秩父党 河越重時

河越氏

武蔵国留守所惣検校職

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●河越氏について●

 

河越氏は秩父氏の惣領家で、その祖は国衙の有力在庁となったのち、秩父牧別当を経て武蔵国留守所の惣検校職などを「家職」として発展した一族である。河越太郎重頼は支配下の郡司・比企氏出身の女性の娘を娶っており、その女性(比企尼)が乳母を務めた源頼朝とも早いうちから交流があったと推測される。頼朝挙兵時は知行国主平知盛の支配のもとで頼朝と敵対するが、頼朝の武蔵国入国を契機に赦されてその郎従となり、以降はその信任を得て元暦元(1184)年6月5日の除目(鎌倉除目到着は6月20日)で武蔵守となった源義信のもとで相聟同士(義信と重頼の妻は姉妹)で国務を行ったのだろう。

 その後、頼朝とその弟(猶子)である洛中守護・伊予守源義経との契約の中で、娘を義経正室として京都へ送っており、もともと比企尼を通じた頼朝と義経の紐帯強化が期待されていたと思われ、義経の麾下には重頼嫡子・小太郎重房が加わっている。

 ところが、義経が頼朝に敵意を示す叔父前備前守行家の捕縛を拒絶したことで、頼朝との関係が悪化。頼朝は命に服さなければ土佐房昌俊により義経ともども追捕を行う旨を通告したものの、義経はなお拒絶したため、土佐房昌俊は義経の六条室町邸を襲撃。結局、義経勢に行家勢が加わったことで、土佐房昌俊は捕らえられて梟首された。これにより義経は頼朝追討の宣旨を後白河院に要請。義経と頼朝の関係は破綻した。しかし、義経は頼朝代官という立場であり、義経に付されていた頼朝郎従は義経に加担することはなく、義経と行家はそれぞれ後白河院より九州と四国の惣追捕使に任じられ、京都を落ちていく。さらに摂津国から西へ向けて出帆するも強風によって船団は瓦解。義経と行家はその兵力を失って逃走し、頼朝による行家・義経の残党狩りが行われることとなる。そして、この結果、重頼と重房は義経縁者という理由から誅殺された。

 その後、武蔵国における河越氏の勢力は大きく損なわれることとなるが、子孫は鎌倉家郎従(御家人)として出仕しつつ北条得宗家の被官(御内人)となり、在京御家人として六波羅探題に出仕していたとみられる。その後、北条氏が滅んだのちは「鎌倉家」の家政機関を継承した足利氏(鎌倉殿のち室町殿)の家人となり、関東に下向して関東足利家(鎌倉公方)のもとで勢力を挽回したものの、鎌倉公方に対して反旗を翻した「平一揆」を主導して滅んだ。

平良文 平忠頼 平将恒 平武基 秩父武綱
秩父重綱 秩父重隆 葛貫能隆 河越重頼 河越重房
河越泰重 河越経重 河越宗重 河越貞重 河越高重
河越直重

●河越氏略系図●

       小代行平
      (八郎)
        ∥――――――弘家
      +―娘
      | 
      | 
 葛貫能隆―+―河越重頼―+―重房  +―泰重―――経重――+―宗重―――貞重―――+―高重―――直重
(別当)  |(留守所) |(小太郎)|(掃部助)(安芸守)|(出羽守)(三河守) |(三河守)(弾正少弼)
      |      |     |          |           |
      +―小林重弘 +―重時――+―信重       +―長重―――重方   +―上野介
      |(二郎)  |(二郎) |(二郎)       (二郎) (安芸守)
      |      |     |
      +―師岡重経 |     +―重家
       (兵衛尉) |      (五郎)
             |
             +―重員―――重資――+―真重
             |(三郎) (修理亮)|
             |          |
             +―重方―――実盛  +―娘
             |(四郎)       (三浦某妻)
             |          
             +―娘        
             |(源義経妻)     
             |
             +―娘
              (下河辺政義妻)

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河越重時(????-????)

 河越氏二代。河越太郎重頼の次男。通称は次郎河越庄預所

比企尼―+―娘
    | ∥―――――+―安達景盛
    | 藤原盛長  |(秋田城介)
    |(藤九郎)  |
    |       +―娘
    |         ∥
    |         源範頼
    |        (三河守)
    |
    +―娘     +―河越重房
    | ∥     |(小太郎)
    | ∥     |
    | ∥     +―河越重時
    | ∥     |(次郎)
    | ∥     |
    | ∥     +―河越重員
    | ∥     |(三郎)
    | ∥     |
    | ∥―――――+―娘
    | 河越重頼    ∥
    |(太郎)     源義経
    |        (九郎)
    +―娘
      ∥―――――――大内惟義
      平賀義信   (相模守)
     (武蔵守)

 父の河越重頼が帯していた武蔵国留守所惣検校職は、重頼誅殺ののちは秩父党嫡家の畠山次郎重忠へ継承され(『吾妻鏡』寛喜3年4月20日条)、河越氏は勢力を衰退させた。元久2(1205)年6月22日の畠山重忠追討軍の中に弟・河越三郎重員とともに名を連ね、重忠滅亡ののち、武蔵国留守所惣検校職は空席とされ、重時に継承されることはなかった。

 武蔵国留守所惣検校職が復活するのは、嘉禄2(1226)年4月10日のことで、重時の弟・三郎重員が任じられている。実に二十年にわたって秩父党は雌伏の時期を過ごしたことになるが、兄・重時の系統にではなく弟の重員が継承したのは、北条氏による有力御家人の勢力二分を図ったことが挙げられるだろう。

 建永2(1207)年2月20日、北条駿河守時房(義時弟)が武蔵守に任じられるとともに、「国務事、任故武蔵守義信入道之例、可致沙汰之旨」が命じられている。これまでは、平賀義信、河越氏など比企尼の縁戚によって治められていた武蔵国が北条氏の手に移ったこととなり、以降武蔵国は北条氏によって代々治められていくことになる。

 重時のその後は伝わらず、まもなく亡くなってしまったのかもしれない。重頼の罪科によって河越庄は重頼の母に預けられていたが、重時が河越庄預所に任じられている様子が、河越庄の領主・新日枝社の別当寺である妙法院に伝わる文書に見ることができる(落合義明『中世東国の「都市的な場」と武士』山川出版社2005)

 彼の子孫は代々河越氏の家督を相続。当主は北条得宗家から一字を偏諱されており、得宗家被官となったのだろう。

●畠山重忠追討軍交名(『吾妻鏡』元久二年六月二十二日条)

大将軍:北条相模守義時・北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛
先 陣:葛西兵衛尉清重
後 陣:境平次兵衛尉常秀、大須賀四郎胤信、国分五郎胤通、相馬五郎義胤、東平太重胤
諸 将:足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、
宇都宮弥三郎頼綱、八田筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、中条藤右衛門尉家長、
中条苅田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、
土屋弥三郎宗光、河越次郎重時河越三郎重員、江戸太郎忠重、渋川武者所、小野寺太郎秀通、
下河辺庄司行平、薗田七郎、大井、品川、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方、兒玉、横山、金子、村山党

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