中村藩十代藩主 相馬樹胤

相馬中村藩主

相馬中村藩主


●陸奥国中村藩六万石●


代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女(長松院殿)
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤娘
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤娘
6代 相馬敍胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬敍胤 相馬昌胤娘
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 不明
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 神戸氏
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■十代藩主(相馬家二十六代)

相馬樹胤 (1781-1839)

<名前> 樹胤 (むらたね)
<通称> 内膳
<正室> 駒姫(松平伊賀守忠済娘・掃雲夫人)
<父> 相馬因幡守祥胤
<母> 於松殿
<官位> 従五位下
<官職> 讃岐守→因幡守→豊前守
<就任> 享和元(1801)年〜文化10(1813)年
<法名> 大隆院殿英巌徳応大居士
<子> 相馬宮内著胤…樹胤嫡男。病のため廃嫡となり文化14(1817)年6月18日に亡くなる。
相馬富次郎展胤…文化6(1809)年10月6日生。母は於暖。のち室賀美作守正発(幕府大目付)。
相馬大三郎真胤…文化9(1812)年9月8日生。母は某氏。のち根来采女正盛真。
相馬兼次郎博胤…文化14(1817)年12月16日生。母は芳尾。のち佐竹中務義祚(佐竹東家)。

●相馬樹胤事歴●

 八代藩主・相馬因幡守祥胤の長男。母は某氏(於松殿)。幼名は内膳

 松平忠済――――駒姫
(伊賀守)    ‖――――――相馬著胤
         ‖     (宮内)
 於松殿     ‖    
  ‖―――――相馬樹胤
  ‖    (内膳)‖――――室賀正発
  ‖      ‖‖於暖方 (美作守)
  ‖      ‖‖
  ‖      ‖‖―――――根来盛真
  ‖      ‖某氏   (采女正)
  ‖      ‖
  ‖      ‖――――――佐竹義祚
 相馬祥胤    芳尾    (中務) 
(因幡守)
  ‖――――+―相馬益胤
  ‖    |(吉次郎)
  ‖    |
 久美姫   +―相馬永胤
(松平忠告娘) (彭之助) 

 寛政7(1795)年4月4日、祥胤は長男・内膳を嫡子として幕府に届け出を済ませ、内膳樹胤讃岐守に任じられた。寛政9(1797)年12月7日、樹胤と上田藩主・松平伊賀守忠済の娘(駒子)との縁談がまとまり幕府に提出。翌寛政10(1798)年2月8日、縁組が認められた。そして寛政11(1799)年12月15日、樹胤と松平氏は婚礼の儀を挙げ、享和元(1801)年3月25日、祥胤は幕府に樹胤への家督相続願いを提出して認められ、祥胤は隠居。樹胤が第九代藩主に就任した。

 樹胤が家督を相続した当時、天明の大飢饉などによる田畑の荒廃などによって、藩財政はすでに三十万両もの借金を抱えて破綻寸前となっていた。この中村藩の建て直しが二十一歳の樹胤の双肩に圧し掛かった。裕福な給人層や郷士が金子を上納した場合には、御城下士並の待遇とする定めを先代より引継ぎ、さらに天明以来の人口の減少を食い止めるために子供の養育料を藩の公費で支払う政策も引き継いだ。一方で百姓へは百姓一軒につき、一石の無年貢地を与え、他の者(郷士類層)には持高に応じて無年貢地を与えて、生産者層をまず豊かにしようという藩財政の建て直しに奔走した。しかし、藩財政はなかなか好転することなく、財政が持ち直したのは幕末、甥の相馬大膳大夫充胤の代であった。

 また、樹胤は学問を奨励し、城下の万年山長松寺を学問所として藩士たちに紹介。自らもたびたび足を運んで藩士に混ざって住持の講義を受けていた。

相馬中村城
中村城

 享和元(1801)年4月18日、樹胤は家老の岡田監物恩胤相馬将監胤慈相馬主税胤綿の三名とともに将軍・徳川家斉に御目見を果たし、家督相続の御礼を言上した。その後、奥州中村への下向のため登城して許され、6月3日、藩主として初入部を果たした。樹胤は入城すると藩士に惣登城を命じ、国家老として藩政を見ていた堀内大蔵胤久泉内蔵助胤傳泉田左門胤保が太刀折紙を献上して入部を祝った。泉典膳胤陽も箱肴を進上している。

 11月22日、元服式を行い、理髪役は岡田監物恩胤、加冠役は堀内大蔵胤久が勤めた。

 文化6(1809)年正月、藩内の百姓一軒につき一石、「其外ノもの」には持高に応じて無年貢地を与えることとした。「其外ノもの」とは、給人・郷士と呼ばれていた下級藩士のことで、持高五石から九石までは五斗十石、それ以上は一律一石を無年貢地と定め、年貢を納める生産者の生活をまず豊かにしてから増収を図ろうという政策を実施した。また、天明の飢饉で人口が三万五千人を割り込んでしまった藩内人口をこれ以上減らさないよう、子供の養育料扶助政策を先代より引継ぎ、実行した。領内の家庭で三男三女以上の子供に対して養育料を支払い、さらには十人以上の子供を育てた者には名字帯刀を特例として差し許す制度である。

 文化6(1809)年10月6日、側室・於暖が二男・富次郎(展胤。のち室賀美作守正発)を出産。ただちに正妻・駒姫の養子と定められた。

同慶寺
小高山同慶寺山門

 文化7(1810)年10月15日、菩提寺の小高山同慶寺が衆寮から出火し、延焼して寺域一切が消失してしまった。樹胤は翌文化8(1811)年、早くも同慶寺の再建を命じ、梵鐘が新鋳された。

 文化9(1812)年9月8日、御内証が三男・大三郎(真胤。根来采女盛真)を出産した。

 文化10(1813)年5月23日、樹胤は病身を理由に隠居を願い出た。また、嫡子・相馬宮内著胤も病弱であったために廃嫡とし、異母弟・吉次郎益胤を養子と定めた。8月21日に著胤の退身願を幕府に提出し24日に認められ、9月18日、弟・吉次郎を養子とする養子願が幕府へ提出された。樹胤には著胤のほかに富次郎と大三郎の二人がいたが、いずれも幼少であったことと、義母(父・祥胤の正妻であった松平遠江守忠吉娘)の実子であった益胤に跡を継がせようとした配慮があったものと思われる。

 11月15日、樹胤の隠居と益胤の家督相続の御礼のため、岡田監物恩胤泉左衛門胤陽相馬将監胤武とともに登城し、将軍・徳川家斉に謁見を済ませた。樹胤が隠居したのち、前々藩主・祥胤を「大殿様」、前藩主・樹胤を「中殿様」、新藩主・益胤を「殿様」と称することが定められ、11月28日、樹胤は麻布下屋敷に移り住み、代わって益胤が桜田上屋敷に移り住んだ。

 閏11月3日、新藩主・相馬益胤は実弟の相馬彭之助永胤を仮養子として幕府に届け出を済ませたのち、中村への帰国の届け出を済ませ、15日、益胤は永胤とともに中村へ帰国。道中、永胤は「東永之助」と名を改めた。

 文化11(1814)年1月18日、樹胤は願いの通り豊前守へ任官した。

 文化12(1815)年11月15日、長男・宮内著胤の御袖留の祝儀が執り行われた。そして文化13(1816)年2月15日には著胤の傅役が岡田小源太から伊東右平次に移された。その理由は不明だが、著胤は相変わらず体が弱かったようで、文化14(1817)年6月18日、疱瘡に加えて夏の暑さのために浮腫があり、ついに亡くなってしまった。6月22日、江戸の宝泉寺へ埋葬された。法名は観光院殿空外伝明大居士。同じ年の12月16日、御内証の芳尾に四男・兼次郎(博胤。のち佐竹中務義祚)が誕生した。

樹胤墓 樹胤妻墓
樹胤公墓碑(同慶寺) 掃雲院殿墓碑(同慶寺)

 文化13(1816)年6月23日、父・祥胤が亡くなってのちは「大殿様」と称され、藩内の席次でも第二席として重んぜられた。そして天保6(1835)年3月7日、益胤が隠居して嫡子・相馬吉次郎充胤の家督願が幕府に提出されて認められたのちは、益胤を「中殿様」、充胤を「殿様」と称する事となった。

 天保10(1839)年春ごろから樹胤は病がちとなり、9月12日明け方、喘息の発作で倒れた。9月16日に国許から駆けつけた前藩主・益胤と対面し、9月22日、麻布藩邸にて損館した。世寿五十九歳。法諱は大隆院殿英巌徳応大居士

 宝泉寺での葬儀が執り行われたのち遺骨を菩提寺のある小高に移すこととなり、熊川宿で相馬将監の出迎えを受けたのち、10月24日、中村城下の小高山同慶寺(現在の月海山蒼龍寺)に安置。26日、積雲寺の南にて同慶寺住持・大洞豊洲和尚を導師として葬儀が執り行われた。そして11月11日、小高の洞雲寺(現在の小高山同慶寺)に葬られた。

 嘉永4(1851)年10月13日、後室・ 掃雲院殿(松平忠済娘・駒姫)が江戸麻布屋敷で亡くなった。世寿七十三歳。法名は掃雲院殿駒嶽皎然大姉。江戸の中村藩公菩提寺・宝泉寺に葬られ、小高山同慶寺に墓碑が建てられた。

◎相馬樹胤代の中村藩重臣◎

年代 藩主 重臣
享和3(1803)年 相馬因幡守樹胤 【家老】堀内大蔵・相馬主税・堀内覚左衛門・小畑六左衛門
文化6(1809)年 相馬豊前守樹胤 【家老】岡田監物・相馬左織・西市左衛門・久米郷左衛門
【中老】大越四郎兵衛



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室賀正発(1809-????)

 父は相馬豊前守樹胤。母は側室於暖方。通称は富次郎、内膳、壽之助、兵庫。諱は展胤。官位は従五位下。官途は采女正美作守。文化6(1809)年10月6日、江戸藩邸に誕生。ただちに正妻・駒姫の養子と定められた。

 文政11(1828)年6月18日、展胤は本所二ツ目の大身旗本・室賀家との養子縁組の話が公表された。しかしながら、この縁組について室賀家より「御縁組不同意」との知らせが届いたことから、7月11日、室賀家へ再談の飛脚が走っている。

 8月28日、内膳展胤大三郎真胤の兄弟は、内膳は「壽之助」、大三郎は「内膳」と改名され、翌文政12(1829)年12月2日、壽之助の室賀主馬正儀への養子願が幕府に提出され、年があけた天保元(1830)年3月晦日、正式に認可され、閏3月3日、室賀家へ引き移った。このとき、支度金として千二百両、持参金として五百両が持たされている。養家としてもこの支度金や持参金が大切な収入源となっていたようである。

 翌天保2(1831)年、「室賀寿之助」「御寄合衆」となり、その年の内に「兵庫」と改める。以降、天保7(1836)年まで五年間、寄合衆として勤めた(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)

 天保7(1836)年8月24日、寄合から定火消役(鉄炮組御茶ノ水)となり、天保10(1839)年8月20日には百人組頭、天保13(1842)年正月11日には小姓組頭となる。2月8日には、将軍・徳川家慶の寛永寺浚明院殿参詣につき、将軍家代参の堀田備中守正睦の供として書院番頭・菅沼伊賀守とともに御前給仕を命じられている。

 10月29日には従五位下美作守に叙任(『続徳川実紀』)。弘化3(1846)年8月17日には書院番頭と武官の出世コースを順調に登り、嘉永4(1851)年11月15日には将軍家直属の武装隊長である大番頭に就任。さらに安政4(1857)年2月9日には駿府城代にまで登りつめた。

 安政6(1859)年2月24日、駿府城代から御側役へ転任。翌万延元(1860)年12月16日、嫡男・熊太郎正容諸大夫となり、正発自身は文久3(1863)年6月20日、願いの通り御側役を御役御免となり、隠居して正容に家督を譲った。



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室賀正容(????-1886)

 室賀美作守正発の嫡男。通称は熊太郎。妻は加藤山城守妹。官位は従五位下。官途は遠江守、但馬守、美作守、甲斐守、伊予守。号は竹堂。明治初期の徳川家達家家令(慶喜家附)相馬豊前守樹胤の孫。

 万延元(1860)年12月16日、従五位下を授けられて諸大夫となり、父の美作守正発が隠居したのち家督を相続。元治元(1864)年5月24日に新番頭となるや、6月22日には小普請組支配、8月13日には将軍直属の親衛組織「両番」のひとつ、小姓組番頭に就任した。翌8月14日の将軍・徳川家茂の長州征伐出陣にも供奉している。

 慶応元(1865)年10月16日、旗本の上級職のひとつ、大目付に就任した(『木村摂津守喜毅日記』)。同日、親類の小栗下総守政寧「司農(勝手方勘定奉行)」を仰せ付けられている。

 翌慶応2(1866)年6月23日、長州征伐のため大坂城に在城中の将軍・徳川家茂が病のため、御側御用取次に就任した。家茂の信頼の篤さが伺える。7月20日に大坂城で家茂が亡くなると、京都に移ったと思われ、慶応3(1867)年4月26日、妻の加藤氏が京都で亡くなっている(『藤岡屋日記』)

 慶応4(1868)年正月の「鳥羽伏見の戦い」では、淀本営の老中格・松平豊前守正質(大多喜藩主)の指揮のもと、戸田采女正氏共の大垣隊とともに幕府勢二小隊を率いて京都へ攻め入ることが決定された。しかし戦いは幕府勢の敗北となり、首謀者の一人として正月10日、会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らとともに官位官職を削られる

●慶応4年正月官位停止の人々

名前 藩等 役職
徳川内大臣慶喜   征夷大将軍
松平肥後守容保 陸奥会津藩主 前京都守護職
松平越中守定敬 伊勢桑名藩主 前京都所司代
松平讃岐守頼聰 讃岐高松藩主  
松平伊予守定昭 伊予松山藩主  
板倉伊賀守勝靜 備中松山藩主 老中
松平豊前守正質 上総大多喜藩主 老中格
永井玄蕃頭尚志   若年寄
平山図書頭敬忠   若年寄並・外国総奉行
竹中丹後守重固   若年寄並・陸軍奉行
塚原但馬守昌義   若年寄並・外国奉行
戸川伊豆守忠愛   大目付
松平大隅守信敏   大目付
新見相模守正典   目付
設楽備中守能棟   目付
榎本対馬守道章   目付
牧野土佐守成之   歩兵奉行並
岡部肥前守寛次   目付
大久保主膳正忠恕   陸軍奉行並
小栗下総守政寧(相馬長門守益胤従兄弟)   勘定奉行勝手方・関東郡代
星野豊後守成美   勘定奉行並
高力主計頭忠長   陸軍奉行並
小笠原河内守長遠   京都見廻役
大久保筑後守忠恒   目付
大久保能登守教寛   詰銃隊頭
戸川肥後守勝強   陸軍奉行並
室賀甲斐守正容(相馬長門守益胤甥)   御側御用取次

 2月9日、御役御免となり寄合となった。その後は隠居して「竹堂」と号する。

徳川家達邸跡地
徳川家達邸跡(西草深公園)

 明治に入ると、竹堂は徳川宗家を継いだ徳川家達(田安徳川亀之助)に従って静岡へ下り、明治2(1869)年11月3日、勝海舟織田泉之(静岡藩大参事。元大目付・織田和泉守陳重)と様々相談し、「室賀の事、一翁へ一封」している(『海舟日記』)。おそらく竹堂の家令就任に関することと推測される。竹堂はこの年、宮ヶ崎邸(現在の西深草公園)の徳川宗家の家令となっている。12月晦日、竹堂は勝海舟邸を訪れている(『海舟日記』)。その翌日の明治3(1870)年元日、竹堂は昨日に続いて勝邸を訪問して挨拶している。

 明治3(1870)年3月ごろ、宮ヶ崎町の徳川宗家家令の一人として見える一方で、梅沢孫太郎とともに、駿府紺屋町に居住していた前将軍・徳川慶喜家の家令でもあり、徳川宗家から出向していたと思われる。

●徳川家達宮ヶ崎御住居の家令

大久保一翁
(大久保越中守忠寛)
亀井勇也
(亀井勇也茲福)
酒井録四郎
(酒井録四郎忠恕)
溝口八十郎
(溝口伊勢守勝如)
梅沢孫太郎
(梅沢孫太郎守義)
室賀竹堂
(室賀伊予守正容)

 5月27日、勝海舟とともに本所の大徳院に参詣した(『海舟日記』)

 11月10日、勝海舟邸に竹堂と南一郎(元新選組隊士)が訪れ、お金の無心をし、海舟は二両遣わしている。なぜ無心したかは記されていないが、南一郎への口利きかもしれない。翌11日、竹堂はふたたび海舟邸を訪れて「明日遠州へ出立候旨」を伝えており、12日に遠州(浜松か)へ向かったと思われる。

慶喜邸跡
慶喜紺屋町邸跡(現・料亭浮月楼)

 明治4(1871)年6月29日、慶喜の長男(母は新村信)が紺屋町邸で誕生したため、7月1日、竹堂が海舟邸を訪れてその報告をしている。そして5日、ふたたび竹堂が海舟宅を訪れ、海舟に新生児の名を考える旨を通達。海舟は「敬事」「定爾」の二案を提示。結果、敬事と名付けられた。さらに9月8日には、慶喜次男が出生(母は中根幸)。9月12日、竹堂と梅沢孫太郎が海舟宅を訪問して、出生の報告がなされている。名は善事と名付けられた。

 明治5(1872)年正月1日、浅野氏祐(旧幕臣)ら県の役人が年賀の挨拶に罷り出た際に対応。 正月8日、慶喜が近所へ乗馬に出かける供をした。正月9日、竹堂は海舟宅を訪れて「一堂様御附改革」のことを話している。後日竹堂が職を免じられてしまうことになる慶喜家附の用人に対する改革案はこのころに話し合われ始めたのだろう。

 正月26日、慶喜家家従の羽太鈔三郎の義父(旧幕臣・羽太庄左衛門)から竹堂へ和炮が贈られ、2月15日、竹堂は羽太鈔三郎とともに墓参のため、静岡を発した(『慶喜邸を訪れた人々』前田匡一郎編著)

宝台院
宝台院

 4月22日には、慶喜の投網の供として、清水湊まで赴いた。4月29日には、慶喜室美賀子の供をして、宝台院へ赴いた。宝台院は二代将軍・徳川秀忠生母の於万の方の菩提所で、慶喜が静岡に赴いた際に謹慎していた、徳川家に所縁深い寺である(『慶喜邸を訪れた人々』前田匡一郎編著)

 このように、慶喜家に勤仕していた竹堂だったが、9月5日、竹堂はじめ家従、家丁らが家政の関係で勤仕御免を命じられてしまう。正月9日に海舟に相談した「一堂様御附改革」の結果と思われるが、職を失った竹堂はすでに手を講じていたようで、浜松県磐田郡見付宿に移住し、興味を持っていたと思われる英語を広めるべく、明治6(1873)年に私学校を設立。イギリス人のThomas Harding氏を教師に雇い、翌明治7(1874)年10月5日に開校した。その傍ら英書の翻訳書を出版している。

●「浜松県布達第百七号」(『静岡県史』)

 今般当県貫属士族室賀竹堂、見付宿ニ於テ私学校相設、英国人トーマスハージング氏相傭、語学開業致候ニ付、有志之者共ハ同校ヘ入学可致候、此旨布達候事、
 
 明治七年十月五日   浜松県令 林厚徳

 明治19(1886)年10月17日、亡くなった。墓所は長永寺(『駿遠へ移住した徳川家臣団』前田匡一郎編著)。

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根来盛実(1812-????)

 父は相馬豊前守樹胤。母は御内証某氏。通称は大三郎、内膳、采女。初諱は真胤。文化9(1812)年9月8日、中村に誕生した。

 文政8(1825)年9月18日、藩公・益胤は千葉寛次郎と甥・相馬大三郎真胤(樹胤次男)の丈夫届を幕府に提出した。寛次郎五歳、大三郎二歳と公表したが、寛次郎は数え三歳、大三郎は当歳か。年を水増しして提示するのは、十七歳未満の大名には養子を認めない幕府の方針があったためで、大名や旗本の当主が十七歳未満で亡くなると、末期養子は認められずに御家断絶となった。年齢を水増すことでなるべく絶家の危険を回避する方策を採っていたと思われる。

 大三郎には旗本・水谷織部との間で養子縁組の話が大詰めを迎えており、文政11(1828)年2月26日、今日、大三郎は江戸に向けて出立した。続いて3月28日、益胤も中村を出立して江戸へ向かい、4月4日に江戸藩邸に到着した。留守居役ほか近江屋喜六相馬家出入りの商人たちも到着に際して控えていた。

 4月11日、土産として老中・水野出羽守忠成(駿河国沼津藩主)に駒焼きの水差、猪口、角皿などを進上した。4月18日、水野忠成に大三郎の水上家への養子願書を提出した。翌19日には益胤が参勤の礼のために登城して将軍・徳川家斉に謁見している。

 大三郎の養子願いは認められるという前提のもとで、4月27日、大三郎は水上家重臣・多田半十郎の迎えを受けて水上家に引き移った。28日には、水上家へ大三郎の荷物が届けられるなど、着々と縁組は進んでいたが、6月2日にいたって、老中・水野忠成の承認が得られず、先日提出された養子願届が相馬家へ差し戻された。不審に思った相馬家がただちに、藩士・猪苗代貞之丞を以って水野へ問い合わせたものの翌3日、「申さず旨達し」た。

 相馬家は、田沼意次を凌ぐ賄賂老中・水野忠成が相手であり、おそらく献上品が少ないために大三郎の縁組は認められなかったと考えたのだろう。6月8日、水野家公用人・五十川左司馬を通じて金二千疋(御肴代)、木綿縮一反をあらたに暑中見舞いとして献上した。しかし、これらの献上品の効果もなく、大三郎の養子縁組はついに「相済み申さずに付き」と認められることはなかった。

 6月12日に書面ではなく水野家の家臣から口頭で伝えられるなど、至って不親切な対応の中で、大三郎の養子縁組は破談とされてしまった。水野忠成は賄賂政治を横行させた利権老中であることから、相馬家からの献金などが少額だったことへの報復だったのかもしれない。

 一方で、6月18日には樹胤の次男・内膳展胤が七千石の旗本・室賀家との養子縁組の話が公表された。しかしながら、この縁組について室賀家より「御縁組不同意」との知らせが届いたことから、7月11日、室賀家へ再談の飛脚が走っている。また、水野忠成へ相馬家より内慮伺いの手紙が送られた。

 養方弟 富次郎事
     相馬内膳
 同   相馬大三郎
 
 右者養父豊前守妾腹之男子ニ而、私養方弟ニ御座候、文化十酉年九月十八日、私儀兄豊前守養子ヘ被仰付候、其後右両人之者共、丈夫罷成候、是又別紙之通御届申上置候、右大三郎儀、先達而
寄合水上織部婿養子相願候所、養子ニ相成難者ニ而、願書御指戻ニ相成候、右両人共他家ヘ養子願者、難相成者ニ御座候や、御内慮之程、奉伺候、以上

 相馬内膳および相馬大三郎が丈夫届けを出したにもかかわらず、養子として認められなかったのはなぜなのかを、やや強い調子で忠成へ問い合わせたものだった。これに対し、忠成は7月17日、相馬家留守居を屋敷に呼び出して、

 書面養方弟両人共病身ニ而嫡子ニ相願ものニ付、丈夫届差出候而も、他家へ養子ニ遣候儀者、難相成候、尤嫡子ニ定者とも違作家之養子相願候儀者、可相済候事

 との書面を手渡した。つまり、水野忠成は内膳、大三郎は病身であり、養家の嫡子としてはふさわしくないために認めなかったという主張をしている。

 8月28日、内膳展胤大三郎真胤は、それぞれ改名して内膳は「壽之助」、大三郎は「内膳」とされた。その後も壽之助展胤の養子交渉は続けられ、翌文政12(1829)年12月2日、壽之助を旗本・室賀主馬正儀の養子とする願書が幕府に提出され、年があけた天保元(1830)年3月晦日、今回は正式に認可され、閏3月3日、室賀家へ引き移った(室賀正発と名乗る)。このとき、支度金として千二百両、持参金として五百両が持たされている。養家としてもこの支度金や持参金が大切な収入源となっていたようである。

 天保元(1830)年5月13日、相馬富次郎大三郎丈夫届が幕府に提出された。大三郎はその後「采女」と改めている。そして10月7日、采女真胤は旗本・根来家への婿養子の縁談が済み、12月18日、根来出雲守斯馨の娘と婚姻して根来家に移り、「根来采女盛実」と称する。采女が先年、老中・水野忠成の異見によって水上家と破談した理由は「虚弱」が公的な理由だったのだが、今回は許可がおりている。

 天保8(1837)年3月、養父・根来出雲守斯馨が亡くなり、翌天保9(1838)年には盛実が「御寄合衆」に列しており(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、これ以前に家督を相続している。禄高は三千四百五十石余。

 安政7(1860)年まで二十二年にわたって寄合に列し、万延元(1860)年7月29日、嫡子・根来栄三郎が家督を継承して寄合に列した。このころ盛実は隠居したか亡くなったと推測される。栄三郎は慶応3(1867)年まで寄合だったことが記録されている(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。明治初年には銃隊二十五人を率いて在京しているが(『中大夫以下禄高兵員録』国立公文書館)、これ以降の栄三郎の事歴は伝わらない。

 万延元(1860)年8月4日、出羽久保田藩一門の北家当主・佐竹主計義倫が十三歳で亡くなったため、久保田藩主・佐竹右京大夫義就は従弟の根来盛実の次男・竹之助を北家の養嗣子に求め、文久2(1862)年8月29日、竹之助は北家相続の許しを得、9月18日、竹之助は十五歳で久保田藩に出仕し、佐竹河内義尚と称した。

●根来家・相馬家周辺系図(■:相馬家■:公儀旗本■:佐竹家

 相馬祥胤―+―相馬樹胤―+―室賀正発―――室賀正容
(因幡守) |(豊前守) |(美作守)  (美作守)
      |      |
      |      +―根来盛実―+―根来栄三郎
      |      |(采女)  |
      |      |      |
      |      |      +―佐竹義尚
      |      |       (河内守)
      |      |
      |      +―佐竹義祚―――佐竹義寿
      |       (中務)   (将監)
      |
      +―相馬仙胤―――小栗政寧―+―小栗政良
      |(縫殿)   (下総守) |(綱太郎)
      |             |
      |             +=小栗倉三郎
      |
      |
      +―相馬益胤―+―相馬充胤―――相馬誠胤
       (長門守) |(大膳亮)  (豊前守)
             |
             +―佐竹義典
             |(山城)
             |
             +―佐竹義堯―+=佐竹義脩
             |(右京大夫)|(修理大夫)
             |      |
             |      +―佐竹義生
             |
             |
             +―佐竹義ェ―――佐竹義脩
             |(播磨守)
             |
             +―岡田泰胤―――岡田省胤
              (将監)

 家紋は丸に抱き茗荷。菩提寺は白銀の紫雲山瑞聖寺

 

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佐竹義祚(1817-1858)

 父は相馬豊前守樹胤。母は御内証芳尾。幼名は兼次郎、兼三郎、兼之助。諱は博胤、義矩、義祚。通称は中務。妻は岩城伊予守隆喜娘画人としても知られている文化人でもある。

 文化14(1817)年12月16日、江戸で生まれ、兼次郎と名付けられる。

◆旗本水上織部家の養子となる

 文政11(1828)年2月26日、兼次郎の兄・相馬大三郎真胤が旗本・水上織部家への養子縁組が大詰めを迎え、この日、大三郎は中村を発した。しかし、なぜか最終的に幕府の許可が下りず、老中・水野出羽守忠成から、水上家御養子御願は「相済み難く候に付き」差し戻された(『江戸在番日記』)。相馬家側としては納得できず、翌6月3日、水野忠成に「御内慮伺い」をしたところ、水野家からは「申さず旨御達」された。結局、その理由は不明のままであった。この水野出羽守忠成は賄賂政治を行なった人物として知られ、それが関係していたようである。その後、また内慮を伺うと、表向きは「病身ニ而嫡子に不相願ものニ付」き、他家に養子に遣ることは憚られるというものであった。

 相馬家はこの水野忠成の内慮を水上家へ伝え、大三郎に代わって弟・兼次郎を水上家への養子として申し出たが、水上織部はじめ水上家中はこれまでこのような例はなかったとはいえ、婿養子として、すでに引き移りまで済んだ大三郎を情愛の面、世間体からも離しがたく、7月22日「仮令一応二応御断而も是非御貰可成御模様」とのことであった。

 相馬家としては、こちら側の理由での破談のため、義理の上からも悩んだ様子がうかがえるが、22日、江戸家老・草野半右衛門正辰は麻布の大殿・樹胤が兼次郎を水上家の養子とすることを希望していることを益胤に言上。益胤もこの意を汲み、兼治郎を水上家養子として願い出ることと決定した。実際に願いが届出されたのは翌文政12(1829)年5月23日のことである。そして8月22日、兼次郎の水上織部婿養子願いが提出され、天保元(1830)年3月15日、兼次郎は水上家へ引き移った。

 その後、兼次郎は水上家から相馬家へ戻ったようだ。その時期ははっきりしないものの、水上織部に実子が誕生したためかもしれない。水上織部の子・水上内膳正典は嘉永元(1848)年6月2日、寄合から本所深川火事場見廻となっている。相馬家へ戻ったのち、通称を「兼之助」と改めたようである。

◆久保田藩一門佐竹東家の養子となる

 天保11(1840)年5月15日、甥で佐竹東家を継いでいた佐竹山城義典(泰心院殿)が久保田で病死すると、実子がないため相馬家から兼之助を東家養子に迎えることとなり、6月19日、「相馬大膳亮様御厄介兼之助様御貰」(『秋藩紀年』)ため、江戸詰の物頭・黒沢采女が相馬邸に派遣されて、兼之助は佐竹東家の養嗣子となり、名を「佐竹兼之助義矩」と改めた。

 8月19日、兼之助は江戸を出立し、9月5日、「東家之養子兼之助」が秋田へ到着。9月21日、通称を「中務」と改めた。そして9月24日、中務ははじめて久保田城に登城し、藩公・佐竹義厚に謁見した。

 佐竹東家は久保田藩一門の佐竹四家(東、西、北、南家)筆頭で、久保田城下に常駐して藩主を輔弼し、藩政の重大事項の決済を行なった。とくに義祚は卓越した政治手腕で佐竹義厚、佐竹義睦の二代を支え、藩内に絶大な権力を持った。

 弘化4(1847)年6月16日、藩公・佐竹義睦は、前屋形・義厚(宏徳院殿)の遺物の形見分けとして、「東家中務(義祚)」「御太刀一腰、御掛物一幅」を下された(『秋藩紀年』)。10月10日、「東家中務」「御目附衆御用向」を滞りなく務めあげたため、「御紋附御羽織」を拝領した。同日、家老の石塚孫太夫義貞、宇都宮帯刀孟綱も「御紋附御羽織御時服」を拝領している。

 嘉永7(1854)年10月15日、十五歳の藩主・佐竹義睦は将軍・徳川家定に謁見した。このとき、義睦に同席して謁見を許されたのが、後見の佐竹左近将監義核(一門筆頭)ほか、「佐竹中務(東義祚)、佐竹近江(西義茂)、佐竹左衛門(南義隣)、戸村十太夫(戸村義效)、石塚孫太夫(石塚義貞)、小野岡右衛門(小野岡義礼)、佐藤源右衛門(佐藤信久)」であった。藩主・義睦は12月、従四位下に叙され、右京大夫・侍従に補任されている。

◆家老衆との対立と失脚 〜安政四年五月二十一日の政変〜

 安政2(1855)年10月10日、義睦は突如、江戸家老で自身の傳役でもあった佐藤源右衛門ら重臣四名に隠居・謹慎を命じた。

 「御家老佐藤源右衛門信久」は弘化4(1847)年正月19日、「義睦公御幼事中御傳役兼帯」を命じられ、以来、江戸家老を務めながらまだ幼い義睦の傳役をも務めた有能な人物だったが、自然と権勢が強くなり、職務上での勝手な振る舞いと妾を置くなど奢った生活を送った。結果、藩主・佐竹義睦もこの佐藤の行状を確認し、田代彦八郎、高根勝馬、田代蔀の藩重役三名とともに蟄居や隠居、家禄三分一召上などの処分を受け、失脚した(『宇都宮孟綱日記』)

 この失脚劇は、家老職同士の権勢争いが垣間見える。もともとは藩内政だけではなく幕末の海防役等で多忙な時期にあって、二十万余石の久保田藩には家老職が江戸、国元あわせてわずか四名しかいなかった状況に、国家老の宇都宮帯刀・石塚孫太夫が家老増員を江戸家老の佐藤源右衛門に相談したことにはじまる。国元にはもう一人、家老職に塩谷伯耆紀綱がいたが、彼は病のため勤務に耐えられず、出仕はしていなかった。

 この報告を受けた佐藤源右衛門は、はじめは増員を渋っていたものの、塩谷伯耆の病状が見えないことや現実的に藩政が回らなくなることを恐れ、嘉永6(1853)年12月28日、宇都宮ら国家老に家老職の人選を勧める文書を送った。家老職の人事は、現職家老職の総意と東家当主の決裁をもって藩公に提出し、最終判断がなされる流れであり、佐藤源右衛門は国家老の宇都宮や石塚、東中務義祚の意見を聞くことが必要であった。

 佐藤からの書状を受けた宇都宮・石塚は、国元の輔弼・東中務義祚と話し合いを持ち、中務の名で江戸の一門筆頭・佐竹壱岐守義純(久保田新田藩老公)へ、家老職増員の人選について相談する書状が送られた。

 宇都宮ら国元家老の報告を受けた佐竹壱岐守は、大越甚右衛門忠国を推薦して佐藤に伝え、国元の宇都宮、石塚両家老にも異存はなく、嘉永7(1854)年4月11日、大越甚右衛門が新たに家老職に就任した。これによって、家老職は五名体制となるが、塩谷伯耆は閏7月20日に病のために退役したため、結果として家老職は四名のままとなった。さらに新家老・大越甚右衛門も翌安政2(1855)年8月22日に病死し、もはや家老職の大幅増員は避けられない状況となった。この人選に、佐藤源右衛門と石塚孫太夫の対立構図が見え隠れする。

 9月晦日、佐藤源右衛門は新家老候補として「小貫佐渡、寺崎藤九郎、中安内蔵」の三名を佐竹壱岐守に推した。このうち、小貫佐渡は佐藤家とは遠縁に当たり、佐藤源右衛門の娘婿でもあった。源右衛門は、

「佐渡事御用ニ相立候人物ニ御座候、中務ニも当人被仰付候様ニ申上候模様ニ内々相聞得候」

ことさらに小貫佐渡を強く推薦し、中務義祚も小貫を推薦するように内々で聞いていると、輔弼たる義祚もこの人事案に賛成しているとした。しかし、一方でこの推薦については、

「極密私之存寄奉申上候間、決而帯刀江御洩し不被遊候様ニ奉存候、内々中務江相談仕候儀ニ御座候、孫太夫江は三人之内、思召次第被仰出候様申上候事」

と、宇都宮帯刀へは人事案を洩らす事がないように釘を刺している。さらに石塚孫太夫へは、人事案が決定次第伝えるように要請している。実は、9月5日に宇都宮帯刀が江戸藩邸に来ており、壱岐守との接触があるためと思われる。宇都宮帯刀を通じて人事案が石塚孫太夫へ伝わることを恐れたものだろう。ただ、当時壱岐守義純「起居言語共に不自由」「重キ御用ハ何共心配至極」な状態になっており、養子の久保田新田藩主・佐竹左近将監義核が義純代となっていた。

 左近将監は宇都宮帯刀と新家老人事について相談を行なった際、佐藤源右衛門からの意見通り、

「佐渡被仰付可然」

と、小貫佐渡を推薦した。これは国元の東中務義祚が賛成しているという意見も作用していると思われるが、宇都宮帯刀は同意できないとしている。

 一方、このころ藩主・佐竹義睦は佐藤源右衛門の権力を使用した不正や堕落した生活を調べており、その証拠が固まると、10月10日、義睦は佐藤源右衛門ら重職四名を罷免した。これは本来の家老職人事の流れを無視した藩主・義睦主導の決裁であり、藩主輔弼である東中務義祚にもまったく相談がなされていなかったようだが、恐らく国家老・石塚孫太夫が大きく関わっていると思われる。

 そして、佐藤源右衛門更迭の翌11日には、中安内蔵盛良が家老職に抜擢された(『歴代家老名譜』)。これは佐藤源右衛門に代わる家老職であり、この家老人事も江戸の佐竹左近将監や宇都宮帯刀と相談の結果のものではないだろう。そして、大越甚右衛門の代わりの家老職は小貫佐渡と寺田藤九郎の両名を吟味することとなったが、小貫佐渡はすでに宇都宮帯刀も反対していた上、石塚孫太夫も

「佐渡人物不宜と孫太夫申聞候次第有之、当人義は相止、別人物相撰候様中務え申含候所、寺崎藤九郎被仰付可然旨申出、猶又孫太夫、内蔵ニも同意遣し同趣申聞候」

と、小貫佐渡は人物が宜しくないとして外し、その後、中務義祚にも別の人物を選ぶよう聞いたところ、寺崎藤九郎広道を推した。この人事については石塚孫太夫、中安内蔵も同意したことから、10月晦日、寺崎藤九郎が新たに家老職に就任した。実は石塚孫太夫は寺崎藤九郎の妹聟であり、石塚孫太夫の影響力が強い藩政府が成立する。

 安政3(1856)年、藩公・義睦は十八歳となり、9月22日、藩政府は後見人の一門筆頭・佐竹左近将監義核に対して「御政治御自親可被為聴」とする書状を中安内蔵を通じて渡した。実際には佐竹左近将監は義睦の仮養子という立場にあり、関係がなくなったわけではないが、実際の藩政は四家老が分担しつつ義睦が直裁するという、一種の藩政改革が行なわれたと見られる。

 中務義祚は家老人選では小貫佐渡を推すなどおそらく佐藤源右衛門と近く、宇都宮、石塚といった門閥家老衆とは距離を置いていた様子が見られる一方で、藩公・義睦は彼ら家老衆を重用し、壱岐守家や東家といった輔弼・後見の一門の藩政参画を嫌っていたようである。

 こうした中、義睦は安政4(1857)年3月28日、土佐藩主・松平土佐守豊資(山内豊資)の娘、於悦と挙式。その直後、参勤交代のために慌しく帰国の途に着いた。そして5月20日、久保田に帰国。翌21日八ツ頃(午後2時頃)、中務義祚は登城し、小座敷にて義睦に挨拶を行なうと同時に、家老衆の罷免と佐藤の家老復帰を進言した。

 実は、義祚は兼ねてから家老の一人・石塚孫太夫に対して大変な敵意を抱いており、それは孫太夫が「専ら心を用ひ精勤可仕之處、甚だ緩着之勤方不正之致方、奉軽蔑上を御国政を取乱候段不軽次第、且重役も相勤候身分二而、不似合行状不埒至極之儀相聞得、御国家之御恥辱とも不顧、有儘之振舞御家中下々ニ至迄承服不仕」という人物で「御国家御害」であるので、「早々御退」けるべきであると主張していた。

 また、ほかの家老についても同時に辞めさせるべきと主張し、佐藤源右衛門以外に家老職を担える人物はないとして、先に更迭された佐藤源右衛門を復職させるべきであると言上した。この進言は中務義祚が佐藤源右衛門が深く関わっていたことが見て取れる。石塚が本当に不正を働いていたのかどうかは確認できないが、国元で藩政を総覧する義祚が、国家老である石塚の不正を追っていた可能性も否定できない。

 義睦は中務義祚の強弁に屈したのか、その場限りの返事だったのかは不明だが、宇都宮帯刀、石塚孫太夫、中安内蔵、寺崎藤九郎「病気退役」を決定するとともに、佐藤源右衛門の家老復職を認めた。

 中務義祚は義睦との会談ののち「政務所」に移り、七ツ半頃(午後6時過ぎ)、評定奉行・秋山宇吉渡辺主水、御副役・中村又左衛門を宇都宮帯刀邸に派遣し、

「思召之旨被為有、病名を以て早々御役御訴訟可差出御内意被仰出候旨演説ゆへ、重畳恐入奉存候旨お受申上候」

 という言葉を伝えた。また、これと同時に佐藤源右衛門の復職についても、源右衛門の親類に当たる小貫又三郎を通じて、源右衛門は明日登城すべしと伝えている。これは、源右衛門に家老復帰を伝えるためであった。

 四家老罷免は、あくまで義睦の「思召」によるものであり、誠に申し訳ないが病気を理由に家老職を退任してほしいという旨である。また、「孫太夫殿始内蔵殿藤九郎殿皆御同様ニ御内意」とあるように、四人の家老を一時に免職することは「前代未聞」のことであり、遣いとして赴いた秋山らも「当惑之様子」であったようだ(『宇都宮孟綱日記』)

 この命について、宇都宮帯刀はなぜ家老職を罷免されたのかまったく見当がつかなかった。しかも、同職四人がみな同様の処分を受けることにも合点が行かなかった。しかし、これが藩主の意向であれば従わざるを得ない。帯刀はすぐに「先頃より眩暈煩ニ付、医者臼井禎庵薬服用致候得共相替儀無之、近日中出勤相成候病体ニ無之段、同医申條ニ御座候」という理由で家老職を辞職したい旨の上申書を作成した。

 ところがわずか数刻後の夜四ツ時(午後10時半ごろ)、「御用人川尻正助、御膳番金大之進」が宇都宮邸を訪れ、「御内意之儀御引揚被成置」くので「早々登城可致」との藩公の命を伝え、さらに「中務殿へ只今罷出、出勤御指留并明日被仰付候御家老人物之儀は差控候様被仰出候」と、中務義祚の登城禁止ならびに佐藤源右衛門の家老復帰人事は白紙に戻されるという決定も伝えられた。この報告が夜分であったこともあって、先役家老の宇都宮・石塚にのみ伝えられ、両人はすぐに登城して城内御納戸において義睦と面会し、義睦から、

「今日中務申聞ニ付、内意之儀申達候得共、篤と思慮致候處、左様之筋ニは無之、依而ハ是迄通入念可相勤」

という言葉を承った。こうして、四家老免職の指令は取り消され、今まで通り出仕することとされた。さらに、御用人・岩屋慶治、御膳番・金大之進からも藩主・義睦の言葉として「篤と御思慮被遊候處、中務申上候次第御取揚被成置難き事」であるとして、改めて中務義祚の進言(四家老免職、佐藤源右衛門の復職)は却下するとの確約を得た。

 このころ、中務義祚は四人の家老を事実上更迭し、佐藤源右衛門の復帰にも成功したことで、安心しきっていたことだろう。まだ年若い藩主を輔弼し、今後の佐藤源右衛門を中心とした藩政府体制について構想を練っていたのかもしれない。しかし、中務義祚の計画はわずか数刻にして瓦解する。

 実権を取り戻した宇都宮・石塚は、すぐさま佐藤源右衛門の復帰を取り消し「追而沙汰之旨有之迄慎可罷有候」という書状を小貫又三郎に渡し、謹慎を続ける旨を申し渡している。そして、両家老に加えて中安、寺崎両家老も登城し、夜通しで話し合いが重ねられ、翌22日早朝、藩主・義睦に

(一)中務勤形如何ニ付、御内意閑居願申立候事
(二)黒澤伊兵衛此度之一条ニ立さわり候様相聞得、御吟味之旨有之、寺社奉行御免ニ而遠慮被仰付候事
(三)佐藤源右衛門鉄治父、生涯茂木筑後へ被預置、嫡子は御定之通蟄居被仰付候事

 という結論を提出した。藩主・義睦もこの三か条をすべて了承して決裁を与えたため、家老衆はただちにこの三か条を実行に移し、藩主輔弼たる中務義祚は、

「思召之旨被為有、重き病名を以閑居願可申立御内意被被仰出候」

との命を受け、義祚は潔く身を引くことを決意。閏5月23日、義祚は病のための隠居願が認められると同時に、家督は嫡子・英千代に相続されることとなった。一方、佐藤源右衛門は茂木筑後(十二所代官)へ生涯お預けとなった。

◆藩主・佐竹義睦の薨去と佐竹義核の襲封

 安政4(1857)年6月1日頃から藩主・義睦の「御腫気」が発症、22日にはついに危篤に陥った。その後、一旦は病状が落ち着いたものの、7月1日、ついに亡くなってしまう。享年はわずかに十九。家老人事の揉め事が一段落して、わずか一月あまりの急死だった。同日中、中安内蔵は義睦死去の報を伝えるため急遽江戸へ出立した。

 江戸に着いた中安内蔵は、江戸家老・寺崎藤九郎とともに鳥越の久保田新田藩邸に赴き、義睦の仮養子であった佐竹左近将監義核と対面し、本家相続を依頼した。義核はいったんは本家相続を丁重に辞退するが、結局宗家を相続することとなる。実は、義核は東中務義祚とは従兄弟同士という間柄であった(ただし、公的な続柄は叔父・甥となる)。

 相馬祥胤―+―相馬樹胤―+=相馬益胤―+―相馬充胤
(因幡守) |(豊前守) |(長門守) |(大膳亮)
      |      |      |
      |      |      +―佐竹義核
      |      |       (左近将監)
      |      |
      |      +―佐竹義祚―――佐竹英千代
      |       (中務)
      |
      +―相馬仙胤―――小栗政寧
      |(縫殿)   (右膳)
      |
      +―相馬益胤―+―相馬充胤
       (長門守) |(大膳亮)
             |
             +―佐竹義核
             |(左近将監)
             |
             +―熊川長顕……熊川家から一旦実家に戻って「直五郎」を名乗り、義核の名跡を継いで佐竹義ェとなる。
             |(幸之助)
             |
             +―岡田泰胤……相馬家御一家筆頭。佐竹家では彼が佐竹義ェと比定されているが誤り。
              (直五郎)

 自分の従弟である義核の宗家相続は、東家復権の絶好の機会であるとにわかに動き始める。しかし、義核は義祚自身の復権には消極的であり、辛うじて、義祚の子・英千代鳥越家(久保田新田藩)の当主としたい旨を中安・寺崎両家老に打診している。しかし、両家老は英千代の相続を嫌って「相馬様之御身寄之御方不被成御座候哉」と義核の実家である相馬家に当てはないか伺うと、義核には二人の弟がいるということで、そのうち「直五郎殿」を養嗣子に迎えることとした(この「直五郎」は佐竹家側では岡田直五郎泰胤のこととされているが、実際は熊川幸之助長顕である)。英千代は幼少でもあり、義核も翻意したものと思われる。これについては幕臣となっていた義核・義祚の従兄、小栗右膳政寧「分家相続ニ相成候得は自然伯父之権威有之」として、義祚の権威が強くなることを義核に指摘している。

 一方、10月に入ると石塚孫太夫「病気」による退役を命じられた。やはり石塚孫太夫は「私欲并不行跡」があったようで、義祚が石塚を糾弾した「専ら心を用ひ精勤可仕之處、甚だ緩着之勤方不正之致方、奉軽蔑上を御国政を取乱候段不軽次第、且重役も相勤候身分二而、不似合行状不埒至極之儀相聞得、御国家之御恥辱とも不顧、有儘之振舞御家中下々ニ至迄承服不仕」という指摘は強ち大げさなものではなかったのだろう。

 しかし、孫太夫はそのまま家老職に居座り、結局、12月18日に「内命」によって「病気退役」させられている。そして、翌19日、佐藤源右衛門の嫡男で佐藤家を継いでいた佐藤鉄治の蟄居が解かれた。ここに来て義祚の思惑が叶った形だったが、時はすでに遅かった。

 安政5(1858)年2月14日、藩公・佐竹義核は中務義祚に対しても峻厳な処分を下した。罪状は「堅謹慎、前非後悔可罷在候處、追々相馬大膳亮殿家来野坂源太夫江密書を送、田代彦八郎差出候不届至極成書面を証拠ニ致、猶源太夫此表へ罷下候砌、小野寺桂之助密会為致、種々之斗意を以内奏ニ及候始末、重畳不埒之至」ということであった。

 義核は家老の小野岡右衛門義礼、渋江内膳厚光が上使として物頭木村小助・高垣兵衛以下四十名の足軽を率いて東家に赴き、「親類戸村十太夫」へのお預けとされた。戸村十太夫義效は久保田藩の南の要衝・横手城代を務める重臣であった。

 戸村十太夫の所領・横手へ移されたのち、3月8日、佐竹家に相馬家から家老・熊川兵庫胤隆が遣わされ、「中務を中村江御引取、御国法通為御慎置被成度」との申し出がなされているが、結局、中務義祚はそれからわずか三か月後、6月11日、横手において亡くなった享年四十二。6月27日卒とも。白馬寺に眠っている。

 嫡男・英千代は6月28日、出仕を許され、その後「源六郎義寿」を名乗り、さらに山城、将監を称した。妻は横手城代・戸村十太夫義效の次女。東家当主として明治維新を迎え、明治28(1895)年6月、横手で亡くなった。横手の大慈寺に眠る。


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