのこすべからず」と三浦一党に言い含めていました。

 10月6日、畠山重忠を先陣とし、千葉介常胤を後陣とした頼朝の軍勢は相模国に入り、鎌倉に足を踏み入れましたが、鎌倉は小さな鶴ヶ岡八幡宮が建っているだけで、民家を仮の宿舎として定めました。翌日には故義朝の旧跡(鎌倉亀ヶ谷)を訪れ、そこに館を建てようとしましたが、あまり広い平地ではなく、かつて岡崎義実(三浦大介義明の弟)が義朝の菩提を弔うために建立した堂宇があったためこれを断念しました。

 12月12日、大倉に建てられていた頼朝の新邸が完成し、頼朝は上総権介広常の館から新邸に入りました。重忠はその列のしんがりをつとめました。

 翌治承5(1181)年正月1日、頼朝は元旦を八幡宮奉幣の日と定めて若宮に参詣していますが、三浦義澄・畠山重忠・大庭景義が郎党を引き連れて、夜半から辻々の警護をしています。

 養和2(1182)年正月3日、頼朝は「御行始」として、甘縄の安達盛長の屋敷に向かいました。佐々木高綱(四郎)が頼朝の駕の横にあり、足利義兼・北条時政・畠山重忠・三浦義澄・和田義盛などがその供奉をつとめました。4月5日、頼朝の江ノ島詣でに供奉。改元して寿永元(1182)年8月12日、政子が頼家を出産し、翌日頼朝は、佳例にしたがって御家人から護り刀を召し、宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛、梶原景時、梶原景季、横山時兼らが刀を献上しました。

 寿永3(1184)年正月20日、畠山重忠は範頼・義経の軍勢に加わって入京。木曽義仲と激戦の末に義仲は戦死しました。そして同年2月5日、一ノ谷に陣をはる平家を討つため、範頼・義経軍は摂津国に参集しました。

●鎌倉軍●(■:秩父一族、 ■:秩父氏の養子系)
 
◎大手軍
大将・源範頼
小山小四郎朝政 武田太郎信義 加賀美次郎遠光 加賀美小次郎長清 武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信
下河辺庄司行平 長沼三郎宗政 結城七郎朝光 佐貫四郎広綱 小野寺太郎通綱 稲毛三郎重成
榛谷四郎重朝 森五郎行重 江戸四郎重春 梶原平三景時 梶原源太景季 梶原平次景高
千葉介常胤 相馬次郎師常 国分五郎胤通 東六郎胤頼 中条藤次家長 海老名太郎季貞
曾我太郎祐信 中村太郎時経 安保次郎実光 中村小三郎時経 河原太郎高直 河原次郎盛直
小大八郎行平 久下次郎重光 藤田三郎大夫行泰 秩父武者四郎行綱 大河戸太郎広行 庄司三郎忠家
庄四郎高家 庄司五郎広方 塩谷五郎惟広 庄太郎家長

◎搦手軍
大将・源義経
安田遠江守義定 大内右衛門尉惟義 村上判官代康国 山名三郎義範 斎院次官中原親能 田代冠者信綱
大河戸太郎広行 土肥次郎実平 三浦介義澄 三浦平六義村 三浦十郎義連 畠山次郎重忠
長野三郎重清 和田小太郎義盛 和田次郎義茂 和田三郎宗実 佐々木四郎高綱 佐々木五郎義清
天野次郎直経 多々羅五郎義春 多々羅太郎光義 別府小太郎清重 金子十郎家忠 金子与一近範
金子源八広綱 岡部六弥太忠澄 渡柳弥五郎清忠 糟谷藤太有季 平山武者所季重 平佐古太郎為重
熊谷次郎直実 熊谷小太郎直家 小河小次郎祐義 山田太郎重澄 原三郎清益 猪俣小平六則綱
片岡太郎常春 伊勢三郎義盛 佐藤三郎忠信 佐藤四郎継信 武蔵坊弁慶

●平家軍●(■:一ノ谷で討たれた武将)
 
内大臣・平宗盛
平知盛(新中納言) 平重衡(本三位中将) 平忠度(薩摩守) 平経盛(修理大夫) 平教盛(中納言)
平資盛(三位中将) 平師盛(備中守) 平有盛(少将) 平清定(尾張守) 平清房(淡路守)
平忠房(丹後侍従) 平経正(皇后宮亮) 平経俊(若狭守) 平敦盛(無官大夫) 平知章(武蔵守)
平通盛(越前三位) 平業盛(蔵人大夫) 平教経(能登守) 平行盛(左馬助) 平盛俊(越中前司)
平盛嗣(越中次郎兵衛) 平景綱(三郎左衛門尉) 藤原忠光(上総介) 藤原景清(悪七兵衛尉) 平家長(伊賀平内左衛門)
平清家(伊賀平内兵衛)

 文治元(1185)年3月、平家を壇ノ浦で滅ぼすと、その功労者・源義経と頼朝の仲が険悪となり、ついに義経は頼朝追討の院宣を得て兵を集めました。しかし、思うように兵は集まらず、義経は大和国吉野に逃れました。その後、頼朝の軍勢が大和へ入ってきたため、義経は妾・静を残して北陸から奥州を目指し、山中をさまよっていた静は捕らえられて鎌倉に送られました。

 4月、鎌倉に軟禁されていた静御前(源義経の妾)が頼朝の命により鶴ヶ岡八幡宮の回廊で舞を見せた際、重忠は銅拍子をつとめるなど、東国武士にはめずらしく音曲にも通じていました。11月、秩父氏の惣領家である河越重頼が義経の縁者であったために誅殺され、彼が帯していた武蔵国留守所惣検校職は重忠の手に移って秩父氏の惣領を継承しました。

 文治3(1187)年9月27日、伊勢神宮領の伊勢国沼田御厨にあった重忠の代官・真正が狼藉をはたらいたと、伊勢神宮の神官が訴え出ました。重忠は代官の所行の子細を知らなかったと謝罪しましたが、所領4ヶ所を収公され、身柄を従兄の千葉新介胤正に預けられました。このとき、重忠は寝食を絶って身の潔白を主張。これを見た胤正が頼朝に陳情したため、頼朝も心を動かされ、厚免されました。胤正は急いで館に帰ると、重忠を伴ってふたたび幕府に参上。重忠は里見冠者義成の上座に座り、

「恩に浴するの時は、まづ目代の器量を求むべし。その仁なくんば、その地を請くべからず。重忠清潔を存ずること、甚だ傍人に越ゆるの由、自慢の意を挿むのところ、真正男が不義によって恥辱に逢い了んぬ」

と話しています。その後、幕府をあとにして武蔵国菅谷館に下向しました。しかし、この直後の11月15日、梶原景時が、

「畠山次郎重忠、重科を犯さざるのところ、召し禁めらるるの條、大功を棄捐せらるるに似たりと称し、武蔵国菅谷の館に引き籠り、反逆を起こさんと欲するの由、風聞す。しかるに折節、一族尽く以て在国し、ことすでに符号す。いかでか賢慮を廻らされざらんや」

と頼朝に讒言しました。頼朝もいささか不安を感じたと見え、小山朝政・下河辺行平・結城朝光・三浦義澄・和田義盛らを召して、重忠追討の是非を問いましたが、結城朝光は、

「重忠は、天性廉直をうけ、もっとも道理を弁え、敢へて謀計を存ぜざる者なり。しかれば、今度の御気色、代官所犯の由によって、雌伏せしめ了んぬ。その上殊に神宮の照鑑を畏怖するの間、さらに怨恨を存ぜざるか。謀叛の條、定めて僻事たらんか。専使を遣はされて、その意を聞こしめさるべし」

と、重忠の清廉な人柄を熱心に訴え、頼朝も重忠の親友である下河辺行平を使者として武蔵菅谷の畠山邸に派遣。17日、行平が菅谷館に着き、このことを重忠に告げると、どうして多年の功を捨ててまで反逆を企てなければならんのかと、重忠は怒り、「もはや頼朝公の腹はわかった。讒言を用い、鎌倉へ召還すると称して私を誅殺しようと貴殿を差し遣わしているのであろう。」と刀を抜いて自害しようとしたため、あわてた行平は重忠の手を押さえて彼を説得。11月21日、行平とともに鎌倉に出頭した重忠は梶原景時と面会して、謀叛の心は毛頭無いことを訴えました。すると、景時は「起請文」の提出をもとめました。これに対して重忠は、

「重忠が如き勇士は、武威を募り、人庶の財宝等を奪取し、世渡の計とするの由、もし虚名に及ばば、もっとも恥辱たるべし。謀叛を企てんと欲するの由、風聞するはかへって眉目と云ひつべし。ただし源家の当世を以て武将の主に仰ぐの後、さらに弐なし。しかるに今このわざはひに逢うや、運の縮まるところなり。且は重忠、もとより心と言と異なるべからざるの間、起請を進じ難し。詞を疑ひて起請を用ゐ給ふの條は奸者に対する時の儀なり。重忠に於いて偽を存ぜざるの事は、兼ねて知ろしめすところなり。速にこの趣を披露すべし」

と、起請文の提出を拒否しました。これを聞いた頼朝は重忠の忠心に感じ入り、御家人たちからも「武士の鏡」と尊敬される人物となりました。

 文治5(1189)年8月7日、奥州藤原氏の前線基地・阿津賀志山の攻撃でも先陣を任されました。阿津賀志山では泰衡の命を受けた藤原国衡(藤原泰衡の異母兄)らが城塞を築いて2万騎の将兵でかためていました。重忠は頼朝から堀を埋めるよう指示を受け、80人の人夫を指揮して鋤鍬でこれを埋め、親友の結城朝光が、兄・小山朝政の郎党を引き連れて阿津賀志山の麓に至りました。

 翌8日、平泉方の将・金剛別当季綱が阿津賀志山の麓に陣をはったため、頼朝は重忠・朝光・加藤景廉・工藤行光・工藤祐光らに試みに矢合わせを命じ、金剛季綱は大量の矢を防ぎきれずに山中に退却。ここに常陸の豪族・伊佐常陸入道念西(奥州伊達氏の祖)の子息、伊佐為宗・為重・資綱・為家らが、伊達郡澤原まで侵入し、佐藤庄司元治(佐藤継信・忠信の父)を討ち取りました。

 翌9日の夜、頼朝は翌10日の朝に攻撃をかけることを指示し、重忠も陣に帰って休んでいましたが、三浦義村・葛西清重・工藤行光・工藤祐光・狩野親光・藤沢晴近・河村千鶴丸(季清13歳)の七騎は夜のうちに重忠の陣をひそかに追い抜いて山中に入りました。これを発見した重臣・榛谷成清は、重忠に

「今度の合戦に先陣を奉ること、抜群の眉目なり。しかるに傍輩の争うところを見て、温座しがたからんか。早くかの前途を塞ぐべし。しからずんば、事の由を訴え申し、濫吹を停止してこの山を越えらるるべし」

と諌めています。これに重忠は、

「その事然るべからず。たとひ他人の力を以て敵を退くといへども、すでに先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戦は、皆重忠が一身の勲功たるべし。かつは先登に進まんと欲するの輩のこと、妨げ申すの條、武略の本意にあらず。かつはひとり抽賞を願うに似たり。ただ惘然をなすこと神妙の儀なり」

と、自らが先陣を任されている以上、先登での戦功は自らに帰すのであるから、あわてて彼らを止めるのは自らの戦功を妨げるようなものであると落ち着き払っています。

と激戦を繰り広げて彼を討ち取っています。そして奥州平定後は陸奥国葛岡郡の地頭職に任じられています。

 建久元(1190)年、頼朝の上洛に際しても先陣として出陣。後白河法皇の院への参内にも供奉しました。建久2(1191)年7月、鎌倉永福寺の庭池の大石を1人でかつぎ上げて運びいれるなど剛力が知られています。

 彼の剛力を伝えるもう一つの逸話があります。正治2(1200)年正月2日、頼家は剛力の士・波多野三郎盛通に梶原景時の与党・勝木則宗を生け捕るよう命じましたが、則宗は背後から羽交い締めにされた右腕を振りほどいて、盛通を刺そうとしましたが、その場にあった重忠は、その場を動かずに左手で則宗の腕をとらえ、腕をへし折りました。則宗もこの突然の出来事に惘然となり、容易く生け捕られました。そして2月6日、盛通に恩賞の沙汰があった際、則宗を捕らえたのは重忠だと、真壁秀幹という常陸大掾家の一族が訴え出ました。これを聞いた幕府は、重忠と秀幹を召し、その謂れを糺しました。そこで重忠は、

「その事を知らず。盛通一人の所為の由、承り及ぶところなり。」

として、自分は関係ないと訴え、退出して御所の侍溜まりに戻った重忠は秀幹に、

「かくのごときの讒言、もっとも無益の事なり。弓箭に携はるの習ひ、横心なきをもって本意となす。然れども、客意を勲功の賞に懸くるがために、阿党を盛通に為さば、直に則宗を生け捕るの由、これを申さるべきか。なんぞ重忠を差し申さんや。かつは盛通譜第の勇士たり。敢て重忠が力を借るべからず。すでに譜第の武名を申し汚すの條、不当至極なり」

と言ったため、秀幹は顔を赤らめて退出。その後、侍溜まりにあった小山朝政・長沼宗政・和田義盛・渋谷高重・安藤祐宗らが集まって先に討たれた梶原景時の兵法について批判、朝政は弟・宗政のかねてよりの態度や発言を厳しく批判。荒武者として知られていた宗政も返す言葉がありませんでした。

 元久2(1205)年、嫡男・重保と平賀朝雅(北条時政の後妻・牧ノ方の女婿)の対立がしだいに表面化し、武蔵国への進出をはかる北条時政は秩父一党の討滅を画策。同年4月11日、北条時政は稲毛重成・榛谷重朝を鎌倉に招聘し、6月1日、畠山重保を鎌倉に招きました。6月20日、重保は鎌倉に参著。そして重忠も6月19日、子・重秀以下郎従134騎という軽装で鎌倉へ向かいましたが、22日、鎌倉由比ヶ浜で嫡男・重保が北条時政の命を受けた三浦義村によって討ち果たされており、武蔵国二俣川(横浜市旭区二俣川)で北条義時率いる幕府正規軍と遭遇して戦いとなり、親友・愛甲季隆の矢にあたってついに討たれました。42歳。重忠の正直で公正な性格は頼朝はじめ、御家人たちの信望を集めていました。重忠が討たれた翌日に鎌倉に帰還した義時は時政の館を訪れて彼の無罪を報告。義時は重忠との旧交を思い出して涙に暮れたといいます。

 一方、畠山重保を討ちとり、畠山重忠追討軍にも参加した三浦義村は、重忠無罪がわかるや、讒言の張本人を稲毛重成・榛谷重朝と決めつけて、彼らを攻め滅ぼしました。これは三浦義村の単独の行動と思われ、三浦氏は25年前に畠山・秩父一族に攻め滅ぼされた経緯があり、遺恨として残っていたと考えられます。

 この戦いののち、武蔵に覇権を築こうとした北条時政の野望は、子息・北条義時のために打ち砕かれ、時政と時政の後妻・牧ノ方は伊豆へ追放され、畠山重保と仲が悪く、彼を讒言した平賀朝雅を京都において斬殺。以降は北条義時(徳宗入道)・政子による先制体制が築かれ、政敵である和田義盛・三浦義村らを次々に滅ぼして、150年にわたる北条家の政権ができあがっていきました。

 

承元4(1210)年5月14日 辛丑
  故畠山の次郎重忠が後家の所領等、日来子細有り。内々改易の御沙汰に及ぶと雖も、
  殊なる事有るべからざるの由、今日仰せ出ださると。


建暦元(1211)年4月2日 癸未
  陸奥の国長岡郡小林新熊野社の壇堂舎等は、当国の守秀衡法師の時、豊前の介實俊奉
  行として造営を加え、剰え秀衡、元暦二年八月郡内の荒野三十町を以てこれを奉寄す。
  文治五年八月右大将家奥州に入御するの次いでに、狼藉を止むべきの由御教書を下さ
  れをはんぬ。その後畠山の次郎重忠当郡を知行するの時、殊に以てこれを崇敬す。而
  るにこの間住僧隆慶参訴して云く、平の資幹地頭と称し、恣に神田を押領するの由と。
  仍って一決を遂げるの処、資幹申して云く、重忠件の寺社を管領するの間、先例を守
  り沙汰を致すの上は、寺家の訴えに足らず。然れども敬神の儀を以て十町を加え、四
  十町の神田と為すべきの由申すの間、問注所よりこれを勘じ申すに就いて、今日御前
  に於いてその沙汰有り。社壇は實俊が私の建立と謂うべし。神田は勅免の地に非ず。
  縦え顛倒せしむと雖も、定めて訴えるに所無きか。資幹十町を奉寄するの條、頗る物
  儀に背かざるか。爾れば則ち四十町を免除致すべし。その外は隆慶が異論を停止すべ
  きの旨、直に仰せ出ださる。図書の允清定これを奉行す。
 

●三浦氏と畠山氏の確執●

治承4(1180)年8月24日…畠山重忠、鎌倉由比ヶ浜において和田義盛と合戦。和睦後、和田義茂の奇襲にあって敗退する。
        8月26日…畠山重忠・河越重頼・江戸重長、三浦郡衣笠城を攻め落とし、惣領・三浦大介義明討死。義澄等逃亡。
        10月4日…畠山重忠・河越重頼・江戸重長、武蔵国長井で頼朝に帰参。頼朝は三浦氏に遺恨を忘れるよう命じる。
         ↓
元久2(1205)年6月22日…三浦義村、北条時政の命を受けて、畠山重保を由比ヶ浜に誘い出して殺す。
             三浦義村、畠山重忠追討軍に加わって武蔵国二俣川に出陣。
        6月23日…三浦泰村、「重ねて思慮を廻らし」て、稲毛重成が畠山重忠を讒言した張本として、榛谷重朝・重季・秀重、
             稲毛重成・小沢重政を討ち取る。

■:幕府軍(含む三浦義村)に殺された人物、■:三浦義村に殺された人物、■:長沼宗政に殺された人物

畠山重弘―+―畠山重能―――+―畠山重忠―――+―重秀                +―重仲
     |(畠山庄司)  |(次郎)    |(小次郎)              |(孫太郎)
     |        |        |                   |
     |        +―長野重清   +―重保    +―重基――浄法寺重親―+―重武―――重興―――重治―――忠弘
     |        |(三郎)    |(六郎)   |(太郎)(小太郎)   (大次郎)(彦次郎)(左京亮)(久次郎)
     |        |        |       |                                
     |        +―畠山重宗   +―重慶――――+―重秀                             
     |         (六郎)     (大夫阿闍梨) (次郎)
     |
     +―小山田有重――+―稲毛重成―――――小沢重政
     |(小山田別当) | (三郎)     (次郎)
     |        |
     |        +―榛谷重朝―――+―重季
     |        |(四郎)    |(太郎)
     |        |        |
     |        +―小山田行重  +―秀重
     |         (五郎)     (次郎)
     |
     +―娘(千葉介常胤妻)

畠山重保(????-1205)


 畠山重忠の嫡男。母は北条時政の娘。通称は六郎。

★畠山氏の庶流★

畠山重秀(1183-1205)


 畠山重忠の長男。母は足立遠元の娘。通称は小次郎。六郎重保の異母兄にあたります。

 重秀が生まれたのは寿永2(1183)年で、畠山重忠が19歳の時に生まれた長男でしたが、北条時政の娘を母とした重保が嫡男とされました。

 元久2(1205)年6月22日、鎌倉へ呼ばれていた重忠とともに134騎を引き連れて南下していましたが、武蔵国二俣川で義時率いる幕府軍と遭遇し、重保が謀叛の疑いですでに殺されたことを知ると、重忠は名を汚すなとばかり合戦におよび、愛甲季隆の矢にあたった重忠は即死。それを見た重秀以下、郎従も自刃して果てました。23歳でした。

畠山重慶(????-1213)


 畠山重忠の末子。大夫阿闍梨。

 建暦3(1213)年9月19日、下野国日光山別当法眼弁覚の使いが鎌倉の御所にもたらされました。

「故畠山次郎重忠が末子、大夫阿闍梨重慶、当山の麓に籠居して浪人を招きあつめ、また祈祷して肝胆を砕く事有り。これ謀叛を企つるの條、異儀なきか」

として、頼家はその座にあった下野の豪族・長沼五郎宗政に重慶の生け捕りを命じました。荒武者として知られていた宗政は鎌倉の館に帰るらずに連れてきていた家子1人・雑色8人だけを引き連れて下野に直行。これを聞いた宗政の郎従は、あわててその後を追い、鎌倉は騒然としました。

 下野に発向して7日後の9月26日、宗政は重慶を斬殺してその首をもって鎌倉に帰還。頼家はこれを聞いて、源仲兼をつうじて、

「重忠、もとより過ちなくして誅を蒙る。その末子の法師、たとひ陰謀を挿むといへども何事かあらんや。随って仰せ下さるるの旨に任せて、まづその身を生捕らしめて具し参らば、犯否の左右に就きて沙汰あるべきのところ、戮誅を加ふること、楚忽の儀、罪業の因たるの由、甚だ御嘆息と云々」

と宗政を叱責しました。これに対して悪口荒言の士として兄・朝政からも叱責を受けていた宗政は目を怒らし、

「件の法師においては叛逆の企て、その疑なし。また生捕るの條、掌の内にありといへども、直にこれを具し参らしめば、諸々の女性、比丘尼らが申状に就きて、定めて宥めの沙汰あらんかの由、兼ねてもって推量するの間、かくの如き誅罰を加ふるものなり。向後に於いては、誰の輩が忠節を抽んづべけんや。これ将軍家御不可なり。およそ右大将家の御時、恩賞を厚くすべきの趣、頻りに以て厳命有りと雖、宗政諾し申さず。ただ望むらくは御引き目を賜り、海道十五ヶ国中に於いて民間の無礼を糺し行ふべきの由、啓せしむるの間、武備を重んぜらるるが故に、忝なくも一の御引目を給ひ、今の蓬屋の重宝たり。当代は歌鞠を以て業となし、武芸廃るるに似たり。女性を以て宗となし、勇士、これ無きが如し。また没収の地は勲功の族に充てられず、多く以て青女等に賜ふ。いはゆる榛谷四郎重朝が遺跡を五條局に給ひ、中山四郎重政が跡を以て下総局に賜ふと云々」

と、頼家に対する不満をぶちまけ、さらに飽きたらずに悪口を続けたため、仲兼は閉口して座を起ち、宗政も御所を退出しました。

 重慶阿闍梨は討たれたときに2人の子がおり、嫡男・重基(太郎)はすでに陸奥国二戸郡浄法寺郷に逃れており、子孫は「浄法寺」を名字として在地の豪族となり、室町時代中期の応永年中、南部守行に召し出されてその家臣となりました。

長野重清(????-????)


 畠山重能の次男。通称は三郎。「中根三郎」とも。畠山重忠の弟です。

 つねに畠山重忠の右腕として戦いに参戦。奥州の戦いなどにも従軍していました。元久2(1205)年6月22日の重忠追討の際には、信濃国にあって難を逃れています。

渋江重宗(????-????)


 畠山重能の六男。通称は六郎。畠山重忠の弟です。

 元久2(1205)年6月22日の重忠追討の際には、陸奥国葛岡郡の代官として派遣されていたために難を逃れています。


◎小山田氏◎


小山田有重(????-????)


 秩父重弘の次男。武蔵国小山田庄(東京都町田市小山田町)の別当をつとめて、「小山田別当」と称されました。妻は下野国宇都宮の検校・八田宗綱の娘。宗綱の嫡男・宇都宮朝綱とはともに平家の家人として活躍していた時期があります。

 兄・重能は久寿2(1155)年の義賢・秩父重隆追討の軍勢に加わっていました。有重がこれに参加していたかは不明ですが、重能と有重はその後源義朝に従って「保元の乱」「平治の乱」に加わっていました。しかし、平治元(1159)年12月の「平治の乱」で源義朝が尾張国で討たれ、翌永暦元(1160)年に平知盛が武蔵国の知行国守となると、重能・有重兄弟は積極的に平知盛に仕えていったようで、天台座主・慈円大僧正(九条兼実の弟)が記した『愚管抄』には、

「平家世ヲ知リテ久シクナリケレバ、東国ニモ郎等多カリケル中ニ、畠山荘司、小山田別当ト云フ者、兄弟ニテアリケリ」

と記されており、京都では平家与党として知られていたようです。そして平知盛の武将として勢力を伸ばした重能・有重兄弟は、惣領家の河越重頼と肩を並べるほどの力を持ち、知盛の力を背景として武蔵国の武士団の棟梁的な立場にあったと考えられます。『吾妻鏡』の治承4(1180)年9月28日の項に、

「御使を遣はして、江戸太郎重長を召さる。景親が催しによつて、石橋合戦を遂ぐること、その謂れありといへども、令旨を守りて相従ひたてまつるべし。重能・有重は折節在京す。武蔵国においては、当時汝すでに棟梁たり。専らたのみ思しめさるるの上は、便宜の勇士等を催し具して、余参すべきの由と云々」

とあり、「重能・有重が在京中のためいないから、汝(江戸重長)が棟梁である」。つまり、頼朝も重能・有重が武蔵国の棟梁であったと考えていたことがわかります。

 治承4(1180)年7月、大番役のために兄・重能とともに上洛しましたが、京都についた直後の8月、源頼朝が伊豆で挙兵しました。さらに、信州木曽で挙兵した木曽義仲も北陸加賀に攻めこんできたため、在京中であった重能・有重兄弟と宇都宮朝綱は、内大臣・平宗盛の命に従って今井兼平の軍勢と合戦しています。『平家物語』によれば、

「木曽殿の方より、今井四郎兼平、先づ五百余騎にて馳せ向かう。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これらは大番役にて、折節在京したりけるを、大臣殿『汝等は故い者なり。軍の様をも掟てよ』とて、今度北陸へ向けられたり。彼等兄弟三百余騎で打向ふ。」

とあり、戦いは今井・畠山両軍に相当の死傷者が出た結果、畠山側が軍をまとめて引き揚げています。

 寿永2(1183)年、平家一門の都落ちの際には、武蔵で秩父一族が頼朝に荷担したことを知った宗盛によって斬首されそうになりましたが、彼らの主である知盛が、

「かれら百人千人が頚を斬らせ給ひて候とも、御運尽きさせ給ひなば、御世を保たせ給はん事有り難し。故郷に候妻子所従等、如何ばかり歎き悲しみ候らん。ただ理をまげて下させ給へ。もし運命開けて、都へ帰り上らせ給ふ事も候はば、有り難き御情けこそ候はんずれ」

と宗盛を諌めたため、宗盛もこれを許しました。これを聞いていた重能・有重、宇都宮朝綱は知盛の恩義を手を合わせて感謝し、

「何処までも御供仕り候はん」

と訴えましたが、知盛は、

「汝等が魂はみな東国にこそあるべきに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべき様なし。ただとう下れ」

と諭されたため、弟・有重とともに武蔵国へと戻っていきました。その後は子息の稲毛重成・榛谷重朝・小山田行重らとともに頼朝に仕えて、頼朝にも重用されていたようです。『吾妻鏡』の元暦元(1184)年6月16日条には、

「一條次郎忠頼、威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿むの由、その聞えあり。武衛また察せしめたまふ。よって今日営中において誅せらるるところなり。晩景に及びて、武衛西侍に出で給ふ。忠頼、召しによって参入し、対座に候ず。宿老御家人数輩列座し、献盃の儀あり。工藤一臈祐経、銚子を取りて御前に進む。これかねてその討手に定められをはんぬ。しかるに殊なる武将に対して、忽ちに雌雄を決するの條、重事たるの間、いささか思案せしむるか、顔色すこぶる変ぜしむ。小山田別当有重、かの形勢を見て座を起ち、かくのごとき御酌は老者の役たるべしと称し、祐経が持つところの銚子を取る。ここに子息、稲毛三郎重成、同弟榛谷四郎重朝等、盃肴を持ちて忠頼が前に進み寄る。有重、両息に訓して云はく、陪膳の故実は上括なりてへれば、持つところの物をさしおき、括りを結ぶの時、天野藤内遠景、別して仰せを承りて太刀を取り、忠頼が左の方に進み、早く誅戮しをはんぬ。…」

とあります。

 木曽義仲亡きあと、彼を討つことに大功のあった一条忠頼(甲斐源氏・武田信義の嫡男)は、甲斐源氏の勢力を背景に驕慢な態度をとることが多くなり、幕府内の動揺をまねくことをおそれた頼朝は、元暦元(1184)年6月16日晩、幕府に忠頼を呼びだし誅殺しました。このとき工藤祐経が討手に命じられており、頼朝の献盃に事よせて殺す手はずになっていましたが、祐経は献盃の際、忠頼という有力御家人を討つという大事に顔色を変えていたため、これを見た有重は突然座を立って、「かようなことは自分のような老人がやればよろしい」と祐経から銚子を取り上げ、子息の稲毛重成・榛谷重朝は盃と肴をもって忠頼の前に進み出ました。そして有重が両息に陪膳の故実を教え、忠頼もそれに気を取られていたとき、頼朝の命を受けた天野遠景が忠頼を殺害しました。

稲毛重成(????-1205)


 小山田有重の三男。母は八田宗綱の娘。通称は稲毛三郎。叔母の小山政光(下野大掾)の妻・寒河尼(結城朝光の母)は源頼朝の乳母で、そういった関係からか、妻に北条時政の娘を迎えています。はじめ「小山田三郎」を称していましたが、武蔵国橘樹郡稲毛庄を所領として稲毛を称しました。

 『桓武平氏諸流系図』には重成に二人の兄が記載されており、長兄は重文(太郎)、次兄は重忠(次郎)と称しています。しかし、この両名は伝承がなく、どのような人物であったか不明。重忠は梶原景時の娘を妻に迎えており、その子・狩野重宗(太郎兵衛)は外祖父・梶原景時とともに正治2(1200)年に討ち取られたとされています。

 重成は弓技に優れ、数々の弓の催しには弟・榛谷重朝とともに必ず名を連ねています。養和2(1182)年4月5日の頼朝の江ノ島詣でに供奉。その帰途、金洗沢で催された「牛追物」には、下河辺行平・和田小太郎義盛・愛甲三郎季隆とともに弓の名手として参加し、「色皮・紺絹等」を賜りました。

 元暦元(1184)年には源範頼の麾下として中国地方を転戦しました。平家滅亡後は鎌倉に詰め、元暦元(1184)年6月、甲斐国に巨大な地盤を築いていた武田信義の嫡男・一条忠頼の誅殺に父・有重、弟・重朝とともに荷担しました。そしてその直後、忠頼の甥・武藤与一・村山小太郎、郎党・新平太の3人が営中に斬り込んだ際には、列席した御家人の多くが負傷。3人は頼朝の寝殿に向かって駆け入りましたが、重成・重朝・結城朝光がこれをくい止めて武藤与一・新平太を討ち取り、村山小太郎は天野遠景に向かって斬りかかりましたが、遠景はまな板を振るって小太郎を縁の下にたたき落とし、遠景の郎党がこれを討ち取りました。『吾妻鏡』の元暦元(1184)年6月16日条には、

「一條次郎忠頼、威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿むの由、その聞えあり。武衛また察せしめたまふ。よって今日営中において誅せらるるところなり。…忠頼が共侍新平太、ならびに同甥武藤与一および山村小太郎等、地下より主人の伏死を見て、面々に太刀を取り、侍の上に奔り上る。こと楚忽に起こり、祗候の輩騒動して多く件の三人のために疵を被ると云々。すでに寝殿の近々に参ず。重成、重朝、結城七郎朝光等、これと相戦ひて、新平太、与一を討ち取り了んぬ。山村は遠景と戦はんと擬す。遠景、一ヶ間を相隔て、魚板を取りてこれを打つ。山村、縁の下に顛倒するの間、遠景が郎従、その首を獲たりと云々。」

 建久元(1190)年の頼朝上洛の際にはその随兵として上京。院参にも供奉しました。そして鎌倉への帰途、美濃国青墓で妻の重態を聞きつけ、頼朝の許しを得ると、頼朝より下賜された馬にまたがって、単騎で武蔵国稲毛の館へわずか3日で到着し、その臨終を看取りました。こうして妻が亡くなると頭を丸めて出家しました。

 そして、その後は稲毛庄に引退していますが、正治元(1199)年、妻の供養のために相模川に橋を建立し、供養には頼朝も参列しました。しかし、その帰途、頼朝は突如落馬し、そのままふたたび立ち上がることなく亡くなりました。脳障害といわれています。その後も他の有力御家人とともに、梶原景時の弾劾連判状に署名しています。

 元久2(1205)年4月11日、武蔵国稲毛に蟄居していた重成入道は舅の北条時政に呼び出されて郎従を率いて鎌倉に入りました。鎌倉には近国の武士たちが参集しており、さらに武蔵に引きこもっていたはずの重成入道が鎌倉に現れたと知った鎌倉の群衆は騒然となりました。

『吾妻鏡』元久二年四月十一日条

「鎌倉中静かならず。近国の輩群参し、兵具を整へらるるの由、その聞こえあり。また稲毛三郎重成入道、日来は武蔵国に蟄居す。近會、遠州の招請によって従類を引きて参上す。人、これを怪しみ、方々説等ありと云々」

 5月3日、命によって御家人の大半が帰国を命じられ、鎌倉は再び平穏を取り戻しましたが、重成はそのまま鎌倉にあり、20日夕方、畠山重保が鎌倉に参着しました。これは時政・牧ノ方と通じた重成の誘いであったとされています。その翌日、牧ノ方(時政後室)・平賀朝雅(牧ノ方聟)の讒訴をうけた北条時政は、子息の義時・時房に重忠謀叛と重忠追討の指示を出しています。しかし、義時らは重忠の無実を訴え、時政を諌めますが彼は聞く耳を持たず、義時らも席をけって退出しました。

 22日、鎌倉に謀叛の輩を追討するために軍勢が由比ヶ浜に召集されました。畠山重保も郎従3人を引き連れて由比ヶ浜に向かいましたが、時政の命を受けた三浦義村(平六兵衛尉)は、一族・佐久間家盛(太郎)を派遣して重保らをとり囲んで討ち取りました。さらにやむを得ず出陣した義時ら幕府正規軍は武蔵国二俣川において重忠を討ち取りました。鎌倉に帰還した義時は、時政に重忠の無罪を報告しています。三浦義村はさらに重成・重朝らを重忠謀殺の真犯人として追討し、重成は三浦一族・大戸河三郎の手によって討たれ、嫡子・小沢重政は宇佐美与一によって討ち取られました。

◎畠山重忠追討軍交名《『吾妻鏡』元久二年六月二十二日条》
 
大将軍:北条相模守義時・北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛
先 陣:葛西兵衛尉清重
後 陣:境平次兵衛尉常秀、大須賀四郎胤信、国分五郎胤通、相馬五郎義胤、東平太重胤
諸 将:足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、
    宇都宮弥三郎頼綱、八田筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、中条藤右衛門尉家長、
    中条苅田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、
    土屋弥三郎宗光、河越次郎重時、河越三郎重員、江戸太郎忠重、渋川武者所、小野寺太郎秀通、
    下河辺庄司行平、薗田七郎、大井兵衛次郎実春、品川三郎清実、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方、
    兒玉、横山、金子、村山党

『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条

「…三浦平六兵衛尉義村、重ねて思慮を廻らし、経師谷口において、謀りて榛谷四郎重朝、同嫡男太郎重季、次郎秀重等を討つなり。稲毛入道、大川戸三郎が為に誅せらる。子息小沢次郎重政は宇佐美与一これを誅す。今度合戦の起りはひとへにかも重成法師が謀曲にあり。いはゆる右衛門権佐朝雅、畠山次郎において遺恨あるの間、かの一族反逆を巧むの由、しきりに牧の御方に讒し申すによって、遠州ひそかにこの事を稲毛に示し合はせらるるの間、稲毛親族のよしみを変じ、当時鎌倉中に兵起あるの由、消息に就きて、重忠途中に於いて不意の横死に逢ふ。人以て悲歎せずと云ふことなしと云々。」

 重成が時政と示し合わせの上、重忠・重保をおびきよせ二俣川で討ったとされています。これは武蔵国の覇権をのぞむ時政と、牧ノ方・平賀朝雅・三浦義村の策謀の一端であり、三浦一族が積極的に秩父氏追討に荷担しているのは、25年前に秩父一族によって衣笠城を攻め滅ぼされた遺恨が残っていたためかもしれません。実際のところ、重成は重忠謀叛を信じ込まされて荷担させられたか、ただ重忠父子を鎌倉へ呼ぶように言われただけなのかも知れません。重忠追討の軍勢に重成・重朝兄弟は参加しておらず、時政は、武蔵国留守所惣検校職であった畠山一党を滅ぼして自らの基盤を築こうとしたと考えられます。しかし閏7月20日、畠山事件がきっかけとなって義時は時政を伊豆に追放しています。

 重成の子孫はその後、三浦氏の被官となっていたようで、宝治合戦の際に三浦泰村一族とともに討死した衆の中に、「稲毛左衛門尉」「稲毛十郎」の名を見ることができます。さらに、重成とともに三浦義村に討たれた重成の弟・榛谷重朝(四郎)の子孫と思われる「榛谷四郎」とその子息「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」の名もあります。

 重成の一人娘は、北条時政の娘を母としており、政子にとっては姪にあたります。重成娘は上洛して公卿・綾小路師季(三位)の妻となっていましたが、このときすでに亡くなっており、師季との間には二歳になるひとり娘が遺されていました。重成が討たれた事を知った綾小路家は、稲毛家と縁戚であることを恐れ、姫君を姫の乳母夫・小沢信重(左近将監。重成誅殺の後、隠居していたが、政子に内々哀愍されて上洛する)に託して関東へ送り返し、元久2(1205)年11月3日、鎌倉に到着しました。翌日、政子は妹の孫にあたる綾小路の姫を自邸に招き、みずからの猶子としました。さらに重成の遺領・武蔵国小沢郷(重成嫡男の小沢重政が所領としていた。小沢信重と関わりあるか?)を知行地として与えています。二歳という幼さで実家を突き放された姫を不憫に思った政子の愛情だったのでしょう。

 建保6(1218)年2月4日、北条政子は熊野への参詣をするために上洛をしましたが、この時、十六歳になっていた綾小路の姫君を同道しました。政子は以前より姫君と侍従・土御門通行(十七歳)との縁談をすすめており、このとき同道したものでした。

◎綾小路=北条氏系図

●北条時政―+―義時
(四郎)  |(小四郎)
      |
      +―政子         土御門通行
      |(源頼朝の正室)   (侍従)
      |             ∥
      +―娘           ∥
        ∥―――――娘     ∥
       稲毛重成   ∥――――綾小路の姫君
      (三郎)   綾小路師季
             

榛谷重朝(????-1205)


 小山田有重の次男。母は八田宗綱の娘か。通称は榛谷四郎。

 はじめ「小山田四郎」を称していましたが、伊勢内宮の荘園・武蔵国榛谷御厨の荘官として赴任し、榛谷を称しました。その後は畠山重忠と行動をともにし、重忠とともに頼朝に降伏。その武勇と篤実な性格が頼朝の信頼を買い、養和元(1181)年4月、寝所の番士11人の1人に選ばれています。また、兄・重成とともに弓の名手として知られ、弓の催しには必ずと言っていいほど射手として参加し、鎌倉を代表する武将のひとりであったことがわかります。

●寝所祇候衆11人●

江馬四郎義時、下河辺庄司行平、結城七郎朝光、和田次郎義茂、梶原源太景季、宇佐美平次実政、榛谷四郎重朝
葛西三郎清重、三浦十郎義連、千葉太郎胤正、八田太郎知重

 寿永元(1182)年6月7日、由比ヶ浜で弓の技を競う催しがなされ、はじめに行われた牛追物に下河辺行平・和田義盛・和田義茂・三浦義連・愛甲季隆とともに射手として参加しました。その後も20年以上にわたって幕府に出仕し、兄・重成が入道して引退したのちも弓の上手として知られていました。また、頼朝亡きあとの正治2(1200)年2月26日、頼家が鶴ヶ岡八幡宮に参詣した際の後陣の随兵として加わっています。

 しかし、元久2(1205)年6月23日、畠山重忠が謀叛の疑いで討たれた直後に無実とされ、その讒言の張本が兄・重成であると断じられ、榛谷重朝も北条時政の命を受けた三浦義村によっておびき出され、鎌倉経師谷において三浦義村の軍勢に攻められて嫡男・重季(太郎)、秀重(次郎)とともに討ち取られました。

『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条

「…三浦平六兵衛尉義村、重ねて思慮を廻らし、経師谷口において、謀りて榛谷四郎重朝、同嫡男太郎重季、次郎秀重等を討つなり。稲毛入道、大川戸三郎が為に誅せらる。子息小沢次郎重政は宇佐美与一これを誅す。今度合戦の起りはひとへにかも重成法師が謀曲にあり。いはゆる右衛門権佐朝雅、畠山次郎において遺恨あるの間、かの一族反逆を巧むの由、しきりに牧の御方に讒し申すによって、遠州ひそかにこの事を稲毛に示し合はせらるるの間、稲毛親族のよしみを変じ、当時鎌倉中に兵起あるの由、消息に就きて、重忠途中に於いて不意の横死に逢ふ。人以て悲歎せずと云ふことなしと云々。」

 重朝の子孫はその後、三浦氏の被官となっていたようで、宝治合戦の際に三浦泰村一族とともに討死した衆の中に、子孫と思われる「榛谷四郎」とその子息「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」の名を見ることができます。さらに、畠山重忠の讒言の張本人とされた兄・稲毛重成の子孫と思われる「稲毛左衛門尉」「稲毛十郎」の名も見ることができます。

 榛谷氏は三浦介義澄の子・胤義(九郎判官)が建暦3(1213)年5月の鎌倉騒動(和田義盛の乱)のあと、義盛の旧領・上総国伊北庄を恩賞地として与えられ、この際に榛谷氏は胤義の代官としてこの地に赴いたと思われ、胤義が承久3(1221)年の「承久の乱」で滅んだのちも当地の在地豪族として留まったと思われます。そして、時代的に「榛谷四郎重朝」の孫と思われる「榛谷四郎」、そしてその子「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」が三浦泰村の家人として宝治合戦(1247年)で討死しました。

 こののち鎌倉時代で榛谷氏の活躍は見られませんが、室町時代が訪れると、「上総国守護職」は佐々木秀綱(佐々木道誉の嫡子)・千葉介氏胤の支配を経て、永和2(1376)年から犬懸上杉氏の上杉朝宗(中務少輔入道禅助)が就任しました。このとき、榛谷重氏(小太郎)は犬懸上杉氏の重臣として伊北庄の代官職を務めていたと思われ、応永23(1416)年10月2日、朝宗の子・氏憲(上杉禅秀)が関東公方・足利持氏と対立して反乱を起こす(上杉禅秀の乱)と、これに荷担。禅秀が敗れて自害したのち、上総国の諸豪族は、守護の命に従って兵を出しただけである、として持氏に降伏しようとしましたが、持氏はこれを許さなかったため、豪族たちは榛谷重氏を総帥とした「一揆」を結成して持氏に反乱を起こしました。この集団を「上総本一揆」といいます。

 応永24(1417)年5月9日、持氏は一色左近将監を大将とした軍勢を上総国に派遣。一色軍は上総国市原郡八幡に陣を張って一揆勢と対しましたが、そこに市原郡に所領を持つ常陸大掾家の一族、鹿島憲幹(出羽守)・烟田幹胤(遠江守)・烟田胤幹(左近将監)の軍勢が参陣して、一揆勢を壊滅させました。こうして一色軍は鎌倉へと帰りましたが、翌年正月にふたたび一揆が起こったため、木戸範懐(内匠助)を大将とした軍勢を派遣。下総守護職・千葉介兼胤はじめ、地理に詳しい鹿島・烟田氏の援けをうけて半年後の5月6日、総帥・榛谷重氏はついに降伏しました。重氏は鎌倉へ護送されて由比ヶ浜で処刑されました。こののちの榛谷氏の動向は不明です。

小山田行重(????-????)


 小山田有重の次男。通称は五郎。

 はじめ「小山田五郎」を称していましたが、のち森と改氏。寿永3(1184)年2月5日、摂津国に集まった源範頼の軍勢に、兄の稲毛重成・重朝とともに参陣しています。

 行重は建久元(1190)年、甲斐国田原郷(山梨県都留市)を給されて地頭として小山田庄から入部しました。彼はこの地に勢力を広げようと、在地の豪族・秦氏と婚姻関係となって地盤をかためました。しかし、建保元(1213)年、鎌倉で起こった和田義盛の乱に一族・古郷氏が加わっており、小山田氏は一時幕府から睨まれることになりましたが、行重は戦いに加わっていなかったために窮地を逃れました。

 子孫はこの地を開発して大きな勢力を持つようになり、室町時代中期の小山田信光(弥太郎)の娘は、甲斐国守護職・武田信昌に嫁いで油川信恵を産んでいます。武田信昌は病弱な嫡男・信縄よりも信恵の方に期待をかけており、信昌の死後の永正5(1508)年、信縄の嫡男・信直と油川信恵の間で争いが起こりました。信直は15歳の若さで田原郷に攻め入って小山田信長(弥太郎)と信恵を斬殺。信直は名を「信虎」と改めて甲斐国の在地豪族たちを征服・滅亡させて勢力を広げていきました。

 信虎は、甲斐国の一族を従えていく上で背後にある小山田氏の協力は必要不可欠と考え、小山田氏の当主として信長の嫡男・信有(越中守)を擁立し、自らの妹を信有の妻としました。さらに信有の姉を自分の妻として迎え、信有は難攻不落の名城・岩殿山城を築いて、領内の治水・開墾をすすめていきました。天文10(1541)年、54歳で没しました。

 その子・信有(出羽守)は武田信虎の嫡男・武田晴信(のちの信玄)の親族衆として活躍。また、民政にもつくしていたため、非常に農民からの支持のあつい領主でした。戦いではつねに武田軍の陣頭に立って北条・今川氏と戦っています。しかし、天文19(1550)年、信濃国の村上義清との戦いで戸石城において負傷し、天文21(1552)年、32歳で没しました。

 信有の跡は嫡男・小山田信茂(左兵衛尉)が継承し、父と同じく親族衆の重鎮として信玄の軍勢の中核にありました。しかし、小山田氏はあくまで武田氏の親族であり、家臣ではありませんでした。信茂はじめ、穴山信君(信玄の従弟で義弟)も武田氏の領内に所領があるにも関わらず、北条氏からも所領安堵を受けているというように、武田氏の、とくに親族衆は武田家内で半独立の兆しを見せていたことがわかります。

 信玄亡きあと、跡を継いだのは実質的に4男の武田勝頼でしたが、彼は家督ではありませんでした。親族衆・老臣も彼をあなどり、長篠の戦いによって信茂は1000人もの家臣郎党を失っていますが、これは武田軍のなかでも最大の犠牲者数となります。そして、信玄以来の重臣の大部分を討たれた勝頼は、親族衆の穴山信君・木曽義昌らの離反をも招き、天正10(1582)年3月9日、武田家を見限った信茂は寄せ手の織田信長と通じて勝頼を笹子峠で待ちかまえて狙い撃ち、退路を断たれた勝頼一行は天目山で自刃し、武田氏は滅亡しました。その後、信長に降伏した信茂は主を裏切った謀叛人として処刑され、小山田氏も滅亡しました。

 しかし、小山田氏と武田氏の関係は「主従」関係ではなく「同盟」関係であり、小山田氏の所領には信玄の定めた法律は適用されないと信玄自身がはっきり記しているように、小山田氏領は武田氏領に組み込まれることはありませんでした。つまり、400年に渡って先祖が戦火から守ってきた所領・領民を守るためにより強い勢力と手を結んだ信茂は国守の判断として間違ったものではありませんでした。


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