秩父党 河越重房

河越氏

武蔵国留守所惣検校職

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河越泰重 河越経重 河越宗重 河越貞重 河越高重
河越直重

●河越氏略系図●

       小代行平
      (八郎)
        ∥――――――弘家
      +―娘
      | 
      | 
 葛貫能隆―+―河越重頼―+―重房  +―泰重―――経重――+―宗重――+―貞重
(別当)  |(留守所) |(小太郎)|(掃部助)(安芸守)|(出羽守)|(三河守) 
      |      |     |          |     |
      +―小林重弘 +―重時――+―信重       |     +―高重―――直重
      |(二郎)  |(二郎) |(二郎)      |     |(三河守)(弾正少弼)
      |      |     |          |     |
      +―師岡重経 |     +―重家       |     +―上野介
       (兵衛尉) |      (五郎)      |
             |                |
             +―重員――――重資――+―真重 +―長重―――重方
             |(三郎)  (修理亮)|     (二郎) (安芸守)
             |           |
             +―重方――――実盛  +―娘
             |(四郎)        (三浦某妻)
             |          
             +―娘        
             |(源義経妻)     
             |
             +―娘
              (下河辺政義妻)

河越重房(1168-1185?)

 河越太郎重頼の嫡男。母は比企尼娘。通称は小太郎。重房の活躍が見られるようになるのは、木曾義仲との合戦においてである。

 寿永3(1184)年1月20日、木曾義仲を討つべく、蒲冠者範頼源九郎義経の兄弟が頼朝の代官として数万騎を率いて京都に入った。大手大将軍の範頼は勢多より、搦手大将軍の義経は宇治から京都に攻め入り、征夷大将軍木曾義仲志田帯刀先生義広今井四郎兼平らと合戦。義仲は宇治川において搦手の先陣、畠山重忠率いる五百騎の真っ只中に突撃して突破した。重房は重忠の陣のうしろに三百騎を従えて駐屯していたが、義仲勢の突撃を受けて、やや押され気味であったようだ。しかし、義仲の近習である楯六郎親忠以下十六騎を討ち取る戦功をあげている。義仲はなおも後陣の佐々木四郎高綱勢二百騎、梶原平三景時勢三百騎、渋谷庄司重国二百騎らの陣を打ち破る勇猛さを見せた。義仲はその後、鎌倉殿別手として派遣されていた甲斐源氏・一條次郎忠頼らと近江国粟津で合戦し、相模三浦一族・石田次郎為久の手によって討ち取られた。

●義仲追討の頼朝勢

大手大将軍 蒲冠者範頼               
大手相従輩 武田太郎信義 加々見次郎遠光 一条次郎忠頼 小笠原次郎長清 伊沢五郎信光 板垣三郎兼信
  逸見冠者義清          
大手侍 稲毛三郎重成 榛谷四郎重朝 森五郎行重  千葉介常胤  千葉小太郎胤正 相馬次郎成胤 
国府五郎胤家
(国分五郎胤道)
金子十郎家忠 金子与一近範 源八広綱 渡柳弥五郎清忠 多々良五郎義春
多々良六郎光義 別府太郎義行 長井太郎義兼 筒井四郎義行 葦名太郎清高 野与
山口 山名 里見 大田 高山 仁科
広瀬          
搦手大将軍 九郎冠者義経          
相従輩 安田三郎義定 大内太郎維義 田代冠者信綱      
相従侍 佐々木四郎高綱 畠山次郎重忠 河越太郎重頼 河越小太郎重房 師岡兵衛重経 梶原平三景時
梶原源太景季 梶原平次景高 梶原三郎景家 曽我太郎祐信 土屋三郎宗遠 土肥次郎実平
土肥弥太郎遠平 佐原十郎義連 和田小太郎義盛 勅使河原権三郎有直 庄三郎忠家 勝大八郎行平
猪俣金平六範綱 岡部六弥太忠澄 後藤兵衛真基 後藤新兵衛尉基清 鹿島六郎維明 片岡太郎経春
片岡八郎為春          
御曹司手郎等 佐藤三郎継信 佐藤四郎忠信 伊勢三郎義盛 江田源三 熊井太郎  
大内太郎          

 京都に入った義経は、まず六条殿に馳せ参じて後白河法皇を警衛した。このとき義経を含めて参内したのは六騎(源九郎義経、畠山次郎重忠、渋谷右馬允重助、河越小太郎重房、梶原源太景季、佐々木四郎高綱)あり、御所の門前で下馬し、後白河法皇の御叡により御所の中門の外、御車宿前に立ち並んだ。このとき重房は十六歳。法皇は中門の羅門から叡覧、陪従の出羽守貞長に、かの六名について年齢、名前、住国を聞こし召された(『源平盛衰記』)

●参内した六騎(『吾妻鏡』)

  生国 装束 生年
源九郎義経    赤地錦直垂
萌黄唐綾紅糸威鎧
鍬形甲
金作太刀
二十五歳 今度の大将軍
畠山次郎重忠 武蔵国住人 青地錦直垂
赤威鎧
備前作平太刀
二十一歳 秩父末流畠山庄司重能の長男
渋谷右馬允重助 相模国住人 菊閉直垂
緋威鎧
四十一歳 渋谷三郎重国の長男
河越小太郎重房 相模国住人
(実際は武蔵国)
蝶丸直垂
紫下濃小冑
十六歳 河越太郎重頼の子息。
※河越太郎重頼とする説もある。重目結の直垂に射向の袖に赤地錦鎧、黒糸縅冑、大切符の征矢
梶原源太景季 相模国住人 大文三宛書たる直垂
黒糸威冑
二十三歳 梶原平三景時の子息
佐々木四郎高綱 近江国住人 三目結直垂
小桜黄返たる冑の裾金物
二十五歳 佐々木源三秀義の四男
宇治川の先陣

 このとき参内した中に、重房が加わっている(『源平盛衰記』)。重頼はおそらく平家との戦いにも義経の麾下として参戦し、活躍を見せたのだろう。

 元暦元(1184)年2月4日、源氏勢は二手に分かれて福原の旧都を攻撃拠点とし、大手の大将軍は蒲冠者範頼がつとめ、「五万六千余騎」で京を出陣、摂津国から播磨路にて播磨国生田の森に兵を進めた。同日、搦手大将軍として九郎義経「一万余騎」で京を出陣し、丹波路から福原へ向かった。この搦手軍に河越重頼と重房父子が「侍大将軍」として加わっている(『平家物語』)

●福原旧都へ進軍の頼朝勢(『平家物語』)

大手
大将軍
蒲冠者範頼                   
相従輩 武田太郎信義 加々見次郎遠光 小笠原次郎長清 一条次郎忠頼 板垣三郎兼信 武田兵衛尉有義
伊沢五郎信光          
侍大将軍 梶原平三景時 梶原源太景季 梶原平次景高 千葉介常胤 千葉太郎胤正 千葉小次郎成胤
相馬次郎師常  千葉五郎胤道 千葉六郎胤頼 武石三郎胤盛 大須賀四郎胤信 山田太郎重澄
山名小次郎義行 渋谷三郎重国 渋谷右馬允重資 佐貫四郎広綱 村上二郎判官基国 小野寺太郎通綱
庄四郎家長 庄四郎忠家 庄五郎広方 塩谷五郎惟広 勅使河原権三郎有直 中村小三郎時経
河原太郎高直 河原二郎盛直 秩父武者四郎行綱 久下次郎重光 小代八郎行平 海老名太郎季久
海老名三郎有季 海老名四郎義季 海老名五郎季時 中條藤次家長 安保次郎実光 品河次郎清経
曽我太郎祐信 中村太郎        
搦手
大将軍
九郎冠者義経          
相従輩 安田三郎義定 田代冠者信綱 大内太郎惟義 斎院次官中原親能 佐原十郎義連   
侍大将軍 畠山次郎重忠 長野三郎重清 稲毛三郎重成 土肥次郎実平 土肥弥太郎遠平 山名三郎義範
榛谷四郎重朝 森五郎行重 榛澤六郎成清 和田小太郎義盛 天羽次郎直常 糟屋藤太有季
河越太郎重頼 河越小太郎重房 平山武者所季重 平佐古太郎為重 熊谷次郎直実 熊谷小太郎直家
佐々木四郎高綱 小河小次郎祐義 大河戸太郎広行 師岡兵衛尉重経 原三郎清益 金子十郎家忠
金子与一近範 猪俣金平六範綱 渡柳弥五郎清忠 別府太郎義行 長井小太郎義兼 源八広綱
椎名小次郎有胤 佐藤三郎継信 佐藤四郎忠信 伊勢三郎義盛 多々良五郎義春 多々良六郎光義
片岡太郎経春 筒井次郎義行 葦名太郎清高 蓮沼太郎忠俊 蓮沼六郎国長 岡部六弥太忠澄
岡部三郎忠康 江田源三 熊井太郎 武蔵坊弁慶    

 義経は丹波路を駆け抜け、三草山に迫った。平家方はこの情報を得て、三草山に大将軍・新三位中将平資盛少将平有盛備中守平師盛平内兵衛清家恵美次郎盛方ら七千余騎で攻め寄せ、義経も土肥次郎実平を大将軍として一万余の軍勢で固めた。義経は実平に、

「今日の戦、夜討に易べきや、明けて易べきや」

と問うたとき、伊豆の名士・田代冠者信綱が実平を置いて進み出て、

「これ程の山を落とさむにはただ謀を先とす、雪は原を埋めども、老ひたる馬ぞ道を知るべし、一陣敗れぬれば残党全からずと云、平家はよも今宵は用心候はじ、夜討よく候」

と夜討ちを進言した。

 義経はこの田代信綱の意見を容れて夜討ちをかけることとし、午前二時、三草山下の平家陣に攻め込んだ。平家の先陣はさすがに用心していたものの、後陣はすでに寝入っており、義経の手勢は一人として討たれることなく、平家勢を壊走させた。義経はその勢いで、一万余騎のうち三千余騎を土肥次郎実平、田代冠者信綱に分けて山手攻めの大将軍とし、自らは三草山を廻って鵯越へ向かう手として、二手に分かれて進軍することとした。ときは2月6日、このとき義経は諸将に、

「そもそもこの山は悪所にてあんなるものを馬落として過ちすな、誰かこの山の案内知りたるや」

と問うた。西国には全く不案内な東国武士たちの姿がうかがえる。ここで十六歳の河越重房が、

「重房こそこの山の案内は知りて候へ、御免を蒙り先陣仕るべし」

と進み出た。すると父の河越重頼は、

「幼少よりして武蔵相模に居住して、足柄より西は見ず、いまはじめて西国の初下りにこの山に入って案内せむと申さるるこそ誠とも覚えね、山に迷はじと思はん人は用いることあんらめ」

と打ち笑って反対した。すると重房は『和漢朗詠集』の一説を引き合いに出し、

「『紫塵の嫩き蕨、人手を挙り、碧玉の寒き蘆、錐嚢を脱す』と云へり、心好たる歌人の吉野、龍田に分け入りて花や紅葉を尋ぬるに、花は峯の梢面白く、紅葉は谷川の岸の岩根色深し、敵の籠もれる後と思ひなして、城を構へたる山なれば、さこそ有らめと思ひなして、剛の者こそ案内者よ、さてこそ重房先を駆けむと申しつれ」

と言って父に反論した。重房はいまだ東国から出たことがなかったにもかかわらず、『和漢朗詠集』の一説を諳んじていることなど、京都の学問を身に着けていたことが想像できる。河越氏は武蔵国主である平知盛一族と私的に交流を持っていた(知盛の乗馬・河越黒は河越より進められたものである)と推測され、人々はこれを聞くと「理かな、面白し」と感じ入りつつ、山の中を歩き回ったが、所詮、山の地理に詳しい者などなく、山中に迷ってしまった。このとき義経の陣中には三草山の夜襲で生け捕った捕虜がおり、そのうちの一人を召し出して問うた。するとこの捕虜は、

「この山は鵯越と申して、さがしき山にて候とぞ承り候」

と答えた。義経は、

「そもそも和君は平家の伺候人か、また国々の駈武者か」

と問うと、彼は、

「平家の家人にても候はず、駈武者にても候はず、播磨国安田庄の下司、多賀管六久利と申者にて候が、去ぬる頃先祖伝来の所領を故なく平家の侍、越中前司盛俊と申す者に押領せられ候ひて、この二、三年の間、訴へ申候得共、訴訟達せずして罷り過ぎ候、所領は取られ候ひぬ、疵無き死し候はんよりは、同じくは弓矢を取って戦にこそ死に候はめ、と存じ候てこの手に付きて候」

と申上したため、義経は彼の縄を解き、道案内に立て、鵯越から下の一ノ谷に陣を構える平家の軍勢のもとに駆け降りて壊走させたという。この一ノ谷の戦いでは多数の平家の公達が討たれているが、小松殿平重盛の子である備中守師盛は小舟に乗って助舟を目指していたが、叔父の薩摩守平忠度の郎従・ 豊島九郎実治が取り残されて、助け給えと叫んでいるのを見て、小舟を陸地に寄せ返した。しかし、豊島は小舟を傾けて飛び乗ったため、舟は転覆。そこに、「河越小太郎重頼が郎従、次郎太夫八騎馳せ来たりて、熊手に懸けて是等を取り上げて頸を切」った。長刀を持った男が師盛を斬ろうとしたとき、この師盛が鉄漿を付けているのを見て、

「鉄漿付けさせ給ひて候は平家の一門にてお座しまし候ござんめれ、名乗らせ給へ」

と問うたが、師盛は

「汝に会ひては名乗るまじひぞ、後に人に問へ」

と、名乗りを拒否し、頸を落とされた。まだ十代の若者であったろう。この師盛を討った人物として「河越小太郎重頼が郎従」とあるが、これは「河越太郎重頼が郎従」の誤りか?

比企尼―+―娘
    | ∥―――――+―安達景盛
    | 藤原盛長  |(秋田城介)
    |(藤九郎)  |
    |       +―娘
    |         ∥
    |        源範頼
    |       (三河守)
    |
    +―娘     +―河越重房
    | ∥     |(小太郎)
    | ∥     |
    | ∥―――――+―娘
    | 河越重頼    ∥
    |(太郎)    源義経
    |       (九郎)
    |
    +―娘
      ∥
      伊東祐清
     (九郎)

 2月9日、範頼と義経は京都に帰還し戦勝を報告。範頼・義経はその後、京都で戦後処理や政務を担当している。そして9月14日、義経のもとに河越重頼の娘が嫁ぐために鎌倉を発った。重房の姉、または妹である。この婚姻については、頼朝は義経への目付として河越氏をつけたという説もあるが、おそらく範頼と同様、比企尼の縁戚とするためのものであろう。

 重頼・重房はその後も義経の陣に加わっていたと思われ、元暦2(1185)年3月25日、長門国壇ノ浦で勝利した源氏勢は、生け捕りにした平宗盛ら平家一門を伴って京都に帰還「九郎判官の小舅」の重房は宗盛の子・副将(平義宗)を召し預かることとなる。副将このとき八歳であった。

5月7日、義経は頼朝の命によって、前内大臣平宗盛を鎌倉に送ることとなったが、その前日の夜、宗盛は義経のもとに使者を立て、

「恩愛の道は思ひ切られぬものにて候、生捕のうちに八歳の童と付けられて候し者、いまだ此の世に候やらん、今一度見候ばや」

と懇請した。これを受けた義経は、重房に預けてあった副将と宗盛との対面を許可。付き添っていた女房二人を副将とともに牛車に乗せて宗盛のもとへ遣わした。宗盛は副将としばし対面し、兄の右衛門督平清宗も同席し、今生の別れを果たした。宗盛は思いの丈を述べたのち、副将に「こよひはただ疾く疾く帰れ」と促すが、副将は泣いて帰ろうとしない。兄の清宗も客人の来訪があるから帰れと促し、そのままにもできないので付添いの女房二人に連れて帰るよう指示した。

 重房は義経のもとを訪れると、副将の処置について相談した。しかし、義経はおそらく内々に鎌倉からの指示を受けていたのだろう。「汝、兎も角も是で相計らへ」と、重房に暗にその処断を命じた。

 翌日、重房は副将に付き添っている乳母と女房に対面し、

「大臣殿は鎌倉へ御下り候が、若公は京に御留あるべきにて候、重房も罷り下り候間、緒方三郎惟義が手へ渡し奉るべきにて候、疾く疾く召され候へ」

と、牛車を寄せた。副将は無邪気にも、また父宗盛のもとへ行けると思い、嬉々として車に乗り込んだ。

 牛車は六条を東へ向かっていた。義経が政務を執り平家一門を拘禁していた所は『吾妻鏡』によれば「六条室町邸」であったが、重房の宿所はそれよりも東にあったのだろう。女房らは怪しみ出したが、すでに一行は鴨川の河原に着いていた。河原には五、六十騎の武士が居流れており、牛車の下に敷皮が敷かれると、副将と女房は降りるように促された。副将は女房らに、

「我をば何処へ具して行かむとするぞ」

と問うた。しかし女房らはどう答えてよいのかわからず、口ごもんでいた。その間にも、重房の郎従が太刀を持って副将の左後ろに立ち、太刀を抜いて振りかぶった。副将もはっと気がつき、乳母の懐に逃げ込んだ。さすがに重房らもわずか八歳の子供を無理やり引きずり出すことは躊躇われた。乳母らも泣き叫んで副将の助命を嘆願するが、重房の一存ではとても決められないことであった。重房も十六歳の若武者、その姿に哀れを催し涙ぐむが、

「今はいかに思し召され候とも叶はせ給候まじ、疾う疾う」

と、ついに乳母の懐から副将を引き出し、斬首した。重房以下の東国の武士たちも、その哀れさにみな涙を流して悲しんだと伝わる。

 副将の首は義経の見参に入れるため武者の一行は六条室町邸へ発向したが、女房らは裸足のまま一行にすがりつき、副将の後世の供養のために首を給われと訴えたため、これを聞いた義経は哀れに思い、副将の首を二人に給わった。そして、その五日ほど後、桂川で幼い子供の首を抱えた二人の女性の水死体が発見された。

 重房は義経の陣中では、義経から目をかけられていた様子がうかがえ、一ノ谷の戦いでの活躍のほか、平家の総大将である平宗盛の子・副将を召し預かっており、大変信頼されていたのだろう。その後、義経は重房の姉妹を正妻として迎えることとなるが、河越氏は武蔵国に厳然たる勢力を持つ秩父党の惣領家である。義経と河越氏の縁戚関係は義経と頼朝の関係が決裂した後は強く警戒されることとなる。

 10月23日、重房は翌日に催される勝長寿院御堂落慶供養の随兵から除され、これ以降、重房は『吾妻鏡』に登場しなくなる。文治3(1187)年10月5日、「河越太郎重頼、依伊予前司義顕縁座、雖被誅令…」とあり、重頼は処刑されていることがわかるが、重房もこれに連座して処刑されたのかもしれない。


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